1 この四半世紀の変化
昭和47年(1972年)6月5日から2週間、ストックホルム(スウェーデン)で、世界114カ国の参加の下に国連人間環境会議が開かれてから、今年はちょうど25年目に当たる。また、平成4年(1992年)6月3日から14日まで、リオデジャネイロ(ブラジル)で世界約180カ国の参加の下で環境と開発に関する国連会議(地球サミット)が開催されてからちょうど5年目に当たる。
国連人間環境会議は先進国、発展途上国及び国際機関が一堂に会し、共通の問題として環境問題を議論する初めての会議であった。同会議においては、人間環境宣言が採択され、日本代表の大石環境庁長官(当時)は、公害問題についての我が国の経験と対策を紹介し、人間環境宣言を支持し、国際協力の推進、世界環境週間の創設(「環境の日」として実現)などを提唱した。
同会議開催以来、地球サミットの開催等を経て、25年が経過した。この間、何が変わったか、また、何が変わらなかったかを見ていくことは、今後の環境行政を考える上で意味があろう。
組織面では、その前年(昭和46年)7月に設置された環境庁の組織・人員の充実が次第に進められていき、発足時501人であった定員は、平成8年度末には約2倍の1000人に達した。また、法制度面では、規制を中心として公害対策を総合的・計画的に行うことを目指して昭和42年に制定された公害対策基本法に代わり、新たな環境政策に対する要請に応えるために、地球サミットの成果を踏まえて、平成5年に新たに環境基本法が制定されるに至った。
それでは、環境政策をめぐる諸状況にはどのような変化があったのだろうか。
(1) 問題構造の変化
変わった点として、?環境問題の時間的・空間的広がり?環境問題の構造の変化の2点が指摘できる。
ア 環境問題の時間的・空間的広がり
四半世紀前、最も深刻な環境問題は、多数の人々の生命や健康に直接影響を与えるまでに悪化した産業公害問題であった。このような特定の大規模な発生源によってもたらされた公害問題は、社会的問題として大きな政治課題となった。また、公害問題に加えて、自然公園などにおける開発行為等による自然破壊も大きな社会問題となった。
このときの公害による被害に苦しむ人々の救済はなお続くものの、現在では、新たな激甚な問題が生じることはほぼない状況であるということができよう。
一方、昭和50年代に入って、旧来の産業公害に代わって、自動車排出ガスや生活排水などに起因する都市生活型公害や廃棄物の量の増大等が環境問題の中心となるとともに、国立公園等の貴重な自然環境の保全に加え、人々の身近な自然環境の保全の重要性が認識されるようになった。さらに、昭和60年代の終わりからは地球温暖化やオゾン層の破壊、森林の減少を始めとする地球環境問題や野生生物の種の減少等生物多様性の保全の問題が、国境を越え世代を越えた影響を及ぼす人類の生存基盤そのものをゆるがす問題として、新たに環境問題の中心課題として浮かび上がってきた。
イ 環境問題の構造の変化
旧来型の産業公害においては加害者が企業・事業者であり、被害者が特定の地域の住民であることが多かったが、都市生活型公害や地球環境問題においては、一般市民の大量消費・大量廃棄型の日常生活や通常の産業活動に伴う行動が環境負荷の発生原因となるため、特定の企業だけでなく、すべての企業や一般市民が加害者であり、かつ被害者となりうるという状況が生じてきた。このため、「産業」対「地域住民」の鋭い対立の構図に代わって、エネルギー・食糧・人口問題を始め、現代の生活様式からそれを支える社会システム自体に至る様々な事柄が、相互に関連しながら、多面的・複合的に環境に影響を与えることが認識されるようになった。このため、環境対策も、一企業内や産業界における対策に留まらず、広く、大量消費・大量生産型の社会システムや生活様式を視野に入れなければならないようになった。
加えて、地球環境問題が重要視されるに伴い、これまで内政問題と考えられてきた環境分野においても、環境政策の国際的連携の必要性が増し、我が国の政策を検討する場合に諸外国の動向を考慮に入れる必要性が高まってきた。例えば、地球温暖化対策を効果的に行うためには国際的な環境政策の協調が重要な要素になっている。
また、温暖化問題等の地球環境問題や化学物質による健康影響などにおいては、各種の不確実性が混在しており、因果関係に不確実性が残されているだけではなく、被害の不確実性もある。しかし、いったん影響が生じたときは、甚大で広範な影響、場合によっては取り返しのつかない被害が生じることとなるため、不確実性があるからといって対策を遅らせるわけにはいかない。このような不確かさを前提とした上で、影響の発生を避けるために未然防止を旨として施策を講じる必要が生じてきた。
(2) 対策や国民意識の変化の遅れ
上記のとおり、環境問題の構造が大きく変化したにもかかわらず、その対策や国民意識の改革といった点では、大きな進展が見られたとは言い難い。
ア 環境の質の改善の停滞
昭和51年から52年(1976年〜77年)にOECD(経済協力開発機構)環境委員会は、我が国の環境政策を分析・評価する環境政策レビューを行った(邦訳「OECDレポート 日本の経験−環境政策は成功したか」昭和53年)。同レポートは、昭和51年の状況について「NOx、BOD、CODにはまだ大きな減少が見られない」と記述している(邦訳p.109)が、その後も、大きな改善がみられていない。
