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第3節 

2 持続可能な開発の考え方の進展

 人類の存続のためには、地球の資源及び環境が限られていることを前提として持続的に活動が続けられるようにしていかなければならない。その際、現代文明の拡大の基調を維持したままこれらの限界を乗り越えていくことは可能であるかどうかについて考えてみたい。
(1) 資源エネルギー等の利用拡大及び地理的拡大の限界
 現代文明の活動の拡大は地理的拡大のみではなく、技術革新によって可能となった部分も大きい。技術革新は資源多消費を基調とした経済発展を進めただけではなく、資源利用の効率化、省エネルギー、環境汚染防止のためにも大きな貢献をしてきた。これからも技術革新によって限られた資源を効率的に使用したり、環境破壊を抑制していくことが極めて重要である。
 しかし、現代文明の拡大の基調を変えずに技術革新による問題解決に現在直面している環境問題のすべてを委ねられるかどうかは別の問題である。かつて、森林資源の枯渇という壁に直面した西ヨーロッパ文明は、森林が供給する燃料よりはるかに大量に利用可能な化石燃料を利用する技術を獲得することにより、壁を突破した。しかし、現在、森林による太陽エネルギーの蓄積速度と比べて桁違いに速い速度での化石燃料の大量使用は、二酸化炭素の排出に伴うより解決困難な地球温暖化の懸念という新たな問題を招き、また、資源自体の枯渇もやがて現実の問題となろうとしている。
 このような現状に至たらしめた現代の大量生産・大量消費・大量廃棄型の社会経済活動や生活様式の在り方を問い直していく中で、今後は技術革新の役割も自ずと変わってこよう。すなわち生産と消費のパターンを持続可能なものに変えていくという今後の社会経済の基本的な課題の中でこそ、技術革新の意義や有効性も見直されてくるものであり、その方向での適正な技術の開発や振興が今後益々重要性を高めていくであろう。
 それでは、地理的拡大を地球の外にまで行うことにより、地球環境の限界を乗り越えることはできないだろうか。例えば火星に人工的に人類の居住可能な空間を作り、そこに大量に人類を移住させることはどうであろうか。しかし、現在直面している地球環境問題を解決するという観点からは、時間的にも費用的にもこのようなやり方が引き合うものになる可能性は少ないように思われる。その意味では、当面宇宙開発により得た知識や技術を、地球環境の維持のために役立てるという考え方こそが重要となろう。
 このように考えていくと、やはり地球環境の有限性を真正面からとらえ、どのように持続性を維持することが可能かを考える社会に移っていくことが必要なのである。
(2) 持続可能な発展へ向けた国際社会の歩み
 我々の社会ないし文明の地球的規模の限界が見えつつあること、そしてその解決のためには限られた資源及び環境の中で持続可能な活動を行っていく必要があるということについては、1970年代頃から明確な形で論じられるようになってきている。
 そしてその必要性は「持続可能な開発」という言葉を鍵として国際的な合意を得るに至っている。
 問題はその考え方を具体的な合意にし、それを実行していくことである。そのことによって、我々の文明が人類共通の生存基盤である有限な地球環境を将来にわたって維持し、環境の恵沢を将来の世代が享受できるようにしていかなければならない。
 現代の文明のあり方を見直し、我々の生存基盤である環境を守るためのキーワードとなっている「持続可能な開発」の考え方と、これに基づいた国際的な合意の進展に関して要点を振り返ると、まず、1972年にはローマクラブの「成長の限界」が発表された。この報告では「世界人口、工業化、汚染、食料生産及び資源の使用などの点で、現在のような成長が不変のまま続けば今後100年の間に地球上での成長は限界に達するであろう。」との見通しを示し、しかし「こうした成長傾向を改め、遠い将来にまで持続可能な生態的・経済的安定状態を確立することも不可能ではない。」という見解が示された。
 1984年には我が国の提唱に基づき国連の決議によって環境と開発に関する世界委員会が設けられ、1987年には報告書「我ら共有の未来」(OurCommon Future 邦題「地球の未来を守るために」)が公表された。ここでは、「持続的開発」あるいは「持続可能な開発」(SustainableDevelopment)が提唱された。
