第2節 循環型社会の歴史

 我が国の歴史を振り返ると、かつて他の国や地域でもみられたように、人々は物の利用についていわゆる「もったいない」の精神と「清潔」にしたいという気持ちが自然と調和した社会を形成していました。江戸期には、現代社会に通じる、あるいは国によっては大いに参考にもなるシステムがありました。

1 江戸時代と持続可能な社会のシステム

 持続可能な社会は、低炭素社会、自然共生社会、そして循環型社会の構築に向けた統合的な推進の上に成り立つとの考えからも、江戸時期の取組は示唆に富んでいます。


(1) 江戸の衛生的な循環システム

 江戸の都市は、世界に類をみない衛生的な都市であったとされます。稲作を基調とした社会システムの中で、し尿や生ごみといった有機物が農村で肥料として土に還り、都市に残ることがなかったことがその理由とされます。近世ヨーロッパの都市では伝染病が猛威をふるいましたが、日本では、病原体の媒介となりうるし尿等が放置されずに有効活用されていたために、比較的少なかったようです。


 ア 地域や物の特性を活かした循環圏の構築

 江戸時代には、地域や物の特性を最大限に活かすことは重要なことだと考えられおり、「三里四方」という表現が使われましたが、これは半径三里(約12キロメートル)の間で栽培された野菜を食べていれば、健康で長寿でいられるということを意味しています。現代の「地産地消」という言葉の中に引き継がれているといえるでしょう。

 江戸時代は、都市から出るし尿や灰などが有効に活用されていましたが、それらは単に農家に引き取られただけでなく、金銭や野菜と取引・交換されていました。こうしたやり取りは、都市と周辺農村地域の間の循環圏を育て、農家の自立や都市発展の一助となり、経済と環境の好循環の好例となっていました。


【肥桶を担ぐ農民】 出典:『世渡風俗図会』


 イ 米や野菜の栽培におけるし尿等の肥料利用にみられる地域循環圏

 江戸時代は、米の生産力が政治力の中心となっていたため、幕府や各藩は、新田開発や米の生産能力の向上を重要な施策の一つとして推進していました。様々な経験の蓄積や技術の発達がみられましたが、農業の進展は、一方で、田畑の肥料をいかに確保するかという問題と表裏の関係にありました。この問題を解決した要因の一つとして、都市から大量に出るし尿や灰が、周辺の農村で肥料として有効活用されたことが挙げられます。江戸時代には、都市で出されたし尿や灰が有価で農家によって引き取られ、田畑の肥料として利活用され、そこで栽培された米や野菜が江戸の人々の食材に供されるという循環が成立していました。

 100万人ともいわれる大都市であった江戸から発生する下肥は、江戸周辺の農家に運ばれて肥だめにためられました。肥だめは、発酵による熱の発生によってし尿の衛生的な利用を可能にし、良質な肥料として周辺の野菜栽培に活用されていました。

 また、練馬大根や小松川周辺で生産された小松菜、また、滝野川牛蒡などの「江戸野菜」も、し尿の肥料としての有効活用による恩恵を受けた代表的な例と言えます。


下肥の利用


江戸野菜のマップ


 ウ 様々な地域特性に応じた地域循環圏

 江戸以外の地域でも、地域特性に応じた循環の取組が見られました。大坂や京都といった上方地域では、し尿の利用とそれに伴う地域内の循環がみられました。全国各地でその地域の特徴を活かしながら、循環圏が構築されていました。


(2) ごみの適正処理システム

 現代に通じる江戸時代の廃棄物処理の代表的な例として、幕府が公認した請負人が、廃棄物を収集・運搬して、最終処分地まで運んで処分するシステムが上げられます。こうしたごみの適正処理システムを構築していくことが、循環型社会を形成する上で前提となります。


 ア 江戸のごみ処理システム

 江戸では会所地(かいしょち)がごみ投棄場としても使用されていました。しかし、交通路や水路、防火帯としての機能が阻害されるのみならず、付近の住民が悪臭やカ、ハエなどで悩まされるという弊害がありました。

 そこで、当時の奉行所は慶安2年(1649年)に「町触」を出し、「会所地」にごみを投棄することを禁止し、さらに、明暦元年(1655年)には深川永代浦をごみ投棄場に指定しました。寛文2年(1662年)には、処理業者も指定し、一定の場所に集められたごみを処理業者が処理する仕組みが整いました。こうした様々なやり取りを基礎として、江戸のごみ処理は、収集・運搬・処分という、ごみ処理の3つの過程が、江戸の町の中で組織化されたのです。


 イ 新田開発

 最終的に永代浦に運ばれたごみですが、庶民から排出される生ごみや、火事によって発生した残土がその中心であり、これらは1年もすれば自然に分解してしまうものでした。永代浦がもともと湿地帯であり、ごみとして捨てられていた残土などが土壌を形成したために、新田開発をすすめる幕府にとってはごみから出来た土地もまた、利用価値があり跡地利用されていたようです。


永代浦の新田開発


2 明治から平成にかけての我が国の適正処理の歴史

 明治から平成における、我が国の廃棄物の適正処理に係る歴史を概観します。


我が国における廃棄物の適正処理の歴史


(1) 明治から昭和前期にかけて

 明治に入るとそれまでの「もったいない」のスタイルは西洋文化の流入によって徐々に変化し、有効に再使用や諸外国との交流が盛んになると、海外からコレラ、ペスト等の伝染病が持ち込まれるようになり、明治20年末のペストの大流行を契機として、ごみ、し尿の処理が公衆衛生の見地からの問題として取り上げられるようになりました。こうして明治33年には「汚物掃除法」が制定され、市町村がごみの処理を責任をもって行うことが明らかにされました。 


