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第1節 

4 失われゆく生物多様性とその保全に向けた取組

 人間活動によって生物多様性は急速に減少しつつあり、持続可能な開発の基盤そのものが脅かされつつある。この人為的な環境の変化の速さと大きさ、それが生物の多様な広がりと豊かさに及ぼす影響は、歴史上に例を見ないものとなっている。

(1) 進行する大規模な絶滅

 生物は、その40億年の歴史の中で、氷河期の到来など地球環境の大変動により多くの種の絶滅を経験してきたが、人間活動による生物種の絶滅は、かつてない速さと規模で進んでいる。国連環境計画(UNEP)によると、1600年以来484種の動物と654種の植物が絶滅したと記録されている。また、現在の種の絶滅の速度については、過去100年に絶滅した種の数が確定できないことから、一つの値で示すことは難しいが、化石に残された証拠から推定される500〜1,000万年という平均的な生物種の存続期間を考えると、少なくとも自然の状態での速度の50〜100倍の速さで絶滅しているものと推定されるとしている。第2-1-9図は1600年以降、絶滅した主な動物達とその数であるが、絶滅のスピードは近年大きく増加していると推定されている。
 また、これまでの生物生息地の喪失、転用に起因して、既に数万種の生物種が絶滅に向かっており、このすべてを救うことは不可能であると考えられている。熱帯林には地球上の生物の全種数の50〜90%が生息しているといわれるが、1981年から1990年までに減少した熱帯林の年平均面積は、国連食糧農業機関(FAO)によれば、1,540万haに及んでいる。
 国連環境計画(UNEP)の「生物多様性評価」によれば、生息地の面積と生物の種の数には一定の関係があり、面積が大きくなるほど生息する種の数も増加する。この関係は経験則として得られており、生息地が減少したときに、どれだけの種が減少するか推定できる。これを熱帯林について当てはめれば、今後25年間の間に予測される森林の喪失により、対象とする種のグループ(主に植物と鳥類)ごとに2〜25%が絶滅し、又はそのおそれが高いと報告されている。これは、自然のままの絶滅率に比べ、1,000〜10,000倍の数字となる。もし、現在の熱帯閉鎖林の減少(世界で毎年1%の減)が今後30年続くとすれば、熱帯閉鎖林に生息する生物種の数は約5〜10%減少すると推測される。
 海洋上の島では、近年生物の絶滅が多く報告されている。ガラパゴス諸島では固有の植物の60%が絶滅の危機にあるといわれる。
 ある種の絶滅は生態系全体に影響を及ぼす。さきに述べたビクトリア湖のシクリッド類はたった1種から300余りの種に分化し、湖において豊かな生物相を形づくっていた。ところが釣り用として持ち込まれたナイルパーチという大型の魚が在来の生物相を荒らし、固有種を絶滅の危機に追いやっている。そして、藻を食べるシクリッド類がいなくなるにつれ過剰に茂った藻が分解し、湖の底から酸素を奪い甲殻類などの生物を衰退させている。
 報告される絶滅の種数は、記録されている生物についてのものであり、未知の生物種の多さを考慮すると、実際の絶滅は報告よりも大規模に起こっていると考えられる。
 我が国においても、絶滅の危機に瀕する野生生物は多い。日本の絶滅のおそれのある野生生物の割合を第2-1-10図に示す。地域ごとに調査した場合、その地域からいなくなるおそれのある生物の割合はさらに高いものになる。全国レベルでの絶滅は地域レベルでの絶滅の積み重ねの結果である。地域ごとの絶滅はその種の全体としての遺伝子の多様性の減少に他ならず、種の存続を揺さぶるものである。
 地域における生物多様性の減少を示す例として第2-1-11図に神奈川県版レッドデータブックの概略を示す。このように地域レベルで生物の状況を把握することは、遺伝子レベルでの多様性保存のために重要である。



