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第2節 

2 内分泌かく乱化学物質(いわゆる環境ホルモン)問題の台頭

(1) 「奪われし未来」の波紋
 1996年(平成8年)3月、アメリカの生物学者であるシーア・コルボーンらにより、「奪われし未来」“OURSTOLEN FUTURE”が発刊された。同書は、それまで個別に行われていた野生動物などの生殖異常に関する研究報告を、内分泌かく乱化学物質がそれらの異常の原因ではないかという一本のストーリーでつなぎ合わせたものである。
 この本にはアメリカ合衆国のゴア副大統領が序文を寄せており、同書を30年前のレイチェル・カーソン著「沈黙の春」と同様に深刻な問題を投げかけるものだ、と述べている。
 その内分泌かく乱化学物質(いわゆる環境ホルモン)は、従来にない新しい環境問題の出現として迎えられた。
 特に我が国では、内分泌かく乱化学物質問題が多くの国民の関心を集め、本問題に関する書籍が相次いで出版された。また、専門家の間でも注目を集め、平成10年6月には本問題について専門の学会(日本内分泌攪乱化学物質学会)も発足した。
(2) 内分泌かく乱化学物質について
 近年、内分泌学を始めとする医学、野生動物に関する科学、環境科学等の研究者、専門家によって、環境中に存在するいくつかの化学物質が、動物の体内のホルモン作用をかく乱することを通じて、生殖機能を阻害するなどの悪影響を及ぼしている可能性があるとの報告がなされている。このような作用を持つ化学物質が内分泌かく乱化学物質で、英語ではendocrinedisrupting chemicals、あるいはendocrine disruptorsなどと呼ばれている。
(3) 注目されてきたエストロジェン様物質
ア ホルモンの種類
 人間の体内でホルモンを分泌する内分泌器官はいくつかあり、分泌されるホルモンも多種多様である。主なものとして、男性の精巣などから分泌されるアンドロジェン(男性ホルモン)、女性の卵巣などから分泌されるエストロジェン(女性ホルモン)、甲状腺ホルモンなどが挙げられる。また、人間と他の脊椎動物(哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類など)の内分泌器官の種類、ホルモンの化学的構造−とりわけステロイドホルモン−はある程度類似したものであるとされている。
イ エストロジェン様物質
 内分泌かく乱化学物質問題はこれまで主にエストロジェンの正常な作用に影響を与える物質を中心に研究が進められてきた。それは、?1930年代に初めて作られた合成エストロジェン(DES:ジエチルスチルベストロール)が、1960〜1970年代に流産の防止等の目的で医療面で多用された結果、胎児期に曝露された女性の生殖器に遅発性のがん等が発生したことが確認されていること、?世界各地で観察された野生動物の生殖行動や生殖器の異常が、DDTなどのエストロジェン類似作用を持つと推定される環境汚染物質によるものではないかとの指摘が1990年代に入って相次いでなされたこと、?1991年(平成3年)にはアメリカの研究者によって、乳がん細胞を増殖させる実験中に試験器具から溶出したノニルフェノールが、弱いエストロジェン類似作用をもっており、乳がん細胞の増殖を促進すると指摘されたことなどによる。
 最近では、アメリカ環境保護庁の研究者らによって、アンドロジェン作用を抑制する物質や、甲状腺ホルモン作用をかく乱する物質があることが指摘されている。
(4) 化学物質がホルモン作用をかく乱するメカニズムについて
 内分泌かく乱化学物質が動物体内に取り込まれた後、どのような過程を経て正常なホルモン作用をかく乱するのか、あるいは天然のホルモン作用に比べてどの程度の強さで作用するものか等の詳細については、ホルモンの正常な機能のプロセスが極めて複雑であることから、未解明ではあるものの、これまでの内外の研究報告によれば、大方次のとおりではないかと考えられる。
 体内の内分泌腺で合成されたホルモン(男性ホルモンや女性ホルモンなど)は標的臓器に到達すると、レセプター(受容体)に結合し、DNAに働きかけて機能蛋白を合成することによって機能を発揮する。ホルモンの種類によって結合するレセプターが決まっていることから、ホルモンとレセプターとの関係は鍵と鍵穴の関係に例えられる。
