Interview自然系 職員インタビュー

環境省に入省した理由

 紀伊半島の海辺にある漁業の町の出身で、家の周りの山や海や川でよく遊んでいたのですが、小学2年生の時に学研の「科学」の記事(正確には2学年年上の姉が定期購入した「4年の科学」の記事)で「地球があぶない」という特集があり、それで環境問題というものを知って以降、環境に関する仕事をしたいと考え続けていました。また、環境問題には気候変動、生物多様性、汚染他様々なものがありますが、大きな地球環境の課題におされて、ついついないがしろにされがちな、住んでいる周りにある生き物を捕って遊べるような楽しい場所が失われていくこと、そういった身近な生態系破壊に強い危機意識がありました。また、中学校の終わり以降、高校、大学、大学院と進学する中で並行して自転車旅、山旅、沢登り、山スキー、カヤックなどで日本全国の様々な場所を旅してきましたが、そんな旅の中で「いつの時代も旅人が自由に気ままに気持ちよく旅できる環境を守りたい、残したい」との思いを強く持ちました。こうしたものが環境省を選んだ意識の根底にありました。
大学・大学院では渓流の生態系、とりわけ渓流において生物多様性の変化が物質循環にどう影響を与えるのかの研究に没頭し、研究者を目指して博士課程への進学を考えていましたが、「今目の前にある問題に向き合い、皆で知恵を絞って方向性を決めて責任を持って対処していく」という行政官の仕事にも興味を持ち、試しに受けた公務員試験に合格し、面接もトントンとうまくいって、ご縁あって環境省に入りました。
さらに、どういう職業であれ、世のため人のために尽くしたいという思いを強く持っていまして、そんな中で、国家公務員という立場で「公(パブリック)」のために働けることは幸せなことだと思っています。

これまでのキャリアパス

①2005年 環境省入省 自然環境局自然環境計画課 係員(自然系技官(レンジャー))
(右も左もわからぬまま与えられたことをこなして過ごした1年間)
環境省に入省した1年生のときは、右も左もわからないながらも、個性豊かなメンバーに囲まれ、楽しく過ごした一年間でした。思い出深いのは、年度末の3月にブラジル・クリチバで開催された生物多様性条約第8回締約国会議(CBD-COP8)に1年生ながら参加させてもらったことでしょうか。2週間ほど海外出張し、そこで国際会議の雰囲気や、物事が決められていく様を体感できたことは大変大きな経験となりました。

②2006年 環境省 釧路自然環境事務所 自然保護官
(知床世界遺産とともに現場の仕事を学び、鍛えられた1年間)
外気温30℃を超えるブラジルから帰国後の5日後に、最低気温がマイナス10℃の北海道の釧路自然環境事務所に赴任しました。ここでは前年に世界遺産登録されたばかりの知床世界遺産の担当になりましたが、この時から、ようやく環境省の仕事の本質・面白さに触れあえたと考えています。具体的には世界遺産関係の沢山の会議(知床世界遺産地域連絡会議、知床世界遺産科学委員会、エゾシカワーキングループ、海域ワーキンググループ、知床国立公園利用適正化検討会議等)をほぼ一手に引き受けて会議日程調整から会議資料の作成、地元説明会、会議本番前の事前説明、会議本番までを担うこととなったのですが、これで検討会や協議会の回し方をしっかりと学ぶことができました。この時は大変忙しく残業も多かったことから、疲労が祟って(?)一重だった瞼が疲労のため二重になるという人体変化まで起きましたが、この知床世界遺産を担当して、自治体の担当者の方々や専門家・有識者の皆様と様々な調整・議論を行いながら、知床半島エゾシカ保護管理計画の策定や多利用型統合的海域管理計画の素案作りなど様々なことを作り上げることができたことは大変大きな糧となりました。

