保健・化学物質対策

「"環境ホルモン騒動"を検証する Part 2」

 科学者の立場から科学と社会との接点を解きほぐし、環境問題へのわかりやすい「物差し」を提示し続ける安井至氏と、科学担当の新聞記者として環境化学物質問題を追跡する小出重幸氏が、90年代末に大きな社会現象となった、いわゆる環境ホルモン騒動を検証し、評価します。

(2008年2月22日 掲載)

目次

1. ニュースになりにくい安心情報
2. 害が及ぶのは野生生物だけ?
3. 環境ホルモンという「井戸」
4. 学問分野で求められるスタンス

安井 至


安井 至 プロフィール

1945年東京生まれ。国連大学副学長。東京大学名誉教授。東京大学工学部卒業。東京大学生産技術研究所教授、東京大学国際・産学共同研究センターセンター長を経て、平成15年12月に国際連合大学副学長着任。平成17年6月から東京大学名誉教授。総合科学技術会議環境部会化学物質イニシャティブ座長など、政府系委員会の委員など多数。専門分野は環境科学。著書は「環境と健康 誤解・常識・非常識」丸善(2002)、「続環境と健康」丸善(2003)、「リサイクル 回るカラクリ止まるワケ」日本評論社(2003)。

小出 重幸


小出 重幸 プロフィール

1951年東京生まれ。読売新聞社編集委員。お茶の水女子大学非常勤講師。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。北海道大学理学部高分子学科卒。76年に読売新聞社入社。社会部、生活情報部、科学部などを経て、05年6月から現職。地球環境、医療、医学、原子力、基礎科学などを担当。主な著作に、「夢は必ずかなう 物語 素顔のビル・ゲイツ」(中央公論新社)「いのちと心」(共著 読売新聞社)、「ドキュメント・もんじゅ事故」(共著 ミオシン出版)、「環境ホルモン 何がどこまでわかったか」(共著 講談社)、「日本の科学者最前線」(共著 中央公論新社)、「ノーベル賞10人の日本人」(同)、「地球と生きる 緑の化学」(同)など。

1.ニュースになりにくい安心情報

小出

化学物質の内分泌かく乱リスクは、本当はどのくらいなのか、これをめぐるデータと評価、「ExTEND2005」が最近、環境省から出ましたね。

安井

「ExTEND2005」で示された結論、方向性は、これから先も化学物質をめぐって情報の混乱があるかもしれないけど、化学物質の安全性は客観的にウォッチしていかなきやいけない、ということ。結局、それ以外には言ってない気がするんです。

小出

「ExTEND2005」では4つの化学物質に、内分泌かく乱作用、環境ホルモンのリスクがある、と示されましたね。報告では、ノニルフェノール、オクチルフェノール、ビスフェノールAの3物質、そして、DDTが内分泌かく乱作用(環境ホルモン作用)をもつ物質として出ています。ところがこれらの物質についても、メダカでは内分泌かく乱作用が認めらましたが、ラットの試験では内分泌かく乱作用の出現はなかったと。種によっても違いがありますね。

安井

こういう情報は、「本当はここまで安心してもいいよ」っていうメッセージだと思うのですけれども、メディアの場合はかなり慎重になる。「大丈夫だよ」と言った瞬間に、そうでない反証が提出される可能性がある。これが少しでも残っていると、安心を報道することに慎重になるという体質があります。

小出

そうですね。例えば「O-157」という大腸菌による出血性大腸炎の流行が1996年、大阪府堺市でありました。学校給食が原因で3人が亡くなり、8000人近い感染者を出した大がかりな集団感染でししたが、このとき厚労省から、堺市のかいわれ栽培農家が、いわゆる汚染源であると指摘されて、騒ぎになった。結局、かいわれは感染源とは特定されず、スケープゴートのようにされたのですが、一方で、O-157感染症で亡くなっている方を見ると、大半が感染に抵抗力がない小児か高齢者なんですね。元気な世代は感染しても下痢などの症状に見舞われるだけで、ほとんどが回復する。このように冷静に見ると、O-157は大変な感染症というよりは、昔から多くの人が身近にかかり、疫痢などと呼ばれてきた、たちの悪い感染性下痢症の一種と捉えるべきだった。こうした内容の記事を作れば、そのメッセージは一種の安心情報として読者に受け止められると思います。このような記事が明日の朝刊に掲載されたとします。ところが運悪く、直後に子供やお年寄りがこの病気で亡くなったというニュースが伝えられると、安心情報記事をこの時期に掲載することが適切だったか、判断が問われてしまいます。安心情報が素直に受け取られない状況もあることを考えると、新聞は事件の渦中で不用意に「安心だ」という記事を書けないんです。

