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活動レポート

里なび研修会 in 栃木
野生鳥獣との共生を考える

日時 2010年3月7日(日) 13:00~17:00
場所 栃木県宇都宮市 宇都宮大学農学部峰キャンパス

研修会の様子

 2010年3月7日(日)13:00~17:00、栃木県宇都宮市の宇都宮大学農学部峰キャンパスにて、里なび研修会in栃木「野生鳥獣との共生を考える」を開催しました。宇都宮大学農学部附属里山科学センターが共催し、栃木県の協力にて開催しました。
 今回の研修会は、里山の生態系から受ける恵みや、持続的な暮らしを支える在地の知恵を「里山の科学」として科学的に再評価し、地域に還元することを目的に、2009年7月に設立された宇都宮大学農学部付属「里山科学センター」において実施しました。里山科学センターでは、栃木県と連携して実施する鳥獣管理技術者養成プログラムや、地域資源の活用と課題解決を目的としたコミュニティー・ビジネスの創出、国連大学高等研究所と連携した那珂川流域サブ・グローバル評価プロジェクト等を行っており、里山と野生鳥獣の共生をテーマに、事例報告や実践に向けた大学の役割などについて考えました。
 まず、はじめに、趣旨説明として、里地ネットワーク事務局長の竹田純一より「里地里山保全再生計画策定の手引き」をもとに、計画策定方法などについて紹介しました。

■事例1「里山で何が起きているのか」
宇都宮大学農学部教授 小金澤正昭

小金澤正昭氏

 宇都宮市で昨年クマが出ました。八溝山地にツキノワクマが出ました。日常生活に近い場所に奥山の生きものが出てくるようになりました。
 ここ数年、イノシシによる農作物被害が著しく増加しています。
 野生動物の交通事故も増えています。イタチ、タヌキの交通事故が増えています。北海道では高速道路でキタキツネを避けようとして交通事故死が発生、損害賠償の裁判が起きています。
 栃木県ではハクビシンによる被害も広がっています。イチゴ、ミニトマト、ブドウなどの被害が起きています。
 アライグマは、関東の他の地域に比べ栃木県ではあまり見られませんでしたが、最近出没しているようです。
 ここ数年だけでも、野生動物がらみの変化が見られています。「何か変だ」というのは、時間軸に沿っての認識です。「昨年、一昨年に比べて変だ」といったことです。
 一方、栃木にはタガメがいて、めずらしいと司会の方が言いました。栃木県ではめずらしい昆虫ではありません。電灯に集まるカブトムシが100匹集まったこともあります。しかし、地域を変えると、とてつもなく「希少なこと」です。しかし、住んでいる人には何でもないことです。時間軸での比較ではなく、他の地域と比較することも重要な視点です。
 時間軸、空間軸などの視点が必要です。
 ニホンジカ、ニホンザル、ツキノワグマ、イノシシの分布と被害状況を説明します。いずれも栃木県内で分布を拡大しています。ニホンジカを調査したところ、群馬県側、福島県側へも拡大しており、冬場に尾瀬から足尾まで移動していることも分かっています。シカは林業被害が主です。
 ニホンザルも分布を広げています。日光でのサルの分布を見ると、1966年頃、標高が1000mより上でした。それが徐々に山を降り、かつ山の中でも分布を広げています。これは、山へ人が入らなくなったことや森林の取り扱いが変わったことが影響しています。66年の分布域は、薪炭林として炭窯の上限と一致するようなラインでした。人の使い方とリンクしているのではないかと思います。
 ツキノワグマは、スギやヒノキの樹皮をはいで甘いところをなめるという被害などが起きています。
 イノシシは、県の東側の茨城県、福島県、宮城県、山形県まで分布を拡大してます。桐生市、足利市で平成6年頃から突如分布が拡大しますが、DNA調査でイノブタであり、人為的な分布拡大が可能性としてあります。イノシシは、明治の頃まで各地に分布していましたが、豚コレラによって地域的に絶滅していました。今、空白域にイノシシが入り込み、一気に被害が拡大しました。平成19年に1億4千万円の農業被害となりました。
 被害対策としては、被害地を隔離する、個体数を減らすことですが、狩猟者が減少し、高齢化が進んでいます。
 野生動物、人間、土地の相互関係の中で、ひとつひとつの野生動物の価値、里山で代表される生態系サービスの中で解いていく問題です。野生動物や土地に強いインパクトを加えてきた人間が、そのインパクトを弱めてしまいました。人が里山に手を入れることで里山での野生動物は住みにくい状況をつくってきました。その野生動物が人間領域にまで入ってきました。これが大きな課題です。