③2007年 環境省 屋久島自然保護官事務所 自然保護官
(屋久島の山を駆け、川に涼み、海を泳いだ至福の2年1か月半)
釧路の次にまさか屋久島に行けるとは思いもよらず、釧路自然環境事務所長から次の赴任地が屋久島だと聞いたときは、3回ぐらい「所長、冗談はやめてくださいよ」と繰り返したのは懐かしい思い出です。自然好きの憧れの地である屋久島に行くのは初めて。ドキドキわくわくしながら上陸しましたが、釧路のように環境省が主導する会議の数が限られていることもあり、赴任当初は業務が落ち着いた状態でした。その余裕を好機として、現場で環境省のプレゼンスを徹底的に向上させようと現場巡視に沢山行くことにしましたが、そこは課題の宝庫で、現場を歩きながら解決の方向性を見いだせた貴重な体験ができました。そんな中で、釧路で徹底的に鍛えられた会議資料づくりや検討会回しのスキルをとことん活用して、結果的に(それまでゴールデンウィークの3日間のみだった)マイカー規制の通年化やガイド制度の充実、北太平洋一のアカウミガメの上陸・産卵地である永田浜でのウミガメの共通ルールマナーづくり、宮之浦岳・縄文杉登山での携帯トイレ導入等の成果をあげられたのは幸せでした。多いときは週の5日間ほどは巡視やプライベートも含めて山登りに出かけ、屋久島で活躍されるガイドの方々と現場で意見を交え、夜の浜辺ではウミガメの産卵状況の調査を行い、さらに地元の方々と飲んで騒いで屋久島の目指す絵姿の夢を語る中で、現場の最前線の仕事の面白さと大変さと充実感を得られた幸せな時でした。

④2009年 自然環境局自然環境計画課 生物多様性地球戦略企画室 係長
(COP10の成功に向けてがむしゃらに突き進んだ2年2か月)
東京に戻ってきてからは、2010年10月に愛知県名古屋市で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(CBD-COP10)に向けて、多忙な日々を送りました。最初は、現場の自然環境保全に直結する“具体的過ぎる仕事”から、世界的な環境保全に向けた“抽象的な仕事”に切り替わったことに頭がついていかなかったですが、生物多様性条約係長として、「名古屋議定書」以外のサブスタンスには一通り関わることとなり、特に「愛知目標」という生物多様性に関する2020年までの世界目標の策定作業に関われたのは大変面白かったです。2009年12月にデンマーク・コペンハーゲンで開催された気候変動枠組条約第15回締約国会議では、先進国・途上国の対立が激しく合意が得られず、もう多数国間環境条約という枠組みには未来はないのではないかという暗くて重い雰囲気が充満し、翌年のCBD-COP10も失敗に終わるのではないかと危惧されていましたが、それは杞憂に終わりCBD-COP10は近年稀にみる大成功な国際会議となり、多数国間環境条約にもまだ未来があることをはっきり示すこととなりました。それは後に2015年の気候変動枠組条約パリ協定にもつながったと確信しています。

⑤2011年 復興庁 復興交付金班 兼 災害廃棄物・環境班 主査→参事官補佐
(東日本大震災の復興に向けて魂を削った2年8か月半)
そんなCBD-COP10がひと段落して、次のステップに向けた議論が本格化し始めた頃に東日本大震災が起きました。いてもたってもいられず現地への派遣に志願したところ、4か月後の2011年7月に復興庁へ出向することになりました(正確には当時は「復興対策本部」)。各省から沢山の人が集められ、即席のチーム編成の中で沢山の業務にあふれ無茶苦茶忙しい日々でしたが、やがてチームの中での連帯感も生まれました。この大震災発生からとりわけ1~2年の間にともに震災復興に向けて魂を削った同じ班の方々は今もかけがえのない仲間となっています。1年と言われていた出向期間は、なし崩し的に伸びて2年半以上復興庁に所属しました。着任当初10人前後で始まった復興交付金班(その後30人ほどに増員)は予算を3兆円持っていて、それを復興のために効果的に配分すべく、担当の福島県の市町村に通いつめ、喧々諤々の議論と数々の創意工夫を行いながら、復興のあり方やそのために必要な事業への予算付けを行った日々は大変貴重な経験でした。

⑥2014年 国連環境計画 生物多様性条約事務局プログラムオフィサー
(異文化に触れ、北米東岸の美しさに心ひかれた2年間)
次なる業務として、北米大陸の東側、カナダ・モントリオールにある国連の生物多様性条約の事務局に派遣させたい旨の打診をいただき、33歳にして初めて海外に住むことになりました。条約事務局では日本がCBD-COP10を機に50億円拠出した「生物多様性日本基金」の管理等をしていたのですが、基本9時~17時勤務で比較的余裕があり、国籍様々な国際色豊かな方々と一緒に仕事ができました。また、休日はカヌーキャンピングなどに出かけ続け、北米東海岸の森と湖が美しい場所を堪能し続けた2年間でした。

