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第2節 

1 古代文明の盛衰の歴史

 古代文明の盛衰と環境の関係については、必ずしも明確に分かっている訳ではなく、種々の見解が必ずしも一致する訳でもない。しかし、環境の変動が文明の成り立ちに影響を及ぼしてきたこと、文明の活動が環境に影響を及ぼしてきたこと、そして少なくともいくつかの文明において、文明自身が及ぼした影響による環境の変化が文明の滅亡の有力な原因となっていったと考えられている。
 以下に、いくつかの過去の文明の事例を、これまでなされてきた内外の研究成果を踏まえたいくつかの文献に基づいて紹介し、その盛衰と環境との関係について考えてみよう。
(1) シュメール(メソポタミア)文明
 シュメール文明は最古の文明の一つであり、メソポタミア南部で確認されている最初の集落跡は紀元前5300年頃に遡る。この文明はメソポタミア南部、チグリス河及びユーフラテス河流域の洪水多発地帯に成立していたものと考えられている(第1-2-2図)。メソポタミアでは、ウバイド文化の紀元前4300-3500年頃、治水潅漑農業が成立し、その後の諸都市の起源となる集落が形成され、ウルク期(紀元前3500-3100年)の後半には集落数が増大し都市化も進行したとされている。ウルク期には、豊富に得られた水を利用した小規模な潅漑農業が食料生産を支えていたが、初期王朝期(紀元前2800-2700年)に入ると気候の乾燥化が起こり多くの支流に分かれていた水路の数が減少し、流路も直線的になっていったため、水のない土地に人工的な運河によって水を引く必要性が生じたと言われている。これにより、潅漑のための大規模な土木工事が必要になり、結果として規模の大きい、高度に組織化された社会を生み出すことになったと考えられている。それとともに小規模集落の数が減少し、後背地の農村人口が都市に集中し、拡大する中で紀元前2700年頃メソポタミア南部のウルに大規模な都市が成立したとされている。しかし、すでに気候の乾燥化が進む状況下で潅漑を続けていたため、潅漑用水に含まれる塩類が水分の蒸発によって次第に土壤に蓄積し、紀元前2000年頃からは塩類集積の進行のため、塩類に弱い小麦が徐々に減少し、大麦に変わり、ついには栽培が可能なのは塩類に強いナツメヤシのみとなったものと見られる。上流域では森林の伐採などもあり土壤の浸蝕が進み、河川に流入した土が下流に堆積することにより潅漑用水路の閉塞をもたらしていたものと見られ、この沈泥は塩類を含んでおり、これが塩害を加速したものと推測されている。紀元前2400年頃には、現在のアメリカやカナダの収穫量に匹敵する1ヘクタール当たり平均2,537リットルの大麦収穫があったが、300年後にはその40%にまで落ち、紀元前1700年には897リットルと35%しか収穫できなくなり、大麦の収穫量がはっきりと減少傾向を示した紀元前2000年には既に最後のシュメール帝国は崩壊しており、その300年後には権勢の中心は塩害にあっていない北方のバビロニアに移っていたといわれている。メソポタミア人の主食の大麦の余剰が都市文明に生きる人々の生存を支えていたが、塩害による生産減少により、主食の余剰がなくなり、南メソポタミアのシュメール文化は衰退していたと考えられるのである。(出典 クライブ・ポンティング「緑の世界史」、湯浅赳男「環境と文明」)


(2) クレタ文明
 クレタ島は紀元前2000年の始め頃、地中海における文化的中心の一つとして現れてくるが、これには文明の先進地域であるメソポタミアにおける木材不足も関連していたとされる(第1-2-3図)。例えば、宮殿の建設や補修、建物の暖房や調理のためなどに木材は欠かせないものであったが、メソポタミアでは文明の発展とともに森林資源が減少していったようである。このときまだ森林を有していたと推定されるクレタ島はメソポタミアに対する重要な木材供給基地となったとされ、このことがクレタに大きな富をもたらし、クノッソスを中心とするクレタ文明を繁栄に導いていったのではないかと考えられる。クノッソスは一度大地震に見舞われ崩壊したが、そのときは豊富な森林資源のおかげで再建することができ、引き続き急速に発展したクノッソスの人口は千年前の約28倍程度に増加したとされる。この人口増加と文明の発展とともに木材の消費量も増加し、それに伴い森林は減少したと考えられ、かつて豊富な森林資源を背景に発展したクノッソスでも木材が不足するようになっていったものと考えられている。クノッソスは森林が減少したこともあり衰退し、文明の中心は当時まだ森林を有していたと推定される南ギリシャのミュケーネへと移っていった(第1-2-4図)。(出典 ジョン・パーリン「森と文明」)