(2) 生物多様性が減少する原因

 生物多様性は、主に人口の増大と経済社会活動の影響により減少しているが、国連環境計画(UNEP)では個々の要因としては次のようなものを挙げている。
 ・ 人口の増加と経済発展によって生じる生物資源への需要の増大
 ・ 人間の行動が長期的に及ぼす自然生態系への影響が、しばしば知識が足りないために配慮されないこと
 ・ 不適切な技術を使い続けることによる影響を勘案しないこと
 ・ 経済市場では生物多様性の真の価値が認識されないこと
 ・ 経済市場では生物多様性の地球的な価値が地域レベルで反映されないこと
 ・ 都市化や制度、財産権、文化的環境の変化に伴う社会的な価値観の変化によって、生物資源の利用を規制する制度が機能しないこと。
 ・ 生物資源の過剰利用を修正する効果的な政策が講じられないこと
 ・ 人間の移動、旅行、国際貿易が増えたこと
 これらの要因の結果として、世界の各地で生物の生息地は減少し、分断、転用されており、また、離島などでは、人為的な影響で侵入した外来種がその土地の固有種を絶滅に追いやっている。このほか、食料や資源として、また装飾品や調度品、ペットとして過剰に搾取され、危機に追い込まれる生物もある。農薬などの散布による影響も大きく、有害物質は食物連鎖を通して、広範囲にわたり、多くの種に影響を与える。地球の温暖化の生物への影響も懸念されている。急激な気候の変化に対して、生物がその分布域を変えて適応していくことは不可能であると予測され、気候の変化は生態系に大きな変化をもたらすと考えられる。1986年の国際自然保護連合(IUCN)の試算による野生動物を絶滅の危機に追いやる要因を第2-1-3表に示す。



