課題名

B−57 海水中微量元素である鉄濃度調節による海洋二酸化炭素吸収機能の強 化と海洋生態系への影響に関する研究

課題代表者名

津田 敦(東京大学海洋研究所 海洋生態系動態部門、浮遊生物分野)

研究期間

平成13−15年度

合計予算額

133,719千円(うち15年度 43,344千円)

研究体制

(1)鉄濃度調節が海洋生物に及ぼす影響に関する研究

(東京大学、独立行政法人水産総合研究センター北海道区水産研究所、京都大学)

(2)鉄濃度調節が植物生理・生産に及ぼす影響に関する研究

(独立行政法人水産総合研究センター東北区水産研究所、北海道大学)

(3)鉄濃度調節が炭素循環に及ぼす影響に関する研究

(国立環境研究所、東京大学)

研究概要

1.序(研究背景等)

 1997年の京都議定書の採択を受け、大気中の二酸化炭素濃度上昇を抑制するための具体的な政策
が求められるようになった。排出規制、排出権取引、二酸化炭素海洋投棄などの方策が考えられて
いるが、海洋生物による二酸化炭素固定量を制限する微量元素の鉄濃度を調節することによって、
大気から海洋への二酸化炭素吸収機能を強化させる技術が、効果・コストの面から有力な選択肢の
一つとなっている。生物地球工学としての大規模な鉄濃度調節には、二酸化炭素の吸収や付随して
期待されている魚類生産の増加といった正の側面と、底生生物やプランクトン群集に対する人為的
関与といった未知または負の側面を有している。そこで、鉄不足によって生物による二酸化炭素固
定の抑制が顕著な亜寒帯太平洋において、中規模(1002以下)の鉄濃度調節実験を東西2海域で
行い、生態系への影響を明らかにするとともに、二酸化炭素吸収機能強化手法としての鉄濃度調節
操作の評価を行う。この研究は、現在人類が直面している最も重大な地球環境問題のひとつである
地球温暖化に対し、正確にかつ安全に対処するために必要な精度の高い科学的知見を、政策決定者
に対して提供する上で緊急性が極めて高い課題である。さらに本研究計画は、2000年つくばでの
PICES(北太平洋の海洋科学に関する政府間機構)―IFEP(鉄濃度調節に関するパネル)で提案さ
れた実行概要に基づいている。この提言では、西部亜寒帯太平洋における日本主体の鉄濃度調節実
験、東部亜寒帯太平洋におけるカナダ主体の実験が推奨されている。本研究はIFEPを主な舞台に、
情報・意見交換、調査船の相互利用、研究資源の有効利用が緊密に図られている。またカナダ側プ
ロジェクトはIGBP―SOLAS(海洋表層−大気下層の相互作用に関する研究)の一部として計画されて
おり、本実験も14年から日本におけるSOLAS関連研究として位置付けられた。

2.研究目的

 本研究以前には、赤道域で2回、南極海で2回の鉄濃度調節実験が行われているが、本研究は北太
平洋では最初の実験になった(図1)。そのため外洋域における現場鉄濃度調節技術の確立、調節
水塊の追跡・観測技術の確立がHl3年度の第一の課題となった。具体的には鉄溶液の溶解、マーカ
ー物質溶液との混合、散布の技術、およびマーカー物質とした不活性気体SF6(六フッ化イオウ)の
連続測定技術である。さらに生物・化学的応答として、植物・動物プランクトンの応答、炭素物質
の挙動などを明らかにする観測技術の確立が続く。
 プロジェクトの期間を通した目的は鉄濃度調節に対する生物・化学的応答を、太平洋の東西で比
較することがあるが、H14年度は東部亜寒帯太平洋を代表する点で実験を行い、水塊追跡技術、生
物・化学的応答の観測手法の高度化をはかり、東部亜寒帯太平洋の鉄濃度調節に対する生物・化学
的応答を明らかにし、西部亜寒帯太平洋と比較することを目的とした。ここで評価すべき応答とは、
第一に鉄濃度調節が二酸化炭素吸収加速技術として効果があるかどうかの検証、および魚類など高
次栄養段階生物まで含む海洋生態系への影響を明らかにすることである。さらにカナダ、日本をは
じめとする6力国の研究者が参加した地球環境に関する国際共同研究において、実質的な貢献をす
ることも大きな目的のひとつである。