(3) ギリシャ文明
 ミュケーネ文明が台頭し始めた紀元前1550年頃、ギリシャは森林を有していたものと推定される。しかし、紀元前13世紀の後期青銅器時代には経済の拡大とともに人口が増大し、それによると考えられる木材資源に対する需要の拡大と農地の拡大がミュケーネ文明の中心であったメッセニア地方をはじめとするペロポネソス半島における森林の減少を招いたようである。そして文明は森林の減少もあり衰退したようで、メッセニア地方では紀元前13世紀から紀元前12世紀の間に人口が9割も減少したと推測される。かくしてギリシャ文明の中心はギリシャ本土から、まだ森林を有していたと推定される小アジアへと移っていった。
 紀元前7世紀頃から小アジアではミレトス、エフェソスなどの港湾都市が栄えたが、ここでも人口の増加、農地の拡大等を背景に森林が減少し、それにより土壤の浸蝕が進行し、土砂が河川に流れ込んだものと見られる。河口に位置したミレトスやエフェソスでは港にこの土砂が堆積し、沼沢地化が進むことによって海に面した港はしだいに内陸化し、かつて栄えた港湾都市もまた衰退していったとされている。
 人口が小アジアへと分散したために、紀元前8世紀になるとギリシャ本土は森林を回復していたと推定される。この森林に支えられて文明もまたギリシャ本土で復興し、それはアテネの繁栄へとつながっていったものと考えられている。アテネが黄金時代を迎えたのはペルシャ戦争以後であるが、ペルシャ戦争の勝利、その後アテネがギリシャ世界の指導的地位につくに当たっても重要な役割を果たしたのがアテネの海軍だった。軍艦の建造やその費用を賄うための銀の精錬、さらにはペルシャ軍に破壊されたアテネの復興にも木材が必要となったであろう。ペルシャ戦争以後アテネは強力な海軍力を背景に繁栄したが、発展とともに人口も増加し、暖房や調理のための木炭の需要も増大し、アッティカ地方では森林の減少が進んでいったとされている。これをさらに進めたのがペロポネソス戦争であったと考えられる。紀元前5世紀後半のギリシャはアテネとスパルタの2大勢力に分割されていたが、この両者の間で戦争が始まったのである。当時、木材は海軍国のアテネにとっては特に重要であったと考えられる。このため戦争が始まるとすぐにスパルタ軍がアッティカ地方に侵攻し、森林を伐採したようである。戦争の長期化とともに森林の減少は進み、長い戦争の末にアテネもスパルタも共に衰退し、ギリシャ世界の覇権は森林を有していたと推定される北方のマケドニアへと移っていった(第1-2-5図)。(出典 ジョン・パーリン「森と文明」、湯浅赳男「環境と文明」)


(4) ローマ文明
 ローマがエトルリア人の支配を脱し、共和政を打ち立てた頃(伝承によれば紀元前509年)ローマは森林を有していたものと推定される。この頃ローマは木材を輸出し、ギリシャなどの文明の先進地域からさまざまな製品を輸入していた(第1-2-6図)ようであるが、ローマを取り囲む森林はまず居住地域の拡大のために減少していったとされている。紀元前3世紀末になると粗放形態の牧畜と集約的な二圃式農業が導入され、それとともに農地が拡大し森林は後退していったと考えられる。これはまず燃料代の高騰という形でローマの生活に反映し、このような動向に対して、ローマ最大の雄弁家と言われるキケロのように森林保護を訴える声もあったとされるが、ローマは征服によって木材を補充する道を選んだと考えることができよう。次々と周辺地域を征服し、森林を領土の中に取り込んでいったローマ拡大の背景には、このような木材需要もその一因としてあったものと考えられる。
 一つの都市国家から始まったローマはイタリアの征服から始まり、ガリア、イベリア、北アフリカ、ギリシャ、小アジアを征服し、地中海全域を支配する大帝国となった。この拡大とともに中心であるローマは繁栄し巨大都市となっていった。この中で建物の建設や暖房、ガラス産業などのために木材が消費されたものと考えられる。ローマの成長の財政的基盤はスペインからの銀にあったが、銀の精錬には燃料として木材が必要とされ、このためスペインでも森林の伐採が進んだと考えられる。このこともあり銀の生産が減少し、財政的な困難に直面したローマは、財政破綻を免れるためにさまざまな措置をとったが、配給のための食料やその他必需品の徴発など、そのほとんどは市民の自由を拘束するものだったとされる。このため富裕な貴族階級は田舎の大農園に閉じ込もり、ローマには配給で暮らす土地を失った市民ばかりが残ったようである。また、不在地主による大土地所有は農地の不適切な管理による生産力の低下を招いたと見られる。このため4世紀にはローマは食糧を北アフリカに依存するようになり、海が荒れたりするとたちまち食糧不足の恐怖に見舞われた。この食糧不足が一因となって社会的混乱を招き、そのような中で巨大帝国は崩壊していったものと考えられる。(出典 ジョン・パーリン「森と文明」、湯浅赳男「環境と文明」)


