聞き書き事例

「聞き書き」とは、話し手の言葉を録音し、一字一句すべてを書き起こして、ひとつの文章にまとめる手法です。
仕上がった文章からは、話し手の語り口や人柄が浮かび上がり、「聞き書き」を通して、地域に住んでいる人たちの持つ知恵や技、その生き様やものの考え方を学び、受けとめることができます。
名人の長い経験から生まれた、ひとつひとつの言葉が糧となり、自然と人の暮らしとのつながりを考える大きなきっかけとなり、里海づくり活動の方向性を探る上での、有効な手段となります。
ここでは、実際に聞き書きを行ったいくつかの事例を紹介します。

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兵庫県相生湾沿岸の例(1) 事例を表示する>>

(語り:T氏(79歳)地元漁師、聞き書き:兵庫県、実施日:平成23年3月15日)
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兵庫県相生湾沿岸の例(2) 事例を閉じる>>

(語り:H氏(69歳)郷土歴史研究家、聞き書き:兵庫県、実施日:平成23年3月15日)

※ここに示す聞き書きの結果は、お話を伺ったままの内容を整理したものです。

●相生湾の歴史

昔の相生湾は海が広かった。山から即、海だったので、現在の市役所までの広い道も海だった。今の鰯浜の様子を見てもらうとわかるが、同じように山から即、海になっていて広かった。そこへ造船所が出来て埋め立て地が増え、海が狭くなっていった。市役所、福祉会館も海だった。私の父親などは、駅の方へ行くのに海岸伝いに細い道を歩いていった。写真も残っていて、そういう話をすると、みんなが驚く。

この地区は、海沿いの漁村だったが人口は多かった。漁師と取れた魚を売る人と、いろんな商売をする人で、この町は成り立っていた。

明治30年代頃に、この村へ来た村長が村の様子を見て、貧しい村だということで、産業を成り立つようにしないといけないと。漁業なども振興したが、やはり工業を起こさないといけないということで、相生を西の神戸にしようと、造船業を立ち上げた。

それで明治40年に会社ができたが、一度つぶれ、まためげずにやる。自分達だけではダメだと、鈴木商店、当時、三井物産、三菱商事などと同じ商社だが、その鈴木商店に頼んで事業を引き受けてもらう。たまたま、第一次世界大戦と重なったことで、大正7年くらいにこの町が大ブレイクした。それから造船の町として有名になり、土地が不足すれば海を埋め立てていった。

昭和36年頃、単独の造船会社としては、3年連続で建造数が世界一になった。造船所としてはその頃がピークだった。相生市の人口も昭和40年頃に最高となり、4万5千人くらいになった。ただ、となりの韓国なども力をつけて、相生の造船所は設備が古く、安価で船を作れなかったので、少しずつ競争力が弱くなってきて、規模が縮小されていった。今も、大きな船は造れないが、ゴミや油を収集する船の注文があるようだ。今、相生市の人口は3万人くらいで、私の住んでいるこの地区も昔は9千人くらいいて、店も沢山あって、1分あるけば何かのお店があった。今は少なくなって2千人くらいになった。土地が狭いので、一緒に住めなくなって、子ども達がこの地区から出ていった。高齢化が進み年寄りも亡くなっていくという状況である。

●昔の相生の海の様子

昔の相生湾には、カブトガニもいた。取って遊んでいた。この相生湾に生息していたのかどうかはわからないが、どこからか流れ着いたのかもしれない。時々、見つけることがあった。

漁獲量も高かったが、明治の頃から、理由はわからないが、段々取れなくなったらしい。だから村長が、漁業だけやっていてはだめということで造船に力を入れだした。漁業は漁業で努力はされていたようだが。

当時は、上郡、佐用、龍野、揖保川など近辺から造船所に勤めに来ていた。ここの地区も殆どの人が造船に関わっていた。私の子どもの頃からしても埋め立ては進んでいる。とにかく昔の相生湾は広かったと言える。