 内分泌かく乱作用のメカニズムに関する研究は、主に、本来ホルモンが結合すべきレセプターに化学物質が結合することによって、遺伝子が誤った指令を受ける可能性について進められてきた。そして、この反応には、本来のホルモンと類似の作用がもたらされる場合と、逆に作用が阻害される場合等がある。DDTなどについて指摘されているエストロジェン(女性ホルモン)類似作用は前者の例であり、これらの化学物質がエストロジェンレセプター(女性ホルモンの受容体)に結合することによってエストロジェンと類似の反応がもたらされる。後者の例としては、DDE(DDTの代替物)などがあり、これらはアンドロジェン(男性ホルモン)レセプターに結合し、アンドロジェンの作用を阻害する(抗アンドロジェン作用)ことが知られている(第2-2-6図)。


(5) 野生生物や人などに対する影響について
 現在、内分泌かく乱化学物質による野生生物などへの影響として研究者により報告されている主な事例を第2-2-2表に示した。そのうちいくつか例を挙げて説明する。
ア 有機スズ化合物による巻き貝類の雄化
 平成2年5月から平成8年3月にわたって国立環境研究所が行った調査で、全国97地点の調査地点のうち94地点で、巻き貝の一種であるイボニシなどにインポセックスが見られた(第2-2-7図)。
 インポセックス(imposex)とは、雌の巻き貝類に雄の生殖器官(ペニス及び輸精管)が形成されて発達する現象、及びその個体を指す。詳しいメカニズムは、巻き貝類の生殖生理についての基礎的知見が不足しているため、まだよく分かっていないが、船底や漁網の塗料などとして使われたトリブチルスズやトリフェニルスズなどの有機スズ化合物により、巻き貝の内分泌機能が障害を起こしたことが原因と言われている。
 国立環境研究所の実験では、1ng/l(1l中に10億分の1g)の濃度のトリブチルスズでも正常な雌のイボニシにインポセックスを誘導するという結果が出ている(第2-2-3表)。その一方で、減少していたイボニシの個体数は回復しているという報告もある。
イ 爬虫類への影響
 アメリカのフロリダにあるアポプカ湖で、雄のアリゲーター(ワニ)の大半に、ペニスが正常の4分の1から2分の1ほどの大きさに萎縮、脱雄化する現象が見られた。ワニの捕獲調査によれば、捕獲した雄のうち大半に、性器に何らかの異常が見られた。また、血中のアンドロジェン(男性ホルモン)の量は、対照群とした湖のワニの3分の1程度であった。
 このようなワニの異常の原因は、1980年代に湖の近くの工場から大量に流出したDDTではないかと考えられている。
ウ 人の健康への影響
 人の健康への影響について、精子数の減少傾向を指摘する報告がある。1992年(平成4年)にデンマークの研究者が過去50年間に人の精子産出量が約半分になり、同じ時代でも若い年齢の男性の方が精子数が少ないと報告した。この報告が出されて以来、我が国を含めて世界的に研究が進められ、様々な反論も行われた。現時点では精子の増減傾向について最終的な結論に至っていない。
エ 科学的知見の不十分性
 以上述べてきたように、内分泌かく乱化学物質問題に関しては、人や野生生物への影響を示唆する報告が研究者によりなされているものの、報告された異常と原因物質との因果関係、そうした異常が発生するメカニズム等に関してはいまだ十分に明らかにされていない。
 今後は、この問題の環境保全上の重要性を十分考慮しながら、指摘されている人や野生生物の異常との困果関係を解明するために、報告の例数を増やすこと、統計的な解析を深めること、環境汚染状況や環境汚染を通じた人や野生生物への摂取量の把握、影響が発現する作用メカニズムの解明等のための調査・研究を一層深めていくことが求められている。
 また、より幅広い範囲の化学物質について、それが内分泌かく乱作用を有するか否か、どの程度の作用力を持つのか等を明らかにする必要がある。このため、このスクリーニング試験方法を、国際的に協力しつつ早期に確立していくことが重要となっている。
囲み2-2-1 内分泌かく乱化学物質に関するスクリーニング試験法
 スクリーニング試験法とは、化学物質が内分泌物質と類似の作用を持つか持たないかふるいにかけ(screening)、さらにどの程度の作用力を持つものであるかを調べる(testing)手法のことである。世界でいくつかのモデルが提案されているが、いずれも段階的にスクリーニングを進めるという点では共通している。
(エストロジェン類似作用の有無の判定をする方法の例)
? 既存の情報を収集、分析