3.研究の内容・成果

(1)鉄濃度調節が海洋生物に及ぼす影響に関する研究
 2001年6月28−8月6日に水産庁調査船開洋丸を用いて、鉄濃度調節および生物の応答調査を行っ
た。鉄濃度調節に先立ち調査海域の事前調査を行い、当海域が鉄濃度、クロロフィル濃度が低く、
栄養塩濃度が高い海域であることが確かめられた。そこで、北緯48度30分、東経164度50分におい
て、8x10km四方に鉄(硫酸鉄溶液)を散布した。散布には、本プロジェクトで開発した鉄・SF6溶解・
混合・散布装置および、ブイを基準点として海流を補正するためのソフトウェアを使用し行った。
散布は7月18−19日の23時間をかけて行われ、海流補正ソフトも正常に作動し、理想的な航跡で鉄
濃度調節域を作り出すことに成功した。添加量は4nMとごく微量であり、25mプールに耳掻き一杯程
度の添加である。鉄添加後は、調節域を追跡しながら、生物・化学的応答を2週間にわたり観測した。
観測は、表面連続採水による調節域の形や位置を決めるプロペラサーベイと調節域の内外で停船観
測し多くのパラメータを測定するIn-Out観測の繰り返し、および最終日に行ったトロール漁獲調査
から成り立っている。調節域は海流により西に流され2週間で約100km移動したが、マーカー物質
であるSF6の連続測定により調節域を追いかけることが出来た。SF6濃度は大気への放出および拡散
で濃度が減少したが、2週間の観測期間では、本プロジェクトで開発した連続測定装置の検出限界
より高い濃度にとどまった。また添加した鉄濃度も減少し二週間後では、周辺海域の3倍程度の濃
度になった、植物プランクトンは4−9日目に大きく増加した(詳細はSG2報告)。動物プランク
トンとしてはカイアシ類Neocalanus plumchrus,Eucalanus bungiiが優占し、植物プランクトンに対す
る摂餌率は4−15倍程度増加したが、鉛直分布や移動に関して、有意な変化は認められなかった。
しかし、優先する2種の初期幼生現存量が実験後半で5−6倍増加した。これは増えた植物プラン
クトンを摂食することによって産卵速度が増加したため、および、本来これら生物の卵や初期幼生
を摂食していた雑食性プランクトンが大型藻類の増加により、卵や初期幼生に対する相対的な摂餌
率が低下したためと考えられる。この事実は、海洋鉄濃度調節が広域・長期間続けられた場合、動
物プランクトンは初期死亡率が低下するため、少なくとも一時的には増加することが予測され、こ
れら動物を摂餌する高次生物にも大きな影響を与えることが示唆された。
 Hl4年度は2002年7−8月にカナダSOLASグループとの共同研究により東部亜寒帯太平洋において
鉄濃度調節実験を実施し、3船でSEEDSの2倍の観測期間となる計26日間の観測を実施した(実験名
SERIES)。日本側は水産庁調査船開洋丸を用いて鉄濃度調節から15−26目目を観測し、15−21日目
はサーベイ能力を持たないメキシコ船の眼として鉄濃度調節パッチの追跡と観測の継続に寄与し
た。観測計画、パッチ探査パターンの効率化、探査における時間分解能の向上、パッチ移動の予測
能力の向上などにより、SEEDSよりはるかに高い精度の鉄濃度調整域の探査ができた。また、高い
探査サーベイ能力は開洋丸観測期間中、一日だけ晴れ間に恵まれ、衛星により鉄濃度調節域が観測
され実証された(図2)。2002年実験では、2001年実験とは異なり、植物プランクトンブルームの
ピークは2週間後に観察され、我々の観測終了時には植物プランクトン濃度はピーク時の1/4以下
になった。すなわち鉄濃度調節実験では初めてブルームの消滅期を観測したといえる。また、ブル
―ムの主体は西部の実験と同様で珪藻であったが、西部ではChaetoderos debilisという中心目珪藻で
あったのに対して、東部では羽状目珪藻Pseudonitzschia spp.など複数種が増加した。もう一つの特
徴としては、ブルームのピークは珪藻で構成されていたが、ブルームの前にDMS(硫化ジメチル)
が放出されたことがカナダ側研究者によって観測され、同時期に円石藻が卓越していたことが解っ
た。さらに珪藻ブルーム衰退期には周辺海域に比べ有意にDMS濃度は低くなり26日間の収支では鉄
濃度調整はDMS分解を促進することが明らかとなった。動物プランクトンではカイアシ類Eucalanus
bungii,Calanus pacificusが優占し、西部の実験と同様に植物に対する摂餌率が4-7倍、植物の増殖に
同期して高くなった。さらに観測を開始した鉄濃度調節から2週間目では差が明らかではないが終
期には濃度調節域で表層に生息するカイアシ類の成長が周囲に比べて早いことが明らかとなり、鉄
濃度調節が動物プランクトンに対して成長促進効果をもたらすことが始めて明らかとなった。



