保健・化学物質対策

「"環境ホルモン騒動"を検証する Part 1」

科学者の立場から科学と社会との接点を解きほぐし、環境問題へのわかりやすい「物差し」を提示し続ける安井至氏と、科学担当の新聞記者として環境化学物質問題を追跡する小出重幸氏が、90年代末に大きな社会現象となった、いわゆる環境ホルモン騒動を検証し、評価します。

(2005年10月31日 掲載)

目次

1. "環境ホルモン騒動"の発端
2. 事実と乖離してゆくメディア
3. ダイオキシン問題との相乗効果
4. 世紀末現象

安井 至


安井 至 プロフィール

1945年東京生まれ。国連大学副学長。東京大学名誉教授。東京大学工学部卒業。東京大学生産技術研究所教授、東京大学国際・産学共同研究センターセンター長を経て、平成15年12月に国際連合大学副学長着任。平成17年6月から東京大学名誉教授。総合科学技術会議環境部会化学物質イニシャティブ座長など、政府系委員会の委員など多数。専門分野は環境科学。著書は「環境と健康 誤解・常識・非常識」丸善(2002)、「続環境と健康」丸善(2003)、「リサイクル 回るカラクリ止まるワケ」日本評論社(2003)。

小出 重幸


小出 重幸 プロフィール

1951年東京生まれ。読売新聞社編集委員。お茶の水女子大学非常勤講師。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。北海道大学理学部高分子学科卒。76年に読売新聞社入社。社会部、生活情報部、科学部などを経て、05年6月から現職。地球環境、医療、医学、原子力、基礎科学などを担当。主な著作に、「夢は必ずかなう 物語 素顔のビル・ゲイツ」(中央公論新社)「いのちと心」(共著 読売新聞社)、「ドキュメント・もんじゅ事故」(共著 ミオシン出版)、「環境ホルモン 何がどこまでわかったか」(共著 講談社)、「日本の科学者最前線」(共著 中央公論新社)、「ノーベル賞10人の日本人」(同)、「地球と生きる 緑の化学」(同)など。

1."環境ホルモン騒動"の発端

小出

1998年に「環境ホルモン」「ダイオキシン」をめぐる大きな騒動がありました。一体何があったのか、当時のメディアの状況から、振り返ってみたいと思います。

98年の1月に、環境省は『化学物質と環境』という、化学物質が日本のどこで、どのくらい測定されているか、年間のデータを集めた同省の調査報告書を公表しました。俗称「黒本」と呼んでいましたが、この中でダイオキシンの測定場所が増加していること、それから環境ホルモンではないかと指摘されていた物質「ビスフェノールA」の汚染が確認されたことが注目され、ニュース紙面での環境ホルモン報道合戦が始まったわけです。

報道が過熱した背景には、伏線がありました。北欧のバルト海でポリ塩化ビフェニール(PCB)など、塩素系有機化合物の汚染が進んでいる問題が、BBCの番組や、この番組を紹介したNHK教育テレビの「サイエンスアイ」などで、前年までに紹介されていました。また、環境ホルモン問題を告発した米国の研究者、シーア・コルボーンの著作『奪われし未来』がベストセラーとなっていました。こうした情報によって、関心ある消費者、ジャーナリストたちは、化学物質の環境、健康影響に対して不安感を持っていた。そこにニュースとして環境ホルモン報道が始まり、TV番組や雑誌報道が出てきたために、騒動になったのです。

新聞の記事は、同年1月から急速に増え、半年間増え続けます。当時、データベースで記事検索を行い、『毎日』、『産経』、『朝日』、『日経』、『読売』の5紙の合計記事件数を調べました。記事は98年の6月、7月あたりをめがけて急に上がっていって、その後は急速に減少します。日本化学工業協会は、その後も引き続き記事数のデータをまとめていますが、これによると、98年の3月、4月、5月あたりは月間の報道件数800件となっています。

この環境ホルモン騒動の時にはさまざまな混乱が見られましたが、安井先生は、どんな印象をお持ちになりましたか。

安井

私も『奪われし未来』が出版され、新しい毒性を示されたときには、はっきり言って驚きました。

この毒性が本当であったら大変だと思いました。それまで、毒性学にはいくつかの分野があり、たとえば、こんな物質やこんな微生物には、このような毒性がある――という分類の中で把握して考えていればよかったのです。ところが、「あれ? こんな毒性もあるのか」と、まったく新しい分類を突きつけられたように感じました。ですから、新しい毒性の情報が伝えられたとき、この領域にも、かなり注意していかなければならないだろうと思いました。同時に、指摘が本当かどうかに関してもフォローしなければならないと感じたのです、当時の自分のホームページ(市民のための環境学ガイド)なんかを見ても、「新しい毒性の提案があった」、というような内容が書いてあります。

