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第1節 

3 二酸化窒素に係る環境基準の改定

 53年7月11日、二酸化窒素に係る環境基準が「1時間値の1日平均値が0.04ppmから0.06ppmまでのゾーン内又はそれ以下」と改定された。48年に設定された旧基準は、ニ酸化窒素の健康影響に関する科学的知見が乏しい状況の下で思い切った安全性を見込んで設定されたものであったが、その後の科学的知見の充実は著しく、公害対策基本法第9条第3項の規定にのっとり科学的検討を行った結果、環境基準を改定することが同法の趣旨に合致し、今後の窒素酸化物対策の推進に十分な根拠と説得力を与えるためにも必要であると判断して改定が行われたものである。以下、公害対策基本法の趣旨、改定に至る背景、改定の手続、新環境基準の内容及び改定の理由について述べることとする。
(1) 公害対策基本法の趣旨
 大気汚染に係る環境基準は、大気汚染に係る環境上の条件について、人の健康を保護するうえで維持されることが望ましい基準を定めたものであり、法律上の根拠を公害対策基本法第9条に置いている。公害対策基本法が制定されたのは42年であるが、戦後の重化学工業化の進展に伴い個々の発生源の規模の拡大に加え多数の発生源の集積が急速に進むなかで、環境汚染の進行に有効に対処するためには、環境汚染を防止する上での目標となる基準を設定し、これを確保することを目標として排出規制をはじめとする諸施策を総合的に講ずることの必要性が認識されるようになったのであった。
 我が国の環境基準は公害対策基本法にいうように「維持されることが望ましい基準」(同法第9条第1項)であって、政府は総合的かつ有効適切な公害防止施策を講ずることにより、その確保に努めなければならない(同法第9条第4項)とされ、公害防止行政の努力目標として規定されている。したがって、公害対策基本法に基づく環境基準は許容限度あるいは受忍限度といった性格をもつものではなく、この基準を確保することは政府に課された行政上の責務とされている。
 一方、同条第3項は、環境基準については「常に適切な科学的判断が加えられ、必要な改定がなされなければならない。」と規定している。この規定は、いったん設定された環境基準が不変なものではなく、科学的知見の充実、学問の進歩に応じて適切か否かについて検討が加えられ、必要な場合には改定されるべき旨を明記したものである。
 我が国においては、現在、大気汚染に係る環境基準として二酸化硫黄、一酸化炭素、浮遊粒子状物質、二酸化窒素および光化学オキシダントの5物質についての基準が設定されているが、これらは公害対策基本法の制定当時に同時に設定されたわけではなく、それぞれ独自の経緯を経て現在に至っているものである。まず最初に設定されたのは44年の硫黄酸化物に係る環境基準であり、当時の代表的な公害問題ともいえる硫黄酸化物による大気汚染問題に対処するために設定されたものである。しかし、その後の対策によりその達成の目途が得られたにもかかわらず、旧基準に適合している地域でも大気汚染の影響が認められたことなどから、旧基準設定以後の知見の進展をも踏まえ、48年には二酸化硫黄に係る環境基準として改定されることになった。今回の二酸化窒素に係る環境基準の改定は、これに次ぐものである。
(2) 改定に至る背景
 従来の二酸化窒素に係る環境基準(1時間値の1日平均値0.02ppm以下)は、47年6月の中央公害対策審議会大気部会における専門委員会報告に基づき、48年5月に設定されたものである。当時、動物実験のデータについては相当の蓄積があった反面、疫学等人の健康影響に関する利用可能なデータは限られていた。また測定データも、硫黄酸化物に比べ乏しく、精度上も問題があった。しかしながら、従来の大気汚染防止対策が疾病の増加という健康被害を経験した後の事後対策であったことの反省のもとに、二酸化窒素については、具体的な健康被害の報告はないなかで、光化学スモッグ事件を契機とする社会的関心の高まり、窒素酸化物の環境濃度の増加傾向等を背景に、健康被害を未然に防止するという観点に立ち、限られた知見のもとで思い切った安全性を見込んで環境基準が設定されたのであった。