? 化学物質の構造などのコンピューター解析や、乳がん細胞などによるinvitro(試験管内)実験
? 卵巣や精巣を除去するなどの処置を加えた実験動物によるinvivo(生体での)実験
? 無処置の動物への影響を分析
 なお、in vitro(試験管内)試験法については、アメリカが超高速自動分析装置を用いた培養細胞による予備スクリーニング試験法を現在開発中であるが、我が国においても厚生省と通商産業省が共同でその開発に取り組んでおり、今後アメリカの研究者との交流・連携を図っていくこととしている。
 また、in vivo(生体での)試験法については、OECDが国際的に統一されたスクリーニング試験方法の在り方を定めることを目指して、専門家の作業グループを設置し、1998年(平成10年)3月から検討を開始した。1999年(平成11年)2月には東京で専門家会合が開催され、この会合で、生体での次の3種類の試験法について一致を見た。
・ 子宮肥大反応試験
・ 去勢雄ラット反応試験
・ 28日間反復投与毒性試験
 これらの試験法の妥当性については、北米や欧州の多くの試験機関でも検討されることとなっており、我が国においても関係省庁が連携して検証試験を実施することとしている。


(6) 人や野生生物への影響を検討するに当たって考慮すべき事項
 内分泌かく乱化学物質による人や野生動物への影響の発生可能性とその防止対策を検討するに当たっては、本問題の特徴を踏まえ、以下の点に留意することが必要である。
? これまで指摘されている野生動物への影響が人にどの程度当てはまるかを検討する場合、脊椎動物のホルモン作用が共通性をもっていることに留意する必要がある。また逆に、内分泌かく乱化学物質に対する野生動物の感受性がその種類等によって相当程度異なる可能性もあることに留意する必要もあること。
? これまで報告された野生動物への影響についての研究結果によれば、その多くは水生生物であるか、水域と接して生息する爬虫類、鳥類等に関するものであることから、影響の発生機構を明らかにし、環境リスクを評価しようとする場合、水域の環境汚染に特に着目する必要があること。
? 環境中に存在する汚染物質としての内分泌かく乱化学物質が環境中で難分解性であり、しかも食物連鎖を通じて体内に高濃度で蓄積するものである場合、あるいは代謝が遅く体外に排泄されにくいものである場合等においては特に留意する必要があること。
? 環境中に排出された内分泌かく乱化学物質のその後の環境中での挙動については不明な点が多く、また、環境中で化学的に変化して内分泌かく乱作用があるとされる物質となる可能性も指摘されていること。
? 内分泌かく乱化学物質の作用の強さは一律でないため、ホルモンかく乱作用のメカニズムと同時にその作用の強さをできるだけ明らかにする努力を重ねることが重要であること。
? 世代を越えた長期的な影響を未然に防止する観点から本問題への取組の在り方を検討していくことが重要であること。
(7) 国際的な動向
 内分泌かく乱化学物質問題に関しては、コルボーンらが1992年(平成4年)に環境ホルモン問題についてのウィングスプレッド宣言を発し、この分野での研究促進を訴え、さらに1996年(平成8年)に「奪われし未来」を世に出したのを契機として、国際的な関心が高まってきた。1997年(平成9年)5月にアメリカのマイアミで開催された8か国環境大臣会合においては、子供の環境保健という議題の中で議論され宣言が発せられた。この宣言においては、「内分泌かく乱化学物質による子供の健康への差し迫った脅威」として、「科学的な知見の国際的な評価、研究課題の特定と優先順位の付与、研究課題に係る協力メカニズムの構築等の継続的な推進を図り、内分泌かく乱化学物質の主要な発生源や環境中の運命の特定によるリスク管理や予防戦略の策定を協力的に進めるとともに、得られた情報を国民に継続的に提供していく」との趣旨が述べられている。
 1997年(平成9年)11月にまとめられたOECDの報告によれば、この時点で、特別に内分泌かく乱化学物質の作用に着目して法令に基づき環境への排出等を規制している国はないものの、アメリカなどの国や国際機関で本問題への取組が進められている。
ア アメリカの取組