また、海水浴はできたが、私たちの子どもの頃はあまり水がきれいではなかった。今の方がはるかにきれいである。30年くらい前なら水が汚くて海に入ろうとする気がなかった。下水道が整備され汚水が流れ込まなくなり、透明度はかなり高くなっている。昔は、川に何でも捨てていた。海は無限大で、何を捨ててもきれいにしてくれると考えていたようだ。ただ、今のようにビニール袋やペットボトルなどでなく、捨てたものは、自然に帰るようなものだった。海の水は今の方がきれいが、昔は分解できるゴミが多く、今のようにぷかぷか浮かんでいるゴミは少なかった。ゴミの質も変わってきた。

今はプールがあるが、昔はプールもないので、相生にも海水浴場があって、学校から海水浴場に行っていた。

相生湾は砂浜がなく、遠浅でもなく、急に深くなっていたりするので、泳げる人には良いが、泳げない人には良くなかった。海水浴に連れていく先生も大変で人数も多かったが、あまり事故はなく、私の先輩の時代は、4,5キロの遠泳をやっていたようだ。暑いから、昔は海で遊ぶことが多かった。

魚釣りもやったが、えさは自分たちで掘って確保していた。ゴカイなどは石を除けると幾らでもいた。竿も竹を切って使っていた。

魚の種類も沢山いたようで、「ままかり」がよくとれた。今でも古い家は、11月3日に魚の寿司をつくる。鰯に似た魚で「つなしの寿司」、伝統をまもっている家がある。今はアジが釣れるようだ。

●相生湾の環境を守るために

海だけで考えてもだめで、山、川、海と連動して考えないといけないということを良く聞く。千種の方で植林をしているそうだが。

昔、薪をとっていたりした頃は、高い木がなかった。はげ山のようで低木が多かった。だから山に道が無くても山の中へどこにでも行けた。ある時期からそういうことをしなくなって、木がどんどん大きくなっている。そういうことの影響もあるのかなと考える。良いのか悪いのかわからないが。

●相生湾の牡蠣

牡蠣の養殖は、30年前くらいからやっていたと新聞に書かれていたが、もっともっと昔からやっていた。戦前からやっていた。規模が大きくなったのは、最近かもしれないが、我々の子どもの時から、牡蠣の殻が海岸に山積みされていた。

昭和30年頃、対岸の日野浦、対岸の村を埋め立てたが、そこの村では、牡蠣の養殖と真珠の養殖をやっていた。そこが埋め立てられると生活ができないという話があった。

1902年(明治35年)に漁業協同組合が出来たと市史にある。そこで何をするかであるが、牡蠣、貝類の養殖などと書いてある。その頃から牡蠣は相生にあった。

牡蠣の養殖は、今のように筏を湾に浮かべて、コンスタントにやっていないにしろ養殖としてやっていたようだ。

●相生湾での漁業

鰯浜では鰯がよく捕れて、「いりこ」を作っていた。私達の子どもの時は、鰯の群れが来ると漁船の網でごっそり捕って、煮干しにして売っていた。昭和40年代までには船がよく動いていた。全国的に鰯の漁獲は減っているのではないか。

●相生湾の今後の方向性

相生は岬が美しい。海外にも地中海等、有名な観光地があって私も行ったが、相生の「万葉の岬」の方がきれい。ただ、あちらには、観光客を受け入れる体制、例えば、土産物屋があったりする。相生湾にはそういうものがない。受入体制がない。資源としては良いものがあるのだが、人が来てくれて、その人がまた来たいと言うようにしないといけない。

先日も、浜の直売所がテレビで放映されたが、すごい反響で人が来た。海鮮丼などがおいしいが、沢山の人が来ると対応できなくなる。対応できないと、また来たいと言ってくれなくなる。そういうことがあるといけない、やはり受入の体制づくりも大切である。

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三重県志摩市の例 事例を表示する>>

(語り:地元養殖業者、聞き書き:志摩市、実施日:平成23年2月7日)
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佐賀県有明海の例 事例を表示する>>

(語り:漁業者、農業者、写真家、主婦の方、聞き書き:佐賀県)
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三重県英虞湾の例 事例を表示する>>

(語り:地元真珠養殖業者、聞き書き:社団法人瀬戸内海環境保全協会、実施日:平成22年2月2日)
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兵庫県淡路島の例 事例を表示する>>

(語り:地元底曳網漁業者、聞き書き:社団法人瀬戸内海環境保全協会、実施日:平成22年2月3日)
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