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第2節 

1 水俣病などの産業公害

 我が国は、19世紀の後半から産業の近代化を進め、経済発展が追求されていった。産業化の初期段階である明治時代の前半(1880年頃)から既に足尾銅山鉱毒問題などが生じていたほか、明治の末(1910年頃)には、東京、大阪といった大都市でも、都市内に立地する各種の工場から生じるばい煙が深刻な問題となっていた。第2次世界大戦後には、こうした公害が広く全国で問題になっていった。
 戦後の経済復興期とこの後の昭和30年代以降の高度経済成長期を通じて経済の広大が重要視され、人々が一致して願う、言わば社会的目標であった。こうした社会情勢の中で、企業はもっぱら経済効率を追求し、生産活動によって生じる環境汚染については、規制されない限りは厳しい防止策を自主的に講じる意識は希薄であった。使用している技術や新しく採用する技術の環境への影響、製品が消費あるいは廃棄される場合に環境に与える影響についても配慮するところが乏しかった。このような状況の下で、30年代ないし40年代を中心に、水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそく及びイタイイタイ病を始めとして様々な産業公害問題が起こった。ここでは、水俣病を取り上げ、環境面への十分な配慮を欠いた企業活動によって生じた、著しい汚染による悲惨な人的被害、さらには、地域社会及び当該企業自身に生じた深刻な悪影響について考えてみよう。
(1) 人的被害
 水俣病は、メチル水銀化合物により主に中枢神経が障害される疾患である。水俣市に立地する新日本窒素肥料株式会社(明治41年8月日本窒素肥料株式会社として発足、昭和40年チッソ株式会社と社名変更し現在に至る。以下「チッソ」という。)のアセトアルデヒド生産工程で生成されたメチル水銀化合物が不知火海に排出され、これが魚介類に高濃度に蓄積され、汚染された魚介類を人が長期間にわたり大量に摂食したことで発生した公害病である。アセトアルデヒドの生産は昭和7年に始まった。31年5月、熊本県水俣保健所にチッソ水俣工場附属病院の医師から原因不明の神経症状を主とする患者の発生が報告され、水俣病が公式に発見されるに至った。水俣病では、人体に重とくな影響が生じる場合があり、神経を侵され、感覚や運動に障害をきたす。発生の初期には、全身のけいれんを起こし、死に至るような重症の患者も多数見られ、また、生まれながらの知能障害や運動障害をもつ子供も生まれるなど悲惨な被害が生じた。こうした健康被害に対し、各種の救済対策が行われていくことになったが、原因の確定に時間がかかり、また、企業に公害対策の実行を求める法制度も未整備であり、公害に関する補償の考え方も確立していなかったため、的確な対応がなされるまでには結果として見れば長期間を要した。
 これまで、公害健康被害の補償等に関する法律に基づき水俣病患者の認定が行われ、平成3年12月末までの認定者が、熊本県で1,767人、鹿児島で485人となっている。このほか、自らが水俣病ではないかと疑い認定申請中の者が、熊本県で2,439人、鹿児島で292人を数えている(このうち、約半数が過去に認定申請を棄却された者である。)。このような仕組みの下で公害病患者として認定されたものに対するチッソからの補償金の支払い累計額は3年3月までで約908億円、各年度の物価指数などに基づき現在の価格に直すと約1200億円もの巨額に達し、現在も毎年30億円を越える補償金の支払がなされている。健康被害の場合は、金銭的な補償になじまない面があり、金銭的な補償額をもって被害の大きさを評価することには不正確な面があるが、こうした水俣病被害の甚大さは、この補償の額からもうかがえる。
 ここ数年、滞留申請者の認定業務は順調に進み、未処分者数は昭和61年以降逐次減少してきているが、まだ相当数の申請(再申請)があることや一部申請者による検診拒否、さらには申請者の高齢化による判断の困難化、未検診の死亡者や寝たきり等で検診を受けられない者の増加などのため、現在なお多数の未処分者が残されている。また、自らが水俣病ではないかという不安を持つ者が存在し、患者としての認定を求める訴訟が提訴されるなど、様々な社会的紛争が生じている。このため、環境庁においてはこれらの問題への総合的な対策の在り方について中央公害対策審議会に諮問を行い、3年11月に、「今後の水俣病対策の在り方について」の答申が行われた。答申においては、メチル水銀曝露を受けた可能性がある住民に対し検診等を行う健康管理事業を実施するとともに、水俣病とは認められないが四肢末端の感覚障害を有する者に療養費及び療養手当を支給する医療事業を実施する必要があるとされ、その他に、認定業務の推進、水俣病に関する調査研究の推進等の必要性が示された。環境庁では、この答申を踏まえ、総合的な対策の実施に向けて作業を行っている。このように水俣病問題は、公式発見以来35年を経た今日においてもその解決が重要な課題として残されている。