■事例2「人里に迫るイノシシ包囲網」
宇都宮大学特任助教 小寺祐二

小寺祐二氏

 現在、長崎県の鳥獣対策専門員と兼務しています。専門はイノシシの個体群管理です。イノシシの現状について話をします。主に調査をしていたのは島根県です。その後、長崎県、栃木県の調査に入っています。島根県は、全国でも過疎化が進んでいる地域です。主に島根県のデータを中心に話します。
 島根県のイノシシは江戸時代に全域におり、その後、明治、昭和初期に分布が減少しました。1960年代に西部山間地を中心に分布をやや回復します。1965年以降、70年代から80年代半ばの十数年間に一気に増えました。2005年段階では全域に分布が確認されています。イノシシの分布域拡大は、日本に限らず、ヨーロッパでも、70年代から80年代に一気に拡大してます。その要因として言われているのは、人為的な放逐、人為的な給餌、積雪量の減少、疾病対策(豚コレラなど)、捕食者の欠如(オオカミ等)、人間による土地利用の変化、野生動物の捕獲に対する規制などです。島根県では、人為的な放逐や給餌、積雪量の変化は80年代までありませんでした。全国的には、1970年代半ばから1980年代にイノブタが飼育され逃げ出していますが、島根県の分布拡大とは異なります。疾病対策は、1969年までに対策が完了しています。これは間接的に関係しているかも知れません。捕食者の欠如は明治にオオカミが絶滅していますので、間接要因ではあります。野生動物の捕獲に対する規制についてですが、規制はかかっていませんが、分布の拡大時期に島根県には狩猟者が多かったので直接ではないでしょう。人間による土地利用の変化が考えられます。
 イノシシの生息状況調査のため、イノシシに発信器をつけた調査と、痕跡調査を行いました。島根県ではイノシシは3つの生息環境を使っています。
 ひとつめは、広葉樹林です。島根県では落葉広葉樹林コナラ・アベマキ群落を薪炭林として使ってきました。明治にたたら製鉄が衰退し、農家は一般家庭用の炭として販売し、戦後も続いていました。しかし、1994年に調査をはじめたときには、すでに最後の伐採から40~50年経っており、低木、雑草が入っていた状態でした。その低木や雑草が、イノシシの隠れ場所です。警戒心が強いイノシシは、隠れ場所がないと落ち着いて生活ができません。また、この葉や根、茎、コナラなどのドングリがエサになることから、生息場所として絶好です。
 次の生息場所は竹林です。手入れされていない暗い竹林は、春の貴重なエサとしてのタケノコ、冬場の地下茎があります。
 もうひとつが、水田放棄地です。この水田放棄地は、イノシシが最も多く利用しています。一面の草むらとなり、絶好の隠れ場所であり、そのままエサとなります。6割を超える水田放棄地にはわき水、用水跡があります。イノシシは暑さに弱い動物です。水場があることはイノシシが身体を冷やすことができます。
 この3つの生息環境がつくられる時代背景と、イノシシの生息分布拡大の状況が一致します。
 イノシシの食性調査をしました。エサにめぐまれた環境での例です。毎年胃袋の中を調べると、春のタケノコの頃はほとんどタケノコです。その後、ヨモギ、セリ、ススキなど7~9月の青々とした時期は葉や茎を食べています。そして、クズやススキなど根っこを食べます。ドングリが落ちてくればドングリを食べます。よくミミズを掘るという話を聞きますが、主に根っこを食べています。腎脂肪指数、皮下脂肪を測ると、草本を食べている時期は栄養状態が横ばいですが、9月に一番脂が低く、冬場、ドングリを食べると一気に脂肪が増えます。9月が最低値ですが、それでも、アメリカの研究事例を見ると栄養状態は島根県で十数年確認すると栄養状態がよく、繁殖状態もよいと見られます。
 どんなに栄養状態がよくても、年1回の出産がほとんどです。胎児数は、5匹前後ですが、性比ではメスの方が多いです。そこが問題です。島根県は70年代から捕獲を続けています。狩猟期3カ月の間の年齢と捕獲数、性比をみました。石見地方では、1狩猟期間に生息数の4割を捕獲しています。各年齢における死亡率を出したところ、イノシシのメスのデータからは、平均寿命が1.75年です。海外ではどんなに狩猟圧が高くても寿命が2年を超えています。この状態で純繁殖率が1.25あります。平均寿命が短くても、繁殖率が高いため増えていくということです。つまり、イノシシを捕獲のみで減らすことは難しくなります。いい生息環境があるからです。
 個体群管理には先に上げたイノシシにとってのいい生息環境を減らすことです。