(2)鉄濃度調節が植物生理・生産に及ぼす影響に関する研究
 2001年夏季に北太平洋亜寒帯域西部のHNLC(高栄養塩低クロロフィル)海域において、鉄濃度調
節実験を行なった。鉄濃度調節後2日目(D2)から、植物プランクトンの光合成活性の指標である
光化学反応中心IIの量子収率の上昇が見られ、また、ピコ植物プランクトン増殖速度が上昇した。
D6からはクロロフィルa濃度の増加が確認され、D9に以降は16.5mg m-3に達して、その後は安定し
た。このクロロフィルa濃度の上昇は、過去に南極海や赤道湧昇域で行なわれた同様の実験では4mg
m-3以下だったことに比較して顕著であった。鉄濃度調節により、ほとんどすべての光合成色素の
増加が見られたが、最も著しかったのは珪藻の指標色素であるfucoxanthinで、D4以降顕著に増加し
て、鉄濃度調節前の90倍に増加した。この珪藻の中で、最も顕著な増加を示したのは、鉄濃度調節
以前にはごく低い密度でしか存在しなかった、中心目珪藻のChaetoderos debilisであり、最大増殖速
度は2.9分裂d-1に達した。その結果、C.debilisは植物プランクトン群集中で最も優占した。基礎生
産もクロロフィルa増加に伴って増加し、それと同時に海水中の二酸化炭素分圧も低下したことか
ら、生物による二酸化炭素とり込みが、鉄濃度調節によって促進させることができることを活発に
なったことが確認された。植物プランクトンの増加にともない、その主な捕食者である微小動物プ
ランクトンの捕食圧も増加したが、微小動物プランクトンの捕食圧の増加には、時間差がみられた
め、植物プランクトンの増加が可能となった。本研究によって、北太平洋亜寒帯域西部のHNLC海域
では、鉄制限が植物プランクトンの成長を制限していることが明らかになると共に、この海域の生
態系が他のHNLC海域に比べて鉄濃度上昇に最も敏感に反応して、短期間に多くの二酸化炭素を取り
こむことが明らかとなった。
 2002年夏季にはカナダと共同で北太平洋亜寒帯域東部のHNLC海域において鉄濃度調節実験を行
い、Hl3年度に行なった西部亜寒帯太平洋における結果と比較し、鉄濃度調節が植物プランクトン
の生理・生産に与える影響について生態系による応答の違いを調べた。観測は3隻の調査船により
鉄濃度調節後26日間に亘って行なった。鉄や窒素栄養塩欠乏によって低下する植物プランクトンの
光化学反応系IIの量子収率(Fv/Fm)は、鉄濃度調節前には0.2程度であった。硝酸塩は十分にあっ
たことから、植物プランクトンが強い鉄ストレス状態にあることがわかる。Fv/Fmは鉄濃度調節後2
日目から上昇し、3日目以降は0.3-0.4を示して鉄ストレスが緩和された。鉄ストレスの緩和と共に
植物プランクトンは増加し、鉄濃度調節後16-18日後には最大となった。培養実験による窒素栄養
塩取り込み速度測定によって、鉄濃度調節はアンモニア態窒素や尿酸態窒素の取り込み速度を2倍
程度に増加させるが、硝酸態窒素のそれは10倍以上になることが明らかになった。すなわち鉄濃度
増加は、植物プランクトンの硝酸還元酵素、亜硝酸還元酵素等、硝酸利用に必要な機能を活性化し、
また光合成の量子収率を高めるため、冬季の鉛直混合等によって表層に供給される硝酸塩を利用し
た増殖が可能となることが明らかになった。一方、鉄濃度調節後17日後には、溶存態鉄濃度は対象
区と同様の0.1nM以下にまで減少した。これ以降Fv/Fmは低下し、実験終了時には0.10-0.15と実験
開始前よりも低下して、植物プランクトンが非常に強い鉄ストレス状態となった(図3)。硝酸塩
取り込み速度と基礎生産速度も低下し、植物プランクトン生物量は徐々に減少した。この時期、硝
酸塩やアンモニア塩は枯渇していなかったことから、鉄の再欠乏が残存する窒素栄養塩の利用を制
限していたことが明らかになった。以上の結果より亜寒帯太平洋のHNLC海域では、東西両海域にお
いて微量の鉄添加が、植物プランクトンの生理状態を改善し、増殖を活性化し、その結果炭素固定
量、栄養塩消費量を増加させる効果があることを立証した。また、冬季の鉛直混合等によってHNLC
海域に供給される窒素栄養塩を有効に利用して二酸化炭素をより効率よく吸収させるためには、2
週間から1ヶ月程度に亘る継続的なもしくは数次に亘る鉄濃度調節の必要性が示唆された。



