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第3節 

1 化学物質の安全性

(1) 化学物質の安全対策
 化学物質利用の歴史は古いが、これが生活の中で欠くことのできない大きな役割を担うようになったのはそれほど古いことではない。
 しかしながら今日、私達の生活の中では化学物質を全く使用していない生活用品を見つけることの方が難しいほど、あらゆる面に化学物質は利用されてきている(第3-7図)。
 化学物質は、その有用性の反面、毒性を有するものがあるため、古くから職場での衛生、あるいは流通取扱いの場での危険防止等の注意が払われてきた。また、農薬、医薬品など人体に直接の影響が想定されるものについては比較的早くから、ある程度の規制が行われてきた。
 しかし、化学物質の使用及び使用後の破棄を通じてそれが直接的に、あるいは廃棄の過程や環境において変化したものが環境を汚染し、直接的、間接的に人間社会に悪影響を与えるという新しい問題が発生してきたのは化学的質利用の歴史の古さに比べて極めて新しく、昭和40年代に入ってからのことである。
 水俣病や四日市ぜん息などの発生は化学工場等からの排水や排煙に含まれた有害な化学物質等による環境汚染を防止するための各種規制法の制定を促した。しかしながら、製品として使用され、消費・廃棄を通じて環境に広く分散・流出する有害な化学物質による汚染は、新たな観点から大きな問題を提起することとなった。
 40年代に入り、BHC、DDTあるいはアルキル水銀系などの農薬の残留による生態系への影響と被害が顕在化した。なかんずくPCBによる環境汚染はスウェーデンにおいてそれが発見されて以来、各国での汚染はもとより、地球的規模での汚染が明らかにされ、化学物質と環境という問題に対して全く新しい角度から国際的な関心が寄せられる契機となった。
 我が国においては、43年に発生したカネミ油症事件により、PCBが人体に直接摂取された場合の毒性について警告がなされていたが、46年以降、日本を始め各国でPCBの環境中での蓄積が測定されたことから、これとは別に環境を経由したPCBによる人体への健康被害が懸念されるに至った。
 このため、環境汚染という面からPCBに限らず広く化学物質全般についても安全対策を行う必要があることが強く認識されることとなった。
 政府は47年にPCBの生産と使用を中止するよう関係者を指導する一方、それまでに行われてきた化学物質に関連する法規制を全面的に見直した。その結果、諸法令が対象としている化学物質の範囲及びその規制の内容から見て、この問題に対処するには既存の法律の改正のみでは不充分であることが明らかになったため、政府は48年に「化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律」(以下「化学物質審査規制法」という。)を制定し、化学物質による環境汚染の未然防止という観点から積極的にこの問題に対処することとした。
 化学物質審査規制法は、第2のPCB出現防止を目的として新しい化学物質に対して、難分解性、生物濃縮性及び毒性に関して環境に着目した立場からこれを事前審査し、必要があれば所要の規制措置をとること並びに従来の化学物質全般に対し、PCB事例のようなおそれのある場合は、特定化学物質として所要の規制措置がとれることを規定している。


(2) 化学物質による環境汚染問題の特徴
 ここで今日問題とされている化学物質による環境汚染問題の特徴をまとめてみよう。
 第1の特徴は環境中への排出経路である。従来の公害問題においては、有害物質が工場等からの排水や排煙中に含まれて、いわば不要品として環境中に排出されるという点が注目されてきた。ところが、化学物質の中には、そのような排出経路以外に農薬やPCBに見られるようにそれらが製品として使用され、廃棄される過程で環境中に広く排出されるという排出経路を持ち、しかも環境中でなかなか分解しない性質を持つものがあることが問題となった。例えば、現在では使用を原則として禁止されているPCBは、その有害性が明らかになる以前には、第3-8表のように絶緑油から複写紙にまで幅広く使われていた。現在でも各地で検出されているPCBは、それが我が国で生産され始めた29年から使用禁止に至るおよそ20年間に、主としてこれらの製品の廃棄に伴って環境中に排出されたものと考えられている。
 第2にあげられることは、このようにして、難分解性という性質を持つ有害な化学物質が不用意に生産・使用され続けていると、それは使用・廃棄後、自然のメカニズムに組み込まれて広く環境に分散し、時として地球的規模での汚染を引き起こす場合もありうるということである。したがって、事後的に、ある化学物質が有害であると判明した場合、広く環境中に分散したそれを回収することは不可能に近い。例えば、感圧紙に使われたPCBは、回収の始まった47年時点までに約5,000トンが国内に出まわっていたが、そのうち回収できたのは、廃棄前の紙に含まれたわずか2%の約110トンに過ぎなかった。
 また、環境中に分散した有害物質が、水や大気を通じて、あるいは食物連鎖による生物濃縮等を通じて人の健康に影響を与える場合があることは、水俣病等で既に経験されたところであるが、その影響は、通常、慢性的ですぐには症状が現われない。また、化学物質の中には、たとえ低濃度でも長期間にわたって摂取されることにより健康被害、なかんずく“がん”や奇形をもたらすおそれがあるものが存在するということも近年注目されだしてきている。
 化学物質による環境汚染問題の第3の特徴は、以上のような認識を持った上で化学物質について見てみると、現在、数万種類にわたって生産され、現代生活のあらゆる面に深く根をおろしている各種化学物質が長期的かつ微量に摂取された場合の人体に対する影響についての科学的知見が、その種類の膨大さに比べると非常に限られているということである。また、これは、化学物質が全体としてどのように生産され、流通し、人と接触しているのか、あるいは環境中でどのように分散し、また分解、蓄積されているかという実態面においても同様である。