⑦2016年 外務省 国際協力局地球環境課 課長補佐
(名古屋議定書締結に向けてひたすら邁進した1年5か月)
日本に帰国後、今度は外務省に出向となり、2010年のCBD-COP10で採択された「名古屋議定書」の締結に向けた作業に従事することになりました。この名古屋議定書は遺伝資源の利用から得られる利益の衡平で公正な配分に向けた国際的なルールを規定するものですが、バイオ産業とも深く関連する議定書であることから、国内の調整に時間を要し、「名古屋」の名を冠しながらも日本は締結できていないものでした。私が着任した時には既に国内担保措置のあり方は概ね決定しており、あとは締結に向けた作業を進める段階に来ていたのですが、締結するまで環境省に戻れないと聞き、必死で締結作業に従事しました。国際法局の担当官とともにこの難しい議定書を通すために日々検討を続けましたが、これまでなじみのない分野であり大変大変勉強になった日々でした。そのおかげで(?)翌年の通常国会で無事国会承認も得て締結されました。これでようやくのんびりと外務省らしい仕事ができるとホッとした途端、すぐに環境省に戻されることになりました。このため、外務省にいたのは1年半弱で、この間は、法制局審査や国会対応等の国内対応が多く、外務省なのに海外出張は3回だけに限られることとなりました。

⑧2017年 自然環境局野生生物課 希少種保全推進室 室長補佐(総括)
(絶滅危惧種等の奥深さと限界と可能性を知った1年10か月)
復興庁・生物多様性条事務局・外務省を経て6年2か月ぶりに環境省に戻り、希少種室で総括補佐という立場で希少種・絶滅危惧種の業務に携わりました。専門的でマニアックな話も数多くあり、なかなか大変でしたが、これまであまり関りがなかった分野の方々と仲良くなり、充実の日々でもありました。また、2017年の種の保存法の改正により制度化された「特定第二種国内希少野生動植物種」の初指定に向けた検討等の面白い業務もたくさんありました。

⑨2019年 自然環境局自然環境計画課 生物多様性戦略推進室 室長補佐(総括)
(生物多様性国家戦略改定を目指して邁進した3年11か月)
7年ぶりに再びやってきた戦略室では、次期生物多様性国家戦略の策定が第一の仕事となりました。この作業自体はコロナ禍により2年ほど延期されることとなり、その結果、戦略室には4年近く所属することとなりました。その分、じっくりと向き合うことができましたが、自分がいたこの4年間の間にも生物多様性をめぐる情勢は目まぐるしく変わり、それがとても驚きでした。また、大変パワフルな環境大臣、Eco-DRRのポテンシャルマップ作り、コロナ禍での変化、現行の生物多様性国家戦略の最終評価の作成・公表、生物多様性と生態系サービスに関する総合評価2021(JBO-3)の検討・公表、次期生物多様性国家戦略研究会報告書作り、30by30ロードマップ基本コンセプトの発表、30by30ロードマップの策定、愛知目標にかわる新たな世界目標づくりの場となった生物多様性条約COP15の対応、それの結果を踏まえた生物多様性国家戦略策定など、作業は途絶えることなくずっと忙しかったのですが、忙しいなりにやりがいと面白さもありました。また、改定のたびに肥大化し、構造が難しくなり過ぎていた生物多様性国家戦略の内容・構造を一から作り直すこともできて、充実の日々でした。

⑩2023年 観光庁 観光地域振興部観光資源課 自然資源活用推進室 室長
(自然を活用した持続可能な観光や観光制度の数々を学んだ1年1か月)
そして4度目の出向、3度目の他省庁出向として2023年6月に観光庁に行きました。アドベンチャーツーリズムやサステナブルツーリズム、ガストロノミーツーリズム等を担当して、北は北海道から南は沖縄まで出張にもたくさん行きながら観光を学びました。そんな中で、地域での観光振興が本質の一つのはずなので観光庁が本来しっかりと本腰を入れて取り組まないといけないはずなのに、これまでなかなか着手できていなかった「地方部における観光コンテンツの充実のためのローカルガイド人材の持続的な確保・育成」に向けた有識者会議を、2024年5月に立ち上げました。参画してくださった有識者の委員の皆様からは「こんなにも楽しく、地域の重要な課題をしっかりと議論できる場が観光庁でできるとは思わなかった」との最大級のお褒めの言葉をいただきながら、住んでよし訪れてよしの国づくり・観光地域づくりに向けて、これからさらに楽しく盛り上げようとしていた矢先の2024年7月に環境省に戻ってまいりました。

