図:幕末(慶応年間)の京都御所周辺図

 794年(延暦13年)、桓武天皇により定められた平安京の内裏(皇居)は現在の京都御所から約2kmほど西にありました。しかし、度重なる内裏の焼失により、主に摂関家の邸宅を一時的に皇居とする里内裏が置かれるようになり、1227年(安貞元年)の火災以後は、元の位置に内裏が再建されることはありませんでした。現在の京都御所は、里内裏のひとつであった東洞院土御門殿に由来するもので1331年(元弘元年)、光厳天皇がここで即位されて以来、御所とされたものです。1392年(明徳3年)の南北朝合一によって名実ともに皇居に定まり、明治に至るまでの500年もの間天皇の住まいでした。豊臣秀吉や徳川の時代になると、御所周辺には宮家や公家たちの屋敷が集められ、何度も大火に見舞われながらも明治初期の東京遷都まで、大小140以上の屋敷がたちならぶ公家町が形成されていました。


 1869年(明治2年)明治天皇の東京遷幸が挙行され、これに伴って、多くの公家達も東京に移住したため、公家町は急速に荒廃していきました。1877年(明治10年)に京都に還幸された明治天皇は、その荒れ果てた様子に深く哀しまれ、京都府に御所保存・旧観維持の御沙汰が下されました。この御沙汰をうけ京都府では、直ちに屋敷の撤去、外周石垣土塁工事、道路工事、樹木植栽等の「大内保存事業」を開始し、1883年(明治16年)に予定を繰り上げて完了しています。1883年(明治16年)9月、御苑の管理が京都府から宮内省に引き継がれた後も整備は続けられ、1915年(大正4年)の大正大礼に際して、建礼門前大通りの拡幅改良等の改修工事が行われ、ほぼ現在の京都御苑の姿が整いました。


 1947年(昭和22年)、京都御苑は、同じく皇室苑地であった新宿御苑、皇居外苑とともに、国民公園とすることが閣議決定され、1949年(昭和24年)に厚生省の管理運営のもとに、その由緒ある沿革を尊重し、努めて現状の回復保存を図るとともに、国民庭園として広く国民に開放し利用していくこととなりました。


 1971年(昭和46年)7月、環境庁が発足すると、国民公園の管理は自然保護行政とともに厚生省から環境庁(現、環境省)に移り、京都御苑は、従来からの御所の前庭としての景観維持や都市公園的な役割に加え、大都市の中の広大な緑地としての自然環境を保全し、自然とのふれあいを推進していくという新たな役割が重視されるようになってきています。