保健・化学物質対策

「環境と遺伝子」

自然科学研究機構
井口 泰泉
(2006年1月10日 掲載)

 アメリカの五大湖のミシガン湖から切り離された湖のほとり、ペレストンにミシガン大学の生物学実験所がある。湖には朝靄がかかり、黄葉もはじまり、まさに秋である。9月も半ばを過ぎているのに虫の声が少ない。宿舎の屋根に落ちてくるどんぐりが時折トタン屋根にあたる夕立のような音を立てる。どんぐりも心得たもので、天気の良い昼間に落ち、夜には落ちてこないので安眠を妨げることはない。

 世界11カ国から46人が集まり、実験所のバンガローや寄宿舎に滞在し、テレビ、ラジオ、携帯電話から隔絶された環境で、今後の研究の方向について4日間缶詰で話し合った。ペレストン会議と呼ばれている。初日の基調講演のあとは5つのグループに分かれて、与えられたテーマについて議論し、レポートをまとめた。実験所ではコンピューター室をはじめ、どの部屋にも鍵がかかっていない。宿舎の部屋にも外からの鍵はない。食事の合図はのどかな鐘の音である。なんと平和な環境か。ここもアメリカの一部である。

 私たちの体はほぼ60兆の細胞でできており、細胞の一つ一つの核に私たちの体の設計図が書き込まれた遺伝子が入っている。母親と父親の細胞の半分の遺伝子が卵と精子に入れられ、受精すると元の遺伝子の量になり、細胞分裂を繰り返して子供の体ができる。遺伝子は百科事典に書き込まれた文字にたとえることもできる。必要なときに必要な項目を引けば必要な情報がわかる。数年前に人間の遺伝子が解読されて、人間の情報が書き込まれた百科事典が出来上がった。個人ごとの百科事典には少し誤植がみつかり、これが薬の効き方の違いや病気の原因になることなどがわかり始めている。しかし、何が書かれているがわからない部分も多い。完全な百科事典にするのにどのくらい時間がかかるかはまだわからない。

 人間だけではなく、ハツカネズミ、ラット、センチュウ、ハエ、メダカ、ゼブラフィッシュ、フグ、アフリツメガエル、イネ、シロイヌナズナなど多くの生物の百科事典ができている。私たちもミジンコやアメリカワニの小さな事典を作り始めたところである。世界中でいろいろな生物の遺伝子の百科事典が作られはじめている。

 生産量の多い物質は、環境中や体内でどれくらい早く分解されるか、分解されないで蓄積されるかなどが調べられる。物質の生物への影響を調べるためには、どのくらいの量で、藻類、ミジンコ、メダカが死ぬかという急性毒性試験や、長期間化学物質にさらされるとどのような量で、どのような悪影響が現れるかを調べる試験がある。また、これらの結果を元にして、どのくらいの量なら使ってよいか、あるいは環境に出ないようにという条件をつけての使用、あるいは使用禁止などが決められている。また、ユスリカ、ニジマス、ファットヘッドミノー、ゼブラフィッシュやコイなどを用いた試験もある。

 一方、物質が体内に入ったらどのような遺伝子が働き始め、働きをやめるかなどを、3万以上のすべての遺伝子について一度に調べることのできる方法(トランスクリプトーミクス、マイクロアレイ法)、遺伝子を基にしてできた多くのタンパク質をまとめて調べる手法(プロテオミクス)や、尿や血液をつかって体内の代謝がどのように変わっているのかを調べる手法(メダボロミクス)が開発されつつある。このような新たな技術を導入することにより、物質の生物への影響をより正確に、早く、簡便に、また、動物の数を少なく試験する方法を話し合った。その成果は今年中にはまとまることになる。

 この4年間ペレストン会議に招聘されて、いろいろなテーマで話し合ってきた。人間や動物に使った医薬品の環境中の生物への影響の可能性をどのようにして調べ、防ぐかについては10月に成果報告書が出版された。急速に発展しつつある遺伝子技術を環境分野にどのように応用するかという報告書は今年中に出版予定である。
 数年前、フロリダで行われた会議はハリケーンの直撃を受け、会議が1日短縮された。会議中には巨大ハリケーンがテキサスに向かっていた。一昨年は、砂漠の近くでエアコンのない部屋に泊められ、夜も30度をきらない体験をした。ここミシガン州ペレストンの生物学実験所は日本の大学のキャンパスほどの広さがあり、熱い議論を湖のほとりで冷やすこともでき快適であった。今後の環境問題への取り組みついて考える恒例の秋休みでもある。会議後ごとにメンバーも変わるので、旧友との再会、新たな友人、と楽しみな会議である。

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