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第1節 

3 過去からの教訓

(1)世界各地の事例
 以上のように、わが国の歴史を例にとり、社会経済システムと自然環境の間の密接な関係と社会経済システムが自然環境に与えている負荷について考察してみましたが、視点を世界に向けてみると、世界の中でも環境の脆弱な地域では、生態系の破壊がその地域の社会経済に深刻な影響を与えている事例をみることができます。

 ア アラル海の縮小
 中央アジアのカザフスタン共和国とウズベキスタン共和国との国境に広がるアラル海は、1960年以前には6万8,000km2という世界第4位の湖面積を有し、鯉やふな、なまずなどが生息する豊かな湖でした。しかし、シルダリア川とアムダリア川流域に展開された灌漑農業の拡大に伴い、両河川の上中流域で多くの水が灌漑用水として使用されたため、下流域では耕作ができなくなり、飲料水にも困るとともに、河川流量の減少によって自然植生の衰退と湿地帯、河畔林の破壊が起こりました。アラル海自体も面積が約3分の1に縮小し、湖水の塩分濃度の上昇によるプランクトンや魚類といった水生生物の変化と衰退が発生するとともに塩類集積による耕作放棄などが起こりました。

 イ インド・中国
 世界有数の人口大国であるインドと中国は、食料供給の半分以上を自国での灌漑農業によりまかなっています。
 インドの水状況は急速に悪化しています。人口が10億人のインドでは雨水かん養量の2倍以上の水を地下の帯水層(地下水で飽和した透水層)から汲み上げています。このため、帯水層が年に1〜3m低下しており、帯水層が枯渇して灌漑が困難になると、インドの収穫量は25%程度減少するともいわれております。インドのウッタルプラデシュ州では、20年間で水不足の村の数が1万7,000から7万に急増し、穀物生産を圧迫しています。
 中国では、穀物生産量の40%を生産している北部平原の大部分で、地下水位が毎年約1.5mずつ下がっており、例えば、北京市では、1950年に地表から5mの深さにあった地下水位が、50m以上の深さまで下がった例もあります。
 また、水需要の増大は地下水位だけでなく河川にも過大な圧力をかけています。1972年頃から黄河に水が流れないいわゆる断流現象が恒常的に生じるようになり、1997年には226日間の断流が発生しました。断流の原因には、降雨量の減少、水供給能力を上回る水利用、非効率な水使用と管理体制の不備が挙げられています。中国政府は、1999年から流域9省(1自治区)の取水量の調整を開始し、その結果、2000年には干ばつにもかかわらず断流は発生しませんでした。

(2)過去の事例
 世界各地の事例は、いずれも社会経済活動からの自然環境への過度の負荷が、結局、社会経済システム自体を損ないかねないことを示しています。過度の環境負荷を放置したことによる社会の帰結は、数千年前に存在した人類の文明社会の中にみることができます。
 ア シュメール(メソポタミア)文明
 現在のイラクにあたる地域にあったシュメール文明は、メソポタミア南部、チグリス河及びユーフラテス河流域の洪水多発地帯に成立していたものと考えられています。メソポタミアでは、紀元前3500〜3100年の後半には集落数の増大により都市化が進行し、豊富に得られた水を利用した小規模な灌漑農業が食料生産を支えていましたが、紀元前2800〜2700年に入ると気候の乾燥化が起こり水路の数が減少したため、新たに大規模な灌漑が必要になりました。しかし、気候の乾燥化が進む状況下で灌漑を続けた結果、灌漑用水に含まれる塩類が水分の蒸発によって次第に土壌に蓄積することで塩害が発生し、上流域では森林の伐採などもあり土壌の侵食が進み、河川に流入した土が下流に堆積することにより灌漑用水路の閉塞をもたらしたことが塩害を加速したものと推測されています。紀元前2000年頃には、大麦の収穫量がはっきりと減少傾向を示すこととなり、この時期に最後のシュメール帝国が崩壊しました。

 イ イースター文明
 イースター島は面積120km2程の小さな島で、南米西岸から3,700km、人の住む最も近い島からでも2,000km離れた太平洋の孤島です。
 イースター島に初めて人が住み着いたのは、火山が噴火を停止しておよそ400年後の5世紀頃でした。当時のイースター島には、種数は少ないとはいえ高木を含む豊かな植生が島を覆っていました。しかし、年間を通して流れる川がなく、火口湖以外には湖等もなく、人々は外から持ち込んだサツマイモと鶏により生きていくことになりました。人口は徐々に増えて、開墾や、燃料集めをしたり、生活用具、草葺き小屋、漁労用カヌーを作るために、森林を伐採しましたが、最も大きな木材需要は重い巨大な石像を島の各地の祭祀場に運ぶためのものでした。
 耕作地に肥料として投入する畜糞が不足したことに加えて植生を剥奪したため、裸地の増加による土壌流失や栄養塩の溶流が進行し、作物の収量は次第に低下しました。このため、1550年には7,000人に達した人口を支えることができなくなり、枯渇する資源をめぐり恒常的な戦乱状態となりました。イースター島の森林資源は極めて限られており、島民もそれを認識していたようですが、未完成の石像を石切り場に残したまま彼らの文明は崩壊しました。

(3)さまざまな事例が示唆するもの
 このような過去の文明の例は、人類の社会がどれだけ自然環境に依存しているかということだけでなく、環境が回復不可能なまでに破壊されたときに、文明は環境とともに滅びることを示しています。
 米国で実施されたバイオスフィア2の実験からも明らかなように、自然環境は微妙なバランスの上に成立しており、私たちの技術力・科学をもってしても、こうした自然環境を完全な管理下に置くことは極めて困難です。
 今日、温暖化・オゾンホール・酸性雨等のさまざまな地球環境の問題が表面化していますが、今までのような経済活動を継続し、環境に影響を与え続けていくことの意味を、私たちはこうしたさまざまな事例も踏まえて考える必要があります。

コラム バイオスフィア2

 平成3年(1991年)、米国アリゾナ州オラクルの近くに建てられた12,750m2の密閉されたガラス張りの施設の中で、8人の科学者が2年間を過ごすバイオスフィア2というプロジェクトが開始されました。施設の中には、砂漠、熱帯雨林、農地、海など多様な生態系を作り上げ、昆虫、受粉媒介者、魚類、哺乳類など生態系の機能を維持するための生物を選びました。ドームの中の生活は、外界と完全に隔離され、完全な自給自足で、空気、水、栄養分の循環もすべてドームの中で発生するという、一つの閉じた世界を形成していました。
 バイオスフィア2は、閉ざされたシステムの中で生命活動を研究するという、約2億ドルを投じた史上最大規模を誇るプロジェクトでしたが、開始当初からドームの中の空気の質は急激に劣化し、予想された二酸化炭素の増加だけでなく、酸素濃度の低下したことには科学者達も驚きました。酸素濃度が低下し続けた結果、17か月後には、標高5,334mの大気中で生活するのと同じ状態になり、24か月維持することも難しいという結果に終わりました。

資料:Reser, P.『Living in Biosphere Just Didn't Work Out』(1996)他

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