安井

メディアならメディアの構造的な要因、学界なら学界というものが持っている構造的な要因、それらがお互いに相互作用しながら混乱を膨らませてきたという感じですね。情報というものもやはり、それぞれのセクターの持っている特性に応じたバイアスがかかっている。そのバイアスを、なかなか一般社会はそこまで読み切れない。しかし、それでもメディアには冷静な評価を示してもらう必要があるのかもしれないですね。

小出

例えば12月に、環境省主催の環境ホルモン国際シンポジウムがあります。このような機会を捉えれば、この環境ホルモン問題は全体としてどうだったのか、何かの形で評価をまとめる記事をつくることができます。こうした追跡記事は、事実を丁寧に追いながら、この問題の全体像、リスクの相場感を読者に伝えることができます。ただ、そういう解説的な記事は、一面や社会面などのニュース紙面には、なかなか出にくいんです。ニュース面は、その日の新たな出来事、事件などから、順番に紙面を埋めてゆきますから、しばらく前の環境ホルモン問題や、O-157感染問題などのまとめ記事は紙面からあふれてしまい、載りにくい。だからコラムとか解説面、科学面などフィーチャー面に掲載することになる。したがって、ニュース面に比べて読者の目には止まりにくい、アピール度は低くなってしまいます。

安井

おっしゃるとおりですね。メディアには、そういうことにならざるを得ない構造的要因がありますよね。それに対して、今の一般人は、何となく最近あの記事出ないねえ、それじゃあ多分OKなんだろうという、いわゆる忘却型でしか対応の取りようがないんですよね。

2. 害が及ぶのは野生生物だけ?

安井

あと大きい問題として、環境ホルモン作用は人エの化学物質よりも、実は本物の女性ホルモンの方が強いという研究結果にたっていることです。(英国・エクセター大学などのグループが、下水処理場付近の河川のコイ類に環境ホルモンの影響が確認されたことから、その原因を調べたところ、処理場から河川に排出される排水に濃度の高い女性ホルモンが含まれており、この人間の尿が河川の魚類に影響を与えていたことを明らかにしています。)環境ホルモンの問題は「人間活動とは何か?」という根元的な問い掛けをしていて、それに対する答えはまだ出てないんじゃないですかね。

小出

人類は生まれてからずっと野生生物に、例えば尿の中に含まれる女性ホルモン(エストロゲン)によってインパクトを与え続けて、そういうツケが浸透してきている。それをどう評価するかを考えなければならない、ということですね。

安井

肥だめの時代は多分、何も影響なかったんじゃないかと思うんです。ただ下水道というものが整備されて、集約して下水処理をすることになって、問題が明らかになった。拡散されていた時代は死活化されていた女性ホルモンが、集約されることによって再活性化されたりするわけですね。こうした実例に接すると、人間活動と自然の在り方、環境との在り方、相互作用の在り方みたいなものを、もう一度考えなければならない。

小出

そうした面を考えれば、環境ホルモン問題は、自然と人間の関係を私たちに改めて振り返らせる、その手掛かりにはなったのかなと感じます。

安井

なったと思いますね。一体、人間活動とは何なのか。野生生物にしか害は及ばない、という状況をどこまで許すのか――こうした議論を詰めた上で、どういう反応をするのが正しいか、みたいな冷静な議論をそろそろしてもいいんじゃないか。

