報道発表資料本文

(別紙)

加藤登紀子さん所感


タイ

陸の上に船が・・・

 8月31日午後9時、タイ、プーケット空港に着く。
 去年12月26日の津波から8ヶ月、たくさんの犠牲者を出したいくつかの街を訪ねる今回の旅、最初の目的地は、このプーケット空港から北へサラシン橋を渡り、タイで一番たくさんの死者不明者5957人を出したパンガー県だ。
 真っ暗な海沿いの道を北へ90キロ。カオラックのアンダブリ・リゾートに向かう。
 左側は、津波を運んだアンダマン海。道はこの海岸線から着かず離れずの距離を走っている。海からの距離が遠く2キロの道路にも、波は押し寄せたそうだ。
 道の両側は完全な被災地。だが今は、真っ暗で、ただ濃い緑の中を走る。
 9月1日朝、雨季といってもぎらりと太陽が照りつける中をさらに北へ、タプタワンという小さな集落へ向かう。
 パンガーの北にはミャンマーが接しているため、ここらあたりには、出稼ぎに来ているミャンマー人が多いらしく、ビザや労働許可証が元々ないか津波でなくしてしまったため、津波の後、強制送還されたり、援助が届かなかったりという混乱があったようだ。
 写真1は、ナムケムのターンナム・ジャイという道路際に打ち上げられた漁船。シーサムットという船の名前が見える。すぐ横の家の人の話によれば、500メートルも離れた海岸から、船の向こう側の道路を越えて打ち上げられたそうだ。
 乗っていたのは7人のミャンマー人労働者。死傷者はなかったという。
 今は、道路も電信柱も新しくなり、このおばさんの家も新築だ。でも、地形がすっかり変わってしまったらしく、いくら説明を聞いてももとの情景がわからない。

家を造り、村を創る。

 車窓のむこうに、新しい高床式の家が急に見えて来て、びっくりしていると、もうそこがタプタワン村だった。
 むかえてくれたのはノーンさん(本名スティポーン・ゴントーン)。
 この人が、家の設計から、村のコミュニティづくりまでをひっぱっている、村の再生のNGO活動家だ。
 地上から1メートルはコンクリートの土台、その上にのった、竹を編んだ外壁や手すりの可愛い家。床高を上げたのは津波の教訓から、一軒ずつに大きなコンクリートの水がめを置いたのは、雨水の利用のため。彼らなりにエコハウスを目指している。
 集落のあちこちに豚が遊び、にわとりが遊んでいる。その奥に材木を加工する作業小屋があり、若い人たちが働いていた。(写真2
 みんな専門の大工ではないが、ここではじめて作業を覚え、家づくりのスタッフとして働いているのだ。
 女の子たちは、屋台のようなカフェを出したり、小さなコミュニティ放送局をやったりしている。
 そしておばちゃんたちは、共同炊事場で料理をしながらの井戸端会議。
 にぎやかな笑い声の中に入っていくと、一人が厚揚げ豆腐をいためていた。「日本とそっくりの料理風景だわね!!」と私。
 床に座って作業していた一人の女性は、津波で13才の娘を亡くしたという。浜で仕事をしていた娘の遺体は今も見つかっていない。彼女はまだ33才。生き残った8歳の息子と夫と3人、このコミュニティの一員として生き抜いている。
 子供たちが共同生活している児童館で歓迎の大演芸会が開かれ、子供たちは、タイの民族衣装に身をかため、中部や南部の伝統音楽に合わせてダンスを披露してくれた。
 この子供たちの指導者は津波の後にタイで結成されたSAN(セイブ・アンダマン・ネットワーク)の一員。日本からはJVC(日本国際ボランティアセンター)がこのネットワークに加わり支援している。
 家をつくる工具の一部は、このJVCから送られたものだ。
 津波直後には、世界中からの支援が寄せられ、援助物資も送られた。タイ政府の対応も早くて、伝染病がはやったり、生活出来ない人が放置されるようなこともなく、大きな混乱はなかったようだ。
 けれど、これからの生活再建が大きな課題。
 仮設住宅ではなく恒久住宅を作り、村を再生しなくてはならない。幸い、被災した漁民たちの中に漁民組合のようなものがあって、比較的まとまりがあるのだそうだ。
 短い時間の訪問では、くわしい話が聞けなかったけれど、若者たちの表情からは、再出発のよろこびのようなものが感じられた。
 人々のこのやわらかさ、あたたかさ。大きな苦難をともにしていることのオーラのようなものがこの村をつつんでいるのを感じた。

