2 化学物質の環境リスク対策の推進
(1) 化学物質による環境汚染問題の特徴
今日、化学物質は、世界では約10万種、我が国でも約5万種が流通していると言われている。これらの物質は、人の生活や社会にとって必要とされる一方で、人の健康や生態系に不可逆的な影響を及ぼす可能性があり、また、回復可能であっても回復に相当の時間と労力を要する場合があると考えられる。
今日の化学物質による環境汚染問題は、多数の化学物質の暴露による健康や生態系への影響の問題が中心となっている。その特徴としては、?第1節209/sb1.2.1>で述べたとおり、影響の出現に閾値がない毒性を有すると評価される化学物質の例が知られており、これらについては実質上安全とみなし得るレベルを設定し、対策を検討する必要があること、また、定性的な評価のみが示されている化学物質もあり、これらについては影響の程度を種々の方法で推定する必要があること、?化学物質の種類は増え続けており、環境中への排出の形態、環境中の挙動、影響に至るメカニズム、発現する影響も多種多様であること、?多数の化学物質の複合的影響についてもほとんど未解明であること等が挙げられる。一方、既に使用されている化学物質の多くについては、人の健康や生態系への影響の評価が行われていない状況にある。
Box23 ホルモン類似化学物質による新たな環境汚染
1996年(平成8年)1月に「盗まれた私たちの未来」という本が米国で出版された。この序文の中でゴア米国副大統領は、この本を30年前のレイチェル・カーソンの「沈黙の春」と同様に深刻な問題を投げかけるものとしている。この序文で同副大統領は、かなりの数のホルモン類似の人工化学物質がデリケートな生物のホルモンシステムに影響を与えている可能性を指摘し、これらの化学物質がどの程度の影響を与え、また、このようなホルモン類似の作用を持つ化学物質がどれほど存在するか、我々や子供たちがどれだけこのような物質に暴露されているか研究努力を拡大しなければならないと指摘している。このホルモン類似化学物質による生殖影響について、1996年(平成8年)から1997年(平成9年)にかけて、欧州や米国において、国際機関等の主導で国際会議が相次いで開催された。ここでも、早急な研究・情報収集の必要性及び国際協力の推進について議論されている。ホルモン類似物質は、人及び生物の生殖と発育という基本的な生物の存続条件に影響を持つ可能性があるという、新たなタイプの化学物質による環境問題が懸念されており、環境庁、通商産業省においても、新たな課題として、平成9年度から関係する研究を進めることとしている。
(2) 環境リスク評価の充実と系統的な情報の収集
ア 環境リスク評価の必要性
今日の化学物質による環境汚染問題に対しては、従来のように個別物質の規制を中心とした手法だけではなく、人の健康や生態系に有害な影響を及ぼすおそれのある化学物質が環境の保全上の支障を生じさせるおそれを「環境リスク」として広くとらえ、環境リスクを最小限に抑えるという考え方に立って、化学物質の環境リスクを総体として低減させる対策を体系的・総合的に講じる必要がある。
このような化学物質による環境汚染を未然に防止するためには、化学物質の性状、発生源、排出の状況等の情報を可能な限り定量的に把握することが必要である。このため、できる限り多くの化学物質について速やかに環境リスク評価を行っていくことが必要である。
しかし、環境リスクの評価を行おうとしても、そのために必要な情報がすべてそろう物質は、環境中に排出されている物質の数に比べて極めて少なく、これまで環境中への排出が直接規制されてこなかった物質については特に少ない。したがって、多種多様な化学物質について、環境リスク評価を行い得る情報を系統的に収集し、蓄積するよう、一層の努力を行うことが必要である。
Box24 環境リスク
「リスク」とは、人間の活動に伴う望ましくない結果とその起こる確率を示す概念である。人間にとって好ましくない出来事を「発生の不確かさ」と「影響の大きさ」で評価するのがリスクの基本的な考え方である。例えば、影響が相当大きなものであっても、その発生する確率がほとんどなければ、リスクは小さいと評価される。
「環境リスク」とは、人の活動によって加えられる環境への負荷が環境中の経路を通じ、環境の保全上の支障を生じさせるおそれ(可能性)を示す概念である。
イ ダイオキシン類のリスク評価
ダイオキシン類は、燃焼過程や化学物質の合成過程など多様な発生源で非意図的に生成される化学物質である。ダイオキシン類は極めて毒性が強い化学物質であり、その環境汚染は、欧米諸国を中心に大きな問題となっている。