■事例3「サルとの付き合い方を考える」
宇都宮大学特任助教 江成広斗

江成広斗氏

 ニホンザルは昼行性の動物なので人里で目にすることが多くなります。サルは被害がなければおもしろい動物です。サルは、甘いものが好きで、飼料用デントコーン、リンゴなどを食べます。また、リンゴなどは木の上で遊ぶためリンゴを落としてしまいます。墓でおそなえものを食べたり、花を食べます。墓石の上で遊んだりもします。
 1978年当時に比べると、全国で分布が拡大しています。
 栃木県では、1980年代から被害が出始め、97年頃にピークを迎え、被害は減少しています。しかしこれは、被害が出やすい農地そのものが耕作放棄され、それによる被害面積減少もあります。被害額は増えています。残された農地の被害は深刻化していると言うことです。年間1万~1万2千頭のサルが有害駆除されています。
 ニホンザルの研究者・技術者は、様々な被害防除技術を開発し、技術的にはほぼ防除可能です。電気柵でも効果は高くなっています。
 国会では、99年に鳥獣保護法が改正され、特定鳥獣保護管理計画、08年の特別措置法で県から市町村レベルへ権限が移行され、柔軟な対応が可能になっています。
 行政レベルでは、獣害対策予算が年々増加しており、県では28億円(08年より)程度投入されています。そのほか中山間地域の農業支援関連補助金を投入するなどしています。被害額以上の対策費用が投じられている自治体もあります。各地で対策は実施されていますが、問題は拡大・深刻化している地域が多くなっています。
 津軽地方の農家で聞き取りを実施したところ、「毎日のようにサルが来ているが、サルには見張りがおり、サルを追い払ったら仕返しにあうから、追い払ってはいけない」、という話がありました。これには誤解があります。サルには見張り役はいませんし、意図的な仕返しはありません。過去の乱獲により、今日の高齢農家の子ども時代に、里でサルを見ることは滅多にありませんでした。人とサルとの「社会的リンク」が一時的に断絶しており、被害防除に関する伝統的知識が消失し、サルとの接し方が分からない「非日常的な存在」になりました。被害を我慢してまでサルと「共存」する必要はないと、「共存の対象」から外されました。
 自助努力で被害防除を実施できないほど農家が高齢化しています。電気柵が3年後には崩壊したという事例もあります。メンテナンスができないからです。相互扶助の精神の低下で、隣の畑がサルに襲われていても無視するという事例があります。
 農業収益の低下により被害閾値(経済的被害許容水準)の減少で、わずかでも被害が発生すれば、深刻な問題として認識されます。被害閾値とは、猿害が猿害問題となるポイントです。
 ニホンザルとの同所的共存は不可能です。住み分けが必要になります。また、サルに対する正しい理解を地域に普及させることが必要です。適切な被害防除方法の提供、たとえば、正しく電気柵を設置、管理すれば被害はほぼ防げます。不安や誤解が作用しリスクが過大評価されています。この不安・誤解を取り除くリスクコミュニケーションが必要です。リスクはありますので、適切な知識に基づくリスクの許容を考える必要があります。
 かつて、ニホンザルは資源として食用、薬、魔除けなどとして利用されていました。それがなくなり、今日、田畑を荒らす害獣としてのサルとなりました。観光資源、愛玩動物としての位置づけは小さいものでネガティブな側面が全面に出ています。
 今後、資源としてポジティブな価値を見いだすことが必要です。森林生態系におけるサルの役割もあります。サルの森林生態系における研究はまだ進んでいません。
 今、各地でどういう条件でサルの被害が出るのかを点検する作業(集落点検)を地元の人とワークショップとして実施し、そういう情報を持ち帰り、どういう対策を取ればいいのか、住民とともに検討する活動も行っています。

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■講演 「里山科学センターの挑戦:鳥獣管理の人材育成と里山再生」
宇都宮大学特任准教授 高橋俊守

