4 問題の鎮静化
熊本大学が有機水銀説を発表してから、漁民はチッソに対して工場排水の浄化装置の完備や完全浄化設備完備までの操業中止等を要求しました。また、通産省も昭和34年10月、チッソに対して排水処理施設を完備するように指導しており、同年12月19日にチッソが凝集沈殿処理装置を完成させ、マスコミの報道等もあり、この装置による排水の浄化が期待されました。(しかし実際には、この装置は水銀の除去を目的とするものではなく、水に溶けたメチル水銀化合物の除去効果はありませんでした。)
昭和34年12月25日には、かねてから問題となっていた、チッソと熊本県漁業協同組合連合会(以下「熊本県漁連」という。)の漁業補償問題について、不知火海漁業紛争調停委員会(熊本県知事、水俣市長等を構成員とする。以下「調停委員会」という。)の調停により補償契約が締結されました。また、同年12月30日には、チッソと水俣病患者家庭互助会の患者補償問題について、調停委員会の調停により、「将来水俣病がチッソの工場排水に起因することが決定した場合においても新たな補償金の要求は一切行わないものとする。」などの内容を含む、いわゆる見舞金契約が締結されました。
このように凝集沈殿処理装置の設置や漁業補償、見舞金契約により現地の水俣病に係る紛争が鎮静化したことから、水俣地域で発生した水俣病問題は曖昧なまま社会的に終息させられてしまいました。新潟水俣病が発生するまでの間、熊本大学による原因物質の解明等の研究は続けられましたが、行政による対策の進展はほとんど見られなくなっていました。