前のページ 次のページ

第1節 

2 生物多様性のもたらす恵み

 我々は、生物を含む環境を様々な形で利用することで豊かな暮らしを成り立たせている。生物を資源としてとらえた場合、人間にとっての価値は大きく分けて環境の形成・調節、生産・経済的価値、文化的価値の三つの価値に分けられる。生物資源の持つ様々な価値を概観し、生物多様性が我々にもたらす恵みについて考えてみたい。

(1) 環境の形成・調節

 自然生態系の中では、生物の活動が我々人類を含む生物自身にとって良好な環境を形成し、調節している場合が多い。植物や動物の遺体や排泄物は微生物の力で分解されるが、これらの微生物や土壌中の動物の長い年月にわたる働きで形成される土はスポンジ状になり、雨水を含み、浄化し、河川や地下水の絶えない流れを作る。また、植物の根は山崩れや土壌の浸食を防止するのに役立ち、森や林や草原は野生動物のすみかとなっている。その他、防風林・砂防林などは、気候を和らげ我々の生活を守ってくれる。また、もっと大きな目で見れば、他の惑星には見られない地球環境の特徴である大気の20%を占める酸素の供給源であり、気温や湿度の調節機能も持つ。真夏の東京の都心部にあっても、公園や森の中は気温や湿度の変動が比較的少ない。自然植生を裸地化させた場合、土壌の浸食・流失を招き、生態系を破壊することが多い。乾燥地では、進行する砂漠化が生物の生息空間を広い範囲にわたって貧弱なものにしている。
 生態系の中では生物たちが重要な機能を果たしているが、ほとんどの生物種においてその役割は詳細には解明されていない。高等植物は根に生活する菌類から土壌成分の吸収を行っているが、これらの菌類が消失した場合、その生態系の生産力は著しく低下する。このように目立たないところで生態系において大きな働きをしている種もある。
 様々な生態系の空間的な配置も環境の調節においては重要な意味を持つ。例えば、第2-1-8図に示すようにマングローブ林・藻場・サンゴ礁と続く生態系は波を和らげ、嵐による浸食を防いでいる。また、生態系の規模や配置はそこに住む動植物の生活にも大きくかかわっている。


(2) 生産・経済的価値

 人間は環境から資源を得ることでその生活と経済活動を成り立たせているが、資源の多くは生物の営みから得られるもので占められている。我々が日々の生活で消費するものを見渡してみると、生物起源であるものがいかに多いかがわかる。食物は、米や麦などの主食から肉、魚、野菜などほとんどすべてが生物である。栄養面から見ると世界で人間の摂取するカロリーの85%、タンパク質の67%は、植物によるものである。そのうち、カロリーの60%、タンパク質の56%はコメ、コムギ、トウモロコシのいずれかによるものである。先進国では摂取タンパクのうち55%が動物性である。綿や麻、羊毛は衣類となり、樹木は紙や木材となっている。また、漢方薬として、薬草ばかりでなくシカやクマなどの哺乳類、イモリやカエルなどの両生類、アリや甲虫などの昆虫、ヒルやミミズなどの軟体動物など5,100種以上の生物が利用されている。現代医学で利用されている薬も、その多くは動植物や細菌から抽出された成分であったり、これをモデルとして化学合成した物質である。ペニシリンやテラマイシンなど3,000以上の抗生物質は微生物から得られる。このほかにも多くの薬品が野生動植物から発見され、また、先住民の暮らしの中で長年にわたり伝承されてきた有用な野生動植物は現代人には十分知られていない重要な資源といわれる。遺伝子工学のように生物多様性から生み出される様々な科学技術は経済活動や医療の分野等で利用されている。その他、酵素は、生物の生体活動のプロセスが生産活動や環境の浄化に用いられているものである。そして、今日の経済活動に不可欠な石油・石炭も、地球生態系が数億年にわたって育ててきた太古の生物が起源である。世界銀行によると、世界の旅行産業の経済規模は、年間2兆ドルに達するが、自然とのふれあいを中心とした新しい形態の旅行であるエコツーリズムは、成長分野となっており、1988年には約2,330億ドルの市場を生み出している。

