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第4節 

1 人体に対する影響

 大気汚染の人体に対する影響は、眼や鼻等の粘膜への刺激症状などもあるが、最も大きなものは呼吸器系統に対する影響である。
 大気汚染と関係のある呼吸器疾患には、感冒などの上気道性疾患、気管支炎、気管支ぜん息、肺気腫、気管支拡張症、肺繊維症、肺がん、肺性心等がある。
 既述のように、大気汚染物質にはいろいろなものがあり、呼吸器に対する影響の態様態もそれぞれ異なっている。
 いおう酸化物質や浮遊ふんじんは、慢性気管支炎や気管支ぜん息と関係がある。ふんじんの中でもたとえば、マンガン、ベリリウムなどの金属成分は肺炎や肺繊維症を起こす可能性がある。また、自動車排出ガス中などに含まれている3・4ベンツピレンは発がん作用をもっていることが実験的に知られている。
 大気汚染の影響はまた、急性影響と慢性影響とに分類することも行われている。急性影響は、高濃度の大気汚染状態、たとえばいわゆるスモッグ状態などにおいてみられるものである。急性呼吸器疾患り患率の著しい上昇や肺性心等の肺性循環器障害による死亡者の増加等をもたらした典型的な事件が外国においてはすでにいくつか発生している。
 たとえば、1930年のベルギーのミユーズ渓谷事件では渓谷にある製練所等から排出されたいおう酸化物などが無風状態の谷間にただよい、63名の死亡者と数百名の患者を出した。1948年の米国ペンシルヴアニア州ドノラで起こったスモッグ事件では、製鉄工場、亜鉛製練所、硫黄工場等からの硫酸化物など(特に、金属性硫酸アンモニア)のため20人が死亡、数千名が健康障害を被った。1952年の英国、ロンドンのスモッグ事件ではばい煙の濃度が平常時の約5倍に増加し、また、いおう酸化物は最高1.3ppmに達し、気管支炎による死亡は8倍に、肺炎によるものは3倍、その他の呼吸器疾患によるものが5倍に増加、合計4,000名の過剰死亡がみられた。
 わが国では、このような災害的スモッグ事件の発生は幸いにしてまだいないが、最近の疫学的調査ではいおう酸化物濃度や浮遊ふんじん濃度の上昇したときに循環器疾患や、呼吸器疾患による死亡率の増大がみられるという報告も出てきている(「大気汚染による死亡者数増大について」大阪市衛生研究所)。
 このような死亡をもたらしさえするような急性の影響もさることながら、長年の間に呼吸機能を弱め、循環器にも悪影響を及ぼす慢性影響が、その及ぼす範囲の大きさにおいてむしろ急性影響以上に重要視されねばならない。
 慢性影響の研究については、統計的疫学的方法のほか低濃度の大気汚染物質に長期暴露する実験的研究が行なわれ、慢性気管支炎等の閉塞性呼吸器疾患が中心として取上げられている。
 厚生省も、昭和39年度において、このような大気汚染による慢性健康障害の状況をは握する為、大阪ならびに四日市の両地域において一般住民を対象として調査を行なった。対象地域の中から、高度汚染地区(大阪―此花地区、四日市―塩浜北、磯津、塩浜南の3地区)と非汚染地区(大阪―池田地区、四日市―富州原、四郷、桜の3地区)を選定し、それぞれの地区に居住する40歳以上の男女、大阪汚染地区3,421名、非汚染地区3,520名、四日市汚染地区4,635名、非汚染地区4,549名を対象とした。
 調査方法は、まず、調査票による質問調査の結果、せき、たんが3か月以上続き、その症状が2年以上にわたるもの、ぜん息様発作のあるもの、平坦地で息切れにあるものなどを中心に医学的検査の対象者を選んだ。医学的検査は呼吸機能障害、特に慢性気管支炎症状を中心として精密な問診、呼吸機能検査、胸部X線検査などを実施した。医学的検査の受診者数は、大阪汚染地区280名、非汚染地区289名、四日市汚染地区655名、非汚染地区282名であり、受診率は対象者の40〜50%であつた。
 質問調査の結果では、大阪、四日市いずれも、汚染地区のほうが、非汚染地区と比べて、せき、たんなどが長期にわたる慢性気管支炎症状を有するものが多い。またそのひん度は、女より男に、若年層より高年齢層に置いて高率である。またいずれの年齢層においても男女とも、汚染地区のほうが高率であつた。特に四日市では、汚染地区と非汚染地区の差が著しく、汚染地区の70歳以上の男子の有症率は29.1%の効率を示した。(第2-1-8図参照)
 慢性気管支炎の症状発現には、喫煙や年齢などの要因が影響するので、これらを補正して比較してみると汚染地区は非汚染地区の2〜3倍の慢性気管支炎症状ひん度を示した。(第2-1-26表参照)
 次に呼吸機能検査の結果は、汚染、非汚染いずれの地区とも、質問調査で、慢性気管支炎症状を有するものに閉塞性障害保有率が高く、また大阪、四日市のいずれも、汚染地区は非汚染地区に比べて閉塞性障害をもつものの割合が大きかつた。(第2-1-9図参照)
 なお、この間の環境測定結果は、第2-1-10図第2-1-11図のとおりで、降下ばいじん量は、大阪の汚染地区では、8〜13トン/km2/月と、非汚染地区の3〜4トンの2〜3倍であった。四日市の汚染地区は、7〜18トン非汚染地区2〜6トンであった。
 二酸化鉛法によるいおう酸化物測定値は、大阪の汚染地区1.05mg・SO3/100cm2/日、非汚染地区0.57、四日市の汚地区0.5〜2.3、非汚染地区0.2前後であつた。
 人の健康を保持するためのいおう酸化物の閾値については、厚生大臣の諮問機関である生活環境審議議会から43年1月に答申が行なわれた。
 これは、疫学的立場から
(1) 病人の症状の悪化が疫学的に証明されないこと


