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第1節 

1 生物多様性とは

 「生物多様性」とは、自然生態系を構成する動物、植物、微生物など地球上の豊かな生物種の多様性とその遺伝子の多様性、そして地域ごとの様々な生態系の多様性をも意味する包括的な概念である。そして、地球の生態系の中では生物が刻一刻と生まれ、死に、エネルギーが流れ、水や物質が循環しているが、こうした自然界の動きも視野に入れた考え方である。生物多様性は遺伝子、種、生態系の3つのレベルでとらえられることが多い。

(1) 遺伝子の多様性

 同じ生物種でも生息する地域ごとに色や形などの特徴が微妙に異なることが多い(第2-1-1図)。これはそれぞれが持つ異なる遺伝情報が外見に現れた結果である。人間の場合を例にとると、皮膚や髪の色、身長の違いなど遺伝子や染色体の違いが様々な特徴として現れている。遺伝子の多様性とは、このような遺伝子の変異の大きさを指すものである。遺伝子の多様性の高い生物種は個体間で異なる遺伝情報を多く持っており、同じ種の中でも個体ごとに多様な性質や形状を持つことになる。種内における遺伝子の多様性は、その種の環境の変化に対する適応性を左右する。農業において、品種改良を重ねて生産性の良い品種や厳しい気候に対して耐性の強い品種が生み出されてきたが、これは遺伝子の多様性を利用した技術にほかならない。また、ある細菌に対して効果的な薬品でも連続して使用していると効果が少なくなる場合があるが、これはその薬品に対して耐性のある遺伝的特性を持った個体の増殖による場合が多い。
 遺伝子の多様性は、個体群が極めて小さくなり、近親交配が生じるようになると減少する。近親交配が動植物の繁殖能力や成長に悪い影響を与えることは古くから知られている。1949年頃、カナダのスペリオル湖のある島にひとつがいのオオカミが住み着き、その個体数は1980年頃には50頭に増加したものの、1990年にはわずか14頭に減少し、また、多くの雌が子を生まなくなってしまったが、このオオカミは、たび重なる近親交配によって本土の個体群に比べて50%の遺伝子の多様性しか持っていなかったという事例がある。



(2) 種の多様性

 種の多様性は、通常ある地域内の生物の種数としてとらえられる。一般的に気候等の条件が厳しい環境や、変化しやすい環境においては、生息できる生物の種数は少なくなり、穏やかで安定した環境では多くの種が生息できるといわれている。熱帯多雨林では種の多様性が極めて高く、砂漠では低くなっているが、他の気候帯と比較して気温等の変動が少ない熱帯では、それぞれ利用する食物や生活時間などを微妙に違えることで多くの種が生存していると考えられている。このほかにも、例えば長い年月にわたり安定した環境を維持している場所として深海がある。19世紀初頭まで深海には生命はいないと思われていた。ところが、深海底の探査が行われるようになった結果、極めて多様な二枚貝や多毛類(ゴカイの仲間)が生息していることが分かった。
 では、生物の全種数は一体どれくらいなのであろうか。学問的に確認されている生物の種数は国連環境計画(UNEP)の「生物多様性評価(GlobalBiodiversity Assessment)」によると世界で約175万種である。しかし、実際の種数は恐らく1,000万種あるいは1億種を越えるとも言われている。確認されている種の割合は分類群によって大きく異なり、哺乳類や鳥類では、恐らく90%以上のものが確認されていると推定されているが、昆虫では10%以下しか確認されていないとされ、様々である(第2-1-2図)。細菌のように未知のものがほとんどを占める分類群もあり、ひとつまみの土の中にも我々の知らない数多くの生物が生きていると考えられる。確認されている生物の種数をその分類ごとに相対的な大きさで表したものが第2-1-3図である。昆虫や軟体動物の種数の豊富さにくらべ、哺乳類の種数はわずかなものであることが分かる。現在、熱帯多雨林では種の大量絶滅が問題となっているが、未確認のまま絶滅していく生物が多くを占めると考えられている。



