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第1節 

1 地球温暖化防止京都会議開催までの経緯

(1) 気候変動枠組条約の作成及び発効まで
 人間の活動によって発生する二酸化炭素等によって地球が温暖化することは既に19世紀から指摘されていた。しかし、科学者によって地球温暖化問題が人類に広範かつ深刻な影響を与えることが警告されるようになったのは、二酸化炭素濃度上昇の観測データが蓄積されてきた1970年代終わり頃からである。その後、さらに科学的知見が集められ、1980年代末には多くの国際会議において地球温暖化防止が国際的に重要な政策課題として議論されるようになり、徐々に地球温暖化対策に関する国際的な対策を定める条約の作成を求める気運が高まってきた。そして、1989年(平成元年)11月にオランダ政府の主催により開催された「大気汚染および気候変動に関する閣僚会議」において、遅くとも1992年(平成4年)の地球サミットまでに地球温暖化防止の枠組みとなる条約を採択すべきであること等が盛り込まれた宣言が取りまとめられた。
 その後、1990年(平成2年)8月に取りまとめられたIPCCの第1次評価報告書での科学的知見等をもとに、1991年(平成3年)2月から条約作成のための政府間交渉会議が5回にわたり開催され、1992年(平成4年)5月9日に、先進国が西暦2000年までに温室効果ガスの人為的な排出量を1990年レベルに戻すとの目的を持って政策・措置を講じ、その実施状況を報告することを約束すること等を内容とする「気候変動に関する国際連合枠組条約(気候変動枠組条約)」が採択された。直後(同年6月3〜14日)に開催された環境と開発に関する国連会議(地球サミット)の期間中に155カ国が同条約に署名し、その後各国において次々と締結され、1994年(平成6年)3月に発効した。
(2) ベルリン・マンデート
 上記の気候変動枠組条約における先進国の約束のうち、排出量の1990年レベルでの安定化については、法的拘束力のない努力目標に過ぎないこと、また2000年以降の具体的取組に関する規定がないことについての問題が早くから指摘されていた。
 この点を踏まえ、1995年(平成7年)3月〜4月にベルリン(ドイツ)で開催された同条約の第1回締約国会議(COP1)において、2000年以降における人間活動に伴う温室効果ガスの排出を抑制又は削減するため、先進国の温室効果ガスの排出量について数値目標を設定し、その達成のために先進国が取るべき政策、措置を規定する等、地球温暖化防止のための新たな国際的取組について定める議定書又はその他の法的文書を、1997年に開催される第3回締約国会議(COP3)において採択することが決定された。これがいわゆる「ベルリン・マンデート」と呼ばれるものである。
(3) 京都会議に向けた事前交渉
 ベルリン・マンデートを受け、COP3に向けた準備会合として、1995年(平成7年)8月から1997年(平成9年)11月まで計8回にわたる、ベルリン・マンデート・アドホックグループ(AGBM)会合及び1996年(平成8年)7月にジュネーヴで開催された第2回締約国会議(COP2)において、議定書又はその他の法的文書の内容に関する国際交渉が行われた。
 特に、COP2では、温室効果ガスの全地球規模での相当(significant)な削減を行うべく、法的拘束力のある数量的な排出抑制・削減目的を含む議定書又はその他の法的文書を第3回締約国会議で採択すべきである、とする閣僚宣言がまとめられるなど、これらの会合を通じて、温暖化防止対策の強化の重要性について共通の認識が醸成された。しかし、実際には、温室効果ガス、とりわけ二酸化炭素の排出削減が各国の国内経済や国民のライフスタイルの根幹に大きな影響を与えることが懸念され、また各国の利害も多様化していることから、交渉当初から各国の主張は大きくばらつき、困難な交渉となった。交渉の主要な論点ごとに各国の見解の相違について要約すると以下のとおりである。