もっとも今になってあの本(『奪われし未来』)をよく読むと、科学的な報告というより、サイエンティフィック・フィクションのひとつとして書かれているような面があります。人類に対してある何か決定的な被害があった、という事実をもとに、被害の内容からスタートしてその是非を論じる方法論とは、ちょっと違うのですね。結局この問題は、野生生物を中心とする環境の話であったわけです。あの当時議論された環境ホルモン問題の中で、ヒトに対して影響が確認されたものは人工の女性ホルモン剤しかない、ということでした。

それは女性ホルモン剤「DES(ジエチルスチルベストロール)」という薬で、その投与によってがんが発生したという事実は確かにあった。けれども、これは環境ホルモンではないのですね。DESを服用した妊婦から生まれた女児に膣がんが生じたという報告がある。こちらは医療の臨床現場で人為的に投与された薬ですから、これを環境中の内分泌かく乱化学物質と同じ問題だという形で取り上げるのは、いかがなものか、という疑問がわきあがりました。

しかし当時は、そういう毒性が本当にあるならば、それは全く新しい毒性の提案になるわけで、それだけに「これはひょっとしたらやばいかもしれない」と、みんな、まず慎重に評価、吟味してみよう、というスタンスに立ったわけです。

小出

そういう面では、環境ホルモンの影響や毒性というのは、これまでみんながウォッチングしてきた科学の世界、技術的な知識のすき間から飛び出してきた、という印象だったのでしょうか?

安井

そうですね。あんまり意識してなかったところから問題提起があった、という意味で、その意義を認めるべきだと受け止めたのだと思います。

小出

当時、私たちが取材したサイエンティストは、新しい毒性に対して、皆まず真摯に向き合おうとしていました。つまり環境ホルモンについては、まず事実を詰めなきゃいけない。これまではあまり研究費もかけられない領域だった。だからあまり関心も集まらなかった。しかし毒性学や疫学、化学工学、生態学など、さまざまな視点から、環境ホルモンについてきちんとアプローチしなきゃいけないという意識が、いろんな方々から起こりました。この点、サイエンスを担う人たちが見せたこの対応は、ポジティブな評価ができると思います。

2. 事実と乖離してゆくメディア

小出

当時の報道の推移を追ってみます。

問題になった環境ホルモンと呼ばれた物質の最初の正確な事実認識は「環境ホルモンの疑いがある物質」だったはずでした。討論のきっかけとなったのは、「世界自然保護基金(WWF)」がこしらえた化学物質のリストです。WWFは、環境ホルモンの疑いのある物質のリストをつくり、公表していました。そのリストの中に含まれていたのは、ノニルフェノール、ビスフェノールA、PCBなど、67種類の化合物でしたが、その評価はあくまでも「疑いがある物質」でした。ところが、この「内分泌かく乱の疑いがある物質」がメディアの中で、いつの間にか「内分泌かく乱作用のある物質」という表現に置き換わってくる。新聞の見出しでもそのような形に移っていった。こうしてメディアの伝える事実と、実際の現場、環境化学の事実との乖離が始まったのです。さらに「完全に環境ホルモンである」と断定したような形で記事が書かれてゆきました。今、振り返って当時の記事を見直してみると、明らかに「行き過ぎ」の表現、誤った記事が、各新聞に見られます。

安井

確かに、そうだと思います。環境省が環境ホルモン・ダイオキシン対策の一環として98年末に急きょスタートさせた「SPEED '98」、これをあまり批判すると怒られちゃうのかもしれないけど、「SPEED '98」に盛り込まれたリストは本来「可能性のある物質のリスト」だった。けれどもメディアは、国が提示したリストにあるものを「環境ホルモン」と呼びならわすという、すり替えを行ってしまった。だから、あくまで可能性のある物質でありながら、リストに載ったら犯罪人みたいな運命にね(笑)。それが現在のメディアをめぐる、ある種の社会的メカニズムなんです。ですから科学の側も、それをわきまえて、もう少しまじめにメディア対策を考えなければいけなかったのかもしれないですね。

小出

科学的解明には、まず候補物質のリストをつくることが大変重要です。科学者はそこからスタートしたのですが、これが誤解と騒動の手がかりにもなってしまった......

