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第1節 

2 戦前における我が国の環境対策

 日本においても、明治維新を迎え、政府の殖産興業の積極的な政策もあり、近代的な製造技術が導入されていった。これに伴い、明治10年代には、工場周辺のばい煙、悪臭被害が発生しはじめた。また、山間部の鉱山や精錬所の周辺でも排水や排ガスによる被害が生じた。この時期において大きな被害を生じた事例としては、鉱山や精錬による被害、足尾銅山、別子銅山のような問題があった。これらの問題への対応についてみると、別子銅山については、銅鉱の焙焼、精錬によって生じる亜硫酸ガスにより付近の農作物に被害が生じたことをきっかけとして、農民が精錬所に押し寄せるという騒ぎとなり、国の調査でも被害が確認された。これらの動きを受けて、工場が移転することとなったが、それでも被害が納まらず、知事のあっせんにより被害補償の協定が締結されることとなった。最終的に中和施設の建設により被害が減少したが、被害の発生から最終的な対策まで、実に46年を要している。また、足尾銅山の事例についてみると、鉱山の排水、鉱滓により下流の魚介類や農作物に被害が生じるようになり、被害者と原因者の間に被害補償や対策に関する示談が結ばれたり、政府により対策の命令が出されたが、なお対策が不十分で根本的な解決がなされず、被害地住民の強制的な移転という結末を迎えた。このように、初期の公害問題に対しては、一部例外的に明治44年に制定された「工場法」のように公害防止に係る内容を含む制度もみられたものの、法制度の枠組みを作るという対応ではなく個別の問題としての対応がなされた。まだ、その対応も、実際の被害の発生があり、被害者の強い訴えがあって初めてなされるという面があり、後追い型の対応にとどまっていた。このため、公害による被害を受けた者は、泣き寝入りに甘んじるか、直接、汚染者と交渉するか、政府に指導、あっせん等を要請するか、あるいは損害賠償について訴訟に訴えるという手段しかとることができなかったのである。

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