「環境中の微量な化学物質による健康影響に関する調査研究」について

「環境中の微量な化学物質による健康影響に関する調査研究」について

1.業務の目的

 日常を取り巻く生活環境因子の中でも、化学物質曝露は健康維持増進の観点から重要な問題となっている。例えばフタル酸エステル、ベンゾピレン、ビスフェノールA等の一部の化学物質と、多様な症状の誘発や増悪との関連性が専門家から指摘されており、いわゆる化学物質過敏症等の環境中の微量な化学物質による健康影響など、これまで以上に国民の関心が高まってきている。
 しかし、こうした環境中の微量な化学物質による健康影響については、健康影響を訴える集団はいるものの、病態や発症メカニズム等未解明な部分も多く、その科学的知見を基盤とした実態はよく分かっていない。
 そこで健康資本への影響を明らかにし、政策のための情報を収集することは非常に有益と考えられ、これまで平成22年~27年度に同請負研究において情報収集業務が行われた。この情報収集業務において各分野の専門家から提案された健康影響に関する最新動向は以下の通りである。
 化学物質、特に微量健康影響を評価する場合、既存の中毒の概念との相違、共通点を明確にする必要性がある。すなわち、微量化学物質の健康影響を、化学物質の「量―反応関係」・「量―影響関係」等、既存の毒性学的概念で説明できるのか、あるいはこの既存の関係では説明が困難であり、あらたな概念で説明する必要性があるのか、という点が極めて重要である。即ち、既存の中毒の概念と主として曝露機会の多い職域における微量化学物質曝露について第一段階として調査・整理し、化学物質を日常的に使用する労働現場、オフィスビル等の職域で生じる微量化学物質による健康影響に関する動向がまとめられ、一般居住環境における健康影響を評価する上での標準となる重要な知見が得られてきた。次に、微量化学物質曝露と精神神経症状に関してその考え方・動向が提示された。特に、本来の毒性学的評価が困難である、既存の中毒の概念が当てはまらない健康影響については、化学物質と健康障害との関連性(因果関係)を説明できるような病態生理とそれを裏付ける検査所見、臨床病理学的所見、曝露動物実験など、実験上の有意所見に乏しいこと、既存の精神疾患との類似性が指摘されている等が問題点としてあげられている。即ち、想定される原因化学物質と健康影響(症状)との間において客観的な因果関係が十分に証明されず、それ故、一疾患単位として考えるべきなのか、あるいは病因を一元化して考えるべきなのかといった影響概念が定まらない状況にあるため、微量化学物質曝露と心身相関に関する情報は非常に重要な位置を占めることだと考えられた。また微量化学物質による健康影響を考える場合、特にその病態生理を考える上でアレルギー性疾患との関連性は重要である。職業性アレルゲンであるイソシアネート類や無水フタル酸に代表されるような化学物質そのものに対するアレルギー機序(抗原抗体反応)によるものに加え、各種化学物質によるアレルギー病態の修飾も臨床現場では日常的に観察される。そこで微量化学物質とアレルギーに注目した興味ある情報も提供された。さらに、化学物質も含めた環境要因を一種の生体に対するストレッサー(攻撃因子)と考えた場合、それに対抗するストレス応答性には個人差要因が存在する。本調査業務における攻撃因子は、化学物質であるので、「化学物質に強く反応する集団」、即ち「化学物質高感受性集団」の抽出は、環境健康影響を評価し、効果的に化学物質に対応する健康リスクを低減化させる上で、有意義な情報となる。そこで化学物質感受性の個人差要因をリスク評価上どの程度考慮すべきかについての情報提供も行われた。ある化学物質の健康影響を評価し、その健康リスクが見いだされれば、その化学物質は、一次予防的に使用に関して何らかの制限をかけられることになる。しかしそれは、通常「大人」を対象としたもので、胎児、新生児・乳児、学童等、環境因子の影響を受けやすい発達期・成長期を対象としてはいない。 また健康影響がある程度明らかになりその使用が制限された化学物質の代替品として、数多くの新規化合物が生まれている。この点を踏まえ、胎児曝露とその影響、新規化学物質とその影響についてその動向が提示された。加えて、新規化学物質とその影響について、シックハウス症候群に関する知見を一つのモデルとして解説が加えられた。調査対象とする健康影響のうち、環境中の粒子あるいは粒子状物質も重要な要因となる。これらが関係すると考えられるものには、その性状から、まずアレルギー性疾患があげられる。また、揮発性有機化合物(VOC)が凝縮して生成した粒子や準揮発性有機化合物(SVOC)が付着した粒子は、体内でVOCおよびSVOCによる健康影響を及ぼす恐れがあること、気相中における化学反応によって生成する二次粒子も粒子と化学物質の両者の健康影響を及ぼすと考えられる。そこで、これらの粒子および粒子に関連するガス成分の測定方法についても情報収集が行われた。よって微量化学物質と健康影響に関する見解を総括すると、1)病態としては、微量中毒(既存の毒性学的概念での)、免疫学的機序(アレルギー機序)のほか、未だ十分に解明されていない未知の機序や心因的機序も重要であり、今後継続して調査研究が必要であること、2)これらの病態が単独に働いている場合もあれば複合して働いている可能性も重要であること(一つの健康影響カテゴリーには当てはめられない)、3)健康影響には、遺伝的要因を背景とした個人差要因が存在すること、4)健康影響を予防するための第一次予防対策だけではなく、胎児期も視野に入れた予防(第0次予防)も今後の対策として視野に入れること、5)既存の化合物だけではなく、新規化合物の健康影響についても継続的に調査する必要性があること、6)粒子の生成過程および化学成分を明らかにし健康影響との因果関係を新たに調査する必要性があることと結論づけられた。
 そこで、令和4年度の本業務では、上述の情報収集業務の成果を踏まえ、環境中の微量な化学物質による健康影響について、その病態や発症メカニズムに関する動向を明らかにし、加えて最新知見の集積を図ることを目的とした。今年度の研究概要は以下の通りである。

