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第1節 

4 多様化する環境問題と対策の模索

(1) 昭和50年代の社会経済と環境問題の動向
 昭和50年代の我が国は、二度に渡る石油危機を経験してその経済の体質を一変させた。40年代後半すなわち45年度から49年度の5年間の累積成長率(実質)は約20%であったものが、49年度には戦後初のマイナス成長を経験し、50年代の後半5年間の累積成長率(実質)は、約15%に低下するなどさしもの高度成長も減速した。企業では、エネルギーの節約、人員配置の変更などを通じた徹底した減量経営が行われた。この結果、我が国は海外からの技術導入や先進国市場において成功した先例を追い掛けるキャッチ・アップ型の成長を終え、自ら技術の先端を切り開いていく新たな段階を迎えた。このような試練を乗り越えた結果、我が国経済は、外需主導、貿易収支の黒字体質といった新しい性格を持つようになった。国際化・情報化の進展に伴い、東京圏をはじめとする大都市圏にはこれまで以上の諸機能が集積することとなった。また、先端技術を活用して産業活動の高度化が進み、新たな商品が生まれ国民生活もより豊かで利便性に富んだものとなっていくとともに、国民生活における余暇時間の増加や価値観の個性化・多様化を背景に、生活の質の向上や精神的な豊かさを求める国民意識も高まっていった。
 環境政策の面では、至難と言われた自動車排出ガスの低減技術の開発に成功し、53年4月には、当時世界一厳しい53年度規制の実施を果たす一方、53年7月の二酸化窒素に係る環境基準の改定や58年11月の公害健康被害補償法の第一種地域の在り方に関する中公審への諮問など、環境行政は国民の様々な議論を呼ぶ場面に幾度か遭遇することとなった。とりわけ58年5月には、環境影響評価法案が廃案となるに至り、一部からは環境行政の後退を指摘し、環境庁の存在意義さえ問う声も出された。 
 50年代は、40年代の爆発する公害問題に緊急に対応して整備された我が国の環境行政が、成熟化時代を迎えた経済社会に対して、新たな方向性を模索した時期であったとも言えよう。この時期、経済成長の減速にも関わらず、環境の悪化は従来とは姿を変えて進んでおり、「忍び寄る公害」という言葉が流行した。
(2) 様相を変える公害と政策上の対応
ア 自動車排出ガス規制の強化
 この時期は、我が国に「世界で最も厳しい」といわれたガソリン乗用車の排出ガス規制(昭和53年度規制)が導入された時期である。今日、高度の排出ガス対策技術は日本車の特徴の一つとなっているが、それは技術の壁に苦しみながらも官民が力を合わせ一つ一つ難関を突破していくことによって初めて獲得できたものである。
 自動車は、昭和30年代以降の急速なモータリゼーションの進展を通じ国民の日常生活、経済活動にとり不可欠な輸送機関に成長する一方、大気汚染、騒音、振動等の公害問題を惹起し、昭和40年代の半ばには、自動車排出ガスによる大気汚染が深刻な社会問題となるに至り、自動車環境対策の強化が求められていた。
 この頃、米国では、1975年を目標に自動車からの排出ガスを1970年型車の1/10に削減すること、技術が間に合わない場合には交通量を削減すること等を内容とする1970年大気清浄法改正法(いわゆるマスキー法)が成立しており、その実施に向けて準備が進められていた。
 このような状況下、昭和46年9月、環境庁長官は中央公害対策審議会に対して自動車排出ガス規制の強化について諮問し、47年10月、同審議会は、審議の過程で規制実施までに実用可能な技術の開発は極めて困難との見解は一部にあったものの、ガソリン乗用車について50年度に一酸化炭素及び炭化水素、51年度に窒素酸化物についてマスキー法と同程度の規制強化を行うべき(50年度規制及び51年度規制)との答申を取りまとめた。
 48年にはアメリカでマスキー法の1回目の延期が決定し、これに呼応して国内でも50年度規制及び51年度規制の延期論が生じたが、環境庁は同年のメーカーヒアリングの結果、50年度規制の実施は技術的に可能であると判断し、予定どおり規制を実施することとした。
 一方、51年度規制については、窒素酸化物の低減が技術的に困難なため、49年時点では各社とも対策技術はまだ実験室段階を出ておらず、規制に対応できる技術開発がいつ実現するかも予測できない状況にあった。このため、49年12月、中央公害対策審議会は?規制実施を当面2年間延期するとともに、?53年度に規制を実施するため、自動車メーカーの技術開発状況を逐次評価しチェックする体制を整備すべきことを答申した。