 同報告書によれば、持続可能な開発(持続的な開発)とは、「将来の世代の欲求を満たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるような開発」であり、「持続可能な開発は生態系を破壊することなく、かつすべての人々にとって妥当な消費水準をめざした価値観をつくり上げて初めて可能となる」ものであるとされている。
 この持続可能な開発の概念は、1992年(平成4年)に開催された環境と開発に関する国連会議(UNCED/地球サミット)に引き継がれ、そこでは持続可能な開発を達成することを目指した行動計画であるアジェンダ21、環境と開発に関するリオ宣言の採択などが、100以上の首脳を含む約180カ国の代表が集まって行われた。
 現在国際社会はアジェンダ21に盛り込まれた幅広い行動課題を着実に実行していくべき過程にあり、そのフォローアップのために設置された「持続可能な開発委員会」(CSD)が国連で毎年開催され、アジェンダ21のフォローアップの中心的な存在となって活動している。
 このように、「持続可能な開発」は現在では環境問題に取り組む上での鍵となる言葉であることは世界的な共通認識になっている。
(3) 持続的な文明、伝統的な文化などからの教訓
 そこで、持続可能な開発の実現に関連して、これまでの文明、あるいは文化の中で比較的長い間環境を損ったことによる衰退もなく存続した文明、伝統的な文化について考えてみよう。
 例えば、エジプト文明は、毎年のナイル川の洪水のために、毎年新たな肥沃な土壤を得ることができ、その範囲で長く農耕を続け、それに支えられる文明を継続することができた。
 昨年の環境白書においては、我が国の江戸時代の社会経済に着目した。江戸では、非常に高いレベルの文明、文化が、国全体は鎖国している中で、当時のロンドンの10倍以上という100万人もの人口をかかえた大都市江戸が、物質の循環を基調とし、自然と人間との共生も維持しつつ、比較的安定的に継続したことを見た。
 また、アイヌの人々の間では、海や川から得られる食物は神からの恵みと考え、クマやキツネなどとも共有すべきものとして、取り尽くさず他の生物の取り分を残しておくという狩猟採取習慣があったと言われている。
 世界の多くの先住民は、社会の規範や慣習の中に、自然の生態系を守りそこからの恵みを得続けることを組み込んでおり、環境上適正かつ持続可能な開発を促進するために有益な価値観、伝統的知識、天然資源管理の技術を有しているといわれる。そのような伝統と経験を持つ先住民の言葉には、地球規模での環境の危機をみずから招き、その解決を目指していかなければならない我々が学ぶべきものが多い。
 環境と開発に関する世界委員会の委員長を務めたノルウェーのブルントラント首相は次のように述べている。
 「伝統文化は人類をその最も古い起源と結び付ける知識と経験のいわば巨大な貯蔵庫である。もし、伝統的な文化が消滅するならば、我々の社会全体にとっての一大損失である。伝統的社会が保ち続けてきた複雑極まりない生態系に対応する技術を学びとる機会を失ってしまうのである。・・・伝統的文化はますます周辺に追いやられている。この事実は人間への配慮、環境への配慮を無視しがちな開発がくり返されて来たことを明示する兆候の一つにほかならない。それゆえに、伝統的文化の利益に対して、いっそう注意深く慎重な配慮を払うか否かによって、持続可能な開発政策が可能か否かが決定されるのである。」
 それでは、先住民族の人々の環境に関する発言を、少し長くなるが、いくつか見てみよう(出典 「先住民族ー地球環境の危機を語る」インタープレスサービス編)。
 北アメリカの先住民族アベナキ族のジョセフ・ブルチャック氏は次のように述べている。
 「北米で暮らす先住民族の生活のあらゆる面を支配していた原理は、何らかの意味での輪の思想、輪の哲学だった・・・先住民族にとって、時は循環して輪をつくるのだった。季節がひとめぐりして輪ができあがった。今年はある場所で苺を摘み取る、あるいはけものを狩るとする。そして次の年にはまたそこへ行って同じことをする。私たちはその場所をきちんとていねいに扱う。枯れた小さな木や枯れた苺の茎を燃やすのである。木や茎が燃えてできた灰が肥料として土地を豊かにし、新しい茎を育ちやすくするためだ。そして同時に、鹿の餌になる草や若い小枝が育つような平地を森の中に確保するためだ。そして同時に、鹿の餌になる新しい草や若い小枝が育つような平地を森の中に確保するためでもある。」
