保健・化学物質対策

「不思議なことば :『化学物質』」

日本化学会論説委員会
渡辺 正
(2005年8月3日 掲載)


 環境がらみの話には、よく「化学物質」というコトバが出てきますね。「内分泌かく乱化学物質」もそうでした。でもこのコトバ、どういう意味なのでしょうか?

 かの『広辞苑』にお伺いを立てると、旧版にはなかったのですが最新版にはあって、「物質のうち、特に化学の研究対象になるような物質を区別していう語。純物質にほぼ同じ」と解説しています。それがホントなら学校で教えてもよさそうなところ、中学理科も高校化学も「物質」だし、大学だって同じです。だいいち、純物質の水やダイヤモンドをわざわざ「化学物質」と呼びますか?

 学界の一部だけで使う(『ランダムハウス』も『リーダーズ』も載せていない)chemical substanceなる語を、ただ「物質」と訳せばいいのに、誰かが「化学物質」と和訳して今に至る‥‥のでしょう。とにかく「純物質」のほうはこれでおしまい。『広辞苑』も、「化学物質」などという語を採るべきではありませんでした。

 問題は、世に広まっている「化学物質」のイメージです。つい最近も、ある環境活動団体が、『身の回りの化学物質を減らそう』と題する小冊子を出しました。要するに、「化学物質」イコール「化学産業や研究者がつくる物質のうち、なにやらおっかないもの」だというわけ。マスコミ記事もそんなトーンですね。

 けど、物質に「化学」も「非化学」もありません。しいて分ければ「天然物」・「合成物」でしょうが、天然物と同じものを合成できる今、その境目もないようなもの。「合成物はあぶない」と思うのもひどい誤解で、日ごろ命や健康を脅かすのは、むしろ天然物のほうですよ。食中毒もたいてい天然物が原因でしょう。

 日本で最初に「化学物質」を使ったのは、1973年の「化学物質審査規制法(化審法)」でしょうか。むろんこれも、「あぶない物質」に対処する法律でした。

 しかしそれなら、「有害(危険)物質」と呼べばよろしい。「化学物質」は「化学=悪」のイメージをはらみ、化学コミュニティに不信を抱かせるコトバです。<1980年代からほぼ一世代の期間、「化学物質」をめぐるいわれなき疑念が多くの人を化学から遠ざけた。さらにもう一世代このままなら、世界は次の暗黒時代に突き進んでしまう>と、普及啓発活動で名高い英国の化学者エムズリーも近著で嘆いています。

 そんなわけで、「化学物質」というコトバはおかしいし、はっきり言えば不要です。役所の組織や法律の名称もぜひ再考していただきたいと思います。

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