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第4節 

1 健康被害

(1) 大気汚染の影響
 大気汚染の人体影響は、汚染物質の物理的、化学的性状および汚染物質の濃度あるいは量とそれに対する暴露期間等によって異なる。眼、鼻等の皮膚、粘膜に対する刺激症状、気管、肺等の呼吸器系の炎症等がおもに問題になるが、それ以前に肺活量等の肺機能の面に影響を与えることも多いし、また、せきやたんの増加として自覚されることもある。このような直接的影響の現われ方は、気温、湿度、気圧、前線あるいは逆転層等の環境要因ならびに性、年令、体質等の人側の要因によって左右されるものであり、急性から慢性に至るまで各段階の健康障害が生ずる。また、その他の影響として、青空の喪失、視程の障害、悪臭等による不快感あるいは物的被害を介して起こる問題等の心理的、感覚的な影響がある。
(2) 大気汚染に関連する疾患
 大気汚染の影響により多発する疾患として、現在慢性気管支炎、気管支ぜん息、ぜん息性気管支炎および肺気しゆ並びにこれらの続発症があげられている。これらの疾患は、メチル水銀化合物による中毒性疾患としての水俣病のような場合とは事情を異にしている。すなわち、慢性気管支炎等は大気汚染の問題がとくにない地域においてもある程度存在しているが、大気汚染の著しい地域ではとくに多発しているところに問題がある。しかし、個人について大気汚染と疾病との因果関係を明らかにすることはなかなか困難である。
 大気汚染の人体影響をは握するためには、しばしば疫学的方法が用いられている。たとえば、大気汚染の著しい地域と汚染の影響を受けていない地域について、地域住民の有症率、死亡率等を統計的に比較することによって大気汚染と住民の疾病の発生状況等との関連性の有無を明らかにしてきた。また、厚生省は昭和40年から5か年計画で千葉、四日市、大阪の三地区で大気汚染の著しい地区と対照地区の小学校の学童を対象にばい煙が肺機能等にどのような影響を与えるかという調査を実施してきた。この調査により、最も汚染の少ない地区と比べた場合、地区の汚染度が高くなるにつれて男女とも肺機能検査成績(平均1秒量値)でみた汚染の影響が顕著になっていることが明らかにされた。これらの諸調査をもとにして、大気汚染が肺機能等によくない影響を与えているものとして対策を講ずる必要があると判断されるのである。
(3) おもな汚染物質の人体影響
ア いおう酸化物
 従来、一般に亜硫酸ガスの影響として受けとられているものは、亜硫酸ガス、硫酸ミスト、その他のいおう酸化物の影響によるものであり、さらにこれらは浮遊ふんじんと共存、あるいはふんじん表面への付着または吸着によりその影響を強めることがある。また、実際には、いおう酸化物単独で大気中に存在することはまれである。したがって、いおう酸化物に係る環境基準はこの複合汚染の状態を前提として設定している。おもな人体影響は前述した慢性気管支炎等の呼吸器系の疾患が中心である。
イ 一酸化炭素
 一酸化炭素の影響は、従来、一般に考えられていた一酸化炭素ヘモグロビンの生成による酸素の運搬阻害のほか、肺胞における一酸化炭素ヘモグロビンの解離阻害および体内の呼吸酵素等と結合したり反応したりして、各種の生理機能を障害することが知られてきた。このような一酸化炭素の人体影響を防止するため、昭和45年2月一酸化炭素に係る環境基準が設定された。この基準に定める条件を維持することにより、たとえば血液中の一酸化炭素ヘモグロビンの濃度でみた場合、労働衛生上中毒症状を起こさないとされている20%前後の濃度や、大量喫煙者にみられる約10%前後の濃度に比べれば、かなり低い2〜3%の濃度以下におさえられるようにするものである。なお、通常の人における血中一酸化炭素ヘモグロビンの濃度は1%前後である。
ウ 窒素酸化物、炭化水素