 この答申に基づく技術評価は、50年4月に環境庁長官の諮問機関として設置された「自動車に係る窒素酸化物低減技術検討会」で実施された。当初は、53年度に規制を実施できるだけの実用レベルの技術の目途は全くなかったが、その後、自動車メーカーが総力をあげて技術開発に集中した結果、急速な進展が見られ、51年10月には53年度における規制実施の見通しが得られるに至った。この結果、53年度規制、いわゆる日本版マスキー法が実施されることとなった。
 なお、米国ではマスキー法の実施は1973年以降数次にわたり延期され、当初予定した窒素酸化物の規制値が最終的に実施されたのは1994年のことである。
 この過程を振り返ると、マスキー法レベルの規制を2年延長したことに対し環境行政の後退と批判する声もあったが、科学的な技術評価に基づく明確な政策決定が自動車メーカーによる技術開発競争を促進し、その結果、極めて困難な技術開発目標を着実に達成していくことができたとも言えよう。
イ 二酸化窒素環境基準の改定と窒素酸化物総量規制の導入
 二酸化窒素の環境基準は昭和48年に設定された。これは、健康影響に関する科学的知見が乏しい状況の下で被害の未然防止を重視し、思い切った安全性を見込んで設定したものであった。しかし、WHO(世界保健機構)の窒素酸化物クライテリア専門委員会(51年8月、東京)の開催などその後の科学的知見の充実は著しかった。このため、環境庁は、国民の健康の保護を絶対の要件として、まず、科学の観点からまとめたクライテリアに係る専門家の考え方を得て、次いで、行政において科学的知見を踏まえ総合的かつ慎重な検討をした。その結果環境庁は、環境基準を改定すべきであると判断し、53年7月「1時間値の1日平均値が0.04ppmから0.06ppmまでのゾーン内またはそれ以下であること」とする改定の告示を行った。
 この改定に際しては、「目標を緩和することにより実際の規制も後退し、汚染改善が遅れるのではないか」等の批判がなされた。国会でも再三議論が行われたほか、改定後の環境基準の取消しを求める訴訟も提起された。二酸化窒素の環境基準の改定は、科学と行政との関係が真剣に問われた機会と言えよう。
 一方、窒素酸化物に係る総量規制については、環境行政上の重要課題となっていった。しかしながら、窒素酸化物については対策の困難性、自動車等の移動発生源の存在などからその導入に反対する意見も強かった。環境庁では、対策技術の開発状況及びその評価、規制手法等について慎重な検討を進めていった。
 二酸化窒素に係る環境基準の改定はこの間に行われ、その中で「1時間値の1日平均値が0.06ppmを超える地域にあっては、1時間値の1日平均値0.06ppmが達成されるよう努める」ものとした。環境庁では、これを踏まえ、達成期限に当たる60年における二酸化窒素に係る環境基準の達成予測、固定発生源による相応の寄与の有無、固定発生源対策として総量削減を行うことの適正について判断した上で、56年6月に大気汚染防止法施行令を改正し、東京特別区等、横浜市等及び大阪市等の3地域に窒素酸化物に係る総量規制を導入した。石油危機後の厳しい経済情勢の中であったが、環境庁は議論の大きく分かれた長年の懸案に回答を出し、窒素酸化物対策は新しい段階を迎えることとなった。
ウ 総合的な交通公害対策の胎動等
 この時期、人口、産業が大都市へ集中したため、特に大都市圏において交通公害問題が深刻化していった。交通公害は、自動車、航空機、鉄道等の交通機関の運行に伴って生ずるものであり、自動車排出ガス対策にとどまらず各種の騒音、振動対策がそれぞれの交通機関ごとに講じられてきた。中でも自動車公害については、各般にわたる対策が関係省庁において進められてきたが、十分な効果をあげ得たと言えなかった。根本原因である都市集中が激化する中で無在庫経営やジャストインタイム納品等などのサービスが盛んになるにつれ、自動車などへの依存がますます強まったうえ地価の高騰や財政力の低下などの事情も重なり、大都市を中心として多くの困難を克服していかなければならない状況となった。