⑪2024年 環境省自然環境局野生生物課 課長補佐(総括)
そして、今は希少種室以来5年ぶりとなる野生生物課で総括補佐をしているところです。

今の仕事の説明

 野生生物課は、文字通り野生生物に関することをつかさどる課です。課の下に3つの室があり、増えた動物と人とのより良いあり方や軋轢緩和を行う鳥獣保護管理室、減ってしまった種を保存し回復させていくことを目指す希少種保全推進室、外から持ち込まれて生態系や人との健康、あるいは農業被害を与えている外来種の防除に取り組む外来生物対策室があります。また野生生物課本課としては、ラムサール条約やCITES(ワシントン条約)、また風力発電等の野生生物への影響の評価等を行っています。
最近では、クマによる人身被害が増えたことから、市街地での銃猟規制を緩和するための法改正を検討していたり、佐渡で野生復帰したトキを本州でも野生復帰するための検討が進められていたり、四半世紀以上にわたる継続的な努力により奄美大島においてマングースの根絶を宣言した、といったニュースを聞いたことがある方もいるかもしれません。また、春から秋にかけてはヒアリ発見・駆除のニュースが、秋から冬、そして春にかけては鳥インフルエンザのニュースが報じられることが多くありますが、これらすべてに野生生物課が関わっています。
 そんな賑やかな野生生物課ですが、私は総括補佐という立場で、野生生物課本課の業務に加え、野生生物課全体を広く見る役割を持っています。野生生物と一言で言っても、上述のように鳥獣被害の増加や希少種の減少、外来種の蔓延など様々な課題・取組があり、日々様々なところでいろいろな事件が起こる中で、課全体としてうまく業務が回っていくように課や室の皆様といろいろな話をしながら業務を進めています。究極には、人と野生生物とのよりよい関係の構築を目指しており、程度に差はあれども野生生物課内のあらゆる仕事がそうしたものに大なり小なり関わっていることが、自然好きにはたまらない醍醐味かもしれません。

印象的だった業務・最大の思い出

 大変ありがたいことに、これまで経験してきた様々なポジションごとにそれぞれとてもとても印象的だった業務があります。このため、最大の思い出と言っても正直これだと決めることは難しいのですが…
①現場の最前線の仕事という意味では、やはり(唯一の最前線の仕事であった)屋久島が思い出深いです。
2007年4月の着任当初はゴールデンウィークの3日間だけ実施されていた縄文杉登山道入口までのマイカー規制(+シャトルバス運行)ですが、これは想定外の台風被害や町の合併等様々な偶然・タイミングも重なって、2009年5月の離任前には2010年からのマイカー規制の通年化が決定されることなりました。屋久島の中ではとても大きな変化でしたが、最初から決して順風なものではなく、屋久島着任の4か月後の協議会の場では、皆の前で「現場も知らない癖に生意気なことを言うな!」と某団体の代表から一喝されたのはほろ苦い思い出です。しかし、山や会議の場に出続けているうちに「あいつはいつでもどこかの現場にいる」という話をガイドの方々がしてくれるようになり、そんな中で見方を変えてくれ、1年半後にはかつて一喝してくださった(?)方から「一緒にこれをやろう!」とラブコールを受けるようになったりもしました。机上だけではなく、現場にしっかりと姿を現して真剣に議論することの重要性を深く知った出来事でした。
また、当時屋久島ではガイド登録制度はできていたものの、その先の更なるガイド制度の方向性が定まっておらず、例えば、不公平な試験を課されることになるのではといった不審感や反発から、作業部会の中で公開質問状が飛び交う中、行政の担当官も匙を投げそうな状況でした。でも、この屋久島のガイドの方々は本当に面白くて、しかも自分が本当にラッキーだったことは、私が赴任した時期はちょうどガイドの中堅が育って来たタイミングであり、ガイドのボリューム層でかつ子育て世代でもある彼・彼女たちは、屋久島の観光が収奪型ではなく、ずっとガイドを続けられるような「サステナブルなもの」となるよう、真剣に考えていきたいという熱い思いを持っていました。そんな方々と縄文杉や宮之浦岳の登山道等のガイドの現場や、山岳部利用対策協議会やエコツーリズム推進協議会などの会議の場、さらに様々な意見交換会や懇親会も含めてたくさんの場で一緒に課題を嘆き、そして夢を語りました。そんな中で得られた方向性を基に、釧路時代に鍛えられた会議資料作りのスキルを活かして、ガイド制度の今後の方向性や骨格をしっかりと検討し直して、そのアイディアを会議や研修などの場も含めて発信し続けていました。結局自分が屋久島にいる間にそのアイディアが形になることはありませんでしたが、屋久島の方々の様々なご尽力があって、離任の10年後にようやくその形が出来上がりました。そして、かつて一緒に夢を語り、日本有数のガイドと私も尊敬する方から、ようやくできましたよ、あの時の頑張りに感謝です、という旨の連絡を受けたときは、本当に嬉しく、胸の中にこみあげてくるものがありました。

