京都府京都市の北部、比叡山のふもとに広がる美しい里山・大原。古くから貴族や念仏修行者がひっそりと暮らした地として知られ、来迎院、勝林院、寂光院など、歴史ある寺院が数多くあります。そのひとつ、天台宗の三千院は、寛和2年(986年)に創建されてから明治初期まで、皇族ゆかりの門跡寺院として長い歴史を刻んできました。
スギやヒノキなどの高木に覆われた境内には、国宝「阿弥陀三尊坐像」が安置される「往生極楽院」をはじめ、お堂や石像が点在し、その周囲を取り巻く池や緑と調和して落ち着いた佇まいを見せています。平安時代に造られた「聚碧園(しゅうへきえん)」と「有清園(ゆうせいえん)」は、江戸時代の茶人・金森宗和によって改築されたと伝えられる名庭園で、特に紅葉のシーズンには多くの参拝者や観光客が訪れます。
景観を保つために、境内は人の手で細やかに管理し、大原ならではの自然をできる限り生かしている点が大きな特色。地域に自生するシャクナゲやヤマザクラ、カエデ類、大原の固有種である大原菊などが、四季折々の美しい景観を生み出します。近隣の山から流れ出した律川と呂川が境内を南北に平行して流れ、律川から水を引いて作られた弁天池とその周辺では、サンショウウオやモリアオガエルなどの両生類、ゲンジボタルをはじめとする昆虫類など、多様な生き物が確認されています。
大原に息づく自然を守り、慈しむ心を育む——三千院が体現する精神は、大原地域の環境保全に取り組む住民にも通じるものです。「生物多様性保全上重要な里地里山」※1にも選定されている大原地域では、日本の原風景のような美しい里山を守るため、幅広い活動が行われています。三千院は希少種の保護活動や子どもの環境教育などを通じて地域の取り組みに密接に関わることで、住民や組織をつなぐ「場」として大きな役割を果たしており、2024年に自然共生サイトに認定されました。
※1 生物多様性の保全上重要で、次世代に残していくべき日本の里地・里山500カ所を環境省が選定したもの。
三千院の総務部長を務める宇田泰観さんに、お話を伺いました。
「今から60年近く前に、石組が崩れたり、庭木が荒れたりしていた時期があり、国や自治体から支援を受けて修復を行いました。それが、人の手による管理を本格的に始めたきっかけです。庭園を管理する上で最も大切なのは、池の周囲の石組と水の流れです。植生は時とともに変わっていくので、どの植物が枯れ、何が育つかは分かりません。だからこそ、植生の土台となる池の形と水の流れをしっかり守り、昔から変わらない形を維持することを心がけています。
庭園の見どころのひとつであるシャクナゲは自生のものですし、大原菊のようにこの地域ならではの植物も大切にしていきたい。枯れて植え替えが必要な場合はできる限り地域に由来する種を選びます。春になると華やかな八重桜などを植えたくなることもありますが、地域でよく見られるヤマザクラを選びます」
庭園を含め、大原の自然を生かした境内づくりは美しい景観以外にも意義があると、宇田さんは語ります。
「土地の匂いや風を感じられる環境の中でお参りできるという点は大切にしたいです。大原は湿気が多いので、冬は寒くても空気にどこか柔らかい肌触りがあります。そんな空気と木の香り、そして昔ながらの里山の自然の中で手を合わせる——参拝者にとって、それは都会でお参りするのとはまったく違う、心安らぐ体験になります」
美しく、どこか温かい大原の自然に魅了され、今では観光客だけでなく移住者も数多く集まっています。三千院はそうした新しい住民も含め、地域内外のさまざまな人や企業、団体を結びつけ、大原一帯の里山の保全に力を入れてきました。特に活動の推進役として、密接に連携しているのが地域の小中一貫校、京都市立大原小中学校です。子どもを主体とした環境保全活動で知られる同校で、校長を務める瀧本祐一郎さんにお話を伺いました。
「わが校の児童は、7割以上が移住してきた子どもたち。ここで子どもを育てたいと移住を決めるご家族も多いです。大原は風致地区・歴史的風土保存区域に指定され、景観の改変が厳しく制限されているため、新しい住宅は建設できませんが、入居できる空き家が出るのを待っている世帯は200組近く。移住してきた方が活用するため、耕作放棄地も今ではほとんどありません。
大原は田畑がしっかり活用されているから、あぜ道もきれいに整備され、日本らしい里山の景色がとても美しい。農家の方々が連携して、稲刈り後にはコスモスを、春に向けては菜の花を植えます。自然になるべく手を入れないという考え方がある一方で、人の手をバランスよく加えることも大切だと感じます」
2009年に隣接する小中2校を統合して開校した同校は、三千院や地域住民と連携しながら、大原の文化や環境に触れる独自の教育活動を行っています。約20年前から毎年実施している『三千院長期宿泊学習』もそのひとつです。
「小学5年生が三千院に4泊5日で滞在し、写経や法話、食事作法、清掃などの体験を通して規律や礼儀を身につけるとともに、自然や地域文化への理解を深めていきます。子どもたちはこうした学びの中で地域や自然と向き合い、地域の将来を考える貴重な機会を得ています。
ほかにも、子どもたちの日常の中での発見をきっかけに、学校を中心とした地域全体の取り組みに発展することもあります。かつて里山に多く生息した絶滅危惧種のチョウ、オオムラサキの保護活動は、2005年に子どもがオオムラサキの羽の破片を見つけたことをきっかけに始まりました。以来、地域の住民や団体と連携し、20年以上にわたってオオムラサキの飼育や、生息場所となる雑木林づくりなどを行ってきました。
2024年には、活動に共鳴してくださった京都バスが、大原エリアを経由する電気自動車バスを『オオムラサキ号』と名付け、舞い飛ぶチョウが描かれた車体で運行を始めました。三千院はそうした取り組みにも全面的に協力してくれています。日々の活動に当たり前のように参加してくださるだけでなく、バス会社など、私たちには縁のない組織や人にさりげなく結びつけてくださっています」
大原の自然を象徴する場所であると同時に、地域ぐるみの環境保全活動の拠りどころでもある三千院。自然共生サイトに認定されたことについて、宇田さんはこう語ります。
「三千院というより、大原全体の自然や取り組みを評価していただき、その代表としていただいたご褒美と考えています。これからも学校や地域の皆さんと心をひとつにし、大原の環境と子どもたちの成長を見守っていきたいです」
瀧本さんはこう続けます。
「自然共生サイトの認定によって、三千院との取り組みについて、多くの方に知っていただく機会を得られたことは大変ありがたいです。大原の大切な学びの場を守り、次の世代へとつないでいくきっかけになると期待しています。
子どもたちは学校の横を流れる高野川でよく泳ぎます。都会では考えられないことです。私も一緒に遊んだりしますが、びしょぬれになった後も嫌な臭いはまったくしません。移住してきた子どもに『大原の好きなところはどこ?』と聞くと、『空気がおいしい』という答えがよく返ってきます。それはつまり、データや写真などには表れない自然の価値を体で感じているということ。そんな素晴らしい環境をこれからも守っていきたいです」
【データ】
| 名前 | :三千院 |
|---|---|
| 住所 | :京都府京都市左京区大原来迎院町540 |
| TEL | :075-744-2531 |