保健・化学物質対策

「化学物質の脅威」に対する一考

(社)日本化学工業協会
庄野 文章
(2011年3月24日 掲載)

 1997年1月、ワシントン スミソニアンは、雪が舞い散る寒い日でした。私は、当時、たまたま仕事の関係上米国に滞在していたこともあり、米国で開催された「内分泌かく乱物質に関する国際ワークショップ」に出席する機会を得ました。1996年3月 シーア・コルボーン氏よりサイエンスフィクションとして「Our Stolen Future」(邦題:奪われし未来)が出版され、その年の8月に原著がジョージタウンの本屋さんで山積みになっていたものですから、好奇心半分で購入し読んでいた関係もあり、このワークショップに参加することにしました。このワークショップは大統領府が環境保護庁(EPA)と共同で開催したものであり、コルボーン氏、フロリダ大ルイス・ジレット教授等そうそうたるメンバーが参加していました。

 日本からは、環境庁の方がダイオキシン対策を中心に、私が日本の工業界の取り組みについてOHP(当時はOHPのプレゼンが主流でした。)で紹介しました。ディスカッションの部では、政府、大学の研究機関およびNGO等の参加者が入れ替わり、立ち代り会場に設営されたマイクスタンドの前に立ち発言され、マイクの後ろには長蛇の列ができていたのが印象に残っています。実はこの2ヶ月前に欧州でベイブリッジ会議が開催されていたので既に世界的にこの問題は注目されていましたが、正直に言って当時、日本はそこまでこの問題に関する認識は高くなかったように思います。1962年のレイチェル・カーソン氏の「沈黙の春」以来の「化学物質の脅威」としてセンセーショナルな話題を呼び、日本でもメディアに大きく取り上げられたのはこの後すぐでした。その後、環境省がSPEED'98にはじまり ExTEND 2005、EXTEND2010へと科学的な立場から事実解明に国家的な長期的な取り組みをされてきたのは周知のとおりであります。

 最近、化学物質のリスクに関する仕事を担当しているものですから、なぜこれほどまでに化学物質が脅威の対象になるのか自分なりに考えてみました。一つは、「内分泌かく乱問題」にみられるように実体を掴めないものに対する恐怖のようなものがある。二つ目は、薬害、公害といった過去の事故の印象とイメージ、三つ目は教育の問題があるように思えます。

 化学物質は、他のかたちのある製品と異なり実体が見えません。ハサミや包丁ですと見るから危険で用心して人間は「使用」しようと思いますが、化学物質は普段、その実体が掴めませんので人間は潜在的に見えないものへの不安を抱くのではないかと思います。化学物質は、ご承知のように人間の社会生活にとって不可欠なものであり、医薬品、食品添加物、日用品のみならず航空機、ハイテク機器等快適な生活と社会に多大の貢献をしています。私はあえてここでリスク・ベネフィット論を展開しようというのではなく、「化学物質」の性質が見えれば(リスクが理解できれば)ヒトはうまくそれを利用できるということです。それも、誰にもわかる方法で正確・適切に伝えることが大切です。どうもこの「化学物質」という言葉も良くなくて周りの物質ってすべて見方・定義の仕方によってはほとんどが「化学物質」なんですがね。

 二つ目の事故、公害に関しては、インドのボパール、イタリアのセベソといった事故がありましたが、日本ではカネミ油症、水俣病がありました。いずれも化学業界としては教訓にすべき事件ですが、原因として二つの問題点が挙げられます。1点目は、「化学物質」そのものの問題ではなく、多くはその人による管理の問題さらにはその時点の科学技術のレベルに原因があるように思えることです。日本の事件では、たとえばカネミ油症の例に見られるように、PCBが工場で米ぬか油中に混入する設備上の問題があって、それを知らずに販売したことによってダイオキシン類等が重篤な疾患を引き起こしたという例があります。さらに2点目は当時、PCBがダイオキシンを含有すること、さらにこれが諸悪の根源であることが当時の科学技術水準としてよく知られていなかったことが挙げられます。こういった意味では新規の化学物質を世に出す場合は、あらゆる場面を想定して化学物質自体の性質を完全に把握し、必要な安全性評価と情報解析を行うことが必要です。今の科学水準であればかなりのリスクまで把握できるはずです。リスクがあればどうやってそれを回避するかという手段まで検討しその情報をユーザーに適切に提供することが求められます。化学物質の管理を常に安全サイドで考えることは必要ですが、ある化学物質のリスクに対して安全サイドで管理・規制したとしてもそのリスクが使用者に正確に伝わらない限りリスクは残るのです。むしろ、安全サイドに規制しておけばよいという安易な考え方よりどうやってそのリスクを多くの人に正確に知ってもらうか、情報を伝えるかに重点を置くことのほうが大事ではないでしょうか。

 三つ目の教育については、特に化学の初等、中等教育です。最近は授業中に実験をしなくなったと聞いています。観察力というのはきわめて大事で、不思議な現象を体感することによって好奇心が湧くということを最近みんな忘れていって、一方で化学物質そのものに対する価値と正確な認識が得られなくなっているのは残念なことです。前述した「実体の掴めない脅威」はこういう点とも関連しているように思います。また専門家・研究者は自分の仕事の内容を一般の人に理解してもらう努力が少ないように思えます。専門家・研究者同士のコミュニケーションは専門用語を駆使し、正確にかつ詳細な議論が求められますが、ややもすれば、現実、実態からかけ離れた世界での議論となりがちでこの内容を社会に発信しても社会、一般の方には受け入れられなくなっています。それが結局「理系離れ」の一因にもなっているように思えます。高等・大学教育ではこういった専門領域外の人とのコミュニケーションの仕方や一般の方々への理解を得るための手法についても学ぶ機会が必要であると感じています。メディアの方にも読者に理解しやすい方法で正確に理解いただけるよう発信していただきたいものです。

 以上、つらつらと思いつくところを書きましたが、国際的な化学物質管理の潮流の中で化学を事業とする化学産業としても多様な素材を提供する立場から社会的な責任を求められます。さらに化学物質のリスク管理と情報提供に一層努力をしていく必要があると思います。また、化学産業のみならずわれわれのお客様であるダウンストリーム、エンドユーザーの方たちともどのように利用しているか等の情報共有を含めた連携が必要になると考えています。