保健・化学物質対策

「『チビコト』を読んで」

「ダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議」事務局長
弁護士 中下 裕子
(2006年3月20日)

 環境省が配布された「チビコト:ロハス的環境ホルモン学」を読ませていただきました。率直に申し上げて、「これが環境省が作ったものだろうか」との驚きを禁じ得ませんでした。なぜなら、全体的に「環境ホルモンは大した問題ではない。国民が騒ぎすぎただけだ」というメッセージが強調されていて、まるで産業界が作ったかのような内容だからです。もし、環境省が、本気でこのような認識に立っておられるとしたら、国民の健康や生態系に取り返しがつかない事態も生じかねないと思い、投稿させていただきました。

 確かに、環境ホルモン問題には科学的に未解明な点が数多くあります。しかし、それはある意味で当然です。低用量・複合的作用、影響発現までに時間がかかるなどの環境ホルモンの特徴からすると、到底短期間で十分な答えの出るような性質の課題ではないからです。
 その一方で、人工の化学物質が生体のホルモンの働きをかく乱するという環境ホルモン問題は、人間を含む全ての生物にとって、決して看過することのできない重大な課題です。わからないことが多いからといって、軽々に「大したことはない」などと決めつけるべきではありませんし、「解明されるまで静かに待つ」という態度も、決して正しいとはいえません。なぜなら、もしその間に被害が生じてしまったら、取り返しがつかないからです。このことは、水俣病事件からHIV事件、さらには最近のアスベスト被害を思い起こせば、容易にわかるはずです。
 したがって、環境ホルモン問題に対しては、科学的解明に向けて持続的努力を続けることは当然ですが、その間にも、行政としては、被害の発生を未然に防止するために、可能な対応を取らなければなりません。まず、できるだけ広く情報を収集し、それを国民にわかりやすく提供して、国民が自ら判断してリスクを回避・削減する行動をとれるようにする必要があります。周知のように、この問題については、研究者の間でも様々な意見があります。したがって、情報提供にあたっては、できるだけ幅広く意見や研究成果を紹介するとともに、対立する意見は公平に取り上げるように配慮すべきです。そして、科学的解明が進むにつれて、それに応じた適切な対策を速やかに講じることによって、被害の発生を極力防止することです。それが、過去の苦い教訓から、強く行政に求められる姿勢だと思います。

 ところが、「チビコト」では、「環境ホルモンは大した問題ではない」という立場だけが強調されていて、その反対の立場の研究者の意見が掲載されていません。しかし、この問題については、「未解明なことは多いが、人の健康や生態系にとって看過できない重要な問題である」と指摘する研究者は数多くいます。WHOの報告書でも、「国際的優先事項である」ことが明記されています。むしろ、「大したことはない」と主張する研究者の方が、専門家の中では少数といえます。
 たとえ少数であっても、その意見は尊重するというのが民主主義の基本原理です。ましてや、この問題に関しては、WHOをはじめ、懸念を表明する研究者の方が多数なのです。それにもかかわらず、WHOなどの国際的な動向にも逆らって、日本の環境省が問題がないかのように強調するというのは、いったいどういう考えなのでしょう。

 また、「チビコト」では、環境ホルモン問題に対する国民の不安の高まりを、「騒動」と表現しています。周知のとおり、環境ホルモンは特に次世代の子どもたちへの影響が心配されています。このため、多くの母親が大きな不安を抱いたのです。前述のとおり、この問題については専門家の中でも意見が分かれているのです。専門的知識に乏しい国民が、判断に迷い、子どもへの被害を何としても回避しようとして、少々過剰な防禦反応を示したとしても、決して批判すべきものではないはずです。
 それどころか、こうした母親たちの危機に対する敏感さは、ともすれば業界にすり寄って鈍くなりがちな行政の危機意識に対して、警鐘を鳴らすものといえます。これまで、行政の危機意識の甘さから、政策決定を誤り、数多くの犠牲者を生むという事例が、どれほど繰り返されてきたことでしょうか。そのことを真に反省しているのであれば、国民の不安の高まりは、むしろ、行政にとって、「過去と同じ過ちに陥っていないか、被害防止のために最善の策を講じているか」を自問し再確認する絶好の機会を与えられたと受け止めるべきではないでしょうか。それを「騒動」と表現して憚らないところに、専門的学識の不足と、驕った官僚の認識と姿勢がよく現れていると思います。その驕りと不勉強が、数々の公害・薬害事件を生んだことは既述のとおりです。そして環境ホルモン問題についても、同様の過ちにつながる危険性を孕んでいると私は思います。

 環境省の役割は、国民の生命・健康と生態系を守ることにあります。その役割を果たすためには、環境省は、業界の立場ではなく、常に国民の立場、とりわけ最も弱い子どもたちや野生生物の立場を考えて、政策決定を行うことが求められていると思います。たとえ業界がどれほど反対しても、国民の生命、健康や生態系を守り抜くという姿勢で、断固としてそのための施策を実行していただきたいと思います。そもそも、いかなる産業といえども、国民の生命・健康やその基盤たる生態系を犠牲にして成り立つ業などありません。その意味で、国民の生命・健康や生態系に被害が及ばないようにすることは、長い目で見れば産業界の利益にも適うことなのです。
 環境省がリーダーシップを発揮しないでは、国民の生命・健康も生態系の保全も共に危うくなることは明らかです。環境省が、今一度、過去を真摯に反省されるとともに、自らの使命を自覚され、真に国民(弱者)の立場に立って、環境ホルモン対策を実施されますよう、心より願っております。

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