 積雪寒冷地帯の冬期の安全な交通確保の有力な手段として昭和40年代中頃から普及がすすんだスパイクタイヤは、50年代初期頃からは多くの都市において道路の損傷、道路標示の消失等の問題を顕在化させ、さらに、次第に、粉じん問題や騒音問題が社会問題として議論されるようになった。また、スパイクタイヤ粉じんが生活環境の悪化に加え、人の健康に悪影響を与えることも懸念された。他方、対策の面では、その使用そのものを規制し、中止しなければならないという、今までの公害対策とは異なった新たな取組が求められるという特徴がある。環境庁では、「スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律案」を提出し、平成2年6月、同法は可決成立した。これによりスパイクタイヤ使用規制のための法的措置が講じられることとなった。
エ 内海・内湾の水質総量規制の導入
 公害国会で成立した水質汚濁防止法の下での対策にもかかわらず、瀬戸内海をはじめ東京湾、伊勢湾等における水質環境基準の達成はなお困難な状況にあった。瀬戸内海では、経済の高度成長に伴いその周辺に人口、産業が集中し、水質汚濁が急速に進行し、47年の大規模赤潮の発生等水質汚濁問題が深刻化した。このような背景から、48年に「瀬戸内海環境保全臨時措置法」が議員立法により制定され、以来、工場の立地に当たってのアセスメントなど各種の施策が進められた。その後も、49年12月の水島コンビナートにおける油流出事故、52年、53年の播磨灘における赤潮による養殖ハマチの大量死などが起こり、閉鎖性水域における油汚染及び富栄養化による被害の発生防止が強く求められた。
 しかし従来の規制方式では、広域的な閉鎖性水域の富栄養化防止等の水質汚濁の防止のため、上流県等内陸部からの負荷を効果的に規制できない等の課題があった。このため、環境庁では、53年6月、「瀬戸内海環境保全臨時措置法及び水質汚濁防止法の一部を改正する法律」により、同法を「瀬戸内海環境保全特別措置法」として恒久法化するとともに、水質総量規制制度を導入した。本法に基づき54年6月から瀬戸内海、東京湾及び伊勢湾において化学的酸素要求量(COD)に係る総量規制が始まり、現在第四次の総量規制が進められているが、これまでの三次にわたる総量規制により汚濁負荷量が3割弱削減されている。
オ 湖沼での水質保全対策の強化
 湖沼は閉鎖性水域であるため汚濁物質が蓄積しやすく、富栄養化が進行するという性格を有している。このため、湖沼で水質の汚濁によるアオコの発生や悪臭、水道水の異臭味などが問題となる場合があった。しかし、水質汚濁の要因が生活系、農畜水産系など多岐にわたっているため、従来の水質汚濁防止法による対策が及ばない。このような状況の中で、琵琶湖において利水上の各種の障害が起きるとともに、特に52年以来毎年大規模な淡水赤潮が発生した。滋賀県は、地域住民による運動にも呼応して、55年10月、「滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例」を全国に先駆けて制定した。湖沼の富栄養化の場合、水質汚濁の原因に占める生活排水の割合が高く、住民の日常生活が原因となっているがゆえに、住民と連携しながら進めなければ対策効果があがらない。湖沼対策は公害対策がこのような難しい領域に踏み込んだ典型例といえる。環境庁が55年に公表した「富栄養化防止対策について」の枠組みが定着する中、「湖沼水質保全特別措置法案」は58年7月に成立し、同法に基づき霞ヶ浦、印旛沼、手賀沼、琵琶湖及び児島湖が対象湖沼に指定された。
 また、環境庁は、57年12月、湖沼の窒素及び燐に係る環境基準を告示した。これを受け、60年7月から、一定の条件にある富栄養化しやすい全国の湖沼及びその集水域を対象として窒素及び燐の環境基準や排水規制が実施されることとなった。
 水質汚濁防止法の下における水質保全行政では、工場・事業場等の産業系排水規制を中心に対策を講じてきた。ところが近年、人の日常生活に伴って排出される生活排水が都市内中小河川等における水質汚濁の原因として見過ごすことのできないものとなってきている。このため、平成2年6月には水質汚濁防止法が改正され生活排水対策に係る規定が設けられた。このような経緯を経て、今日の水質汚濁対策は、一般の家庭にまで及ぶ広がりを持つようになったのである。
(3) 未然防止への取組
ア 環境保全長期計画
 環境保全長期計画は、中央公害対策審議会答申「環境保全長期計画(公害の防止)」(昭和52年)及び自然環境保全審議会答申「自然環境保全に関する長期計画のための基本的具体的構想について」(51年)を受けて、52年5月、環境庁が50年代の環境保全行政の指針として決定したものである。
 環境保全長期計画は、大気汚染等に係る環境基準などの具体的な達成目標を明示し、目標達成のために必要な施策の方向を明らかにすることにより、計画性を持った総合的な施策の推進を図ろうとするものであるが、施策の基本的方向として、環境基準の達成維持のみならず、環境汚染の未然防止の徹底を謳った。