例えば、二酸化窒素濃度の年平均値は、近年ほぼ横ばい状態が続いており、また、都市域河川のBOD濃度、海域のCOD濃度ともに高い水準でおおむね横ばいとなっている。また、快適な環境(アメニティ)の創造についても、国民が満足のいく水準に達しているとはいい難いであろう。
イ 政策手法と政策対象のずれ
昭和52年のOECDレポートは、さらに、我が国の環境政策の特徴として、中央政府・地方自治体が環境基準・排出基準を設定し、企業を指導するという「規制・計画メカニズム」への依存を指摘しているが、この指摘は現在でもそのまま当てはまる。この手法は、当時の主な環境汚染源が企業であり、行政の指導に対して企業が協力的であるという状況を背景として、極めて有効であった。しかし、前項で述べたように、環境問題の構造が変化し、自動車排出ガス・廃棄物・生活雑排水など通常の活動から不可避的に生じるものに起因する問題が環境問題の中心的な位置を占めるようになった現在においては、規制的手法のみによって問題を解決することには限界があり、経済的手法などの有効性が期待されている。しかし、新たな課題に適した新しい手法の導入は進んでいない。
ウ 国民意識の停滞
(ア) 意識変化の遅れ
汚染者負担の原則(PPP)は、OECDが1972年に提唱し、国際的に確立された原則であるが、我が国においては、単に産業公害防止費用に留まらず、回復費用や補償費用も含めて原因企業が負担すべきであるという考え方として広く普及し、国民の意識に定着した。我が国においてPPPは、産業公害における企業の責任追及とその防止施策の推進に大きな役割を果たした。環境保全のための費用負担の基本的な原則であり、今後とも遵守していく必要がある。
一方、我が国においては、PPPが普及したことによって、環境問題に関しては企業が主要な原因者であり、企業のみがその改善に関する責任を持つべきであるという考え方も定着していった。このため、環境問題の構造自体が変化した現在でもなお、環境問題の解決には汚染企業が責任を持つべきだという考えは根強い。そのために、一般の事業者や消費者としての一般市民が環境問題の解決のために適切な負担をする必要があるという意識は希薄なままである。この一般の事業者や市民に対して環境問題の重要性を訴えるだけではなく、いかに応分の負担を納得してもらえるように訴えていくかがこれからの課題として残されていると言えるであろう。
(イ) 環境への需要の非顕在化
前述の昭和52年のOECDレポートは、昭和40年代末から公害問題の解決が国民的課題となったことに関して、「『外見上の』社会的要請と呼ばれるものは公害防止に向けられていたが、『真の』社会的要請は快適さの増大にあった。」と分析している。このような、生活環境の快適さについては、個人の日常生活の場においては対策の必要性が感じられることがあっても、我慢できる範囲内だからなどの理由で、社会問題としては表面化しないままに見過ごされる場合もあると考えられる。
例として、公共の場における騒音の問題をとりあげると、公共の施設・空間での注意放送などについては、工場・事業場等からの騒音やピアノの音などの家庭生活から生じる騒音とは異なり、ほとんど問題視されてこなかった。昭和51年に石原環境庁長官(当時)が、無秩序な広告看板、公共の場所での不要な放送などを取り上げて、「感覚的な暴力をなくそう」と提唱した(「日本は快適か」快適な環境懇談会事務局編 昭和52年)が、一般には「安全確保のために必要な措置」、「主観的色彩の強い問題」等と考えられ、特に大きな問題とはされないまま現在に至っている。一方、色彩については、町の景観上の問題としてとらえ、彩度などを条例で規制する動きが起きている。
エ 継続する南北対立
すでに、1972年の国連人間環境会議において、環境と開発をめぐる先進国と途上国の対立が同会議における主な対立点であった。途上国の立場は、公害問題は先進国のぜいたくな悩みであり、先進国は環境問題を理由に、途上国が自らにとっての最大の環境問題である貧困から脱却するために開発を進めることを妨げるべきではないというものであり、中国代表は「環境の汚染や破壊を恐れるあまり、我々独自の産業を築き上げることを断念してはならない」と演説している。
その後の地球環境問題の顕在化や、一部の途上国における工業化の進展による公害の深刻化などの状況の変化を踏まえて、途上国の立場は大きく変化した。地球温暖化対策の方針を定める気候変動に関する国際連合枠組条約に向けての会議においては、途上国からは、環境問題は人類共通の課題であるが、原則として先進国の負担と責任において対処すべきであり、先進国は途上国の環境問題に対処するために途上国に資金と技術を提供すべきであるという主張がなされた。こうした考え方は、地球サミットにおける成果としてまとめられたリオ宣言第7原則で「各国は共通のしかし差異のある責任を有する。」とされたように、世界の共通認識となっている。
このように、考え方に変化は見られるものの、先進国と途上国の対立の構図そのものは解消されることなく引き続き存在しており、具体的な施策においては、必ずしも先進国と途上国との役割分担と協力が適切に行われているとは言いがたい。
以上のように、現在の環境問題自身の構造は大きく変化しているにもかかわらず、対策の対象となる各主体の考え方や現状認識がその変化に追いついていないことが分かる。また、政策の有効性の観点から見た場合にも、新たな手法が必要となっているにもかかわらず、対応できていない状況にあることが分かる。環境問題の構造の変化に、対応や国民の意識がついていけないのはなぜだろうか。また、変化を妨げている要因は何だろうか。その考察の前に、まず、環境危機の現状を見る必要があろう。