このような中で、環境庁では、平成8年12月に、ダイオキシンのリスク評価に関する中間報告を取りまとめた。中間報告では、ダイオキシン類の毒性に関して評価を行い、人の健康を保護する上で維持されることが望ましいレベルとして「健康リスク評価指針値」を設定することとし、その値を体重1kg当たり1日の摂取量で5ピコグラム(5pg/kg/日=1ピコグラム(pg)は1兆分の1グラム)とした。また、我が国におけるダイオキシン類の暴露の状況に関して評価を行い、一般的な生活環境での暴露を0.3〜3.5pg/kg/日、一般的な生活環境よりも高い暴露を受ける条件での暴露を5pg/kg/日程度と推定した。これらから、我が国におけるダイオキシン類に係るリスク評価として、?一般的な生活環境においては、現時点で人の健康に影響を及ぼしている可能性は小さいと考えられるが、現在の暴露レベルは健康リスク評価指針値に比べて十分低いとは言えない状況にあるので、長期的により高い安全性を確保する観点から、今後、ダイオキシン類の環境中濃度の低減を図ることが望ましいと考えられる、?一般的な生活環境よりも特に高い暴露を受ける条件においては、暴露量の推定値が健康リスク評価指針値と同程度以上となることがあり得ることから、今後、健康リスクをより小さくするため、ダイオキシン類の環境中濃度の低減を図る必要があると考えられる、としている。
厚生省においても、平成7年11月に設置された有識者で構成する研究班において、ダイオキシンのリスクアセスメントに関する検討が行われ、平成8年6月に中間取りまとめとして、「耐容1日摂取量(TDI)」(体重1kg当たり1日の摂取量10pg)が設定されている。
今後、これらを踏まえ、我が国でも取組を強化していくことが必要である。
(3) 環境リスクの包括的な管理の推進
ア 物質ごとの環境リスクの低減
化学物質による環境リスクを効果的に低減させるためには、まず、物質ごとに環境リスクの大きさを適切に評価し、その結果に基づき、規制、誘導などの政策を選択し、又はこれらを適切に組み合わせて実施することが望ましい。
平成8年5月には、大気汚染防止法の改正を行い、従来の規制措置に加えて、事業者に排出抑制の自主的な取組を求めるとともに、国が広範な物質についてモニタリング、健康リスク評価等を行うこととなった。また、ベンゼン等現在既に早急な排出抑制が求められている物質については、具体的な排出抑制基準を設定して、より一層確実な排出抑制を図ることとなったほか、ベンゼン等12物質を対象とする事業者の自主管理促進のための枠組みを整備した。さらに、法施行後3年(平成12年)を目途に、これらの対策の実施状況及びその結果等を総合的に勘案して、制度について検討を加え所要の措置を講ずることとなっており、今回の改正は、低濃度ではあるが長期間暴露されることによって健康影響が懸念される有害大気汚染物質への取組の第一歩と言えるものであり、事業者の講ずる排出抑制対策の効果が期待される。
イ 環境リスク総体の低減
このような取組に加えて、多種多様な潜在的に有害な物質全体を視野に入れ、環境リスクを総体として低減させていくことができる包括的な管理システムを構築していくことが重要な課題となっている。
その際、?物質自体の有害性の大きさだけに着目した対策では、有害性の低い物質を大量に使用することによる環境リスクを見逃す可能性があること、?潜在的に有害な物質の暴露は様々な経路を経て行われることから、環境媒体(大気、水、土壌)全体を視野に入れた対応を行うこと等に留意し、費用対効果の高い施策を積極的に講じていくことが必要である。
(4) リスク・コミュニケーションの推進
加害者と被害者が明確に存在した従来の産業公害とは異なり、化学物質による環境リスクは、様々な社会経済活動の中から生じている。したがって、このような環境リスクを低減していくためには、行政、事業者、国民等の各主体が環境リスクに関する情報や知識を互いに共有し、環境リスクを低減させていくことについて社会的な合意を図りながら協力・連携して取組を進めることが必要である。その円滑な実施を図るためには、社会の各主体間の情報交換を通じて、関係者の共通理解の形成を図る「リスク・コミュニケーション」を推進することが重要である。
(5) 生態系に関する環境リスク対策
化学物質の生態系への悪影響を防止することも世界的な課題となっており、既にEUにおいては、高生産量の新規化学物質について生態系影響試験が要求されている。
一方、我が国においては、環境庁において化学物質の系統的な生態影響試験とその結果を用いたリスク評価を行っているほか、農薬については、農薬取締法に基づき水産動物に対する毒性評価を行っている。しかしながら、従来の化学物質対策に係る制度には生態系への影響の観点が十分に組み込まれておらず、体系的な化学物質の生態系影響対策を進めることが課題となっている。