(3)鉄濃度調節が炭素循環に及ぼす影響に関する研究

 本サブテーマでは、2001年の鉄濃度調節実験で沈降粒子および海水カラム中の各態の炭素
の測定を行い、得られた結果から炭素の収支を推定した。開洋丸の研究用海水ラインに、国
立環境研が開発したタンデム平衡器を用いた二酸化炭素分圧(pCO2)測定装置を取り付けた。
pCO2現在値が常時監視できるシステムであり、パッチサーベイに極めて有用であった。海水
カラム中の全炭酸、粒子状炭素、溶存有機炭素などは、調節域中心点と調節域外のレファレ
ンス点での各層採水試料を分析した。
  鉄濃度調節域(パッチ)の観測では、調節域を数方向から横断しながら連続測定するプ
ロペラサーベイでその形状を把握した。調節前のpCO2最大最小値の差は17matm程度であった
のに対し、5日目から表層pCO2が低下を始め、6日目のプロペラサーベイでは、明瞭に周辺域
とpCO2差が確認されるようになった。パッチ内のpCO2変動は、連続測定した植物プランクト
ン蛍光とよく対応した。11目目に226matmまでpCO2は低下した。一方、パッチ外のDICは±10
matmの変動で一定であったが、パッチ内では植物プランクトンの同化による大きな濃度低下
が見られた。その低下は14日目の開洋丸の海域撤退まで続いた。アルカリ度に有意な変動は
なく、炭酸殻生成が活発でなかったことが推定された。これらの結果と、海水中の粒子状有
機炭素(POC)、粒子の沈降フラックスなどを用いて、実験期間の炭素収支を推定した。
  炭酸系成分の応答がまだなかった4日目を起点とし、13日目までの9日間にわたり、表層
20mについて全炭酸を積算した(1.23mol m-2の全炭酸固定)。期間中の大気からのCO2供給
推定値は0.07mol m-2であった。その和の1.30mol m-2が、植物プランクトンが同化した炭素
量であると、無機炭素測定からは推定された。一方、各層採水試料の分析で得た粒子状炭素
(POC)の実験期間中増分、溶存有機炭素の実験期間中増分、ドリフティングセディメントトラ
ップから概略推定した有機炭素鉛直フラックス(主として動物の糞粒)の3者から、有機炭
素の固定量を求めたところ、1.25mol m-2とほぼ収支があう結果となった。すなわち、鉄濃
度調節実験期聞の13日間には沈降フラックスのわずかな増加が認められたものの、海水カラ
ム中の粒子状炭素の増分が圧倒的に大きく、固定された二酸化炭素のほとんどが粒子状炭素
(植物・動物プランクトン)として混合層内に留まっていることが明らかとなった。したが
って、鉄濃度調節の二酸化炭素固定としての有効性は、より長期の実験期問にわたる追跡が
必要であることが明らかになった。
 2002年夏にアラスカ湾海域(SERIES)で、実際の海域で鉄濃度を高める実験を行った。対
策効果評価のためには、植物プランクトンの増殖に伴う沈降粒子量変化を求めることが必須