2.調査研究概要と結論

① 課題名:いわゆる 化学物質過敏症臨床の最近の動向

 いわゆる化学物質過敏症は、①化学物質に繰り返し曝露されると再現される、②慢性的である、 ③過去に経験した曝露や、一般的には耐えられる曝露よりも低い曝露量によって現れる、④原因物質の除去により改善または治癒する⑤関連性のない多種類の化学物質に対して生じる、⑥多種類の器官にわたる、の6 項目の特徴を持つ「症状」と定義されている。過去5 年間に研究分担者の医療機関外来を受診した患者のうち特徴的な10 例について詳細に検討した。発症の契機として、柔軟剤、消臭剤、防虫剤、アロマ製品、住宅リフォーム直後の高いTVOC(総揮発性有機化合物量)、タバコ煙への曝露、床下シロアリ駆除剤などの吸入暴露、および健康食品としてのグリシン服用があり、いずれも不可逆的な健康影響を起こすことはないが、本人に曝露を認知されるには十分な量であることが大半を占めた。治療に成功した例には①激しい頭痛と脱力、ふらつき、不安感が初発で、可逆性脳血管攣縮症候群が疑われ、ガバペンチノイドが奏功 ②鼻粘膜痛が初発で、末梢神経障害性疼痛が疑われ、頭頸部の慢性疼痛に対する標準的な治療(ガバペンチノイド、SNRI、星状神経節ブロック)により改善 ③広範な知覚の変調が初発で、統合失調症が疑われ、抗精神病薬が著効、の三つのパターンが見出された。各症例は、ビタミンD 欠乏、亜鉛欠乏、変形性脊椎症、脳脊髄液減少症などをしばしば合併し、それぞれの治療により全体として患者のQOLが改善した。
 石川(北里大学名誉教授・元医学部長)らが、いわゆる化学物質過敏症の診断基準の中であげた眼球滑動性追従運動異常は、多種類の疾患、たとえば片頭痛、精神科疾患(統合失調、双極性障害、強迫症、うつ病、不安症、PTSD)や発達症、パーキンソン病、脊椎疾患(鞭打ち症、頚部痛)、頭部外傷、脳脊髄減少、慢性有機リン注毒、有機溶剤中毒、シックハウス症候群においても認められる。この診断基準を用いて診断する場合には、除外診断のために、網羅的で精密な検査が必須である。また、病気そのものの存在が医療従事者の理解を得られにくく、患者が極端な病態認識を持つ原因として、過去の根拠に乏しいいわゆる化学物質過敏症の発症に関する仮説が、いまだ巷間に流布していることが一因となっている。化学物質過敏症患者による他の患者や家族に対するハラスメントも無視できないレベルで存在し、対策が急がれる。
 いわゆる化学物質過敏症は症状の特徴に基づく病名で、他の疾患の併存を除外するものではない。発症早期に併存疾患が発見され、積極的な治療と原因物質の回避により症状が軽快ないしは消失する症例が存在する。一方、治療開始の遅れ、何らかの理由により原因物質の回避がうまくいかない、複数または未知の化学物質の曝露、栄養欠乏、脳脊髄液減少症の併存により、病態が複雑で、なかなか改善が得られにくい症例も存在する。いわゆる化学物質過敏症は治らないという一般の認識は早急に変えていく必要があると同時に、患者に適切な医療が提供されるよう、医療側の努力が必要である。

