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第1節 

1 戦前の環境問題の変遷と対策の系譜

 明治維新後、殖産興業のスローガンの下で近代的な製造技術が導入され、都市では工場が建てられ、生産活動が展開され始めた。しかし、早くも明治10年代には、工場周辺のばい煙、悪臭被害が発生し始め、生産の拡大につれて深刻の度を加えていった。また、山間部の鉱山や精錬所でも排水や排ガス被害が始まった。殖産興業と急速な近代化は、我が国の自然環境にも急激な変化をもたらした。産業開発に伴う人口の都市集中のため、旧来の神社仏閣や各地の名所旧跡の森林や自然海浜が次々と失われていくとともに、都市の無秩序な開発は、災害に対する脆弱性を高めてしまうことにもなった。
 このような状況に対する公害対策として、行政ではまず府県のレベルで立地規制などが先行し、国レベルでは、明治44年に「工場法」が制定された。同法は、一定規模以上の工場の立地を許可に係らしめると同時に、操業に関しても種々の監督処分を行える仕組みを備えていた。しかし、経済の拡大が急がれていたことに加え、対策技術の不足などから、有効な対策はなかなか講じられなかったと言える。当時、既存の製造設備の改善以外に採りうる対策は、被害者との示談や和解、場合によっては被害者側の移転であった。足尾銅山の鉱毒被害と当時採られたその対策(小額での永久示談(明治28年)、遊水池化(同40年))は、この象徴的な事例と言えよう。
 鳥獣の保護や狩猟に関する制度は、我が国には古くから存在していた。例えば、仏教による殺生戒の普及等を背景として出された奈良時代の殺生禁断の令、江戸時代の5代将軍綱吉による生類憐れみの令等である。これらの狩猟に関する禁制は明治時代に入ってから撤廃され、混乱が生まれた。そこで、鳥獣猟規則や狩猟規則を経て、明治28年には「狩猟法」が制定されたが、これは専ら狩猟についての保安上の要請及び狩猟免許制の維持を目的としていた制度であった。その後、大正7年の法改正により保護鳥獣を指定する制度を廃止し、指定された狩猟鳥獣以外の鳥獣はすべて狩猟禁止とするなど鳥獣の保護面での充実が図られ、鳥獣行政は新しい展開を始めた。明治時代、内務省が禁伐林の指定を始め、これはその後の明治30年の「森林法」の制定に伴い、保安林制度となった。また、国有林野については、大正4年に国有林独自の森林の保護制度として保護林を設け、原生的な森林等の保護を図ることとされたが、保安林制度以外の法制度は、「史跡名勝天然紀念物保存法(大正8年)」や「国立公園法(昭和6年)」を待たねばならなかった。
 このように、日本経済の勃興期であったこの時代には、生産の拡大に高い価値が与えられ、深刻な公害被害が生じてから、被害者の受忍と犠牲の上で問題が「解決」されることとなりがちであった。その上、乏しい公害防止技術の下では有効な対策を講じることができず、経済の拡大は直ちに公害が拡大することを意味していた。さらに、日本は戦争の時代へと突入し、工場での生産の拡大は何物にも優先されるようになった。黎明期の自然保護行政も徐々にその力を失っていった。例えば、国家総動員法(昭和11年)の下で、国立公園は国民修練の場として位置付けられ、19年には、国立公園法施行の事務も中止されてしまった。

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