(3) 生態系の多様性

 地球上では、地域ごとの気候や土壌といった物理的な環境とそれぞれの生育環境に適応した様々な生物が相互に影響し合いながら、地域に固有の生態系を形成している。そして、地域ごとの生態系は、明確な境界を作ることなく、総体として地球の生態系を構成している。
 生態系は、対象に応じて、地球生態系の全体から森林生態系や草原生態系、海洋生態系、又は個々の川や湖の生態系、さらには小さな水路や水たまりの生態系といったように様々な広がりでとらえることができる。また、同じ森林でも沖縄と北海道では様子が異なる。生態系の多様性とは、それぞれの場所の環境に応じて成立している生態系の間の変異の多様さを指すが、木々の高さや川の形状など生態系の空間的構造や生物たちの関係の多様性も重要な要素である。
 例えば、種の多様性は、その生息する空間の多様性に影響されることが知られている。特に鳥類では、その種数が生息場所の植物の種数よりも葉の高さの多様性と強く相関することが報告されている。つまり、草本、低木、中木、高木といろいろな高さの植物があることによって、多くの種類の鳥が生息することができるというのである。
 このほか、生態系の持つ構造や機能が生物多様性に影響する次のような例がある。
 エコトーン:森に囲まれた湖沼を見てみると、森の中と水中という二つの異なった生物の生息空間とそれら二つの空間が移りゆく場所を見ることができる。このような陸地と水面の境界、森林と草原の境界のように、どちらとも違った特徴を持った移行帯は「エコトーン」と呼ばれる。エコトーンでは、土壌の水分、日光の照度、温度、空気の動き、湿度などが、比較的限られた空間の中で大きく変化するので、そこに育つ植物や動物の種類も豊かになり、隣接する二つの世界を結んで生物の活発な営みが繰り広げられ、その地域全体の生物多様性を高めるうえで重要な役割を果たしている。池岸帯の植生の空間的構造と出現するトンボの種数に関する調査の結果を第2-1-4図に示す。植生が多様であるほど、出現種数が多くなる様子がうかがえる。
 川と森:河川に住む生物の生活は、その流域の森林に大きく左右される。森林はその保水能力によって河川の水量に大きく影響し、また、生物の餌となる有機物の供給源ともなっている。落ち葉などは分解されて水中の養分となり、水生昆虫や微生物の餌になる。そして、水生昆虫は河川に住む魚類の餌となっている。一方、森の草木から水面に落下する陸生昆虫も魚類にとって重要な食物資源になっている。
 また反対に、河川の魚類がシマフクロウなどの森林動物の生息を支え、森林の生物多様性を高めていることも知られている。
 魚種の多様性は、河川の形態にも影響される。河川では、瀬と淵の形状、流速、水温などが上流から下流に向けて連続的に変化し、ある区間においても、早瀬と平瀬、とろ場など多様な環境が形成されている。魚類はそれぞれに適した環境が異なるので、河川形態が多様であればあるほど多くの種類の魚にすみかを与えることになる。



(4) 生物40億年の多様性の歴史

 生物の進化の歴史を振り返ると、気候の変動に伴って多くの種が絶滅した時代があったものの、その歴史を通じて見てみれば、多様化の歴史であったと言える(第2-1-5図)。現在の多様な生物の世界は、途方もなく長い時間をかけて行われてきた生物の進化の累積の結果である。
 地球が生まれた46億年前には、高温の原始大気が地球を覆っていたが、地球が冷えるに従って水蒸気が雨となって降り、次第に海を形成し、また、大気中の二酸化炭素が海に溶け、石灰岩などを沈殿させていった。こうしてできた原始海洋の中で、最近の研究によれば恐らく今から約40億年前に最初の生命が誕生したと考えられている。初期の生物が生まれた時代にはそれ以前の大気の主成分であった二酸化炭素が次第に固定され、窒素を主体とする大気が形成され、また、高温の海洋では様々な化学変化が起こり、生物の材料となるものが作られていったと考えられている。誕生した初期の生物は、無酸素呼吸をしていた。さらに、30億年前頃に光合成をする生物が海中に現れ、二酸化炭素を吸収し、酸素を放出し始めた。この生物の作用によって、酸素は水中から大気へと出ていき、10億年を越える時間を経て次第に大気中の酸素濃度が上昇し、5億年前頃には上空にオゾン(O3)層ができた。
 陸上はそれまで生物を育んできた海とは異なり、太陽光線に含まれる有害な紫外線が降り注ぐ、生物にとっては厳しい環境であったと考えられている。その後、紫外線がオゾン層に吸収されるようになったことや乾燥に耐えられる生物が出現したことなどがきっかけとなり、生物は陸上へと進出できるようになったが、最初に海から陸へ植物が進出したのは、生物の誕生時から比べればずっと後のことである(第2-1-6図)。約4億年前には大陸を森林が覆うようになり、原始的な両生類が初めて陸上に上った。オゾン層の形成のほかにも、豊かな植生は、気候を変え、岩石を分解し、土壌を作るなど生物にとって有利な自然の状態を作り出していったのである。
 こうして、生命の誕生以来、地球の表層は大きく変化してきた。地球生態系では、生物の役割が非常に大きく、生物と環境は相互に作用を及ぼし合い、約40億年の長い時間をかけて互いを大きく変化させてきた。そして、生物自身は、それぞれ異なった環境に適した機能や形態を持つように分化していき、時間の経過と共に分化の程度は加速し、現在では1,000万種以上にも増えてきたのである。