 「ものごとすべてを輪として見よう。輪は生きる方法のことである。つねに未来の七世代のことを考えて生きることである。たえずこう問い続けることである。自分の行動は自分の子供の子供そのまた子供にどんな影響を及ぼすのか。これは私が何度も繰り返し聞かされた教えである。私はこの教えをあなたに伝える。」
 ペルーのケチュア民族のパロミーノ氏はこう言っている。
 「我々ケチュアにとって、宗教とは生活様式であり、知であり、理解力である。自然の力と共に生き、自然と調和して神聖な互恵の関係を結ぶことである。我々インディアンは自然の力のすべてを神として崇める。自然の力を恐れているからではない。自然の力を超自然的な力と見ているからでもない。我々が自然の力の法則の正しさをよく知り、よく理解してきたからである。我々は自然の力、その法則に敬意を払い、自然の力が我々の生活に恩恵を与えてくれることを深く認識している。・・・(中略)・・・われわれ先住民族が望むのは、ただ自然と調和して暮らしたいということだけである。自然の法則と自然の有機的一体性を破壊する行為は、それがたとえ何であれ、我々の社会、そして我々に対する暴力行為でもある。・・・(中略)・・・西側の制度は我々から見れば反自然的かつ利己的であるが、そのような制度の暴威と支配にも関わらず、われわれは霊を守り続けるのである。」
 アフリカのレソト王国のモシュシュ2世(バスト民族レソト)はこういっている。
 「アフリカの文化は環境の何たるかを完全に理解していた。アフリカ人にとって環境とは人間に与えられた住処(すみか)であり、人間が生きる場であり、人間の交流の相手であり、人間の生存がかかっている存在ーこれがアフリカ人が理解する環境であった。人間がどのように暮らしを立てるにせよどのように発展するにせよ環境との調和が不可欠であること、人間と環境とのバランスと平和が人間の生死を決定するものであることをアフリカ人は深く認識していた。」
 これらに共通するのは、人間が自然を利用し、あるいは自然の資源を採取する際には、限られた資源を消耗し尽くさず、損ない尽くさずに自然の生態系の営みを維持しながらこれと共存して持続的に利用する、という抑制の利いた行動様式が社会の習慣ないし規範となっているということであろう。
 しかし、これらの自然と共生する理念を持つ先住民も、かつては自然を非持続的に利用し、損なってきた歴史を持っているという説もある。
 例えば、P.マーチンによればインディアンの先祖は約1万2000年前以後新大陸に登場し、石刃石器を尖頭器として用いた投槍でたちまちのうちにマンモス、マストドン、馬、ラクダなど33種もの大型獣をこの大陸から絶滅させてしまったという。この説によればこのような経験から学習した結果としてインディアンたちは自然と共生する方法を身につけていったものと考えられる。
 今日の現代文明社会は、発達した科学技術や高度の生産力を有し、大量生産を前提としたものとなっており、その点では先住民の社会と大きく異なった状況にある。しかし、発達した科学技術や大量生産の能力を持ち、先住民たちよりははるかに大きな活動範囲を持つ現代文明人も、環境が有限であること、人間といえども生態系の一員であってこれを損なっては生きていけないこと、したがって有限な環境の範囲の中でその環境を持続的な形で利用し発展を続けなければならないこと、といった点では、先住民たちと同じ立場にある。違うのは現代文明においてはその有限の環境が地球全体となったということであるが、このことは各先住民よりさらに一層外の環境を新たに求め難いということであり、持続性の確保が現代においてより一層重要だということになる。そのような意味で、先住民の言葉から現代文明の持続性を確保するための教訓をくみ取っていくことは我々にとって重要なことなのではないだろうか。そして、今日、地球的規模の限界が見えつつあり、問題解決が容易でない状況に見える現代文明も、我々自身の経験や他の文明の過去の経験などから学び、新たな理念に基づいて社会をつくっていくことによって、明るい未来を切り開くことが可能なのではないだろうか。
