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むすび

−試練と選択の環境行政−
 戦後我が国における設備投資主導型の高度成長経済は、その過程で様々のひずみをもたらしたが、その中で最も深刻な問題の1つは、加速度的に悪化した環境汚染とそれによる悲惨な健康被害であった。このため、昭和40年代に入ってから、公害のない快適な生活環境の回復と豊かな自然環境を求める社会的な流れを背景に、「公害対策基本法」を頂点とした各種規制法の制定・強化、環境基準の設定及び規制基準の抜本的な強化、無過失責任の法制化、公害健康被害補償制度の確立、公害防止計画の策定などが行われ、環境保全のための基本的な制度の整備がようやく終わろうとしている。
 このような公害対策の進展を反映して、最近においては、硫黄酸化物による大気汚染や有害物質による水質汚濁など一部汚染物質について、著しい改善が見られるようになったものの、環境問題は、複雑化、多様化しており、依然として解決すべき数多くの問題を残している。
 主要なものの第1は、窒素酸化物、水質汚濁、交通騒音を中心とする環境基準の達成である。
 最近における環境汚染の測定結果を見ると、カドミウム、水銀、PCB等の有害物質による水質汚濁及び一酸化炭素による大気汚染に係る環境基準は大部分の地域において満たされているが、一方、窒素酸化物による大気汚染及び道路、航空機、新幹線の交通騒音に係る環境基準が満たされている地域は一部にすぎないほか、硫黄酸化物による大気汚染及び生活環境項目に係る水質汚濁についても、環境基準を超える地域が存在しており、今後の強力な施策の展開を欠かすことができない。更に、生活環境項目に係る環境基準の中には、現行よりも高い水準の達成が望まれるものがあり、これらの環境基準を強化し、これを達成することも求められている。
 その第2は、自然環境、生活環境の悪化を未然に防止するため、効果的な環境影響評価の制度等の体制を整えていくことである。
 最近における環境問題の特質は、民間企業の生産活動に伴って発生する汚染等から、道路、新幹線、空港など公共事業によるものへと広がってきていること、環境問題に対する地域住民の対応、要求は、単に補償を求めるものから、事業活動の差止め、公害防止措置の徹底等を内容とするものになってきていることにある。このような状況に対応して環境悪化の未然防止のため、事業の開始に先立って、あらかじめ効果的な環境影響評価を実施し、施策の決定に当たり適切に反映させていくことが大切である。
 第3は、東京都における鉱さい埋立処分地からの6価クロム発見を契機として、衆目を集めるに至った産業廃棄物問題、赤潮、農用地の蓄積性汚染、地盤沈下の進行等による農業、漁業の生産物等に対する損害の補償問題など、その対策の大部分を今後の課題としているものの早期解決である。
 しかし、今後、我が国経済の成長率が低下することは避けられないと予想される情勢の下で、このような問題の解決を図っていくことは容易なことではないものと予想される。
 48年秋の石油危機により、我が国経済は物価の異常な高騰と国際収支の大幅赤字という困難な事態に直面し、これを解決する方策として総需要抑制策が採られた。このような経緯を経て、経済は低迷期に入り、現在もなお厳しい情勢下にある。このような経済活動の停滞は、汚染物質排出量を減少させる効果をもたらした反面、民間設備投資の落込みや設備稼働率の低下をもたらし、企業の公害防止投資に影響を与えることにもなった。公害防止投資の一方の担い手である国、地方自治体について見ても、不況の長期化による税収の落込みがもたらした財政の危機が下水道その他の公害防止投資に影響を与えずにはおかない。
 また、50年代を迎えて経済の基調自身の変化が予想される。世界的な資源、エネルギー供給の制約や土地・水等の国土資源の利用可能性の限界など国の内外諸条件の変化に伴い、今後の我が国経済は、40年代前半までの平均10%強の高度成長から、50年代には6%程度の成長路線へ移行せざるを得ないものと見られている。このような安定成長下では、企業経営の悪化や財政収入の確保難など対応が迫られる多くの問題が発生してくることとなるが、環境行政の面でも克服しなければならない問題に当面することとなる。
 環境基準の達成など環境保全に要する経費は、安定成長下といえども、国民が良好な環境を選好する限り、減少するものでなく、これまでと同様ないしはこれまで以上に多額に上ることが予想される。資源配分のためのパイが年々大きくなっていった高度成長期とは異なって、限られた資源の中から多額の環境保全費用を払っていかなければならないという局面を迎えようとしているのである。
 このような情勢の下で、環境行政は、国民の信託にこたえていかなければならない。
 このためになすべきことは、まず第1に、長期的・総合的視野の下に環境行政を推進し、限りある資源を計画的かつ効率的に利用していくことである。
 環境保全対策は、各汚染物質ごとの発生源対策というような個別対策もさることながら、土地利用、産業構造、地域構造、交通体系等について、環境保全の観点から十分な配慮を加えていくという総合的な施策の実施をまって、はじめて十全を期することができるものである。
 また、環境基準達成のための各種施策について費用効果の検討を行い、これに基づいて具体的プログラムを選択していくことによって、最小の費用で最大の効果を挙げる行政を期待することができるのである。
 目標達成のために必要な施策とその防止費用を明らかにした環境保全長期計画を策定することは、これらのために価値あることである。
 第2は、今後増大する新しい環境改善のための費用を計画的に確保していくために、企業が市場で購入する各種の生産要素に対して行う支払いと同じように、社会的共有資源である環境についても、その利用の度合いに応じて、費用を支払い、これを市場メカニズムに反映させていくことである。
 なかでも、自動車、新幹線、航空機などの交通騒音に対する周辺対策には多額の費用が必要であるが、このことはとりもなおさず、これらのものの環境の利用度が高いことを意味するのである。このような種類のものが環境の利用に対して適正な対価を支払い、これを市場メカニズムの中に導入していく方策を確立するならば、これからの安定成長時代における環境保全対策に少なからず役立つことは確かである。
 そして最後になすべきことは、環境問題に関する正しい知識の一層の普及を図るとともに、環境についての各種の情報をその他の情報とともに国民の前に明らかにし、国民の一人一人が適正な選択を行っていくことを通じて、国民の理解と協力を得て環境問題を解決していくことである。
 環境はかけがえのないものとして、現代において使い果たすことなく、後の世代に継承すべきものであるが、世界にも類を見ない高密度経済社会を形成する我が国においては、従来のように物質的な豊かさを追求しつつ、良好な環境を後代へ継承するには、格段の努力を要するであろう。現代に生きる我々は、このため、人間生活を形造るあらゆる要素について、正しい情報を得、正しい判断を下すことを可能にしていくことが求められるのである。
 環境行政の試練の時期が今始まろうとし、その真価が世に問われようとしていることを銘記し、堅実な環境行政を進めていかなければならない。

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