安井

そうだと思います。ただ、書く側(メディア)は、そこに載っている物質を環境ホルモンと呼びならわしても、それほどの違和感はない、と受け止めてしまう。読者や社会はそのあたりの事情を知らないから、メディアの表現を信じるというか、多少踊った表現でも、その言葉どおり受け止めてしまった、という状況があったのだと思います。

小出

同時に、消費者の受け止め方も、メディアの「事実」から、さらにずれて行きました。典型的な例として「カップ麺問題」というのがありました。これは、カップ麺のポリスチレンの容器に関して、発ガン性が疑われるスチレンモノマーが溶け出す――環境団体の「日本子孫基金」が98年2月、こう指摘したことから始まったものです。また、国立医薬品食品衛生研究所も、環境ホルモンと疑われるスチレンダイマー、スチレントリマーが、有機溶媒を使うとカップ麺容器から溶け出すと指摘しました。ところがこれに対抗して、カップ麺メーカーの団体である「日本即席食品工業協会」が、「カップ麺の容器は、環境ホルモンなど出しません」という全面広告を98年5月15日の全国紙朝刊に掲載して、話題になったのです。

しかし、国立医薬品食品衛生研究所の追跡調査で、通常の麺を食べる状態でも、スチレントリマーが溶出することを確認。世論は一斉にカップ麺離れに傾いたのです。

このとき、スチレンダイマー・スチレントリマーは「疑いのある物質」だったはずなんですけれども、メディアでの扱われ方は、完全に「犯人」扱いでした。

他の例にはビスフェノールAがあります。当時「日本子孫基金」は、横浜国大に依頼したほ乳瓶の検査で、ビスフェノールAが溶け出すという結果が得られたことを報告しました。こうしたことがきっかけとなって、さまざまなポリマー、特に塩素を含む高分子化合物について、いろいろと健康影響への疑惑が出た。そのころ私たちが見ていて疑問を感じたことは、健康リスクをどう受け止めるか、その物差しがおかしいなと、ということでした。

ポリカーボネートの容器からビスフェノールAが出るとわかったため、各地の小・中学校の給食容器に異変が起きました。ポリカーボネートの食器が、ほかの容器に置き換えられ始めたのです。全国各地の病院や老人ホームでも、ポリカーボネート容器を外して陶器やガラスの器に置き換えられました。これは適切な判断だったのでしょうか。リスクとベネフィットを考えてみると、高齢者が環境ホルモンを摂取して、その先どの程度の影響があるのか。必ずしもその影響は大きいとは考えられない。一方で、ガラスや陶器の容器を使えば、落として割ったりすれば、けがをするリスクが出てくる。どちらのリスクが大きいのか、もう少し冷静な判断があっても良いと感じました。

安井

今のカップ麺の例などがそうですけれども、このころになると雑誌メディアがこの騒動に参画してきました。例えば『週刊宝石』、『週刊文春』など、さまざまな週刊誌がカップ麺と環境ホルモンの記事を大量に書き始めた。週刊誌が悪いとは申しませんが、やはり普通の新聞報道よりもよりセンセーショナルな伝えられ方をする、これがさらにテレビ番組に拡大する、というように、多種多様なメディアがこの問題を取り上げていったという経緯があって、社会、世相への拡大効果が生まれたと思います。

3. ダイオキシン問題との相乗効果

小出

メディアの報道がどんどん事実と乖離していく様子を、どう見ていらっしゃいましたか?

安井

そうですね、私は自分のホームページで、ある程度時代的考証をまとめていますが、この時点を見てみると、1999年の2月には、例の久米さんのダイオキシン騒ぎがあった。

小出

焼却処理場が集中立地する所沢市で、「葉っぱ物にダイオキシン汚染があった」という、テレビ朝日「ニュースステーション」の報道ですね?

安井

そうです。「葉っぱ物」の報道騒ぎです。実際にはダイオキシンが測定されたのは一部のお茶の葉っぱだけでしたが、この表現で視聴者はみな「野菜の汚染」を連想してしまった。その背景には、先ほどから話題になっている環境ホルモンを最初に警告した書とされる『アワ・ストールン・フューチャー(OUR STOLEN FUTURE)』の日本語訳『奪われし未来』が出版された97年9月以降、ダイオキシンの怖さ、怖さ、怖さというのがずっとメディアで伝えられていた、特にこの一か月前ころからは、全国のごみ償却処理場内のダイオキシン汚染が報道されていた。こうした情報が錯綜して、ダイオキシンと環境ホルモンのリスクがあいまって大きく受け止められる、という相乗効果のようなものがありました。

小出

ダイオキシンも環境ホルモンの1種だと受け止められていましたね?