 この環境基準設定の根拠については、その後様々の論議がなされたが、50年度までの時点では、基準を改定するに足る新しい科学的知見は得られていなかった(昭和50年度公害の状況に関する年次報告第2章第2節3窒素酸化物対策の項参照)。しかしながら、その後、内外における二酸化窒素の健康影響に関する科学的知見の充実と蓄積は著しく、特に注目すべきものとして、WHO(世界保健機構)の窒素酸化物クライテリア専門家会議(51年8月、東京)が開催された他、環境庁による複合大気汚染健康影響調査(52年2月)が公表された。環境庁長官は、これら知見の充実を評価して、環境基準について公害対策基本法第9条第3項にいう「科学的判断」を加える必要があると判断し、52年3月28日中央公害対策審議会に諮問を行った。この諮問は、この数年間に格段に豊かになった二酸化窒素の健康影響に関する内外の科学的知見に基づき、環境基準の基礎となる判断条件等について純粋に学問的立場からの検討を依頼したものであり、その趣旨を諮問当時から内外に明らかにするとともに、公害対策基本法第9条第3項にいう「必要な改定」の要否については、新たな判定条件等が示された後に行政の責任で検討することを明らかにしていた。
(3) 改定の手続
 今回の改定手続きに関し、環境庁は、その行政判断と専門家の科学的判断との役割分担を明確にし、次のように対処した。まず、環境基準の基礎となる科学的判断を加えるに当たっては、健康保護を絶対的要請と考え、そのための科学的知見と判断については、中央公害対策審議会の意見を聴き、その答申を尊重した。次いで、環境基準の改定に関する判断を行うに当たっては、改定に関するあらゆる方面からの意見を冷静・公正に聴き、行政の責任において多角的・総合的に検討するとともに、この過程を最大限に公開して改定を行った。
 まず、諮問を受けた中央公害対策審議会は、医学、公衆衛生及び測定に関する専門家20名により成る判定条件等専門委員会を大気部会に設置して、52年5月検討を開始した。
 専門委員会は、約1年にわたり49回の会合を重ね、53年3月20日専門委員会報告を取りまとめ、この報告を受けた中央公害対策審議会は、3月22日その内容を了承する旨の答申を行った。
 専門委員会は、その報告の中で動物実験、人の志願者における研究、疫学的研究など二酸化窒素の生体影響に関する最新の科学的知見に基づき、二酸化窒素の判定条件を整理し、これを総合的に判断して次の指針を提案した。
 短期暴露については1時間暴露として0.1〜0.2ppm
 長期暴露については、種々の汚染物質を含む大気汚染の条件下において二酸化窒素を大気汚染の指標として着目した場合、年平均値として0.02〜0.03ppm
 この指針を導くに当たって、専門委員会は、「地域の人口集団に疾病やその前兆とみなされる影響が見い出されないだけでなく、更にそれ以前の段階である健康な状態からの偏りが見いだされない状態」という概念を創設し、これに留意した。
 したがって、ここで提案された指針は「その濃度レベル以下では高い確率で人の健康への好ましくない影響を避けることができると判断されるもの」であり、公衆の健康の保護について医学、公衆衛生の見地から十分な安全性を有するものである。
 こうした学問的立場からの「科学的判断」に関する専門家の意見を受けて、環境庁は行政的立場から、二酸化窒素に係る環境基準の改定の要否を含めて、今後の窒素酸化物対策の進め方について、多角的な検討を行った。
 環境基準は、健康影響に関する科学的な判定条件等を基礎に設定されるべきものであるが、その際次のようなことにも留意・検討し、その結果を明らかにした。
(ア) 我が国の二酸化窒素による大気汚染の推移と現状
(イ) 従来の環境基準の設定当時の事情とその後の運用及び達成の状況
(ウ) 国及び地方公共団体においてこれまで行ってきた固定発生源、移動発生源に対する規制の実施の経緯と効果
(エ) 燃焼方法の改善、排煙脱硝、燃料転換等窒素酸化物排出防除技術の開発及び実用化の進捗状況
(オ) 窒素酸化物対策に要する費用と改善効果及びそれが及ぼす経済的影響
(カ) 二酸化窒素に係る諸外国の環境基準の制度と大気汚染の状況
 一方、中央公害対策審議会の答申及び環境基準の改定問題について、地方公共団体、産業界、住民団体等各方面から様々な意見等が寄せられ、国会においては衆参両院で参考人陳述を含む活発な論議が行われた。中央公害対策審議会においても、改定について改めて4回の会合を開き、討議が行われた。環境庁は、地方公共団体とのブロック会議、住民団体・産業界との話合い、新聞、雑誌等あらゆる機会を通じて意見、反応を入手し、公正な判断を下す資料とした。
(4) 新基準の内容及び改定の理由
 上述の手続を経て、環境庁は、国民の健康の保護を絶対の要件とする立場を堅持しつつ、科学と行政の役割を正しく分担し、改定のもたらす各般の影響及び各方面の意見をも考慮し、慎重に検討した結果、公害対策基本法第9条第3項の規定の趣旨にのっとり環境基準を改定すべきであると判断し、7月11日改定の告示(環境庁告示第38号)を行った。その内容は次のとおりである。