ア 先進国における温室効果ガスの排出削減のための数値目標
(ア) 国ごとの目標設定
 省エネなど過去の排出削減努力や国情の違いを勘案し、国ごとに差のある目標を設定すべきとする「差異化」の考え方(我が国、オーストラリア、ノルウェーなどが主張)に対し、EU、米国等は、差異化の考え方には理解を示しつつ、「差異化」した目標の設定につき各国が短い期間で合意形成することは困難であるとして、各国がある基準年の排出量の一定割合を等しく削減しなければならないとする「一律削減」の考え方を主張し、対立した。
 また、EUは、一つの共同体として他の締約国と同等の責務を果たすとの考えの下、加盟各国が削減を分担し、EU全体として一律の削減率を達成する「EUバブル」を提案した。しかし、米国やカナダは法的責任の所在が不明確であることから、また我が国及びオーストラリアは、責任の所在の問題に加え、EU内外で扱いが異なることは不衡平であることからこれに慎重な態度をとった。またEUバブルでは、例えばポルトガルにおいて40%もの温室効果ガスの排出増加を認めているが、これは途上国の大幅増加を認める要因になりかねないとの問題点も指摘された。
(イ) 対象とする温室効果ガスの範囲
 我が国は、当面は対象を最も重要であり、測定精度が比較的高い二酸化炭素のみにとどめるべきと当初主張したが、EUは二酸化炭素に加え、メタンや亜酸化窒素を対象に加えて、温暖化係数で重み付けをして合算した温室効果ガスの総量を削減するべきと主張し、米国はこれら三種類のガスにさらにHFC(ハイドロフルオロカーボン)、PFC(パーフルオロカーボン)、SF6(六フッ化硫黄)も加えた計6種類の温室効果ガスを対象として合算する考え方を主張した。
(ウ) 吸収源の取扱い
 森林等による二酸化炭素の吸収をどのように取り扱うかについて、米国、オーストラリア等は、森林保全のインセンティブを与えるためにも、これを排出量の計算に算入しようとした(ネットアプローチ)が、我が国や小島嶼国連合(AOSIS)、EUは、吸収量の推定に伴う不確実性を理由として、例えば広大な森林面積を有する国については、吸収量の推定方法如何によって誤差が大きく発生し、排出削減量のかくれみのになりかねないとして、当面、排出のみを算定すべきと主張した(グロスアプローチ)。
(エ) 目標達成の柔軟性
 各国に定められた温室効果ガスの削減目標の達成を確実にするため、対策の費用対効果を大きくするような、様々な柔軟性のある方法で達成することを認めようとする提案が米国などから行われた。あらかじめ各国に割り当てられた温室効果ガスの排出量(排出割当量)の一部を他の国に譲り渡したり、他の国の排出割当量の一部を譲り受けることを認める「排出割当量の取引」、複数の国が共同で温室効果ガス排出削減の事業を実施し、その結果達成できる温室効果ガスの削減量の移転・獲得を認めるという「共同実施」、目標期間中の排出割当量を次の期間へ繰越しする「バンキング」、あるいは次の目標期間から前借りする「ボローイング」といった提案である。
 これらのうち、一国の目標達成に当たって、他国での削減量を移転し算入する考え方については、EUは、国内での実質的な排出削減を求めて慎重な姿勢をとったが、交渉の過程で支持に回り、先進国はおおむね柔軟性の考え方を支持することになった。しかし、途上国は、先進国が自国内の対策に努力すべきであるとしてこれに強く反発した。
(オ) 削減のレベル
 上記目標の枠組みが固まらないこともあり、各国とも具体的提案を打ち出せないまま交渉が進展したが、比較的早期に目標を発表したのがAOSIS及びEUであった。1994年(平成6年)9月に、地球温暖化の影響をより深刻に受けることが予想されるAOSISは、2005年までに1990年比20%削減する案を提案し、また1997年(平成9年)3月に、EUは2010年までに1990年比15%削減する案を提案(後に2005年までに1990年比7.5%削減する案を提案)した。
(カ) 数値目標に関する日本案、米国案の提示