(2) 漁業被害と蓄積した汚染の除去のための事業の費用
 水俣湾は、かつては非常に良好な漁場であったが、チッソの工場排水の影響はまず漁獲の減少などの漁業被害という形で現れた。大正時代からチッソは何度か漁業補償を行ってきたが、水俣病発生後も、昭和34年に1億4000万円、48年及び49年に合計39億3200万円の補償金が、水俣市を始めとする漁業協同組合や漁業商組合に対し支払われた。さらに、漁場となる水俣湾の再生を期して、同湾に堆積する水銀を含む底質を除去することとし、水銀濃度25ppm以上を含有する汚泥約150万m
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の処理のため、底質をある部分は浚渫し、また陸地に近い部分は埋め立てて58haの埋立地を造成する事業が、総事業費485億円(実施費用はチッソが負担し、事業の結果増進される公益に見合う費用を国、県が負担。)で49年度から平成元年度にかけて行われた(第2-2-1表)。このように、健康被害のほか、水産業に与えた影響も大きい。


(3) 地域社会の悪影響
 明治40年頃の水俣村の人口は約1万人で、村予算は当時の金額で2万円程度(現在の価格でおよそ2千4百万円)であった。同41年にチッソ(当時の社名は日本窒素肥料株式会社)の化学肥料工場が水俣に設立され、それ以来水俣は飛躍的に発展していくこととなる。大正元年12月には町制が、昭和24年4月には市制が施行された。31年には水俣港が開港され、人口は約5万人に達しピークを迎えた。日本全体におけるこの間の人口の伸びが約2.5倍であったことから考えると、チッソの影響の下で水俣市が好調に発展していったことがうかがわれる(第2-2-1図)。
 ところが水俣病の発生は、チッソの経営を悪化させた。水俣市の就業機会は狭まり、経済が沈滞し、過疎化と老齢化の波がもたらされた。増え続けていた人口も人口流出による社会減等の理由により年々減少し、45年には4万人を割る結果となってしまった。さらに最近も人口流出(社会減)は続いており、平成2年には34,594人にまで減少している。また、老齢化についても年々激しくなっている。35年時における水俣市の年齢別人口構成比を熊本県平均と比較すると、水俣市では年少人口が2ポイント高い一方で老齢人口は1.4ポイントと低く、総合的にみると水俣市の方が若令であった。ところが、平成2年10月1日現在で比較してみると、水俣市では年少人口が0.2ポイント、生産年齢人口が3ポイントそれぞれ低く、老齢人口については逆に3.5ポイント高く、この間に水俣市が熊本県平均に比較しかなり高齢化したことがうかがわれる。
 水俣市における過疎化、人口老齢化は、熊本県下でも熊本市とその周辺に見られるような人口の大都市集中化が一つの要因となっているが、チッソの引き起こした前代未聞の深刻な公害問題とこれに伴う膨大な被害補償による企業活力の低下が水俣市全体の活力をそいだことも一つの要因となっているものと想像できる。
 昭和35年時点の水俣市の就業者の産業別割合をみると、第1次産業が41.9%、第2次産業が34.5%、第3次産業が23.6%であり、全国平均(第1次産業が48.5%、第2次産業が21.8%、第3次産業が29.6%)と比べると、当地では、かなり早い時期から工業化が進んでいたことがうかがわれる。さらに、第2次産業に占めるチッソ従業員の割合は30年までは市内の第2次産業就業人口の7割以上を占め、工業就業者に限ると26年では95%に達し、29年にいたるまで8割以上を占めていた。水俣市は、言わばチッソ水俣工場の企業城下町として発展していたのである(第2-2-2図)。しかし、チッソ水俣工場の就業者数は、55年には全盛期の5分の1の900人余りにまで減少し、第2次産業就業者数に占める割合は20%を割り、工業就業者に占める割合についても25%程度にまで減少してしまった。このようなチッソの人員削減により、55年時点の第2次産業就業者率は、全国平均が35年時点より10ポイント以上も増加したのに比較し、水俣市では全国平均を下回る数字で停滞することになった。