②本省の仕事という意味では、生物多様性国家戦略の改定作業が(作業に従事した時間が長かったこともあり)思い出深いです。
 生物多様性をめぐる状況がここ数年で大きく様変わりし、企業等が単なる社会貢献ではなく、本業の中で生物多様性保全をきちんと位置付けていくという動きが急速に進んでいます。そんな中で、企業等の取組の目標にも使えるようなわかりやすい目標設定や、それらの目標達成に向けて各施策・取組がどのように貢献するのかを分かりやすく示していくことが、次なる生物多様性国家戦略には必ず求められることになると考えておりました。すなわち、目標設定からそれに直結する施策までを一気通貫で整理した「より行動志向」となる生物多様性国家戦略が必要になるとの思いがありました。過去の生物多様性国家戦略はそれぞれの時代の要請に応えた素晴らしいものではありますが、改定を繰り返す中で構造が複雑になり、簡単にはわかりにくいものになっていました。このため、根底にある自然共生の考え方は踏襲しつつも、構造含めて抜本的に作り直しました。あまりにも大きく変えてしまうことについては、これまでの策定に尽力されていた方々からの反発もあるかもしれない、との心配もあったのですが、有識者、上司とも大変応援してくれまして、ネイチャーポジティブをキーワードに、今の時代に沿った国家戦略へ作りかえることができたことは大変思い出深いものとなりました。

仕事をする上で大切にしていること

 やはり「信頼」だと思っています。何をするにしても信頼無くしてよい仕事はできないと思っています。また、信頼とは双方向なものですので、信頼を得るためには、信頼を裏切らないことも大変重要ではないでしょうか。
 また、どんなに正反対なことでも「端から全否定しない」ということでしょうか。そのためには、相手の話を聞いて「しっかりと理解すること」「理解しようと努める姿勢」が大事ですし、その上で、より良いものとしていくためには、表面的な理解ではなくて、本質は何かを見極めることを、常に念頭に置くことが重要となります。
 さらに、話しやすさ、親しみやすさ、も大事だと思っています。そして、わかりやすく伝えていくことが重要です。役人の話は得てしてつまらないと言われますが、役所の中だけならまだしも、外に発信して皆で取り組んでいくためには、守りに入って小難しい話をするだけのつまらない役人を演じていてはダメだと思っています。このため、どうやったら皆を前向きにできるだろうか、さらにはついつい使いたくなる難しい言葉や専門用語をどうやったらわかりやすく言い換えられるだろうか、と考えながら、日々専門用語を駆使しながら小難しい話をしていたりして、深く反省しています。

オフタイムは何をしている?

 山登りが好きで、現場にいるとき(釧路・屋久島)は休日も山やカヤック三昧でした。
屋久島から戻ってきてカナダに行く前の15~10年ほど前は、自然系技官の山の技術向上のために「お散歩観察会」と称して職場の方々を誘って沢登りや山スキーに頻繁に出かけていました。
カナダ帰国のタイミングで子どもが生まれたため、それ以降は全然山には行けなくなりまして、今は、休日は子どもたちの面倒を見ながら、子どもたちを連れて里山散策(子どもたちは虫捕り・魚捕り)や川遊び、探鳥、釣りなどに出かけては、東京近郊の自然の中でホッと一息ついているところです。

子育てや家庭との両立について

 妻は研究者で日々忙しそうにしています。そんな中で小学生と保育園児の2人の子どもを育てており、朝は(妻が早朝から出勤し)私が子どもたちを起こしてご飯を食べさせて保育園に送り、夕方は(私が残業がちなので)保育園の迎えとそれ以降寝かしつけまでは妻が担当する、という役割分担の下、何とか回していますが、子どもが熱を出したり、出張に出かけて不在になるときは、てんやわんやになっています。
そのあおりを受けて、私が(保育園の迎えに間に合うよう)時間休をとって早めに退庁したり、看病のために休んだりする日もあって、同じ職場の方々にはご迷惑をかけていますが、皆さまご理解があるのでありがたい限りです。
かつては休日も気にせず働いていましたが、子どもが生まれてからはなかなかそうもいかず、休日でも妻がちょくちょく研究室に行くこともあって、ひたすら子どもの面倒を見ています。子育ては大変だし、正直自分の時間はほぼほぼ無くなりますが、面白さはあるし子供はやっぱりかわいいものです。

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