であり、漂流セディメントトラップ実験を中心とする実測を行った。SERIES実験はカナダと
の共同実験であり、前半がカナダ研究船、後半が水産庁開洋丸で観測分担した。沈降粒子量
測定は、ナウアー型のドリフティングセディメントトラップを用いて、鉄濃度調節海域内外
で行った。SERIESでは、捕集トラップ深度を50,75,100,125mとした。各深度に8連の捕集
器を取り付け、2日から4日の期間、鉄濃度調節パッチ内を漂流させ、揚収して試料回収し
た。パッチ外のレファレンス点でも同様に2日から4日の漂流で、鉄濃度調節の影響のない
状態での沈降粒子捕集を行った。試料は、国立環境研究所とカナダ海洋研究所で分担して、
有機・無機炭素、生物起源珪素、生元素類、炭素・窒素同位体比などの化学分析を行った。
 実験では、鉄濃度調節8日後の7月16日に、表層のクロロフィル濃度が2μgL-1を越え、確実な
植物プランクトン増殖が認められた。その後、鉄濃度調節16日後の7月24日頃に植物プランクトン
量は最大値を示したが、濃度調節23日後の7月31日以前は、パッチ内外の沈降粒子量の差がほとん
どなかった。表層の植物プランクトン濃度が最大値を示した日以降は、植物量は次第に減少し、凝
集して、沈降してゆく状況が、亜表層のクロロフィル濃度、粒子状珪素濃度で見出された。しかし
ながら、捕集トラップのある50m深度面に到達するには時間のずれがあり、7月31日から顕著に増
大し、観測最終期の8月2日以降に極めて大きくなった(図4)。この最終期粒子沈降量は、観測
終了後3日程度継続したと考えられ、表層での無機炭素固定量の約50%が沈降して50m面に到達し
たと推定された。これは、粒子の沈降前に観測を終了せざるを得なかった2001年の北西太平洋での
実験時の沈降率より大きな値であったが、それでも水柱での有機炭素の分解(固定量と沈降量の差
である約50%と推測された)の寄与が大きいことが示された。
 2001年のSEEDSにおいては、鉄濃度調節以降の植物プランクトン増殖がその他の海域での鉄
濃度調節実験より短期間で起こった。濃度調節から早い時期の増殖のため、鉄濃度制限のな
い状態で珪藻が生育し、初期の珪酸/硝酸の消費比が小さく珪酸殻生成の割に大きい炭素固定
が認められ、最終的に、硝酸・珪酸が枯渇する前に、植物プランクトン量増加が停止した。
しかし、今回の東部亜寒帯太平洋の実験では、珪藻増殖に時間がかかり、鉄濃度調節パッチ
全体の珪酸/硝酸の消費比が約2.7という大きな値となった。そのため、SEEDSの1/3の植物
量の段階で、珪藻が増加しなくなった。これまでは、植物プランクトンの生育を抑えている
最も強い制限である鉄を加えて、主要栄養塩を消費しつくすとして、鉄濃度調節の最大効果
を考えていた。しかしながら、東部亜寒帯北太平洋のような海域では、高い珪酸/硝酸消費比
で珪藻が増殖すると、硝酸を使いつくす前の段階で、珪酸制限になりうることが示され、鉄
濃度調節の効果を考えるための新しい知見となった。