 長期計画は、従来事後処理に追われがちであった環境行政を反省し、未然防止の徹底を主要理念に揚げたのであるが、そのための施策として、公害防止に係る技術的な努力を行うとともに、制度面においても、環境影響評価制度を確立するなど環境の管理のための諸施策を進めるべきであると指摘した。
イ 環境影響評価の制度化への取組
(ア) 環境影響評価の定着
 30年代後半には、国民所得倍増計画(35年)や国土総合開発法に基づく全国総合開発計画(37年)を背景にして、大型コンビナートの立地等の大規模な地域開発が急速に進められ、同時に他方では深刻な公害が全国で発生することとなった。こうした中で、44年5月に閣議決定された全国総合開発計画においては、「新たに工業基地化する地域については、公害防止のための事前調査等を行い、その結果に基づいて工業立地の適正化を図る」とした。
囲み序-1-3 四日市ぜん息障害賠償事件に関する47年7月の津地方裁判所判決(1)
 同判決では、被告企業がその工業立地に当たり、「周辺地域地域に対する影響について、被告らの資力技術的知識をもってすれば、容易な事前の調査研究、観測を怠り、漫然立地した」として「立地上の過失」を認定した。40年代半ば以降は公害問題が現実に深刻化しつつある中で、工業立地に際して公害防止のための事前調査等の重要性がようやく認識され始めた時期であったと言えよう。
 環境影響評価が政府の施策として実施されるようになったのは、47年6月の「各種公共事業に係る環境保全対策について」の閣議了解からであると言える。この了解に基づいて、国の行政機関はその所掌する公共事業について、事業実施主体に対し「あらかじめ、必要に応じ、その環境に及ぼす影響の内容及び程度、環境破壊の防止策,代替案の比較検討等を含む調査研究」を行わせ、その結果に基づいて「所要の措置」をとるよう指導することとされた。
 この閣議了解を嚆矢として、以降、公有水面埋立法等の改正により、各事業法の中で環境影響評価の実施が位置づけられた。また、建設省、運輸省、通産省において、それぞれの手法により、環境影響評価が行われていった。
(イ) 地方公共団体等における取組と法制化の要望
 地方公共団体においても、47年の閣議了解に基づき、国に準じて所要の措置を行うよう要請されたことなどを契機として、多くの団体が環境影響評価の制度化を進めていった。このうち条例については51年の川崎市、要綱については48年の福岡県を始めとして、それぞれ制定が進められた。その一方で、国に対し、国が実施し又は関与する大規模な事業については、法律で全国統一的に環境影響評価を実施すること、環境影響評価についての権威と信頼のあるルールを確立することなどを内容とする要望がなされた。
 国際的には,OECD理事会が1974年11月に「重要な公共及び民間事業の環境への影響の分析」に関する勧告を行い、その中で、「環境の質に大きな影響を与えると思われる重要な公共及び民間事業の環境に対する影響を予測し、明確にするための手続き及び方法を確立すること」を加盟各国に勧告するとともに、さらに1979年には、環境影響評価の手続き、手法等の確立を内容とする「環境に重要な影響を与える事業の評価」に関する理事会勧告を行った。
(ウ) 国における取組
? 政府部内における調整
 我が国においては、昭和47年6月の閣議了解以降、公有水面埋立法等の個別法、事業官庁による行政指導等、地方公共団体における条例等に基づき環境影響評価に係る経験が積み重ねられてきたが、これらの制度は、手続き等が統一的な内容となっておらず、また、評価手順等が十分整備されていないものもあり、国、地方を通じて統一的な手続きに基づく制度を確立する必要性が高まっていった。
 このような情勢を受け、環境庁は50年に中央公害対策審議会に対して「環境影響評価制度のあり方について」諮問する一方、51年以降、法制化に向けての政府部内の調整を進めた。
 政府部内における法案の取りまとめを受けて、政治の舞台での審議が行われることとなった。しかし、法案の国会提出に反対する意見は強かった。最大の論点は発電所の取扱いであった。発電所について環境影響評価法の手続きが課されることになれば、電源立地の遅延が生じ、その結果、国のエネルギー政策にも支障が生ずる等の主張が強かったのである。議論は発電所を法案の対象からはずすかどうかという点に集中し、政府と与党との調整の結果、発電所を政府原案から削除することで合意がなり、56年4月、法案は国会に提出されることとなった。こうした経緯について、当時の新聞は、「骨抜きで提出の意義薄れる」、などとして発電所の除外とこれを許した環境庁の姿勢を強く批判した。