(3) 文化的価値

 人間は、自然の風景やその移ろい、生物の動き、営みなどに触れ、感動や驚きをおぼえる。自然とのふれあいは、人間性や感性を育み、芸術や思想・宗教の基盤をなし、レクリェーション・やすらぎといった形で我々の生活を豊かにしており、文化の形成に大きな役割を果たしてきたのである。生物多様性の文化的な価値としては、次のようなものが考えられる。
ア 自然学習
 人間は、自然から多くのことを学び、生活に役立てている。かつて里山は農作業や生活に必要な燃料や肥料を提供してくれたが、そこで、人々は、自然の恵みの持続的な利用の仕方を生活の知恵として学んでいた。また、野生の動植物との出会いからその生態や人間とのかかわりを学び、風景や生物の色、動きに心を動かされ、刻一刻移ろいゆく自然を体感する、こうした日々の生活における生きた自然との交流を通して自然の摂理を学び、美意識や情操が養われてきた。
イ 芸術・宗教
 自然や生物の美しさ、神秘性は、古くから絵画や写真など芸術の対象となっており、また、人類に恵みをもたらしてくれるものとして、崇められ、信仰の対象ともされている。動・植物や山、森、石、土地等のうちに霊的な存在を認め、それに対して信仰の念を抱く風習は世界各地で見られる。
ウ レクリエーション・やすらぎ
 生物が作り出す多様な自然条件は、人々の創意工夫を促し、多様なレクリエーション活動を可能にする。土木研究所が茨城県内の那珂川の上流から下流にかけて人々がどのように水に親しむ活動をしているかを分析した調査では、自然条件が多彩な場所ほど多くの人々が水辺で遊び、また、その内容も多岐にわたっていたという結果が得られた。この調査は、河川において多様な自然条件は人々に創意工夫できる材料と場所を与え、様々な魚や水生昆虫は釣りばかりでなく、子供たちの格好の遊び相手となっていたことを報告している。
 近年、自然の中でのレクリエーションやスポーツを楽しむ人々が増えている。これは、自然とのふれあいを通して、本来の人間性の回復ややすらぎを得ようとする人々の欲求の高まりを示すものであろう。

(4) 未来のために

 生物が多様であれば、変化する環境条件に対して生物が適応しうる範囲が広がる。農業において、気候の変動や病害虫の蔓延に対応できる作物を育てるために、遺伝子の多様性は重要である。かつて、1860年代に北米からヨーロッパに侵入した昆虫が、ワインの生産の原料となるヨーロッパブドウに壊滅的打撃を与えた。その後、野生のアメリカブドウの種の中にこの昆虫に耐性のあるものが発見された。ヨーロッパのワインの生産は、アメリカ産の台木の上にヨーロッパブドウを接ぎ木してやっと救われ、現在でもこの作業は続けられている。
 農牧業の発展は高品質で生産性の高い種を生み出してきたが、同時に単一種に依存する傾向も表れ、生物多様性の減少をもたらしている。農業は1万2,000年前から発達し、数千種もの作物が栽培されてきたが今日では百種にも満たない作物が世界の食糧のほとんどを占めているといわれる。広い範囲で単一種が栽培されることで地域的な多様性が失われ、環境の変化や病害虫に対して壊滅的な被害が生じるおそれが高まる。また、約5万種の脊椎動物のなかで家畜として飼育されているのはたった30種程度である。また、先に述べたように、人類が医薬品として利用している成分には生物起源のものが多いが、すべての生物に比べれば、利用しているものの割合は極めて小さく、一部の生物に多くを頼っているということができる。マダガスカルのツルニチソウの仲間の中に、それまであまり注目されていなかったが、その化学特性から脚光を浴びるようになったものがある。この草から悪性リンパ腫と急性リンパ球性白血病という2種のガン患者に効果のある薬品が採取できることが分かったのである。人類にとって未知の生物は、治療法の確立していない病気や今後現れる新しい病気に対する治療法の鍵を握っている可能性がある。
 これまで見てきたように、人類は、多様な生物の世界に多くを依存してその生活を成り立たせている。これらを資源として利用するばかりでなく、自然界から多くのことを学び、科学的な知識を蓄え、豊かな文明を築いてきた。しかし、人類が生物の世界について知っていることは全体から見れば、まだわずかである。そして未知の部分には、将来人類の生存を左右するようなことが隠されている可能性があり、生物が多様であることは、我々人類にとっても、未来へ続く道を幅広く安全なものにしてくれているということができる。
 人類は、地球の生態系や生物の世界を自分の力で作り上げたり、予測通りに改変したりすることはできない。地球生態系の健全性が生物多様性の上に成り立っていることを考えれば、一つの生物として、自らも多様性という自然界の摂理に従い、その保全に努めていくことが持続的な発展を通じて、真に豊かな社会を構築していくことを可能にするものといえよう。

前のページ 次のページ