小出

それが、環境ホルモン問題としては最後に評価しなければならない課題になるわけですね。同時に、環境ホルモン問題は何であったのか、全体像を把握するという出口にもなる。

安井

ええ、そうだと思います。

対談の様子

3. 環境ホルモンという「井戸」

小出

環境問題について、社会全体がまあまあ少し落ち着いてきたら、今度はプロの研究者の中で、環境ホルモンのリスクとは、結局、何であったのかを見定める議論が出てくるわけです。

安井

この間題提起に伴って、環境ホルモンを深く探求し、「井戸」を掘っていくという環境ホルモンのプロが、そこに生まれたんです。環境学の一番危ない点、特にこの手の毒性学の一番危ないところは、世の中が「それは安全だよ」という認識になった瞬間に、この「井戸」が消えること。研究分野そのものがなくなってしまうことなのです。地球観測や分類学、昆虫学のような学問は、言ってみれば、世の中の人が何を考えているとかは全く関係なく存在し得るんだけど、環境ホルモン問題というのは実はそうではないんですね。だから世の中というものが作った穴、研究対象であり、従って、世の中が関心を失った瞬間にここも閉じてしまうという「井戸」だったんです。

小出

社会の要請があって成り立つ、という現業的な面が強いということでしょうか?

安井

プロにとっては「問題ない」という結論を出した途端にその「井戸」が閉まるという構造を持っているわけです。「大丈夫です」といった瞬間に、その「井戸」が閉じちゃうんです。だから研究領域を失いたくなければ、結論が例えば問題ない、リスクはないという方向に出そうになっても、この研究のプロは「大丈夫です」「リスクはありません」とは言えないんです。そういう構造を持っている学問分野なんですね。

4. 学問分野で求められるスタンス

小出

環境ホルモン問題のリスクや本質を、科学の面からどう冷静に伝えたら良いのか、この大事な課題は騒ぎの後から議論になってきましたけれども、安井先生はそのテーマに早い時期から、積極的に取り組んでこられていましたね。

安井

私自身は若いころから材料科学の分野の仕事をずっとやっていて、あるところで突然やめたんです。学問の一般領域は、細く掘り下げていく。その狭い専門分野から足を洗って、相場観を持って判断できる広い研究領域に逃げようと、環境分野に入ってしまったのです。いつまでたってもそれだけが勝負。しかし、周りが見えるようなやつは偉くならないんです、大体(笑)。ある意味、学問の構造上抱えるしょうがない話です。

小出

これまでそういった俯瞰的に科学や世界を見る人材は極めて少なかった。ただ、現在はこうした領域越境が自在にできる研究者が、とても必要な時期に入っていますね。それは、この環境化学物質問題の領域だけではなくて、あらゆる領域で、全体を見て、しかも少し先のグランドデザインを考える、という作業がどうしても欠かせなくなっていますね。

安井

そうですね。いくつかの分野は、多分そういう発想を持たないとやれない。今、エコバランスの国際会議をやっている人がいますけれど、ああいう人たちは若干、それができる。それ以外は環境分野で広く視野を持てる人というのは、なかなか育たないですね。これは学問の構造的欠陥ですね。

小出

自然科学というのは、これまで誰も知らなかった新しい地平を開いて初めてそれが論文になるのであって、そういうパイオニアワークがサイエンスのエッセンスでもあります。一方、環境ホルモンの観測など、じっくりと何年も観測しながらそのリスクを明らかにしてゆくような研究に関しては、なかなか科学の論文にはなりにくく、新しい知の地平を開いたとは評価されにくい。これは、地球科学の観測分野などでも言えることです。例えば気象学の中に観測現業があるように、環境の分野でも化学物質管理を「現業」として認識し、パイオニアワークを目指すサイエンスとは一線を画して、現業としての努力を認める、エキスパートとして評価する、という社会体制を作らなければならないと思います。

安井

こういう領域の人たちはみんなそういう考え方です。それを一体どうやって養成するか。そんなに大人数は要らないんです。毎年1人か2人か、エキスパートをどこかで誰か育てれば良いので、環境省はそのぐらいお金を出してほしいですね(笑)。