② 課題名:環境化学物質によるアレルギー悪化作用とその作用機序

 我が国では、花粉症や気管支喘息、食物アレルギーをはじめとするアレルギー疾患が増加し、その要因として、衛生環境の変化とともに環境化学物質の寄与が指摘されている。例えば、可塑剤であるフタル酸エステル類、抗菌作用を有するトリクロサン、合成樹脂に用いられるビスフェノールA、香料に含まれる揮発性有機化合物は、疫学的あるいは実験的に、アレルギーを悪化させる報告がなされている。特に、生体機能が未発達な小児に対する影響が懸念される。一方、環境化学物質によるアレルギー悪化の作用機序として、thymic stromallymphopoietin 産生、transient receptor potential ankyrin 1の活性化、nuclearfactor-kB 、酸化ストレス、DNA メチル化や、樹状細胞、マクロファージ、T細胞、マスト細胞や2型自然リンパ球(ILC2)などの免疫担当細胞の活性化等が関与することが、明らかにされつつある。臨床的にも、居住空間の化学物質が、アレルギーを悪化しうることが示されている。化学物質によるアレルギーの悪化の可能性に配慮することは、アレルギー疾患対策と共に、シックハウス症候群の早期発見や、いわゆる化学物質過敏症の進展防止にも寄与しうる。

③ 課題名:微量な化学物質の脳への影響 - 嗅覚認知からの検討‐

 微量環境化学物質による健康影響の要因の1つとして、匂いの影響も重要である。これまで、匂いの情報処理に関する脳領域などの研究はあるが、匂いが持続的に脳にどのような影響をあたるかという観点からの研究はなかった。そこで、心地よい匂いと不快な匂いを嗅いでいる時の安静時脳活動を測定し、不快な匂いが安静時の脳活動に与える影響を検討した。被験者に9種類の臭素に対する好み(好き—嫌い)をVAS で評価してもらい、その中で、最も評価の高いものを好きな匂い、最も評価が低いものを嫌いな匂いとした。課題条件は、匂い刺激なし条件(コントロール)、好きな匂い条件(快条件)、嫌いな匂い条件(不快条件)の3条件とした。それぞれの条件中の安静時脳活動をfMRI で測定し、SPM12 を用いて解析を行った。安静時脳活動を求めるVOI は内側前頭葉(MPFC)とした。
 その結果、コントロール時の安静時脳活動は、内側前頭葉(MPFC)に加えて、線条体、後部帯状回(PCC)、前頭眼窩野、前頭前野背外側部などの脳活動がみられた。一方、快条件では、MPFCに加え、PCC、前頭前野、島皮質などの活動がみられ、不快条件では、MPFC、PCC、上前頭回などの活動がみられた。快条件、不快条件ともにコントロール条件と比較すると、脳活動は低下していた。また、快条件とコントロール条件を比較し、快条件により強く活動している領域を求めたところ、有意な領域は認められなかった。不快条件とコントロール条件を比較し、不快条件により強く活動している領域を求めたところ、前頭前野背外側部の活動が認められた。さらに、コントロール条件で不快条件と比較しより強く活動している領域を求めたところMPFC の活動が認められた。
 これらの結果から、快な匂いは匂いを嗅いでいない状態と比較し違いは認められなかったが、不快な匂いを嗅いでいる時は、前頭前野の活動がより強くなり、MPFC の活動は低下していた。これらのことから、不快な匂いは安静にしている脳に何らかしらの影響を与えていることが明らかになった。今後この不快な匂いが安静時脳活動にどのような影響を与えているかについて、より詳細な検討ができるように新しい解析法を導入し検討することが必要である。よって匂いの知覚、匂いへの感情的反応、ならびにそれに関連する脳機能という多視点から嗅覚を理解することで、いわゆる化学物質過敏症の病態に迫ることを目指したが、その結果として、匂いに対する感情的判断が大きく影響し、それに関連する脳領域、ネットワークの働きの異常な低下や上昇により、特定の化学物質に対する過剰な反応を引き起こしている可能性があることが示唆された。今後、いわゆる化学物質過敏症とこれらの脳機能との関連性について詳しく調べることで、よりいわゆる化学物質過敏症の病態理解を進めることができるのではないかと判断された。

3.まとめと今後の課題ならびに方向性

 「環境中の微量な化学物質による健康影響」に関する最新の研究動向について、①いわゆる化学物質過敏症臨床の最近の動向、②環境化学物質によるアレルギー悪化作用とその作用機序、③微量化学物質の脳への影響-嗅覚認知からの検討‐に関して各分担研究者の調査研究結果を提示した。いわゆる化学物質過敏症に代表される微量化学物質による健康障害の基本概念は、場所、原因、病態を問わず、生活環境中(主として居住環境中)の臭気も含めた空気質悪化に起因して生じた健康障害と理解できる。しかし、何をもって微量化学物質による健康障害とするかの客観的判断基準の策定、標準化については十分な合意が得るまでには至っていない。本年度の分担研究・情報提供の結果から、1)病態としては、微量中毒(毒性学的概念での)、免疫学的機序(アレルギー機序)等の既存の機序に加え、未だ十分に解明されていない脳科学的見地からの機序も重要であり、今後継続して調査研究が必要であること、2)これらの病態が単独に働いている場合もあれば複合して働いている可能性も重要であることがより浮かび上がってきた。今後は、機能性身体症候群としての発症機序にフォーカスを絞った学際的アプローチを更に詳細に行う必要性があり、既存の化合物だけではなく、新規化合物の健康影響についても継続的に調査することが好ましいと確認された。