(4) 現代文明を持続可能なものにするための取組とその考え方
 それでは、高度に発達した科学技術や高い生産力を持った文明の中に今の我々があるということを前提にした上で、持続的な社会をどのような考え方で構築していけばよいのであろうか。
 持続可能性を失おうとしている現代文明の中で、環境を守り持続可能な社会をつくろうとするさまざまの試みが、先進諸国の間でも行われているが、そのうちの最近のものとして、ドイツで昨年7月に成立した循環経済・廃棄物法(閉循環型廃棄物管理法)がある。この法律の理念は「廃棄物処理」ではなく、「完結型物質循環」である。同法の基本哲学は、「廃棄物のことを考える」ということであり、生産、流通、消費を行うすべての者が、基本的にはそれに伴う廃棄物発生の回避、リサイクル、再使用及び環境上適切な処理を行う責務があるとされる。したがって、生産と消費に当たっては、その製品のライフサイクルの最後で何が起こるのかということにも着目すべきことになる。同法を基礎として、自然資源に配慮した経済を推進するために、廃棄物の発生回避を最優先とし、発生回避ができない場合、廃棄物は構成物質またはエネルギーとして再利用されるものとし(再生利用廃棄物)、再生利用もできない場合環境に優しい方法で処理されなければならない(処理廃棄物)、という義務が導入される。
 このような考え方を法制度として取り入れたことは、大量生産、大量消費、大量廃棄型の現代文明を、環境の有限性を意識した持続可能なものに変えていこうという姿勢の現れであるといえるだろう。
 1972年の「成長の限界」の発表の20年後、1992年に発表されたメドウズらの「限界を超えて」は、次のように言っている。
(1) 人間が必要不可欠な資源を消費し、汚染物質を産出する速度は、多くの場合すでに物理的に持続可能な速度を超えてしまった。物質およびエネルギーのフローを大幅に削減しない限り、一人当たりの食料生産量、およびエネルギー消費量、工業生産量は、何十年か後にはもはや制御できないような形で減少するだろう。
(2) しかし、こうした現象も避けられないわけではない。ただし、そのためには二つの変化が要求される。まず、物質の消費や人口を増大させるような政策や慣行を広範囲にわたって改めること。次に原料やエネルギーの利用効率を速やかにかつ大幅に改善することである。
(3) 持続可能な社会は、技術的にも経済的にもまだ実現可能である。持続可能な社会は、絶えず拡大することによって種々の問題を解決しようとする社会よりも、はるかに望ましい社会かもしれない。持続可能な社会へ移行するためには、長期目標と短期目標のバランスを慎重にとる必要がある。また、産出量の多少よりも、十分さや衡平さ、生活の質などを重視しなければならない。それには、生産力や技術以上のもの、つまり、成熟、哀れみの心、知慧といった要素が要求されるだろう。
 同書の中では、例えば技術と市場による漁業の破壊、すなわち、魚を大量に捕獲する技術と、資源の減少をむしろ促進する市場のメカニズムが、魚の過剰採取を招き、漁業自体を危機に追い詰めている事例が紹介されている。生態系の仕組や自然の循環を損なわずに持続的な利用を目指すべきだという考え方は、現代の我々の方向として必要なものであると言えるだろう。
 平成5年11月に、地球環境時代の新たな我が国の環境政策の理念を定めた環境基本法が成立した。その理念を計画という形で具体化した環境基本計画が昨年12月に閣議決定された。この計画では「循環を基調とする経済社会システムの実現」、「自然と人間との共生」、「環境保全に関する行動に参加する社会の実現」及び「国際的取組の推進」を4つの目標とし、それを通じて持続的発展が可能な社会をつくることを目指すこととなった。「持続可能な開発」をより具体的な4つの目標に表し、その下に施策を展開することとしたものである。
 この「循環」や「共生」を目指すという考え方は、人類の社会経済活動が、持続可能なものから次第に離れていったこれまでの反省の下に、地球生態系の一員としての言わば基本にたち戻ったものといえるだろう。また、「参加」及び「国際的取組」は、いずれも経済社会システムとしての現代文明を持続可能なものに変えていく上での欠かせないポイントを押さえたものと言えるだろう。

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