 水俣市の製造出荷額の熊本県全体の製造出荷額に占める割合の推移で見てもチッソの凋落が地域経済に打撃となったと思われる。同市のシェアは35年までは毎年上昇していくが、35年の16.7%をピークに急激に減少し始め、43年にはかっての半分のシェアの8.4%に減少し、63年には3.7%と4分の1程度の水準に落ち込んでいる。ここにも、水俣病問題に対する膨大な被害補償等による水俣工場での生産縮小が深刻な影響を与えたことがうかがわれる(第2-2-3図)。
 熊本県と水俣市の一人当たり所得の推移を比較してみると、51年までは熊本県平均より水俣市が常に上位に位置していたが、52年以降逆転し近年その差は広がる傾向にある(第2-2-4図)。
 水俣市に対するチッソの貢献がどのように変化したかを同市の税収に占めるチッソの納税額の割合で見てみよう。35年時点では、同市の税収の半分近くがチッソ水俣工場からの税収によって占められていた。ところが、水俣病が社会問題化し、その深刻な被害が広まるにつれ、その後は年々減少傾向を示し、40年には25%へとシェアが半減し、63年度時点では当市の税収の9%余りを占めているに過ぎない。チッソ水俣工場の生産縮小に伴い、チッソ関係の税収の同市の税収に対する比率がいかに大きく減少してしまったかが分かる(第2-2-5図)。
 こうしたチッソからの税収の減少につれ、チッソ関連の税収に大きく依存していた水俣市の税収自体の伸びも鈍化していく。熊本県全体の市町村税に占める水俣市の税収及びチッソの納税額の割合を見てみると、35年度までは水俣市の税収の割合は年々増加していったが、その後は現在に至るまで減少傾向をたどっている。この間のチッソの占める割合を見ると、水俣市の減少傾向とほぼ平行するように減少しており、これらの点から、チッソ関連の税収の伸び悩みがそのまま水俣市の税収の伸び悩みにつながったと見ることができる(第2-2-6図)。
 このように経済的、社会的にも基盤が脆弱化した水俣市の振興は重要な課題となった。政府は、53年6月20日、水俣地域の振興策を水俣病対策の一環に位置づけた閣議了解(「水俣病対策について」)を行った。熊本県では、閣議了解に沿い、54年以来「水俣・芦北地域振興計画」を策定して、? 交通ネットワークの整備を始めとする基礎的条件の整備、? 福祉、保健医療、生活環境の整備を中心とした社会環境の整備、? 農林水産業の振興、商工業の振興からなる産業振興、に係る各種施策によって地域の振興に努めている。


(4) 汚染原因企業の経営への影響
 チッソ水俣工場は日本の化学工業の原型といえる工場であった。外国の技術を積極的に導入し、水俣工場において日本で最初に作り出した化学製品も多数にのぼる。後発企業ながらも、朝鮮においても事業活動を展開し、驚異的な発展を遂げ、戦争により壊滅的な打撃を受けながらも持ち前の技術力で不死鳥のように復活し、戦後の一時期も、日本の化学工業を代表する企業であった。
 ところが、水俣病の発生は、汚染発生企業であるチッソ自体の経営にも被害の補償などを通じて莫大な損害を与えることとなった。
 チッソの社内留保の蓄積の推移を、化学工業界平均及びチッソとほぼ同規模の同業他社(A工業)と比較してみると、42年まではほぼ同様の動きをしている。ところが、47年以降でみると、化学工業界の平均においても、また、A工業においても社内留保が着実に伸びていったのに対し、チッソにおいては毎年の補償金等の支払により莫大な欠損金が累積的に発生していったことが分かる(第2-2-7図)。その間のチッソの売上高を見ると、化学工業界平均に比べてやや低いものの着実に高まっていっており(第2-2-8図)、営業利益についてもそれなりの成績で推移してきた。これらの点から考えると、特別損失の段階で毎期計上された補償金等の負担がチッソの財務構造を大きく損ねていた状況が顕著に見てとれる。また、チッソの資本金、総資産の推移を化学工業界の平均及び39年次にほぼ同規模の会社(A工業、B工業)と比較すると、水俣病問題が深刻化した40年代以来、資本金、総資産ともチッソは伸びておらず、従業員数の落ち込みが特に顕著であり、総じて化学工業界の動きと対照的な傾向を示している(第2-2-9図第2-2-10図第2-2-11図)。さらに、このような数量化できる損失ばかりではなく、公害発生企業としてのイメージの低下がチッソに及ぼしたマイナス影響等には測り知れないものがあると想像される。そもその発足時点では化学工業界の平均以上の経営状況にありA工業、B工業とも十分比肩しうる日本有数の化学工業の一つと称せられていながら、自らの引き起こした公害問題による損害賠償等の莫大な費用負担がチッソの発展に大きな制約となったのである。
 40年前後のチッソの財務状態を見れば化学工業平均にくらべて決して遜色がなくむしろそれを上回るほどであり、当時であれば公害対策は資金的に十分負担しえるものであった。公害発生の初期段階での不十分な取組が同社のその後の健全な成長を阻んでしまったと言えよう。 