安井

ええ、そういわれておりましたし、結局ダイオキシンの恐怖感、×(掛ける)、環境ホルモンの恐怖感、=(イコール)「何か莫大な恐怖」みたいなね(笑)、そんな状況がうまれていましたね。

小出

ダイオキシンには、ベトナム戦争時代、米軍がベトナムで使った枯葉剤に含まれていたダイオキシンの影響で奇形児が生まれた、と伝えられましたが、そのイメージがあって、それにシーア・コルボーンが『奪われし未来』の本で指摘した健康リスクへの不安が重なった。さらに環境ホルモンのリスクが加わったので、それがみんな1つの恐怖感にカップリングされてしまった。

安井

そうですね。ダイオキシンが本当にあのベトちゃん、ドクちゃんの奇形の原因かどうかは、いまだに議論のあるところですけれども、いずれにしても、ダイオキシンという物質に対して、ああいうイメージができあがった。

しかも、環境ホルモンの報道がエスカレートして、次世代の子供にも影響を与えて、人類絶滅シナリオみたいなのがどんどんメディアで作られてしまうという結果になりました。そういう意味でも、やはり相乗効果があったと思いますね。

小出

メディアの環境ホルモン騒動の最後に待ち受けていたのが、テレビ番組でした。報道のニュースと違って、番組は娯楽の提供が使命です。そこには誤解や勘違い、事実誤認も少なくないのです。報道の形態をとっていても、ニュースの材料を番組に仕立てたニュースショー番組。その中の1つにニュースステーションによる所沢ダイオキシン報道がありましたが、テレビのニュースショーは、情報を伝えると同時に娯楽を提供する機能も担っていますから、娯楽性を優先したときに事実と乖離してしまったのだと思います。特に主婦向けのショー番組では、「恐怖の環境ホルモン」という前提の会話が飛び交い、あっけにとられた記憶があります。こうしてメディアによって創り出された雰囲気が、世の中全体を浮き上がらせてしまったと感じます。

安井

その後、ダイオキシンの本体、本性みたいなものが少しずつ伝えられ、みんなが理解を進めるにつれて、世の中は比較的冷静になっていった。こうして経過を振り返ると、ダイオキシン騒動というのは日本の化学物質コミュニケーションの歴史にとってすごく大きい、重要な里程標と言えるのではないかと思います。ダイオキシン、環境ホルモン問題もそうですが、日本以外ではこれほど騒ぎにはならなかった。リスクはリスクとして、もっと冷静な対応と問題解決のプロセスを経ていっています。一方の日本ではまったく違う経過をたどっています。ダイオキシンへの不安が社会的に増幅していた、という前提がなければ、これほど日本で騒いだだろうかと感じます。化学物質への社会的理解を促進するためにも、ダイオキシン騒動は歴史的に検証すべき事柄なのかもしれません。

4. 世紀末現象

小出

このころ、まさに雨後のたけのこのごとく、電磁波、化学物質などのリスクを大きく取り上げた、いわゆる恐怖本がいっぱい出るわけですね。

安井

ええ、私の認識では、恐怖本のこの中で社会的な効果が最も大きかったのが、ジャーナリスト、立花隆さんの書いた「環境ホルモン入門」です。これは立花さんらしいセンセーショナリズムを含んだ本で、しかも東大の立花ゼミで学生に調べさせてつくった本なんですが、これがインパクトがあった。優れたジャーナリストの代表である立花さんが言ってるんだから、きっとうそじゃなかろう、みたいな受け止められ方をしていました。

小出

そうですね。特に学生、研究者、その周辺の理解力のある人たちに、より大きなインパクトがあった。

安井

ええ、そのような気がしますね。

留意しなければならないことは、科学には「無罪」を立証することが極めて困難だ、という性格があることです。この物質には健康リスクがあるかもしれない、という指摘があったとします。リスクがあるという疑いはあるけれども、本当は因果関係がまったくない――という例もある。ところが、これを確かめることは難しい、大量の実験を繰り返し、追試し、あいている穴を全部塞がなければならない、時には、それが不可能なケースも多いのです。

このとき、因果関係を冷静に評価しなければならないのですが、「安全が立証されていないものはみんな黒だ」と声高に言われてしまうと、科学者はこれをひっくり返すことがとても難しい、時間を必要とする、ということです。環境ホルモン騒動は、学術のフィールドに近い文献で、そこを巧みに突かれたようなところがあった。これは、防衛のしようがないですね。

小出

逆に言えば、サイエンス・リテラシーというか、本来、科学者がちゃんと伝えなければいけなかった作業をサボっていた、その間隙を突かれたような面もあったのではないですか?