手で紡ぐ暮らし

 ナムケムから陸に5キロほど入った丘の上に、バンムアン仮設住宅がある。
 SANは、ここでも支援活動を行なっている。
 300軒の住宅。今は住む人がもう200軒くらいになったそうだ。少しずつ自立してここを出て行ける人が出てきた結果だ。けれどまだまだ将来の見込みが立たない人にとっては、ここでどう過ごすかが鍵だろう。
 ここをたずねてくる私のような訪問者、マスコミ、ボランティアを対象にしたおみやげ屋さんなのだろうが、ここで手づくりしたものを売っている。
 竹を編んだかごやバッグのショップ、草木染の布をその場でつくって売っている店、そして大勢の女性がせっせと布を織っていたのは「さおり」のショップだった。 (写真3
 この「さおり」というのは、古布をリボン状に裂いてその布を織る裂き織りの手法。
 聞いてみると、この「さおり」を彼らに伝授したのは日本人のお坊さんだということだ。
 いくつもの手織りの機械、ミシンなどの援助もおそらく日本から。ここで働く人たちにはSANからわずかながら労賃を支払っているという。
 「TSUNAMI」というタグを縫いつけて楽しそうにミシンを踏み、糸を紡ぐ人たちの表情をみていると、ここが被災地であることを忘れそうになった。

 タイ滞在最後の一日、バンコクのチャオプラヤ川の定期船に乗り、川からの風景に身をあずけた。途中、私の一番好きな暁の寺院に立ち寄り、ワット・アルンの僧侶にお話を聞くことが出来た。
 「津波という、想像も絶する災害。タイでは経験のない出来事でしたが、その被害の多くは、人々が自然との協調を忘れて壊してきてしまった結果です。自然の力を見つめなおすいい機会でしょう。」
 確かに今回西側では災害の多かったパンガー県でも、東側のパンガー湾は、世界有数のマングローブ林に守られて自然の風景は無傷のまま残っていたし、プーケット湾のヘイ島のサンゴ礁もほんのわずかな被害はあったものの、今は美しい海に復活していることを私自身、海にもぐって確かめることが出来た。
 人の創り出したものは、自然の力の前では無力だが、自然そのものは、その大きな動きの中で生きつづける力を持っているのだ。
 そしてもうひとつ。タイの人々の姿に、災害を穏やかに、ねばり強く受け止める心の強さを見た気がする。
 「大切なことは、過去を思い煩うことでもなく、未来を案ずることでもなく、今を生きること。今というこの時間に何をなすべきか、しっかり認識することが大事です。今を生きることで死者をとむらうことも出来るのですから。」
  ワット・アルンの僧侶の言葉でタイの旅をしめくくりたいと思う。

スリランカ

パタナンガラの浜で

 スリランカは、地震発生(午前8時40分)から約1時間40分後に東海岸に津波が来た。タイのアンダマン海沿岸に津波が到達してから1時間ほど後のことだ。
 この時スリランカに津波情報が伝達され、警報が出ていれば三万七千人もの死者を出すことはなかったかもしれない。
 写真4は、スリランカ東南のヤーラ国立公園の中のパタナンガラの浜。 ここにあったレストハウスで日本人旅行者11人が亡くなり、1人が行方不明となった。
  6億年前に出来た岩だという美しいパタナンガラ。まるで聖地のようなこの場所に立って「ひと」の存在としてのはかなさ大きな時空の中にいる不思議さを想った。 同じ場所で亡くなった人は全部で54名。
 この浜に隣接したロッジでも4名が亡くなっている。けれどこの国立公園の中で東海岸に接する60キロの海岸線のうち津波の被害を受けたのは20キロだけ。百年以上もかかって出来た自然の砂山があったり、木々の密生した浜は影響を受けていない。野生動物たちも、地震を感知したのか早々と高台に避難していて犠牲は皆無だったという。
 世界共通語にもなった「TSUNAMI」。
 アジア全体(あるいは世界)への津波を知らせる観測力とネットワークづくりが日本にも期待されている。
 人間は動物のように自然を感知できないのだから、人知を尽くすしかない。