? 国会における審議と廃案
 法案の国会審議は発電所の取扱いに関する野党の反発等から必ずしも順調に進まなかった。57年、第96回国会に至り、衆議院環境委員会で本格的な審議が進められることとなったものの、同法案は、58年11月の衆議院の解散により審議未了、廃案となった。
 地方公共団体は法律の再提出・早期制定を要望したが、他方、経済界は、慎重な取扱いを求めた。こうして調整が進められたが、与党内における見解の一致を見るには至らず、法案の再提出は見送られることとなった。
 法案再提出の見送りという与党の方針を受け、政府は、法制化の問題を含めて引き続き検討するとともに、当面の事態に対応するため行政ベースで実効ある措置を講ずることとした。こうして、59年8月、「環境影響評価の実施について」の閣議決定を行い、政府として法案の要綱を基本とした統一的なルールに基づく環境影響評価を実施することとなった。
 閣議決定は行政府における最も権威ある意思決定の方式であり、我が国における環境影響評価の歩みの中で一つの新しいスタートとしての意義を有するものであるが、一方で、制度の根拠が法律ではなく閣議決定であるということから、制度上いくつかの制約を抱えていたことも事実である。こうした制約としては、閣議決定は、事業者に対する拘束力を欠いており、事業者の理解と自主的協力が制度の適切な運用の大前提とされざるを得ないこと等を指摘することができる。このような問題も抱えながらも我が国での環境影響評価の経験が積み重ねられて、第2節で見るように更に検討が進められ、我が国の環境影響評価法が成立したのは、OECD諸国では最後発となる平成9年6月であった。
(4) 快適環境の創出
 快適環境づくりのための施策展開は、OECD(経済協力開発機構)環境委員会が昭和51年から52年にかけて実施した日本の環境政策のレビューを1つの契機とすると言えよう。このレビューでは、「日本は数多くの公害防除の戦闘を勝ち取ったが、環境の質を高める戦争では、まだ勝利をおさめていない」と指摘し、公害を防除するだけでなく、さらに進めて環境の快適さ(アメニティ)を積極的に高めていく必要性があることを示唆した。
 環境庁では、具体的な施策として55年から「快適環境シンポジウム」を毎年開催することとした。快適環境づくりの取組は、まず地域に芽生え、地方公共団体や地域住民が中心となって、多種多様に展開されてきた。このような各地の取組を積極的、実効的に支援するために59年度に創設されたのが、「アメニティ・タウン計画」策定事業に対する助成事業である。住民に最も身近な市町村に直接に支援措置を講じたことなど、この事業の果たした役割は今後の環境施策においても評価され、参考とされるであろう。63年には、アメニティ・タウン計画を策定している市町村などが中心となって「全国アメニティ推進協議会」が発足した。
 なお、このアメニティへの取組は、平成5年になって環境保全の基本法制が大改革される際に新たな基本法制の目標として環境の恵みの持続的な享受が据えられる最初の糸口となった。
 なお、国土庁では、平成8年に「水の郷百選」を認定し、水を守り水をいかした地域づくりを推進している。
(5) 自然環境の保全と適正な利用施策の進展
ア 自然保護のための費用負担
 開発圧の高まりや自然保護の強化等に伴い、自然保護のための費用をどう負担するかについて検討を深める必要が高まった。環境庁は、自然環境保全審議会自然環境部会の中間報告の趣旨に沿って自然公園等の核心部分を公有地化するための民有地の買い上げ制度の拡充、国立・国定公園等内の土地に関する税制上の特例措置の強化を行った。また、国、地方公共団体、民間が基金を出し合い、利用者負担による自然保護の考え方に立つ(財)自然公園美化管理財団を設立し、美化清掃や普及活動等に関して行政の及びにくい部分についてキメの細かい事業を行うなどの各種施策を実施した。
イ 自然保護への国民の参加の拡大