(3) 対策の基本的考え方
 これらの特徴を考えると、化学物質による環境汚染に対処するための基本的な考え方は次の2点となる。
 第1は、環境を汚染し、その汚染が原因となって人の健康に被害を生ずるおそれがある化学物質については、これが環境を汚染しないよう代替品の開発やクローズドシステムの確立等のあらゆる措置を講じなければならないということである。
 第2は、化学物質が前述の特性を有するか否かの審査は、問題が起こる前になされなければならないということである。
(4) 化学物質の危険性とその対策の考え方
 前記の対策の基本的考え方を具体化するに当たっては、化学物質の危険性をどう評価するかということが問題となる。
 環境汚染を通じて、人の健康に影響を及ぼすという観点からいえば、この危険性はその物質の使用量(生産量)、環境中への排出度(使用形態)、環境中での分解性、生物(食物)への濃縮性及びその物質又はその物質を誘因として起こる現象の毒性強度の諸要因に左右されると考えられる。これらの諸要因のうち、最初の4要因を環境中への蓄積可能性として、毒性強度と大別して図示すると第3-9図のようになる。
 概念的には、ある化学物質が斜線の部分に位置していれば、安全とはいえないこととなるため、その対策として、例えばAの位置にあるものをB、C又はDに移すということになる。この場合、AからBへの移行はAに位置づけられている物質について、クローズドシステムを採用したり、使用、用途を制限することを意味し、AからCへの移行は毒性の低い代替品を見出してそれに代えることを意味する。AからDへの移行はそれらの対策の組合せである。これらの対策の選択は、それにかかる費用との関連で決定されよう。
 また、ある化学物質の安全性を見る場合、図の白地の部分に入っていることを示す必要がある。図中の位置を確定するためには毒性強度及び環境中への蓄積可能性の両者を評価する必要があるが、通常、毒性試験(第3-10表)にはかなりの費用と時間がかかるため、最初に、環境中への蓄積の可能性が非常に低い−すなわち毒性軸に非常に近い−ことを明らかにすることによりその物質がほぼ白地の部分に入っていると判断するという方法が考えられる。もちろん、分解性が悪く、生物への濃縮性も高い場合は、更に毒性試験を行う必要がある。
 次に問題となるのは、この図で描かれている安全性判断についての境界線をどのようにして設定するかということであろう。これはまた同時に、個々の化学物質について、この図の上での位置の確認をどの程度正確に行うべきかという問題とも関連する。もちろん、図でもわかるように、この境界線は便宜的なものであり、安全性、危険性は連続的に変化する相対概念であることに注意する必要がある。
 安全性を厳しく判断すればこの境界線は左下に移動し、危険区域から安全区域に移行する費用負担も含めて化学物質を使用するコストは大きくなる。逆に安全性を緩く判断すれば、安全として使用しうる領域は広がり、対策、使用のコストは少なくなる。
 当然のことながら、この境界線を最終的に設定するためには、化学物質そのものの性質、人体への影響、環境中での挙動など、化学物質全般にわたる広範な知見を得た上で人類の将来にわたる健康という長期的な視点から慎重な検討がなされるべきであろう。しかしながら前記のように、現在使用されている数万点の化学物質のうち、人体や環境に対する長期的な影響についての知見が得られているものは非常に限られており、この境界線を最終的に設定するための基礎的な知見すら欠けているというのが現状である。
 したがって、現時点においては化学物質の環境汚染の未然防止という観点から、その安全性を厳しく判断しつつ、すみやかに、かつ効率的に化学物質の環境汚染に関する知見を集積することが緊要の課題であるといえよう。

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