 アメリカにおいては、1996年(平成8年)8月に修正食品品質保護法(FoodQuality Protection Act)と、修正飲料水安全法(Safe Drinking WaterAct Amendments)が制定され、これに基づきアメリカ環境保護庁は、2年以内を目標に農薬やその他の化学物質でエストロジェン又はその他の内分泌かく乱作用のある物質に対するスクリーニングプログラムを開発し、3年以内を目標にこれを実施することとなった。スクリーニングプログラム案は1998年(平成10年)8月に取りまとめられており、現在、試験法の妥当性について検討されており、2003年(平成15年)を目途に整備される予定である。
イ OECDの取組
 OECDでは1996年(平成8年)11月に、内分泌かく乱化学物質についてスクリーニング手法を含めたテストガイドラインの開発に着手することを決めた。
 1998年(平成10年)3月に専門家による第1回作業グループ会合を開催し、国際的に統一のとれたスクリーニング試験のガイドラインを採択すべく活動を開始した。1999年(平成11年)2月には、日本でスクリーニング試験法の専門家会合が開催されたところである。今後、加盟各国で試験法の検証試験が開始されることになっており、我が国はこの検証に主要な役割を担っている。
ウ 化学物質に関する政府間フォーラム(IFCS)
 1997年(平成9年)2月にオタワで開催されたIFCS(IntergovernmentalForum on Chemical Safety)においても内分泌かく乱化学物質問題が議論され、この問題の重要性を確認するとともに、今後の対応として科学的知見が不足しているため、調査研究と各国・国際機関の情報交換を積極的に進めることをIOMC(InternationalOrganization for Management of Chemical Safety:化学物質の健全管理のための組織間プログラム)を通じて関係機関に働きかけていくことが勧告された。
 1998年(平成10年)3月には、IFCSの勧告を踏まえ、国際的な取組の調整を図るとともに、内分泌かく乱化学物質に関する研究状況の情報収集とその評価を行うことを目的としたIPCS/OECD合同会議が開催され、2000年(平成12年)の春を目途に報告書を作成することが定められた。
(8) 我が国の対応
 内分泌かく乱化学物質問題に関しては、関係省庁が連携して、汚染実態の把握、試験方法の開発、健康影響などに関する科学的知見を集積するための調査研究を、国際的に協調して実施している(第2-2-4表)。
 環境庁においては、平成9年3月に「外因性内分泌攪乱化学物質問題に関する研究班」を設置した。同研究班においては内外の文献調査や我が国における環境モニタリング調査等を基に、今後の調査研究の在り方等について検討を行い、平成9年7月に中間報告書を取りまとめた。
 平成10年5月には、環境庁の内分泌かく乱化学物質問題への対応方針「環境ホルモン戦略計画SPEED'98」を取りまとめ公表した。本方針では、科学的研究を加速的に推進しつつ、行政部局においては、今後急速に増すであろう新しい科学的知見に基づいて、行政的手段を直ちに取ることのできる体制を早期に準備することが必要であるとしている。環境庁では、本方針に基づき、大気、水質、野生生物及び人への汚染状況等について実態調査を実施したほか、国立環境研究所において中核的な研究施設の整備を進めている。
 厚生省においては、平成10年4月に、「内分泌かく乱化学物質の健康影響に関する検討会」を設置し、平成10年11月には中間報告書を取りまとめ公表した。
 また、農林水産省では、平成10年2月に、水域生態系についての「環境ホルモン(内分泌攪乱化学物質)影響調査検討会」を設置し、平成10年8月にはそれまでの検討状況について報告書を取りまとめ公表した。
 通商産業省においては、平成8年度に諸外国の取組状況等情報収集と今後の対応策についての委託調査等を行い、平成10年度からは厚生省と共同で予備試験法の開発等を行っている。
 平成10年6月29日、30日には、国際連合大学本部において、「内分泌攪乱化学物質をめぐる生活と食の安全についての国際シンポジウム」が厚生省、通商産業省等の後援で開催され、また、平成10年12月11日から13日にわたって、国立京都国際会館において、「内分泌攪乱化学物質問題に関する国際シンポジウム」が、環境庁主催、日本内分泌攪乱化学物質学会(通称環境ホルモン学会)の協力の下開催された。会場では、内分泌かく乱化学物質問題について活発な議論が行われた。

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