 すぐれた自然を有する自然公園等における自然破壊が大きな社会問題となる一方、日常生活圏においても身のまわりの慣れ親しんだ自然や歴史的な環境が急速に、失われつつあった。このような状況のもとで、イギリスの「ナショナル・トラスト」に示唆を受け、我が国でも50年代には、募金活動等を通じ広く国民の参加を得て、身の回りの慣れ親しんだ自然や歴史的な環境等を買い取るなどしていこうとするナショナル・トラスト活動が生まれてきた。知床(北海道)や天神崎(和歌山県)等においては、こうした活動が実際に行われている。60年及び61年には優れた自然環境の保存・活用に関する業務を行い適正な運営がなされている法人に対して金銭や相続財産を寄付した場合の税制上の優遇措置を設ける等の措置が講じられた。また、第3回自然環境保全基礎調査の一環として59年に実施した身近な生きもの調査では、積極的に国民の参加を求める方策が取られ、全国から10万人もの人々が参加した。これは、国民の身近な自然に対する関心を換起するひとつの大きな契機となった。
ウ 自然とのふれあいの増進
 生活環境や生活様式の急激な都市化に伴い、身の回りに人工的な環境が増加し、日常生活において自然とふれあう機会が減少するなかで、自然志向型の野外レクリエーション需要が飛躍的に増大していた。このような状況のもとで、環境庁は、自然とのふれあいが自然への理解を深め、自然を慈しむ心を育てるうえで欠かすことのできないものであるとの認識に立ち、積極的に自然とのふれあいの場を確保・創出することを重要課題として捉えるところとなった。50年代の行政では、主に自然公園を中心として、各種の野外レクリエーション施設の整備や「自然に親しむ運動」などが始められた。
エ 自然保護地域の管理実務等の充実
(ア) 自然公園の管理の充実
 国立、国定公園の保護を図る観点から、50年には特殊植物等保全事業及び鳥獣保護事業に関する国庫補助制度を創設し、また、51年には清掃活動事業に関する国庫補助制度を創設した。さらに、55年には国立公園の現地管理業務の計画的遂行等を目的とした管理計画を作成することとし、56年には事故防止対策検討調査等を行うなど各種の措置を講じた。
(イ) 自然環境保全地域の指定
 47年6月に制定された「自然環境保全法」により新たに創設された自然環境保全地域の指定制度により、原生自然環境保全地域、自然環境保全地域、都道府県自然環境保全地域の指定作業が逐次進められた。
(ウ) 鳥獣保護の強化
 鳥獣の保護管理の強化と狩猟の一層の適正化については51年、自然環境の重要な構成要素である鳥獣の大面積の保護区の設定、集団渡来地の保護区及び集団繁殖地の保護区を設定できるよう鳥獣保護事業計画の基準を改正した。一方、53年には、全国一律の免許で都道府県別の登録とする狩猟免許制度の改正を行った。
(エ) 絶滅のおそれのある野生生物の保護
 高度経済成長や開発に伴う生息環境の悪化や乱獲等により、多くの種が絶滅の危機に瀕することとなった。これまでも、トキ、アホウドリ、イリオモテヤマネコ等については、国設鳥獣保護区の管理等として取り組まれてきたが、他の絶滅のおそれのある野生生物についてもその保護対策に取り組む必要性が高まってきた。このような必要性を踏まえ、62年に「絶滅のおそれのある野生動植物の譲渡等の規制に関する法律」が制定されるに至った。
(6) 国際協力による野生生物保護の進展
ア ワシントン条約への対応
 特定の野生生物種が、過度の国際取引によって絶滅の危機にある点を憂慮し、国際的な規制の枠組みの必要性が認識(勧告)されたのは1972年(昭和47年)6月のストックホルムにおける「国連人間環境会議」の場であった。翌1973年には「野生動植物の特定の種の国際取引に関する国際条約採択のための全権会議」が米国ワシントンにおいて開催され、3月3日、「絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約」(「ワシントン条約」)が採択された。この条約は絶滅のおそれのある野生動植物の国際取引を規制することによりそれらの種を保護することを目的としている。日本における条約発効日は、昭和55年11月4日であった。
イ ラムサール条約への対応
 1971年、イランのラムサールで「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」(「ラムサール条約」)が採択された。この条約の締約国の責務は「登録簿」に最低1か所の国内の湿地を登録し、国内法によってその湿地を保全することである。この保全にはすべての開発行為や利用を禁止するような厳しい意味はなく、むしろ適正な利用(Wiseuse)を是とするものである。我が国は同条約に55年(1980年)6月加入し、釧路湿原を我が国最初の登録湿地とした。

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