(3) 生物多様性保全の手法

ア 生息域内保全
 生物多様性を守るためにまず重要なことは、生物を自然の生息・生育地において保全することである。我が国には、自然環境保全地域、自然公園、保護林などのように優れた自然を持つ地域を保護地域として守るための様々な制度があり、野生生物の生息地を自然な状態に保つ役割を果たしている。
 また、生物多様性の観点からは、原生的な自然ばかりでなく、雑木林や採草地、農耕地等の身近な自然も大切である。適度に人手の加わった自然は生物にも多様な環境を提供しており、そのような環境を好む生物もある。
 生物の生息環境の保全と修復は、単独で小規模なものではなく、そのまわりのなるべく広い地域も考慮して行うことが望ましい。しかし、我が国の土地利用の実情では、このような対応は都市域では特に難しい。そこで、小規模な生物の生息・生育空間(ビオトープ)を保全し、それを回廊で結ぶなど効果的に配置することで、全体としての生態系の質の向上を図る考え方も近年注目されている。具体的には河川に沿った水辺林や多様な種からなる沿道の緩衝樹林帯などと、里山や雑木林、社寺林、緑地公園などを結び合わせ、広域的に生物空間を確保するといったことが考えられる。
 生物の生息地の形態配置などに関しては、第2-1-12図のような6つの原則を踏まえることが効率的であることをダイアモンド(Diamond,J. M. 1975)は示している。
 このような空間の形態や配置といった視点の他に、生態系の形成過程や時間の概念も重要である。成熟した生物空間は長い時間を経て形成されるもので、それは人間が埋めたり、短縮したりできないものであり、長期的な視点が求められる。また、生物種や生態系は、あるレベル以上に過剰に利用されると容易に回復できない。生物資源の利用に当たっては、生物や生態系の生産能力を越えない持続的な利用が行われなければならない。
イ 生息域外保全
 生物を自然生息地以外の場所で保全するもので、種子や精液・卵子などを繁殖可能な状態で保存する方法や、生物の個体を動物園や植物園などで保全する方法がある。この方法の利点は、例えば収集されている種子であれば、必要なときに利用できる点にある。また、本来の生息地が完全になくなってしまったような生物の最後の避難場所にもなりうる。
 生息域外保全で保存できる種や遺伝子には限界がある。また、長期間の保存が可能かどうかということ、自然生息地で進行する環境適応のための進化が停止してしまうこと等の問題点がある。このため、生息域外保全は、あくまでも生息域内保全を補完する手法であることに留意する必要がある。
 生物の遺伝子の多様性の保全といった観点から考えると、生息域外保全で保存できるものにも限界があり、生息域内保全との組み合わせでより多くのものが保全されるが、実際にはこれらを計画的に組み合わせていく必要がある(第2-1-13図)
ウ 生物多様性に配慮した開発と計画
 ドイツやスイスでは、「近自然工法」と呼ばれる生物多様性に配慮した河岸や湖岸の改修事業が行われている。これは多様な植物群落の形成を促し、植物の様々な機能を積極的に活用する工法である。また、植栽だけでなく河川空間の多様性並びにその川が流域の社会に果たしてきた様々な文化的側面への配慮についても考慮されている。
 第2-1-14図は、スイス・チューリヒ州の小河川で行われた、河川の再改修の事例である。かつて直線化され、単調な構造になっていた河道を蛇行させ、各所に「淀み」や「瀬」を配置している。河岸については高木や低木、湿地植物、抽水植物も数多く植えられ多様な植物群落が形成されている。このような再改修により、河床単位面積当たりのカワマスの生息数は2.8倍に増加したという。
 我が国おいても同様な視点に立った取組が行われている。建設省では、河川事業の実施に併せて、河川が本来有している生物の良好な生息・生育環境に配慮し、あわせて美しい自然景観を保全あるいは創出する「多自然型川づくり」を平成2年度から推進している。この中では、河川に生息・生育している魚類や植物、鳥類などの様々な生態を保全・創出するため、瀬・淵の創出、変化のある水環境の創出、覆土による植生、魚の移動を考慮した落差工の採用など、河川の環境に配慮した川づくりを実施している。
 生物多様性とは単にその地域に生息・生育する動植物等の種の数の多少で測られるものではない。生物の多様性を守るということは、本来そこに生息する種を、それを含む生物群集や環境(地形・地質・土壌・気候など)ごと維持することにほかならず、地域の特性に適合した開発と保全の計画が策定される必要がある。また、全国的にも生物多様性の視点に立って多様な自然環境を活かしつつ、健全な自然の物質循環に基礎をおいた人と自然の共存を実現し、各地域の個性や独自性を伸ばしながら、多様性のある国土の形成が図られる必要がある。