 二酸化窒素に係る環境基準について
 公害対策基本法第9条第1項による二酸化窒素に係る環境上の条件につき人の健康を保護するうえで維持されることが望ましい基準(以下「環境基準」という。)及びその達成期間等は、次のとおりとする。
1. 二酸化窒素に係る環境基準は、次のとおりとする。
 1時間値の1日平均値が0.04ppmから0.06ppmまでのゾーン内又はそれ以下であること。
2. 1の環境基準は、二酸化窒素による大気の汚染の状況を的確には握することができると認められる場所において、ザルツマン試薬を用いる吸光光度法により測定した場合における測定値によるものとする。
3. 1の環境基準は、工業専用地域、車道その他一般公衆が通常生活していない地域又は場所については、適用しない。
1. 1時間値の1日平均値が0.06ppmを超える地域にあっては、1時間値の1日平均値0.06ppmが達成されるよう努めるものとし、その達成期間は原則として7年以内とする。
2. 1時間値の1日平均値が0.04ppmから0.06ppmまでのゾーン内にある地域にあっては、原則として、このゾーン内において、現状程度の水準を維持し、又はこれを大きく上回ることとならないよう努めるものとする。
3. 環境基準を維持し、又は達成するため、個別発生源に対する排出規制のほか、各種の施策を総合的かつ有効適切に講ずるものとする。
 なお、測定法については従来と同様ザルツマン法によることとしたが、より正確な測定を行うためにザルツマン係数(二酸化窒素の亜硝酸イオンへの転換係数)を0.72から0.84へと改めることとし、別途都道府県知事及び政令指定市長宛通知した。
 新環境基準は、従前の環境基準と同様に1時間値の1日平均値で定めたが、1日平均値の年間98%値と年平均値は高い関連性があり、1日平均値0.04〜0.06ppmは長期暴露の指針である年平均値0.02〜0.03ppmにおおむね相当し、この環境基準を維持した場合は短期暴露の指針をも高い確立で確保することができるものである。
 新環境基準は、答申で示された判定条件及び指針が現時点における二酸化窒素の人の健康診断に関する最新・最善の科学的・専門的判断であり、指針は人の健康を保護するうえで維持されることが望ましい(公害対策基本法第6条第1項)水準を示すものと判断し、この指針に即して改定されたものである。
 その際、安全率については、答申で示された指針は疾病やその前兆だけでなく、それよりも程度の高い健康を人口集団について保護しうるものとして専門家が合意したものであり、十分安全性が考慮されていること、47年当時懸念された二酸化窒素の発がん性のおそれがこれまでの知見では認められていないこと、疫学的調査の健康影響指標に用いた持続性せき・たんの有症率は、医学的判断に基づく呼吸器系疾患の患者に係わる有病率とは異なるほか、環境大気中の二酸化窒素のみ特異的影響ではないことなどの理由から、指針に安全率をかける等の方法により更に安全性を見込む必要はないと判断した。新環境基準は、国民の健康を十分保護しうるものであり、またこれを超えたからといって直ちに疾病又はそれにつながる影響が現れるものではない。
 また、新環境基準は幅(ゾーン)をもって示されているが、これは、人の健康保護のための二酸化窒素の指針について幅をもって示された専門委員会の判断を尊重するとともに、前述した多角的検討を行った結果、二酸化窒素による汚染には地域差があることを考慮し、幅をもった環境基準の設定が窒素酸化物対策の着実な推進のために適切であると判断したことに基づくものである。
 そのため、1日平均値0.04ppm〜0.06ppmというゾーンで示された環境基準については、二酸化窒素の地域の環境濃度水準に応じ、それぞれ行政上の努力目標を定めるという新たな考え方が導入されたのである。すなわち、(A)1日平均値が0.06ppmを超える地域においては、原則として7年以内に、0.06ppmを達成するよう努めることとされ、(B)1日平均値が0.04ppmから0.06ppmまでのゾーン内にある地域においては、「原則として、このゾーン内において、現状程度の水準を維持し、又はこれを大きく上回ることとならないよう努める」との原則が示された。
 なお、環境基準の改定を踏まえ、その維持・達成を図るため、固定発生源及び自動車に対する排出規制を進める等、今後の窒素酸化物対策を長期的・総合的に推進することとしている。

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