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第1節 

1 公害行政の成立(昭和30年代)

 公害問題は既に戦前においても発生し、明治10年頃からの足尾銅山の鉱毒事件、明治20年頃からの別子銅山の煙害事件のように、鉱山等の排煙や排水によって農作物等に重大な被害をもたらし、人々の関心を集めたケースが見られた。当時、これらの問題は局地的な鉱山特有の鉱毒問題として認識されていたにすぎず、その後の重工業を中心とする日本経済の興隆期においては、工場から排出される黒煙が地域の繁栄、日本経済の発展の象徴としてとらえられており、第2次大戦終了までは、公害問題についての認識はほとんどなかったといえよう。
 戦後、経済復興が進むにつれ京浜、阪神等の地域では昭和20年代に早くも公害の発生が問題とされ、24年の東京都における「工場公害防止条例」の制定をはじめ、地方公共団体による条例の制定が見られたが、当時の条例は、大気汚染、水質汚濁等を対象とし工場の設置等の許可手続きを定めるのみで、定量的な排出基準はほとんど見られなかった。
 公害問題が全国的な問題となってきたのは、日本経済が戦後の復興期を脱し、目覚ましい成長への過程を歩み始めた昭和30年頃からであった。30年から48年までの18年間に、我が国は、世界に類のない高度経済成長を続け、実質国民総生産で見ると48年には30年に比べ5.4倍となったが、これはまた、環境の汚染が全国的な規模へと拡大するに至った過程でもあった。
 このような問題の深刻化に対応して環境行政も逐次充実されてきたが、その進展の課程は大きく3つの時期に分けることができる。
 第1の時期は昭和30年代である。昭和30年に入ると「もはや戦後ではない」(昭和31年度経済白書)といわれ、太平洋ベルト地帯を中心とする経済の飛躍的発展期に入ったが、こうしたなかで公害問題に対する認識が高まり、これに対する対応策が採られるようになった。
(1) 水質汚濁
 31年に水俣湾沿岸において水俣病の発生が確認され,33年には東京都江戸川区の製紙工場排液による漁業被害を巡り漁民との衝突事件(浦安事件)が起こった。このような事件を背景として33年暮には「公共用水域の水質の保全に関する法律」及び「工場排水等の規制に関する法律」が制定された。もっとも、その実施には約3年の時日を要し、江戸川水域が最初の指定水域として指定されたのは37年であった。
(2) 大気汚染
 30年代の半ばから大気汚染等による生活環境の悪化が大都市において深刻となってきつつあった。35年に東京、大阪等の41都市を対象として内閣総理大臣官房審議室の行った世論調査によると、都市住民のうち「騒音、ばい煙、振動、大気汚染等により日頃迷惑を受けている」と感じる者が、東京都区部では56%,5大市(大阪、名古屋、京都、横浜、神戸)では51%、その他の20万人以上の都市では40%に達しており、深刻化しつつある大気汚染に対し、条例によってばい煙の規制を実施する地方公共団体が増加していた。こうしたなかで、政府は、37年に「ばい煙の排出の規制等に関する法律」を制定し、深刻化する大気汚染を防止するため排出濃度の規制が行われることとなった。
(3) 地盤沈下
 また、34年の伊勢湾台風や36年の第2室戸台風により地盤沈下地帯が、洪水、高潮による大災害を受け、地盤沈下対策として,37年には「建築物用地下水の採取の規制に関する法律」の制定及び「工業用水法」の改正が行われ、地下水くみ上げの規制が強化された。
(4) 生活環境のための社会資本の整備
 30年代後半から生活環境のための社会資本の整備の重要性が注目されるようになり,38年には、第1次下水道整備5箇年計画や清掃施設等を対象とする生活環境施設整備5箇年計画が策定され、生活環境のための社会資本の整備が進められることとなった。
 このように、国の公害規制法は、水質汚濁、大気汚染、地盤沈下と個別に順次制定されるとともに、生活環境のための社会資本の整備も始められ、公害行政の基礎は、この時期に形成されたといえよう。
 なお、首都圏及び近畿圏の過密問題解決の対策として「首都圏の既成市街地における工業等の制限に関する法律」及び「近畿圏の既成都市区域における工場等の制限に関する法律」がそれぞれ34年,39年に制定され、工場等の立地規制が始められた。
 一方,30年代後半に入ると、所得倍増計画に見られるように、経済の高度成長政策が推進されるとともに、これまでの経済成長が著しく太平洋ベルト地帯に偏り、地域間に格差が生じていることから,37年に全国総合開発計画が策定され、その拠点開発方式を受けて、同年に「新産業都市建設促進法」、39年には「工業整備特別地域整備促進法」が制定されて地域開発が全国的に進められた。また、水力や石炭から石油へのエネルギー転換が進められ、石油化学コンビナートが各地に立地されることとなったが、当時の規制法は指定地域制を採っていたので、既汚染地帯ではある程度の効果を挙げたものの、新規コンビナート等における公害の未然防止等の効果は十分ではなかった。更に四日市のコンビナート周辺でぜん息性気管支炎等呼吸器系疾病患者が多発するといった事例が見られたことから、住民の側にコンビナート進出に反対する動きが生じてきた。
 これにこたえるべく38年には政府により産業公害調査団が編成され、沼津、三島地区等のコンビナート計画について事前調査が行われ、今日の環境影響評価の萌芽も見られる。しかし、低硫黄化対策等いくつかの対策が提言された沼津、三島コンビナート計画が、結局住民の反対運動により断念されたことは、国、地方公共団体、産業界に大きな衝撃となり、公害問題に対する本格的対応が迫られるに至った。

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