保健・化学物質対策

内分泌かく乱化学物質と低用量問題

国立医薬品食品衛生研究所
安全性生物試験研究センター
井上 達
(2008年10月2日 掲載)


 1996年にロンドン郊外のウェイブリッジ(Weybridge)で、内分泌かく乱化学物質に関する初めての国際会議 1 が開催されてから10年が経過した。取りも直さず環境省の内分泌かく乱化学物質に関する国際シンポジウムも京都における第1回の開催以来、昨年末の大宮ソニックシティでのシンポジウムで10回を数える。この間、2002年には、基礎生物学研究所の井口教授も参加されて、世界保健機構(WHO/IPCS)によるグローバルアセスメント 2 がまとめられ、1昨年(2006) 11月には、ウェイブリッジ会議10周年を記念した欧州連合(EU)によるヘルシンキでのワークショップ 3 で、関連した研究の進捗状況が報告されている。それらの検討結果によれば、内分泌かく乱化学物質問題は、さまざまな課題が、いわゆる低用量問題 4 と関連することが明らかになっている。これは何故なのだろうか?

 内分泌かく乱化学物質問題が取り上げられることになった要因は、化学物質のヒトや野生生物の生殖や内分泌機能への危惧にあった。やがてその可能性の原点がホルモン作動性の化学物質の低用量での影響にあるものとの認識に近づいた。しかしこれは従来の試験法で有害性が検出されないなど、その基礎となるメカニズムがなかなか認知されなかった。

 従来の試験法で先の点が観察されなかった背景はこれまでにも書いた 5 が、この低用量問題が、従来の試験法が対象としていた毒性と異なった生体障害機構に基づくものであったことによる。従来の化学物質の毒性検索では、いわば、生体分子の酸化や還元、あるいはDNAや脂質などの高分子への付加体や架橋の形成といった、主として生体物質の変質、壊変といった化学反応を基礎とした器質的構造変化に主眼をおいて、試験と評価がなされてきた。しかしこれに対して内分泌かく乱化学物質では、一般的性質としては生体内分子の変質や壊変といった構造異常は乏しく、むしろ曝露影響は、低用量であるがゆえに通常の生体の生理的調節水準内での微視的機能変化として進行し、個体の成長と共にエピジェネティックに不可逆的調節不全に至る種々のシグナル調節物質を巡る生体異物相互作用に基づくことが示唆されている。フィードバック機構や可逆性の効く範囲で、低用量短期曝露にあってはじめて惹き起こされ、高用量ではむしろ検出されないような毒性は、それまでの毒性試験では想定されていなかったものである。

 低用量における生体異物相互作用の調節不全は、内分泌かく乱化学物質問題を契機として見いだされた、これはそれまでの毒性学の標的になかったあたらしい概念の"毒性現象"である。従って従来の毒性学の方法論で解決し難い独自の研究課題を内包している。例えばこれらの調節不全を原理とした有害性では、通常の生体機能調節が、生理的範囲から異常状態に移行する境界が、振幅の巾の変化のような、線引きの困難な毒性学が未経験の境界を含んでいる。そうした境界には直接的な構造異常も即時的な機能異常も伴っていないと考えられるだけに、これを裏付ける生体分子シグナル機構の、より詳細な研究も必須である。こうした事柄は、あたらしい毒性学が求められる課題の一例にすぎない。内分泌かく乱化学物質問題を契機としてはじめて見いだされたこのあたらしい生体障害の概念は、当初の想定を超えて、生体調節障害の全域に及ぶ課題の拡がりを内包している。"化学物質の生体調節障害"という課題を対象としたあたらしい毒性学の確立のためには、さらなる概念の構築・整理と、対応する試験法の樹立が一層確かなものとなる必要がある。

<引用文献>

1. European Commission: European Workshop on the Impact of Endocrine Disrupters on Human Health and Wildlife. Report of Proceedings. 2-4 December 1996, Weybridge, U.K.
2. WHO/International Programme on Chemical Safety; Eds, T. Damstra, S. Barlow, A. Bergman, R. Kavlock, G.van der Kraak., Global Assessment of the State-of-the-Science of Endocrne Disruptors. World Health Organization, 2002, pp. 180. (http://www.ehp.niehs.nih.gov/who/). 邦訳は、厚生労働省ホームページ参照 (http://www.nihs.go.jp/ edc/global-doc/index.html)
3. Academy of Finland/European Commission: Weybridge+10 Workshop, Impact of Endocrine Disrupters. November 8-10, 2006. Meeting Abstracts. pp. 111.
4. 「低用量問題」とは、いわゆるホルモン様作用物質の生体に対する作用が、多くの場合通常の試験法では検出されなかったという2000年10月、米国ノースカロライナ州で開催されたEPA主催の低用量問題ワークショップでの認識を基礎にしている。
5. 井上 達, Kang K-S: 内分泌攪乱化学物質(続報)―作用の特徴と試験法―. J. Toxicol. Sci. 23 (5): 191-199, 1998.