(2) 死亡率の増加が証明されないこと
(3) 閉塞性呼吸器疾患の有症率の増加が証明されないこと
(4) 年少者の呼吸機能の好ましからざる反応ないし障害が疫学的に証明されないこと
 の4条件を考慮して定められたもので、その値は、いおう酸化物濃度示数としての導電率法による測定値で表わし、
 24時間平均1時間値が0.05ppm
 1時間値が0.1ppmである。
 なお、いおう酸化物に係る人の健康の保護に関する環境基準については、44年2月12日に閣議決定がなされた。
 その他の大気汚染による健康障害のうち、自動車排出ガスの人体影響については、厚生省において40年9月調査を実施した。対象地区として汚染地区の代表には東京都世田谷区大原町交差点をとり、その対照地区として自動車排出ガスによる汚染が少ないと考えられる東京都世田谷区玉川用賀町を選んだ。調査期間中の汚染地区の自動車交通量は1日平均10万7千台で、東京都内で最も多い地点であった。一般住民、学生、警察官等の血液中CO-Hb量を測定した結果、汚染地区住民(男7名、女11名)平均4.27%、非汚染地区住民(男9名、女7名)平均2.79%と、汚染地区が高かった。汚染地区住民CO-Hb量の日間変動をみると、午前9時において4.17%であつたものが午後7時には4.37%で大きな変化はなかつた。一方、汚染地区警察官(8名)および学生(10名)では、初め2.62%であつたものが6時間後には、3.75%に上昇し、汚染地区住民の変動と比較して増加の割合が大きかつた。汚染地区住民のCO-Hb量は警察官、学生のそれと比べて、初めから高い水準であり、これは常時一酸化炭素を吸入していることによる影響が現れているものと推定された。
 また、環境中の一酸化炭素濃度が一日中低い水準にあり、かつ、時間値最高濃度が5ppm以下であつた日には、住民、警官、学生のいずれもCO-Hb量が低く、環境中の一酸化炭素濃度が高水準で、かつ、最高濃度が5ppmを超えた日にはCO-Hb量も増加していた。
 次に面接調査で前記大原交差点附近の道路に面した所に居住するもの(A)と、交差点から150m奥まつた交通量の少ない路地に住むもの(B)と比較すると眼がしみる、赤くなるなどの眼に関する症状、口の中がかわく、胃のぐあいが悪いなどの消化器症状など排出ガスの影響と考えられる症状が(A)において高率であつた(第2-1-27表参照)。
 以上のように、大気汚染の人体に及ぼす影響についてはかなりその実態が明らかにされてきたが、まだ汚染物質の物理的、化学的症状にも明らかにすべき点が多く、かつ、各種工業の発展にともない全く未知の汚染物質が加わつてくる可能性もあり、それらによる健康障害のは握にはよりいつそう精細な調査研究が必要となるであろう。

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