サルボダヤのエコヴィレッジ

 東海岸に大きな被害のあったスリランカだが、津波の被害は西海岸も大きなダメージを受けている。スリランカ全体の海岸線の70%に及ぶという。
 ほぼ無傷だったコロンボのすぐ南のモラトゥワ市に住むある日本女性は、今でもまだ海岸沿いの村々は復旧しないままだと言っていた。
 9月5日、私たちはこの日、モラトゥワにあるサルボダヤ運動というNGOの本部を訪ねた。
 ガンジーの思想をくむこのNGOは1958年に設立され、全国に34箇所のセンターを持ち、身障者や貧しい人たちの自助努力によるコミュニティづくりを展開してきた。
 サルボダヤ運動は、政府の津波復興計画の一環としてカルタラでエコハウス事業を進めていて、ラゴスワッテ村で新しい村づくりを計画している。
 海岸から数十キロはなれた山の上にそのラゴスワッテ村はあった。森を拓いただけのまだ何もない広場に、ここに住むことを決めた数十家族がこの日の説明会に集まっていた。
 ここには水道が来ておらず、彼らは大きな井戸を掘ろうとしているほか、雨水も利用しようとしている。汚水の処理もこの村の内部で浄化するシステムを導入。
 生ゴミや牛糞をEM菌などによって醗酵させ、それを有機肥料として使って自給畑をつくっていこうというエコヴィレッジ構想だ。
 この新しい試みについて、住む場所を失った被災住民たちは不安を隠せない表情で話を聞いていた。(写真5) 住民たち自身の積極的な参加でここに理想の村を建設していこうという呼びかけに呼応するには、まだまだ時間がかかりそうだ。

廃墟からの復活

 同じ日、南端の町ゴールに向かって海岸線を走る。すぐ横には電車の線路があり、どこまでも道路沿いや線路わきに津波の被害が見える。建物がなくなって海までが瓦礫の街になっているところが少なくない。
 夕闇せまる海辺で車を降りた。壊れた家の辺りを見ていると、どこからか男たちが現れ、口々に説明してくれた。(写真6
 そこはランシヤワッタという40軒ほどの小さな集落、ほとんどが漁師。津波での死者はこの村では子供2名であったが、道路を走っていた車が海とは反対側の川に投げ出されてたくさんの死者が出た。道路と川の間にあった線路も一瞬のうちにくずれ落ちたという。
 漁をする舟も破壊され、漁師たちは本当に困っている。一人は、舟をやっと手に入れ、道路沿いに小屋を建てて魚を売っている。けれど家の再建は政府から再定住先が提供されず、すすんでいないという。
 すぐかたわらの浜はせまく、荒い波が押し寄せている。 「子供のころは、この浜でボール遊びが出来たし、地引網も干していたよ。いつのまにかこんなになってしまった」
 海岸で長年にわたって進んでいる浸食作用も津波の被害を拡大した一因であろう。
 話しこむうちにすっかり陽が落ちた。ゴールの街まではまだ2時間はかかる。道すがら見える風景は、どこまでも海。建物が少ないのは、破壊されたからかもしれない。
 時折通り過ぎる街では、再建された家と古いままの建物と廃墟が入り交じっている。
 破壊の激しいまっただ中に無傷の家が残っている。何とも不思議だ。ちょっとした地形や角度で違ってくるのだろうか。わからないことがいっぱいだ。
 スリランカは自然保護の意識の強い国だけに、悩みながらもゆっくり復旧していくのだろう。
 9月6日、津波の直撃を受けて大破した列車で1000人以上が死亡したという、その列車をテルワッタに見に行った。(写真7
 たくさんの人が集まって来ていろんな話をしてくれた。
 「一回目の波の時、信号が壊れて、この車両がここに止まったの。だから逃げようとしても逃げられなくて大変だった。」
 「列車の一部がこの奥にある私の屋根の上に落ちたのよ。幸い死ななかったけどね。」
 「数え切れない人が閉じ込められたり、流されたり、外に放り出されたり。それはそれはすごかった。」・・・
 8両あった車輌のうち機関車と5両は撤収して、今は、修理して使っているそうだ。ここには3両だけが線路沿いに置かれている。まわりの集落は、やはり無傷のものから壊れたままのものまでいろいろ。津波の余熱も去らず、まだ人々は興奮のとまどいの中にいるようだ。
 北海道の80%の広さの中に2千万人の人が住んでいるというスリランカ。
 内陸のほうに入ると桃源郷のような緑いっぱいの里がある。ヤーラ国立公園のような、自然を残すための国立公園、自然保護区も多く、とてもいい国だ。

 タイ、スリランカ。
 今回の旅は、津波の恐ろしさを痛感したと同時に、アジアの風土のねばり強さと人々の心のふくよかさを実感した。
 どちらも仏教国。
 人の生命が自然の一部であるという深い理解が、復興までの苦しい時間を支えていくのだろうと思った。




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