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むすび

――環境保全への新しいルール――
 世界に類例のなかった日本経済の急速な成長が、完全雇用と所得、消費水準の大幅な上昇を達成した反面、深刻な環境破壊をもたらしたことをも否定できない事実であった。物的豊かさとともに、環境破壊が進行するという矛盾を生みだした大きな原因は、いわゆる「市場の欠陥」を補正する適切な手段が講じられなかったことである。
 競争的な市場メカニズムは、最適な資源配分をもたらすといわれているが、公害のように市場での売買を経由しない外部不経済は、企業の経済計算にコストとして算入されず、公害が全く存在しないときと同じように企業の生産水準がきめられることになる。従って、このような外部不経済が内部化されないまま企業の生産活動が急速に拡大する場合には、環境破壊を生ずるのも当然であったといえよう。しかも、戦後の経済復興期と昭和30年代以降の高度成長期を通じて経済的福祉の追求が中心であった状況のもとにあっては、企業はもっぱら経済効率を追求し、生産活動によって生ずる環境汚染については規制されない限り防止策を講ずる動機も必要もなかったばかりでなく、使用している技術や新しく採用する技術の環境への影響や、製品が企業の手を離れて使用、消費あるいは廃棄される場合に環境に与える影響についても、顧慮するところがなかったのである。
 このような環境汚染の進行に対して防止の努力がされなかったわけではない。しかし、「市場の欠陥」を補正すべき責務を有する政府において、対応する規制措置が不十分であったばかりでなく、拡がる汚染の速度に対して、施策が立ち遅れてきたことも、また否定できない事実であった。環境汚染の深刻さを象徴する四大公害裁判は、企業の環境保全義務と不法行為責任を明確にして被害者側の勝訴に終ったが、もはや、一たび失われた生命と健康と自然とをとりかえすことはできない。環境の破壊はこれを未然に防止すべきであり、そのためには、「市場の欠陥」を補正する新しいルールの確立が必要である。
 その第1は、環境に影響を与えるおそれのある行為については、事前にその影響を調査評価し、その結果に基づいて環境を保全しうる範囲内で行為するルールを確立することである。
 科学技術についてのテクノロジー・アセスメントや、その考え方を環境に影響を与える企業や政府などの行為にも広く適用する環境アセスメントは、すでにみたようにその実施が緒についたばかりであり、手法の開発と体制の整備が急がれねばならない。このようなアセスメントによって、貴重な自然の破壊など一たん環境に悪影響を与えた後ではその回復が不可能な行為は事前にチェックされることとなる。また、PCBなど難分解性で、現在及び将来にわたる人の生命と健康に悪影響を与える新化学物質の環境への排出は厳に禁止されるとともに、無公害生産プロセスなど新しい科学技術の展開をもたらすであろう。
 第2は、環境保全について費用負担のルールを確立することである。
 環境資源も通常の経済的資源と同様に無限ではなく、生産、消費の過程でそれらを利用すれば、環境の悪化を招くことは明らかである。
 したがって、環境悪化の代償を価格体系の中に適切に織り込み、それぞれの経済主体がそれに対応して行動できるようにするためには、公的措置が必要であり、そのような汚染の防止や制御の措置に対する費用は、その生産と消費の過程において、汚染を引き起こす財とサービスのコストに反映されねばならないとするのが、OECDの閣僚理事会で勧告された「汚染者負担の原則」の考え方である。
 このような公的措置として現在わが国で採用されているものは、汚染因子の排出を法令により直接に規制する方式である。この方式は、規制基準の遵守を強制することを通じて、汚染防止の費用を企業に負担せしめることとなる。しかし、規制の手段は、このような直接規制に限らない。フランス、西ドイツなどでは、河川の水質管理について価格メカニズムによる誘導効果を通じて汚染防止のコストを内部化させるため、汚染因子の排出量に応じて課徴金を徴収するという方式も採用されている。
 今後、わが国の排出規制は一段ときびしさを増しつつ、量的規制導入へと向うこととなるが、この場合において効率性に留意しつつ、社会全体にとって最小のコストで汚染防止を達成しうる規制方式――費用負担のあり方いかんは引き続き検討を要する重要課題である。
 費用負担のルールは、製品の消費および廃棄の過程から生ずる環境汚染にも適用する必要がある。このような汚染を防止する費用も、当然にその製品の社会的コストとして生産者や消費者の経済計算の中に入りこませねばならないが、これらの汚染は発生源が一般消費者をも含む不特定多数に及ぶとともに日常生活の利便とも密着していることから、一般企業活動から直接発生する汚染に対するものとは異なる発想の費用負担方式が必要となる。
 自動車の排出ガス規制のような製品基準による直接規制は有力な規制手段であるが、多くの場合は零細発生源からの排出を前提として、下水道や廃棄物処理施設のような共同防除施設に依存することとなろう。このような共同防除施設に要する費用は、今後無公害処理を志向する処理方式の導入に伴い増加すると考えられるが、その費用は「汚染者負担の原則」に照らしてあらためて検討する必要がある。
 さらに、資源問題との関連から、廃棄物の回収、再利用に必要なコストを考慮する必要がある。環境中からわれわれの経済に投入された資源が生産と消費の過程を通じて環境に汚染負荷を与えることなく使用され、廃棄の過程で再回収されるという資源循環のメカニズムとそのメカニズムを支える価格メカニズムが確立されねばならない。
 同じような問題は、航空機、新幹線、高速道路などの公共サービスについても指摘しうるところである。これらの公共サービスの提供が他面において引き起こしている騒音等の問題も外部不経済として放置しておくことは、許されない。これまでこれらの公共サービスについては主としてそのプラスの利用面に着目して、受益者負担の原則や狭い意味の原因者負担の原則に基づき、負担金や利用料金の体系が組立てられてきたが、この体系に「汚染者負担の原則」を導入し、税制をも含めた総合的な負担調整を検討する必要があると考えられる。
 われわれは、いま進行しつつある環境汚染を阻止し、将来の国民に良好な環境を残すためには、市場メカニズムの限界を正しく把握し環境保全のための新しいルールを確立しなければならない。
 人類にとって限られた環境資源の中で、さらにわが国に特有な過密というきびしい条件のもとで、人の活動を制御し環境破壊を未然に防止する環境管理への道は、けっして平坦なものではないが、国民的合意のもとに環境保全の新しいルールを確立することが、わが国の経済、社会に課せられた大きな問題であるといわなければならない。

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