 窒素酸化物のうち、一酸化窒素は一酸化炭素に比べてヘモグロビンに対する親和性が強いとされている。その影響に関する知見はまだ十分でなく、今後の研究にまつことが多い。二酸化窒素の毒性は、動物実験によれば一酸化窒素の約7倍も強いという報告もあり、人に対しては変性ヘモグロビンの生成、呼吸器系に対する障害等が労働環境で証明されている。しかし、これらの知見は、労働衛生の実験的研究によるものであり、住民を対象とした疫学的研究が不足しているため、厚生省では45年度から窒素酸化物による人体影響を考慮に入れた調査を開始した。
 炭化水素は大気中で窒素酸化物等と共存して光化学反応を起こし、オキシダント(総酸化性物質)を発生する。このオキシダントの大部分はオゾンであるがそのほかの過酸化物も含まれている。したがって炭化水素自体の影響のほか、この二次的生成物であるオキシダントによる影響も加わることが知られている。その影響は、眼、上気道等の粘膜刺激症状が中心であるが、肺機能や運動機能の低下等を起こすことも知られている。また、炭化水素の中には3・4ベンツピレン、ベンツbフロランセン、クリセンなどのように実験的に発がん性を示す物質もある。
 なお、窒素酸化物、炭化水素、オキシダントなどについて環境基準を設定するために現在作業を進めている。
エ 浮遊ふんじん
 浮遊ふんじんは、スモッグの原因となり視程の障害をきたすのが現在の目に見える影響であるが、慢性気管支炎のような人体影響にも注意しなければならない。浮遊ふんじんはいおう酸化物等と共存することが多く、たがいに影響を強めていることは前述したとおりである。浮遊ふんじんの影響を考える際には、ふんじん粒子の大きさとその量および成分が問題となる。浮遊ふんじんに係る環境基準専門委員会は、粒径(直径)が10ミクロン以下の粒子が最も人体に影響すると報告している。さて、その影響は、粘膜に対する機械的刺激や浮遊ふんじん中に含まれる特殊な金属成分たとえばマンガン、ベリリウムなどのように労働衛生の経験からみて、その濃度によっては肺炎や肺線維症を起こす可能性も考えられている。
(4) 鉛害事件と光化学スモッグ事件
ア 牛込柳町鉛害事件
 本事件は、昭和45年5月、民間の医療団体が東京都新宿区牛込柳町の交差点付近の住民について、健康診断を行なったところ、かなり多数のものが鉛中毒にり患している疑いがあり、その鉛は自動車排気ガスに由来していると発表したことが本件の発端であった。東京都の精力的な調査の結果、鉛中毒を疑がわれた住民はほとんど鉛中毒の心配がないことが判明した。この事件を契機としてガソリンの無鉛化政策が打ち出され、また、鉛の環境基準も検討されることになった。さらには大気汚染防止法で工場、事業場からの鉛の常時排出が規制されることになり、また自動車排出ガス中の鉛の許容限度も設定されることになった。
イ 光化学スモッグ事件
 昭和45年7月18日、東京都杉並区にある私立東京立正高校のグラウンドで運動中の女生徒43人が、目に対する刺激症状(チカチカ感)流涙、咽喉部の痛み、せきを訴え、中には呼吸困難を訴え倒れたものも出たということで、これは新型公害光化学スモッグによるものと報道され、国民の間に大きな衝撃を与えた。
 光化学スモッグが原因とされた有力な根拠は、新宿区にある国設大気汚染測定所のオキシダント測定機がオキシダント濃度、32pphmをさしていたことにあった。なお光化学スモッグによる影響として訴えたものは、東京都内で5,208人、埼玉県で407人にのぼった。
 この立正高校事件以後、全国各地で光化学スモッグ問題が多発し、その対策を早急に確立することが望まれるようになった。大気汚染防止法では重大緊急時の措置として、光化学スモッグを念頭においた対策がとられるように改正された。また、光化学スモッグの起因物質である窒素酸化物、炭化水素、オキシダントの環境基準の設定が検討されている。
 立正高校における光化学スモッグ事件が果たして光化学スモッグによるものかどうか疑問をなげかける学者もあるが、それを否定する資料もまた積極的に支持する資料も乏しく、何ともいえないのが現状である。そこでこのような事態にただちに対応しうる監視体制の強化が望まれ、46年度から緊急公害特別調査班が組織されることになった。

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