(2) 第二次世界大戦後(高度経済成長期以前)

 昭和29年に「清掃法」が制定されました。同法は、公衆衛生の向上をはかることを目的とすることを規定した上で、清掃事業の実施主体を市町村におき、特別清掃区域の制度を設けて処理区域を明確にすることにより、処理体系を充実しようとしたものです。

 昭和30年代に入ると、経済成長と共に化学肥料の生産が増加し、全国に普及するにつれて、肥料として活用されていたし尿は、農村での役割を失っていき、各都市では、ごみ、し尿の処理技術の開発に苦慮していました。

 昭和38年には政府が、生活環境施設整備第一次5箇年計画を策定し、都市ごみは原則として焼却処理した後、残渣を埋立処分する方針が示され、これにより、各都市でごみ焼却炉の建設が進みました。我が国が都市ごみの処理の基本を焼却及び残渣の埋立処分においたのは、あくまでも焼却により衛生的に安定化し、減量化することにありました。


(3) 高度経済成長期以降 

 昭和45年のいわゆる“公害国会”では、清掃法が「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」(廃棄物処理法)に改正されました。その中で、一般廃棄物・産業廃棄物の区分が定義され、一般廃棄物の処理は従前どおり市町村の義務、産業廃棄物の処理は、汚染者負担原則に基づく事業者責任と定められました。

 昭和46年から始まったいわゆる「東京ごみ戦争」は、住民や自治体の間でのごみの処理を巡る紛争として、大きな社会問題となりました。

 し尿処理に関しては、日本固有のくみ取り便所に対するものとして、し尿の高度な衛生処理システムが確立する一方、トイレの水洗化に対するニーズから、下水道や浄化槽も普及しました。特に、浄化槽については、家庭用の小型にもかかわらず下水道並みの高級処理の技術が進展し、普及しています。


(4) 平成元年以降

 ア 廃棄物処理法改正等の取組

 高度成長期以後も経済活動は拡大し、我が国では物質的に極めて豊かな社会が実現されましたが、その反面、大量消費、使い捨ての生活が一般的になるという社会的な変化が生じ、こうした変化を反映した廃棄物の量の増大、質の多様化のため、廃棄物の適正処理が困難となってきました。このような状況は、一般廃棄物については、焼却施設の能力不足と最終処分場の確保難から、関東圏の一般廃棄物が東北地方にまで運ばれ処分されるという事例や、産業廃棄物については、香川県の豊島でシュレッダーダスト等の産業廃棄物が大量に不法投棄された事件、福島県で廃油等の産業廃棄物が廃坑に大量に不法投棄された事件など、具体的な事件として表面化してきました。

 また、「有害廃棄物の国境を越える移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約」に加入するため、特定有害廃棄物等の輸出入等の規制に関する法律と併せた措置として、平成4年に廃棄物処理法が改正されました。


 イ 各種リサイクル法の制定

 再生資源の発生量が増加しているにもかかわらず、その相当部分が利用されずに廃棄されている状況が生じたため、平成3年に、製造者等に再生資源の有効な利用の促進を義務付ける再生資源利用促進法が制定されました。

 平成7年に、製造者等にリサイクルの義務を課し、市町村の分別収集の計画的な取組を位置付けた容器包装リサイクル法が制定されました。平成10年には、家電製品について製造者等によるリサイクルを中心とする処理を義務付ける家電リサイクル法が制定、平成12年には、一定規模以上の解体工事を行う解体工事業者等に建設廃棄物の分別、リサイクル等を義務付ける建設リサイクル法や、飲食業、流通業等の事業者に食品廃棄物等のリサイクル等を義務付ける食品リサイクル法が制定、更に平成14年には、自動車製造業者等に自動車破砕残さ等の引取及びリサイクル等を義務付ける自動車リサイクル法が制定され、各種リサイクル法の充実が図られました。


 ウ 循環型社会元年

 平成12年を循環型社会元年と位置付けました。

 この循環型社会は、循環型社会基本法では、

1)製品等が廃棄物等となることの抑制、

2)循環資源が発生した場合におけるその適正な循環的な利用の促進

3)循環的な利用が行われない循環資源の適正な処分の確保

 という手段・方法によって実現される、天然資源の消費が抑制され、環境への負荷ができる限り低減される社会と定義されています。


 エ 我が国の経験を各国でいかすための示唆

 我が国は、江戸時代に循環型の社会を形成していましたが、その後の開国と、西欧諸国を手本とした歩みの中で、生産様式や物に対する考え方も変化し、大量生産・大量消費型の社会を歩みました。1990年代の廃棄物処理法等の改正や各種リサイクル法の制定によって循環型社会に向けた気運が高まり、2000年の循環型社会元年以降は、国際的に循環型社会形成のトップランナーとしての位置づけを確立しました。

 開発途上国では、今まさに、我が国の高度経済成長期のような経済発展が進んでおり、産業廃棄物を中心としたオープンダンピングや野焼きなど廃棄物の不適正処理も行われています。


【開発途上国で行われている野焼き】

 我が国の一連の経験は、現在、アジア諸国が直面しているこうした様々な課題を解決する上で示唆を与えるものと考えられ、我が国のシステムの歴史を踏まえ、アジアを中心とした世界各国への支援を進め、世界での循環型社会づくりを進めていくことが重要と考えます。



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