(5) エジプト文明
 「エジプトはナイルのたまもの」といわれるが、エジプト文明の歴史は砂漠に谷をうがって流れるナイルの両わきに見られる幅10-20キロメートル程のグリーンベルトの中で展開したものとみられる(第1-2-7図)。ナイルは、定期的な氾濫を繰り返したが、それは穏やかなものであり、また、ナイルの両岸が断崖をなしていることも手伝って、他の大河川のように大洪水に見舞われることもなかったようである。エジプト文明はこのナイルの毎年の定期的な氾濫がもたらす肥沃な土壤の上に成り立っていた。このような条件の下でエジプトは今世紀に至るまで7000年にもわたって文明を自然環境との間に調和を保ちつつ継続させてきた。
 ナイル川の上流のエチオピアやウガンダに当たる地域では毎年6月にもっとも多く雨が降り、9月にはほぼ300キロ離れたエジプトで洪水が起きた。洪水は狭いナイル溪谷の全域に肥沃で新たな土壤をもたらし、それは11月までに終わり、この期間に秋作物の種を撒くのであった(第1-2-8図)。ナイル溪谷の地下水位は洪水の1ヶ月間も地表から3メートル以上低いところにあったため塩類が累積することもなく、毎年肥沃な泥土と水が供給され、土壤が維持されたものと考えられる。この方式は、自然条件を巧みに利用し、複雑な技術を必要としないものであったため、古代エジプトで導入されて以後特に変更なく継承されたようである。18世紀におけるナイル溪谷の作物収穫量は当時のフランスの2倍に達していたといわれるほど、この土壤は肥沃であった。(出典 クライブ・ポンティング「緑の世界史」、湯浅赳男「環境と文明」)


(6) インダス文明
 インダス文明は、紀元前2500年頃都市文明として成立したものと見られる。その中心はモヘンジョダロのあるインダス川流域のシンド地方であると考えられている(第1-2-9図)。インダス文明の諸都市はモヘンジョダロの遺跡に見られるように整然とした計画に基づいて建設されていた。この都市文明を支えていたのは冬作物を中心とする氾濫潅漑農業であったと考えられている。すなわち、インダス川がゆっくりと川幅を広くするように水を広げて氾濫することを予想して弱い土手を作っておいて、水が引いたときにシルト(沈泥)がため込まれるようにして、それがたまった場所で耕作を行うといった方法である。これによって、潅漑よりもむしろインダスの環境に適した農業が行われたものと考えられる。
 このインダス文明は紀元前1800年頃から衰退期に入り、紀元前1500年には滅亡したが、その原因としては、異民族(アーリア人)の進入、大洪水、河道遷移、環境影響などさまざまな説が考えられてきた。その中の気候変化に関する説では次のように考えられている。
 現在から5000年前以降、気候が寒冷化すると西ヒマラヤ一帯の積雪量が増加した。これとともに夏季の南西モンスーンは不活発となり、パンジャーブ平原やラージャンスターン平原などインダス川中・下流域は乾燥化した。この乾燥化の中で人々は水を求めてインダス河畔に集中した。この時、ヒマラヤから流出する河川では、積雪量の増大とともに大融水によって春先の流水量を増加させていた。これが冬作物を中心とする氾濫潅漑農業の発展を可能にし、急速に都市文明が形成されていった。インダス文明が衰退期に入る3800年前以降の気候変化の詳細は明らかではないが、この時期はユーラシア大陸が再び温暖期に入っていたと考えられ、それが春先の流水量を減少させ、それに依存した農耕社会に打撃を与え、インダス文明衰退の一因をなしたものと考えられている。(出典 安田喜憲「気候と文明の衰退」、湯浅赳男「環境と文明」)