(5) 進化と多様化

 地球上の空間、時間を縦横に利用して、生物たちは生活している。地上・地中・樹上・空中・水中というようにその生活場所は空間的に余すところがない。火山地帯の熱湯の池の中にさえ、バクテリアが繁殖しているのである。また、時間的にも昼行性と夜行性とがあるように、それぞれ時間をずらしながら生活している。一方、食性について言えば、肉食、草食、雑食など様々に分けられる。東アフリカの大地溝帯にあるビクトリア湖に住むシクリッド類という魚類は、唇の厚いものや薄いもの、口の大きいものや小さいもの、様々な特徴的な歯をもつものなど数多くの種類のものがあるが、これはもともと一つの種であったものが、異なる餌を求めるよう分化していった結果と考えられている。
 このように、生物は、他の生物と生活場所や利用する資源、時間等を違えることにより競争を避け、それぞれの生活環境に適合するよう分化してきた。そして、このことが多様性を生み出す結果になってきたのである。さらに、それぞれの生物は互いに有機的に絡み合い、影響を及ぼし合いながら地球の生態系を形づくっている。
 生物の進化は、我々の目には止まっているかのように見える。実際、人間による環境の改変の速さに比べたら、進化の速さは遅々としたものであろう。しかし、生物多様性は、現在の姿が到達点ではなく、おそらくこれからも日々、遺伝的な変化から生態系の変化まで様々なレベルでの変化を伴いながら、全体として今後も移り変わっていくものであると考えられる。

(6) 生物多様性と生態系の回復

 自然は、ある程度破壊されても元どおりに回復する力を持っている。豪雨、突風などによる森林被害が生じ小規模な生態系の撹乱が起こっても、新しい環境に適応できる生物がそこに侵入していき、やがて、もとの環境に似た状態に回帰していく。その回復力の源になっているのは多様な生物たちの力である。
 1883年ジャワ島とスマトラ島の間に位置するクラカタウ島は大噴火し、熱帯雨林の生態系は壊滅した。噴火から9カ月後に行われた調査では、生きた動物として、たった一匹のクモが発見されただけだった。羽のないクモは長く伸ばした糸を気流に乗せ、不毛の島にたどり着いたと考えられる。バクテリアや植物の種子、昆虫、クモ等の微小な生物たちは新しい生息地を見つけるため気流に乗り分散していき、運良く新しい生息地を見つけられたもののみが生き延びていく。ヘビやトカゲは泳いで渡り、また、時には漂流物が筏の役目をして生物たちを運ぶ。こうして四方八方から様々な生き物たちが移住していった。到着後間もなく死に絶えてしまうものがほとんどであったが、森林の成熟に伴い、住み着く種の数も増えていった。流動的な生物相はやがて安定したものへと移行していき、クラカタウは噴火から約一世紀の後に、以前存在したのと外見的には似た生物相を再び作り上げ、多様性もほぼ元に戻った。一部地域の火山噴火程度では生態系は十分回復できる力を持っているのである。
 過去の大規模な絶滅を乗り越えてきたのも生物多様性の力である。一時的に多くの種が絶滅しても新しい環境に適応した種が繁栄し、やがて多様に分化し、再び豊かな生物圏を形成してきた(第2-1-7図)。生物の多様化により、現在の地球生態系は形づくられた。言い換えれば、多様であるということが生物圏としての地球の基盤であるということができよう。
 しかしながら、過去におこった大量絶滅のたびそれから完全な回復までには何千万年もの年月がかかっている。自然は失われたものを回復してくれるが、その回復に要する時間は、現代の人類にとってあまりにも長すぎるのである。

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