高橋俊守氏

 栃木県は、首都圏近郊で非常に豊かな環境に恵まれています。宇都宮大学は都市にありますが、1時間もいけば里山の風景が広がります。那珂川の流域には、里山科学センターを誕生させるきっかけになった魅力あるすばらしい里山が見られます。たとえば茂木町には棚田100選の棚田が広がっています。茂木町の鎌倉山では落ち葉かきをしています。町が1袋300円で落ち葉を買い取って堆肥化して販売し、高齢者の生きがいや、健康づくりに結び付けています。那珂川町には、関東で最大規模のカタクリが咲く里山もあります。
 「里」と「山」で里山。里は、「田」と「土」の字が合わさっています。田とは整理された耕地。土とは、土地神様を祭る祠のあるところ。大化の改新(645)では、人家50戸ぐらいを里としていました。大宝律令(715)による国郡里制が改正され、50戸ぐらいから成る郷に2~3の里を配置するようになりました。「山」は、森林、森、林。盛る、生やすという言葉からも来ています。古文書には、1661年の佐賀藩の文書に、「里山方」が登場します。里山は、人が歩いて日帰りできるところで、その奥に奥山、深山がありました。人の生活圏周辺が里山です。江戸時代の里山の様子は、絵図で見ることができます。加賀藩土屋又三郎の農業図絵によると、江戸時代には鳥が苗床に来て、子どもが田んぼの近くの苗床で鳥追いをしていました。牛や馬が農耕の中で使われ、集落の近くにはカラスが普通にいました。
 鳥獣との関わりを日本人の肉食習慣からみると、675年天武天皇の頃、牛馬鶏犬猿を5~10月に食べてはいけないと肉食禁止令が出されました。また、聖武天皇が、東大寺大仏建立や開眼のために、宍(しし)肉食禁止令を出しています。日本では、鳥はニワトリ、ガンカモ類、サギ類、ツル、ウズラ、スズメ、ハトなどを、獣は、イノシシ、ブタ、シカ、サル、クマ、ウサギ、キツネ、タヌキ、アナグマ、イヌ、オオカミなどを食べていました。江戸時代も肉食は普通にされています。山くじら(イノシシ肉)の店がたくさんありました。「薬食い」とも言いますが、オランダ医学から、動物の肉を食べるのは身体にいいという話が広がったようです。イノシシ、シカ、ウマ、ウサギ、トリなどを食べており、イノシシ肉を牡丹、シカ肉を紅葉、馬肉を桜などと言い換えていました。ところが現代は、野生鳥獣を食べる文化がほとんど失われています。
 江戸時代、日本列島には3500万人位がおり、関東圏は200万人、この内江戸には100万人が暮らしていました。江戸は当時の世界でもっとも大きな都市だったと考えられています。江戸を支えていたのは周辺の里山・里海の恵みでした。多摩川、荒川の上流、鬼怒川、那珂川流域の里山の恵みも江戸を支えていました。那珂川流域では薪炭を江戸に送っていた他、綿織物、漆塗り、和紙など都市の需要を地域の生態系が支えていました。日本の自然のもつ生産力と自然に働きかける人間の知恵の結集として、100万人の都市を支えるところまでになりました。それが江戸時代です。
 今日、産業別就業人口の推移を見ると、農林水産業が著しく衰退しています。1920年代には5割を超える人たちが第一次産業で食べていた。2000年には5%になっています。高齢化社会も進展しています。
 栃木県では、野生鳥獣と人間の軋轢が深刻化しています。シカ、サル、イノシシ、クマによる、農作物被害は全国的にも高くなっています。鳥獣管理を担う人材の育成が急務です。このため2009年度より、県と大学で「鳥獣管理技術者」の養成プログラムを実施しています。ひとつは、地域鳥獣管理プランナー養成コース。地域の実施計画策定が必要なので、そのための、法律的な知識、動物の知識、農林水産業の活性化する計画づくりの技能が必要となります。もうひとつが、地域鳥獣管理専門員養成コース。こちらでは、普及指導、生態調査、捕獲ができる技術者を養成します。1年を通して学ぶカリキュラムとなっています。
 大学と栃木県では包括協定を結んでいます。栃木県は地域再生計画を内閣府に届け出し、そこに養成講座を位置づけています。そこでは、地域鳥獣管理サポーターの養成も位置づけられています。大学における野生動物教育プログラムなどとの連携や、地域で起きているありのままの状況を若い学生に伝えるというのも使命です。この中心的な拠点として「里山科学センター」があります。鳥獣害対策を乗り越えないと地域の持続性は生まれません。
 里山科学センターは鳥獣害対策以外に、那珂川流域のミレニアム生態系評価を行っています。また、町から地域資源調査の委託を受けたり、中学生高校生に里山の価値を伝える活動もしています。宇都宮大学の学生に、里山がどのような価値を持ち、課題があり、どう残すべきかを伝える新たな講座や公開シンポジウムを実施しています。一方で里山科学センターは、都市と里山を連携させていかにして持続させるか、新しい社会の仕組みや価値を作るための社会科学的なテーマにも取り組んでいます。人間の福利に不可欠な生態系の評価と、生物多様性機構の解明、里山の鳥獣害対策の推進、里山コミュニティ・ビジネスによる地域活性化、里山の伝統的式の構造化と継承、里山における地域貢献活動などに、地方大学の役割として取り組んでいきます。

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 このあと、事例報告者、講演者と会場を交えてディスカッションが行われました。

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