(7) 中国文明
 中国の文明は黄河文明に始まるといわれてきたが、それにより遥かに古く揚子江流域で稲作文明が始まった。1970年代に発掘された浙江省河姆渡遺跡からは7千年前の住居跡、倉庫跡、稲等が出土した。また、河姆渡に近い良渚遺跡からは玉器を中心とする高度な工芸品が産出され、稲作を中心とする都市文明が5300〜4200年前に栄えたと考えられている。稲作農業の特徴は、水を大量に必要とすることから、水を貯え供給する森林と稲作は共生していたと考えられるが、その後北方からの侵略により滅んだといわれている。
 一方黄河流域では、紀元前14世紀の殷の時代に、畑作を中心とする農耕が本格的に始まった。当時も今日と同様に乾燥した気候条件下にあったものと考えられるが、その中で、土壤が比較的水分を多く含んだ丘陵縁辺の河川の流域が農地となっていたとされる。当時の農業はもっぱら雨水に頼っており、作物は耐乾性のあるアワが中心だった。黄河は膨大な量の黄土を含んでおり、平原に入って流速が落ちるとそれが沈澱し川底は100年に30センチメートルの割合で高くなったと推測されている。そして天井川となった黄河は増水するとたちまち氾濫し、有史以来2年に1度の割合で洪水を起こし、そのたびに河道を変えてきたため、いつの時代も中国の支配者にとっては治水が重要な課題だった。また、乾燥気候下における農地の拡大には潅漑が必要だった。中国でも治水と潅漑の必要性が中央集権的な国家を生み出すことになったとされている。そして、以後の文明の盛衰もこの治水・潅漑の成否によったといわれている。
 しかし、中国の文明は、エジプトとは違った意味で持続的だった。中国文明でも森林の減少など、古代以来人間による環境への影響の結果が徐々に現れつつあるようであるが、一部では森林と共生した持続的水田農業が営まれ、そのような環境条件の下で中国の文明は大きな変動を伴いながらも今日まで数千年にわたって続いてきたのである。(出典 湯浅赳男「環境と文明」他)
(8) イースター文明
 イースター島は面積120平方キロ程の小さな島で、南米西岸から3,700キロメートル、人の住む最も近い島からでも2,000キロメートル離れた太平洋の絶海の孤島である。現在のイースター島はほとんど樹木のない不毛な景観を呈しており、そこに高度な文明の成立を想定することは困難である。ただ数百体の巨大な石像(モアイ)がかつての文明の面影を伝えるのみである。これらの、まるで宇宙人が置いていったかのような巨大な石像は長い間世界の謎とされていたが、近年この巨大な石像がかつての高度な文明の象徴であると同時にその滅亡の原因であったことがわかってきた。環境の視点からみたイースター文明の盛衰については以下のように考えられる。
 イースター島に初めて人が住み着いたのは、火山が噴火を停止しておよそ400年後の5世紀頃だった。当時のイースター島には、最近の花粉分析によれば種数は少ないとはいえ高木を含む豊かな植生が島を覆っていたものと思われる。しかし、イースター島は火山島で、年間を通して流れる川がなく、火口湖以外には湖等もなく、ほ乳類は生息しておらず、植物の種類も少なく、しかも土地の排水は悪かった。このような厳しい環境であったために栽培できる作物はサツマイモぐらいであった。その中で人々は外から持ち込んだサツマイモと鶏により生きていくことになった。食生活は単調なものとなったが、サツマイモの栽培には手間がかからなかった。人口は徐々に増えて、開墾、燃料集め、生活用具、草葺き小屋、漁労用カヌーを作るために、森林は伐採されていったと考えられる。しかし、最も大きな木材需要は重い巨大な石像を島の各地の祭祀場に運ぶための必要から生じたものであったと考えられる。
 食糧獲得のための農耕に余り時間を要さなかったため、人々は余った時間をもっぱら祭礼に向けることになり、それを洗練させていった。島には300を越える祭祀場が作られ、そこには1体から15体の巨大な石像が立てられた。動力となる家畜のいないイースター島では石切り場から祭祀場までの石像の運搬が大きな問題となったが、人々は丸太をコロにして人力で引きずることでこれを解決した。これをはじめとした各種用途に木を使用したため、島の森林減少は進んだと考えられる(第1-2-10図)。それにより、木製のカヌーは作れなくなり、長い航海には耐えられない草で編んだ船だけとなったようだ。このため島から逃れることもできず島に閉じ込められたと考えられる。布や漁網の材料に使われていたカジノキが手に入らなくなり、漁も困難となった。肥料となる畜糞がなかったことに加えて植生を剥奪したため、裸地の増加による土壤流失や栄養塩が溶けて流れ出すといったことが進行し、これにより作物の収量は低下した。このため、1550年には頂点の7,000人に達した人口を支えきることができなくなった。枯渇する資源をめぐり恒常的な戦乱状態となり、奴隷使役が普通になり、さらに蛋白源が不足したため食人が始まったとされる。イースター島の森林資源は極めて限られてきていたし、島民もそれを認識していたと思われるが、何らかの理由により石像を作り続け、300以上の未完成の石像を石切り場に残したまま彼らの文明は崩壊した。彼らは環境との間で適切な均衡を維持していくようなシステムをつくることができなかったのである。
 1722年、オランダの提督ロッヘフェーンがヨーロッパ人として初めてイースター島を訪れたときには、草葺きの小屋や洞窟で原始的な生活を送るような状況となっていたという。1774年にイギリス人ジェームズ・クックがこの島の調査をしたときには石像はほとんど倒れ、人口は600-700人程度になっていたといわれる。(出典 ポンティング「緑の世界史」)

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