 水俣病患者に対する補償金はチッソにより支払われているが、チッソの経営悪化が激しく、50年以降の補償金の支払いに懸念がもたれたため、原因者負担の原則を堅持しつつ、患者に対する補償金の支払いに支障が生じないように配慮するとともに、併せて地域経済社会の安定に資するとの観点に立ち、53年6月の閣議了解に基づいて、政府は関係金融機関による金融支援措置等を要請する一方、熊本県が発行し、一定割合を政府の資金運用部によって引き受ける県責によって調達された資金をチッソに貸し付けるという方式が採られてきている。
 水俣病問題は公式発見以来35年を経た今日においてもその解決が重要な課題として残されている。このように、いったん公害を生じさせると、その回復は大変困難であり、人名の損失など取り返しのつかないものも多い。汚染被害者の苦痛は言うまでもなく、地域社会の発展にとっても、さらには汚染原因者自身にとっても、その痛手は測り知れない。
 水俣病は最も激甚な令であるが、高度成長期の日本では他にも大なり小なり産業公害が各地で生じた。例えば、鉱山や工場等から流出した有害重金属による農用地の土壌汚染がある。その実態を把握するため、46年度から、汚染のおそれのある地域を対象に農用地土壌汚染防止対策細密調査が実施されているが、「農用地の土壌の汚染防止等に関する法律」に基づく基準値を超えた汚染が検出された地域(7,050ha)のうち、平成3年11月15日現在までに2,570haでなお対策が完了していない(第2-2-12図)。また、大気汚染の影響によりぜんそく等の疾病にかかったものと見なされた公害健康被害者(「公害健康被害の補償等に関する法律」に基づく第一種地域における指定疾病の認定患者)に対する補償額は、49年から63年までで累計9,900億円(現在の価額に直すと約1兆1,020億円)以上にも上り、平成元年度にも101,258人に対し合計1,060億円余りが支払われている。
 高度成長に伴って激化した公害や自然破壊では、人の健康への影響のほか、自然生態系への深刻な影響も生じた。例えば、日本の代表的な景観の一つである瀬戸内海の白砂青松の海岸と豊かな海は、瀬戸内海の産業立地上の有利さから、干拓や埋立てによって相当部分が消滅した。第二次世界大戦前には、1年当りの埋立面積はせいぜい1〜3km
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程度であったのが、戦後は、これが1年あたり8km
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程度に増加し、戦後の約20年間で163km
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の埋立てが行われた(第2-2-13図)。
 この反面、自然海岸の延長や豊かな生態系が存在し、海の生産力を支える干潟の面積は、20世紀の初頭に比較し、およそ半分に減ってしまった(第2-2-14図)。
 このような集中的な地域開発が、閉ざされた内海である瀬戸内海で行われたため、ここにおける海洋汚染件数や赤潮発生件数は昭和40年代に急速に増加し、巨額の漁業被害が生じることもあった(第2-2-15図)。また、沿岸に立地した石油タンクから事故により原油が流出して被害を生じさせるようなことも生じた。また、瀬戸内海は観光地として著名であったが、高度成長期以降ここを訪れる観光客の伸びは、全国全体の観光客の伸びを下回るようになった。
 このように、環境への配慮が乏しかった初期の地域開発では、様々の環境上の悪影響が生じたが、こうしたことを踏まえ、特に瀬戸内海の埋立て、産業立地や工場操業については、これに厳しい制限を課す特別の法律を制定することにもなった。
 かつて激甚であった産業公害は、官民一体となった取組により、昭和40年代に比較すると著しく改善されたものの、今日なお完全な解決には至っていない。環境を保全するための必要な支出を支払わないと、結局、環境破壊による被害として、あるいはそれを回復するための対策として、社会や将来の世代にコストが転嫁される。このコストは、場合によっては、発生源で支払わなかった費用よりも高価なものとなってしまう。環境面への適切な配慮を欠き、短期的な利益を追求した経済活動の否定面としての産業公害の発生とその甚大な損失は教訓としてこれからも内外で生かされる必要がある。

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