4.考察

4―^ヾ帯太平洋2海域における実験の成功と東西の差
 2001年SEEDSおよび2002年SERIESは、亜寒帯太平洋では初めての鉄濃度調節実験であったが、
SEEDSでは日本の独力で、SERIESでは多国間の共同研究により、大きな成功を収めた。両実験にお
いても、鉄濃度調節海域の形成、継続的な観測を支障なくこなし、国際的にも高い評価を得た。特
にSERIESにおいては、国籍の異なる3船が洋上で協力し、26日間という実験当時としてはもっとも長
い観測期間を実現した意義は大きい。
 2つの実験が成功したことによって、東西の鉄供給に対する生物化学的応答の差も明らかになっ
た。特に西部海域は他の鉄濃度調節実験に比べて、非常に速くて大きい応答を示したことは特筆さ
れよう(図5)。他海域では鉄の供給は複数回行っているが、西部北太平洋では1回の供給で他海域
の10倍程度の植物プランクトン濃度を実現し、それに伴う二酸化炭素の吸収、栄養塩の消費も大き
くなった。また植物プランクトンの種組成の変化も顕著であった。東部北太平洋を含む他海域では、
外洋域で一般的に優先する羽状目珪藻が鉄濃度調節に伴い増加したが、西部北太平洋においては、
添加前は羽状目珪藻が卓越していたにもかかわらず、鉄濃度調節に伴い中心目珪藻が卓越するにい
たった。さらに気候へのフィードバック作用が注目されている生物が生産する気体であるDMSが東
部北太平洋では鉄濃度調節に応じて放出、衰退期には分解されたのに対し、西部では予備的な観測
ではあるが、有意に放出されていない点も注目すべき特徴である。これらの応答の差は、自然状態
において、東部や他の実験海域に比べ西部北太平洋においては大陸起源の鉄供給(大気経由または
陸棚からの供給)が大きいことが最も重要な原因と考えられる。




 4―二酸化炭素吸収技術としての鉄濃度調節の有効性評価
 SEEDSにおいては、植物の増殖が著しく、350kgの鉄の添加に対して概算で570tの炭素を植物プ
ランクトンが固定し、この量はおよそ30mの樹木630本分に相当する。2週間でこれだけの炭素を固
定したことは、鉄濃度調節が二酸化炭素吸収技術として高い潜在力を持つことは示せた。SERIESに
おいても、時間は長くかかったが同等量の炭素を固定したと考えられる。しかし、鉄濃度調節が大
気中二酸化炭素の削減につながるためには、固定された炭素(有機物)が深層に沈まなければなら
ない。この観点からはSEEDSは観測期間が短く、観測終了時にはまだ80%程度が表層に植物プラン
クトン態でとどまっていた。SERIESは観測期間が26日間で、鉄濃度調節実験では初めて沈降粒子の
増加を観測したが、それでも沈降プロセスが終了するにはいたらず、推定で固定した炭素の最大で
40%が深層に移動すると予測された。この見積もりは鉄濃度調節実験では初めて導かれた値であ
り、今後の世界的な議論に大きな影響を及ぼすと考えられる。

 4―E看仕拂汗瓩及ぼす海洋生態系への影響
 両海域において鉄濃度調節に対して最も顕著な応答を示したのは植物プランクトンである。珪藻
以外の植物プランクトンで顕著な増殖応答を示したのは円石藻(東部)と2μ以下の真核植物プラン
クトン(西部)であるが、これらの生物の増殖は比較的短時間に終息し、珪藻の増殖期を迎えた。
珪藻の増殖は、南極海や赤道湧昇域の実験でも認められている現象であるが種組成の変化を克明に
追跡した実験は今回が始めてである。特に西部で行われた実験(SEEDS)では、非優占種であった沿
岸性種Chaetoceros debilisが卓越し、顕著な増殖を示した他の珪藻も沿岸性種であったことは、生態
的応答の面からも、鉄濃度調節の技術的な側面からも意義は大きい。動物プランクトン(カイアシ
類など)においては植物プランクトンで観察されたような顕著な種組成の変化や生物量の増加は認
められなかった。しかし、植物の増加に伴い植物プランクトンに対する摂餌速度は増加し、西部で
はカイアシ類幼生の生残率を上げ、東部においては成長速度が高くなることが明らかとなった。こ
れらの応答は海域の差と言うよりは、西部の実験は幼生放出期に行われたこと、東部の実験は西部
に比べ長期間観測したことによって明らかとなったと考えられ、カイアシ類などの植食性動物プラ
ンクトンの、生育環境は好転したとを示唆する。しかし、これらの動物プランクトンは1年の季節
的生活周期を維持して個体群を維持しており、より大規模な鉄濃度調節を行った場合は、ある特定
種にとっては有利でも、致命的なダメージをこうむる種もあると考えられる。植物プランクトンの
生産を支える栄養塩類は、通常では両海域とも枯渇することはない。鉄濃度調節によって、東部で
は珪素の枯渇が観察され、この減少は自然状況では非常に稀にしか観察されない現象である。従っ
て鉄濃度調節によって出現する特殊な栄養塩環境は自然サイクルに大きな影響を与えると考えら
れる。さらに西部の実験では従属栄養性の渦鞭毛藻類が珪藻の増殖に伴って増加し、推定では数日
以内に全ての珪藻生物量を消費しつくしたと考えられる。従属栄養性渦鞭毛藻類の顕著な増加は他
の実験では観察されていない現象であり、これら生物による捕食は固定された有機物の二酸化炭素
への再循環を示唆するので、炭素収支にも大きな影響を与える。SEEDSでは観測期間が短かったた
め、従属栄養性の渦鞭毛藻類の動態や物質収支は明らかではないが今後の大きなテーマと考えられ
る。