安井

サイエンスはそれまでサボっていたわけではないと思います。ただ全く新しい毒性の指摘であったということが問題なのであって、新しいという意味ではデータの積み上げがない。従って、否定する材料がないという状況で、いろんな仮説を立てられてしまうと、すぐにはどれも否定できない。という状況のなかで、とうとう立花さんに、子供がキレル原因まで環境ホルモンのせいにされてしまった......。

小出

われわれも読んでインパクトを受けたのは、『中央公論』98年の4月号に掲載された、立花隆さんと、日本テレビのプロデューサー、笹尾敬子さんの対談でした。「環境ホルモンは人類を滅ぼす」という記事の中で、これらの化学物質の中には、動物実験で神経系の発育が遅れたり、行動機能の障害が観察された物質があった、という報告を基に、「現代の少年に多発するキレル現象、その結果発生する事件の原因が環境ホルモンである」という指摘をされています。

安井

そういうことで、結局いかなる仮説が出ても、誰も反論できない状況という状況の下にあったのが、この98年でした。

小出

そこまで広がった背景には、合成化学、化学工業に対しての何となく潜在的な不安感、不信感があったと思います。こうした不安感に訴えるように、週刊誌の見出しはエスカレートしてゆきます。見出しの例を拾ってみますと、98年4月25日の『週刊現代』は「虫歯の詰め物に"猛毒"環境ホルモンが使われている」。ここで「猛毒」という言葉が出ています。それから、『フライデー』の4月24日号では、「環境ホルモン汚染の恐怖」。続いて「忍び寄る環境ホルモンの恐怖 精子激減」(週刊読売5月3日号)、「見えない猛毒 環境ホルモン汚染の恐怖」(女性自身5月5日)、「いわく史上最悪の猛毒、人類絶滅の危機」(週刊文春5月28日号)......。

安井

これを書いた記者が今、どう感じているのか聞いてみたいですね。(笑)

今おっしゃったようなある意味の化学工業に対する不安と同時に、ダイオキシン全体へのリスク感があって、その当時、もう1つ世紀末恐怖現象というのがあったのです。98年は、ノストラダムスの1999年人類滅亡予言、そして2000年のコンピューター・クライシスに向かって、何となく世の中が浮き足立っていた時期でもあるのです。最後に何かが起きる、コンピューター社会が壊滅する、という、そういう予言めいた恐怖本が大量に出版された年でもありました。

小出

そうですね。確かに世紀末はそういう世相でした。

安井

例えばこの時期の私のホームページの記述などを見ると、98年の12月には、今はもうない『サイアス』という雑誌が「世紀末人類絶滅の道」なんていう企画を掲載していますが、こうした記事を書くのがはやる時代だったのですね、このころは。

小出

待ち構えていたマスコミに、すごく良い素材を提供してしまった。(笑)

安井

そこに実に手ごろな恐怖話を提供してしまったというところでしょう。振り返ってみれば、この時期はかなり特殊だったのですね。例えば、遺伝子組み換え作物をめぐる混乱なども、この時期に盛り上がりを示していて、この時世を反映しているような気がします。

結局、ダイオキシン騒ぎというものが収まるきっかけとなったのは、日垣隆さんが『文藝春秋』98年の10月号に書いた「ダイオキシン猛毒説の虚構」という記事でした。これは、ダイオキシン騒ぎが終息に向かう、最初のターニングポイントだったと思います。この後、世の中のさまざまな混乱が終息に向かったような気がします。

小出

この年の12月に、環境省主催の最初の環境ホルモン国際シンポジウム(内分泌攪乱化学物質問に関する国際シンポジウム)会議が京都国際会館で開催され、そこである程度この問題の全容のようなもの、相場観が得られた印象があります。もちろん「ごく微量でも生殖機能に悪影響を与える」という意見、指摘もありました。でも、危ないといってもどの程度のものなのか、少し冷静に見る機会が出てきようですね?

安井

そうですね。データベースをみると、私も98年10月に、「多少落ち着きを見せてきた環境ホルモン問題」なんていう記事を書いています。このころから環境ホルモン問題も、新聞記事への出現頻度が下がってきています。

小出

大手5紙の関連記事の合計数を見ると、この年の10月、11月には、5-6月ころの半分以下に落ちていますね。毎月800件ぐらいあった記事が400以下になっている。12月に増えているのは、環境省の環境ホルモン国際シンポジウムがあって、そのために記述が増えているわけですが、それを除けばその後はずっと下がって行きました。

安井

社会全体の恐怖のごとき恐怖報道は、その辺で一応収束していったのでしょう。そのあとは、問題が専門家、研究者らプロの話題に徐々に切り替わって行くことになった。その流れ、理解が、現在の評価につながってきています。