 我が国は、1996年(平成8年)12月のAGBM第5回会合において、数値目標に関し、各国が目標期間における1人当たりの二酸化炭素排出量を一定値以下とするか、二酸化炭素排出量を1990年レベルに比べて一定率削減するかのいずれかを選択するという提案をした。その後の交渉を踏まえ、具体的な期間、目標値を示していないこと、また削減目標を選択式としたことについて、再検討を行い、下記の内容の提案を1997年(平成9年)10月に行った。
・ 2008年〜2012年を目標年に、1990年比5%削減を基準とする。
・ 各国の目標は、GDP当たりの排出量、一人当たりの排出量、及び人口増加率により差異化する。
・ 遵守条項に一定の柔軟性を持たせるとともに、一定の条件下で排出 割当量の取引、共同実施、排出割当量の繰越し、前借りを導入する。
 また、米国は数値目標についての提案をCOP3直前まで行っていなかったが、我が国が再提案を行った直後のAGBM第8回会合の開催中に、柔軟性のある措置等の導入等を前提として2008年〜2012年に6種の温室効果ガスの排出量を1990年レベルに戻すこと、その後5年間(2013年〜2017年)に1990年レベルを下回る水準に削減することを提案した。
イ 政策・措置
 ベルリン・マンデートでは、数値目標達成のために採用すべき政策措置の規定を、条約よりも詳細化することとなっていた。これを受け、EUは、炭素税、自動車燃費基準のように、各国が国際的に協調して実施することにより効果が期待できる個別具体的な政策措置を共通化、義務化すべきと主張したのに対し、米国は国情が各国ごとに異なることから、これを無視した政策措置の共通化、義務化はかえって市場経済の競争原理の観点から不適切になるとして、個別具体的な政策措置の共通化、義務化という考え方に反対し、各国の自主的な選択に任せるべきと主張した。また、我が国は、両者の中間的な立場から、5つの対策分野において、附属書に掲げる政策・措置の中から各国が適当な政策を採用し、措置をとり、その成果について国際的に審査すべきと主張した。
ウ 途上国の取組強化
 上記ア、イは先進国(条約の附属書?に掲載された国)の取組強化に関する争点であるが、一方、今後人口増加や経済成長に伴って温室効果ガス排出量の伸びが予想される途上国についての取組強化も重要な争点であった。ベルリン・マンデートでは、すべての締約国の既存の義務の履行の促進を図ることとしていたが、米国は、近い将来に途上国も含めてすべての締約国について法的拘束力を伴う目標を定めるとの方針(いわゆる「エボリューション」)を議定書に加えるべきであると主張した。これに対し途上国側は、途上国に新たな義務を課さないとするベルリン・マンデートを超えるものであるとして強く反発した。また、先進国側は少なくとも自主的な取組を議定書で規定すべきと主張したが、途上国側は、まず対策を実施すべきであるのは先進国であり、仮に途上国が対策を実施するとしても、先進国による十分な技術移転と資金援助が不可欠であると真っ向から反対した。
 上記のような各国の見解の対立を埋めるため、先に述べたとおり、京都会議直前の1997年(平成9年)10〜11月までの間に8回にわたりAGBM会合が開催され、精力的に議論が行われた。また、各国間の意見交換や意見調整を効率的に進めるために、COP3をホストする我が国は、交渉進展のためのリーダーシップを果たすため、主要先進国間の事務レベル非公式会合を1997年(平成9年)4月及び9月に東京で開催した。さらに、COP3直前の11月には、閣僚レベルの主要先進国・途上国間非公式会合を同じく東京で開催し、主要各国間の合意形成に努めた。
 これらの事前交渉の結果、論点や選択肢が明確化され、各国の意見の共通点と相違点が明らかになったが、主要論点については結局COP3に解決を委ねなければならなくなり、COP3において議定書が採択できるかどうか、予断を許さない状況であった。

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