 4―ず8紊硫歛
 植物プランクトンによって固定された炭素の50%が深層に輸送されたことは50%が表層で再分
解されたことを示唆する。この分解を示唆する、アンモニア態窒素の表層における増加も観測され
ている。この比率は植物プランクトンの成長速度や現場水温で大きく変化することが予想され、植
物プランクトンの沈降量の増加が確認されなかった西部北太平洋や南極海では大きく変わると考
えられる。したがって、鉄濃度調節によって固定された炭素の行方を明らかにするために、より長
期の実験を実現させることが必要である。また、現在の生態系数値モデルでは観察した植物プラン
クトンの沈降は再現されず、今後、長期の実験が実質的に困難な南極海などを想定した数値モデル
の沈降にかかわる改良も大きな課題である。また、両実験においては高次生物(魚類など)の応答
はほとんど検出できなかったが、生活史周期の長いこれらの生物への影響は数値実験などを通して
検討すべきである。さらに予備的な観測で終わった気候作用気体であるDMSの挙動、中深層貧酸素
水塊の形成、より強力な温暖化ガスの発生の可能性の解明などが今後の大きな課題である。


5.研究者略歴

課題代表者:津田 敦
       1958年生まれ、北海道大学水産学部卒業、農学博士、
       水産総合研究センター北海道区水産研究所生物環境研究室室長、
       現在、東京大学海洋研究所浮遊生物分野助教授
        主要論文:Boyd et al.Nature,428,549-553.
        Nishioka,et al.: Geophysical Research Letter,300:958-961(2003)
        Tsuda et al.: Science,300,958-961(2003)

主要参画研究者
(1):津田 敦(同上)
(2) 齊藤宏明
       1963生まれ、東北大学農学部卒業、農学博士、
       現在、水産総合研究センター東北区水産研究所生物環境研究室室長
        主要論文:Saito, H. and A. Tsuda: Progr.Oceanogr.,57:251-263(2003)
        Saito,H., A. Tsuda, H. Kasai: Deep-Sea Res.II,49,5463-5486(2002)
        Saito,H. and A.Tsuda: Deep-Sea Res., 47:2141-2158(2000)

  ◆野尻幸宏
       1956生まれ、東京大学理学部化学科卒業、理学博士
       現在、国立環境研究所地球温暖化研究プロジェクト炭素循環研究チーム
       総合研究官
        主要論文:Yokouchi,Y.,Y.Nojiri,L.A.Barrie,D.Toom-Sauntry,T.Machida,Y.lnuzuka,
         H.Akimoto,H.-J.Li,Y.Fujinuma and S.Aoki,Nature,403,295-298(2000).
         Murphy,P.P,Y.Nojiri,Y.Fujinuma,C.S.Wong,J.Zeng,T.Kimoto and H.Kimoto,J.
         Atmos.Ocean.Technol.,18,1719-1734(2001).
         Zeng,J.,Y.Nojiri,P.P.Murphy,C.S.Wong,and Y.Fujinuma,Deep Sea Res.II,49,
         5303-5315(2002).