(4) 生物多様性保全に向けた取組

 これまで、「絶滅のおそれのある野生生物の種の国際取引に関する条約」(ワシントン条約)、「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」(ラムサール条約)、「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)等が国際的に合意され、動植物や自然環境の保護に関する取組が行われてきた。しかし、これらの条約ではカバーしきれないもの、すなわち身近に普通に見られる動植物や地域個体群の保護も含めて、これらを総合的に保全していく必要性が指摘されてきた。このような背景の下、自然環境を生物多様性という新しい考え方のもとにとらえ、総合的に自然の保護と持続可能な利用を進めていくことが国際社会の共通課題となっている。
ア 生物の多様性に関する条約
 生物多様性の減少が地球環境問題として大きく取り上げられる中で、国連環境計画(UNEP)は第14回管理理事会(1987年)において生物多様性保全に関する国際協定の必要性の検討を決議、これを受けて、1988年から1990年まで、生物多様性保全に関する専門家会合が開催され、1990年から条約交渉が開始された。作成された「生物の多様性に関する条約」は、1992年6月の国連環境開発会議(地球サミット)において157カ国により署名され、1993年12月に発効した。我が国は1993年5月条約を受諾し、18番目の締約国となった。1994年11月には第1回、1995年11月には第2回の締約国会議が開催されている。条約締約国は1996年1月現在140カ国となっている。条約の概要を第2-1-4表に示す。
イ 生物多様性国家戦略
 生物多様性条約第6条には、生物多様性の保全及び持続可能な利用を目的とする国家戦略の策定に関する規定がある。同条約が発効し、その実施に向けた取組が各国で進められていることから、我が国としても、新たに国家戦略を策定し、生物多様性条約の実施に関する我が国の基本方針及び今後の施策の展開方向を国の内外に明確に示すことが合意された。また、我が国における環境保全施策の基本的事項を定めた環境基本法においても、生物多様性の確保は環境保全施策の策定及び実施にかかわる指針の一つに位置づけられており、同法に基づき策定された環境基本計画において国家戦略を策定することとされた。
 このため、条約の実施促進を目的として平成6年1月に設置された生物多様性条約関係省庁連絡会議(11省庁の局長クラスで構成、議長は環境庁自然保護局長)が中心となって原案を作成し、国民に対する意見聴取を経て、平成7年10月「地球環境保全に関する関係閣僚会議」において生物多様性国家戦略が決定された。
 国家戦略は、生物多様性が人類の生存基盤であり、また、様々な価値を内包していること、そして、人間活動による著しい減少が懸念されているという基本的認識に基づいている。生物多様性の保全と持続可能な利用に当たっては、自然性の高い地域から都市地域まで各地域の自然特性に応じた適切な保全施策を推進し、生物多様性や自然の再生産能力などに関する科学的知見・情報を充実させること、総合的かつ計画的な取組を推進し、その際、各主体の積極的自発的な関与を促し、国際協力を推進していくこと、といった点を考慮した上で21世紀半ばまでを見通した長期的な目標を次のように定めている。
 ・ 日本全体として及び生物分布の観点から代表的な区分ごとに、生物多様性の保全と持続可能な利用が図られていること。
 ・ 都道府県及び市町村のレベルにおいても、地域特性に応じた保全と持続可能な利用が図られていること。
 ・ 生物の再生産・繁殖の過程や多様な相互関係が将来の進化や変化の可能性を含めて保全されるように、まとまりのある比較的大面積の地域が保護地域などとして、適切に管理され、相互に有機的な連携が図られていること。
 そして、これら長期的な目標を達成するための当面の政策目標として、
 ・ 動植物に絶滅のおそれが生じないこと
 ・ 生物多様性保全上重要な地域が適切に保全されていること、及び
 ・ 生物多様性の構成要素(個々の生物やその生息地)の利用が持続可能な方法で行われていること、の3つを挙げている。また、これらは地球規模で取り組むべき課題であることから、国際的取組を積極的に推進することとしている。
 生物多様性国家戦略は、生物多様性という観点から各省庁の施策を体系化し、長期的な目標と今後の取組の方向を明らかにするものである。また、生物多様性の保全への国民の関心と理解を深め、地方公共団体、事業者、民間団体等の取組を促進するものである(第2-1-5表)
ウ 地域の特性を活かした生物多様性の保全
 滋賀県では、湖の植生として残るヨシ原を地域を特徴づける自然生態系として位置づけ、その保全に取り組んでいる。
 ヨシ原は、かつて我が国の平野部に普通に見られる植生であったが、近年、護岸工事などにより、河岸や湖岸に残されたものも減少し、まとまった面積を持つものは貴重になっている。
 ヨシ原等の水辺の植物群落は、水辺の自然景観と様々な生物の生息場所を形成するだけでなく、その地下茎によって、土を抑え、河岸や湖岸を浸食から守っている。また、水中の茎の表面にはたくさんの藻類や細菌が繁殖しており、水辺の植物群落とともに水の浄化にも寄与している。
 このような水辺の植物の持つ多面的な機能を評価し、保護するために平成4年に滋賀県では「滋賀県琵琶湖のヨシ群落の保全に関する条例」が制定された。この条例は、ヨシ群落を守り、育て、活用するための規定をおいており、平成8年5月現在、ヨシ群落の指定植生面積は240haである。第2-1-6表は条例の前文として掲げられているものである。

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