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専門家に聞く

源流で暮らしと人の心を取り戻したい ──中村文明・多摩川源流研究所長

多摩川源流の自然再生活動で流域の人と人を、また全国の源流の地域と地域とを結ぶ役割を担って奔走している、中村文明さん。山梨県北都留郡小菅村で2000年4月に設立された「多摩川源流研究所」の所長です。中村さんは、東京の水源地でもある小菅村とどのようにして出会い、源流の再生活動に何を思って取り組んでいるのでしょうか。小菅村に中村さんを訪ねました。

中村文明さん
中村文明さん

記事:佐藤年緒 写真等提供:佐藤年緒、多摩川源流研究所


源流の水のお茶で歓迎

ゴールデンウィーク中の5月4日、新緑に包まれた奥多摩は、初夏の日差しが降り注いでいます。空を見上げると、川をまたがって張られた綱に、鯉のぼりが列をなして泳いでいます。多摩川の支流である小菅川には渓流釣りの家族で大賑わい。山や川の味を求めて多くの人が集まっています。

小菅村でもう20年も続いている「多摩源流まつり」です。まつりでは、太鼓や火祭りなど、地域ならでは芸能が催され、地元小学生も大太鼓を披露するなど、地域の文化の継承を担っています。

「源流の水でお茶を立てました」。土手の上では紅白幕が張られた一角で、中村さんの家族が野点で遠来の客を迎えます。茶には「水の流れ」や川魚を形取った和菓子が添えられています。「川の水でも違うのです。今年はまろやかな水を沢から運んできました」。

「文明(ぶんめい)さん」と周囲の人からは親しみを込めて呼ばれている中村さんの縁で、この日も多くの人たちがこのまつりを訪れました。

多摩源流まつりの日。小菅川の河原
多摩源流まつりの日。小菅川の河原
茶菓子も水と川魚の形
茶菓子も水と川魚の形

滝の連続との出会いに始まった

中村文明さんが、多摩川の源流と出会ったのは12年前に遡ります。塩山市(現甲州市)で奥さんと娘さん2人の家族、中学生の学習塾や公民館、看護協会の仕事などをやっていました。「運命を変えた」のは、1994年7月18日午前10時。源流の写真を撮りたいと思い、「竜喰りゅうばみ谷」に入ったとき。3時間半歩く間に、13もの滝に出会ってびっくりしたのが、きっかけでした。

それぞれの滝には名の由来があったことを知ったのです。中村さんは、当時の感動をそのままに、こう説明してくれました。

「『精錬場の滝』は、近くに金山があり、金の精錬場があったからです。『ヤソウ小屋の滝』は木を倒していた木こりの名が『ヤソウ爺』だったから。『ゲタ小屋の滝』は下駄を作るために、桐は高価なのでサワグルミを使って作ろうとして沢の深い所に入り、その場で木を下駄の寸法に切ったから。滝の名は、暮らし・仕事を反映しているのです」

中村文明さん。娘さんとお孫さんと一緒に、多摩源流まつりで
中村文明さん。娘さんとお孫さんと一緒に、多摩源流まつりで

地名に暮らしと感謝があった

中村さんが最も感動したのは、都の水源林の地図に「千苦せんぐの滝」と記されている滝でした。「この滝は千の苦しみを味わわないとたどり着けない。『千苦』とはいい漢字を当てたものだな」と思っていたのでしたが、その後、丹波山村の守岡只さんに、「千の苦しみではない」と聞いた。「その滝には、滝つぼがないから、30メートルの落差を上流からいい材を落とせない。商品に傷がついてしまう。そこで足場が悪いところで修羅を張る。二股の枝を並べてそこに丸太を置き、巨大な雨樋のようにする。その上を伝わせて大事な木を下ろしていった。修羅を張るには匠の技が要る。千人の大工が必要だったから、『千工の滝』という名前が付いたのだといいます」。

「何百年かけて育った名木の材質をそのまま下流に届けるために、渾身の力を込めて修羅を張る、そういう山の恵みに対する感謝の気持ちを下流に届けようという人々の思いがその滝に込められているのです。源流の地名や由来に、日本の先人たちが自然とどんな付き合いをしてきたか、自然の恵みに感謝して愛着を持ち、崇拝し、畏敬の念など日本人の自然観の源、原点が色濃く、そこに刻まれているのですね。それは驚きの連続でした」

古老からの聞き取りで地図づくり

日本人の自然とのつきあいのすごさに心を動かされ、これを子どもに伝えたいと思った中村さん。そうした名前や由来が載っているかと思って市販の地図を見たものの、どこにも載っていなかった。それが、70歳以上のお年寄りの頭の中にあったのです。

「お年寄りの頭の中にあるものを聞き取って保存して、次の世代にその思いを伝えていきたい。そう思ってがんばってきました」

5年間で420回歩いて最初の絵図『多摩川源流絵図』を作った。その絵図を見た小菅村の廣瀬村長が『源流絵図小菅版』を作ってほしいと依頼したのが、小菅村との出会いでした。

小菅川に「五段の滝」があったが、長老に聞いても「見たことがない」と言う。2000年4月に滝と出会ってから半年間、名を聞き続けてまわったが、名がわからない。村長から「名前をつけてみたら」と言われた。「あの滝の名を私が…」と喜んだ。

小菅川をずっと遡っていくと、1975メートルの「妙見の頭」がある。そこに立つと、北斗妙見大菩薩という木が昔から立っていて、大菩薩の由来の一つにもなっている。全国の武将たちが戦勝祈願でここに来ていた由緒ある場所です。「ただ『五段の滝』とするのでは寂しいので、『妙見五段の滝』でどうでしょう」と廣瀬村長に聞いたら、「いいですね」と言われて、名を付けさせていただいた。

古老からの聞き取りで地図づくり
古老からの聞き取りで地図づくり
妙見五段の滝
妙見五段の滝

体の中に川が流れる

中村さんが多摩川の源流に、熱い思いを抱くようになった背景には何があったのでしょうか。中村さんは昭和22年10月、九州の宮崎県高岡町に生まれました。

「大淀川というゆったり流れる川が家のすぐ近くにあり、明けても暮れても川で遊んでいました。6人兄弟だったので、帰らなくてもあまり気づかれない。夕飯の料理のためにアユを釣った。『かかしら』という毛針の黄色いのを買って、うきを早瀬に流すと、3匹、4匹一気に釣れる。20分ほどでいっぱい釣れるので持って帰ると、母親が片栗粉でからっと揚げて、三倍酢で出してくれる。自分で釣ったものが家族のおかずになり、みんながおいしいと喜んでくれるのが嬉しくて、鼻が高くなった。毎日、楽しく魚を捕っていました」

夜もカーバイトの光を持って川に行く。すばしっこいアユもフナもコイもウナギもエビも、みんな寝ている。エビは必ずバックするので、烏帽子のような網かごを置いて、エビの前のほうをトントンと突くと、後ろのかごに入っていく。テナガエビは砂糖と醤油でカラリと揚げるとうまい。大きな湾になっている所では、カーバイトを照らすと岸から2メートルの範囲でアユがビシャビシャ跳ねた。何万匹、何百万匹のアユを見て育ったのです。

大淀川で育てられたという原体験。「私の体の中に川が流れているんですね。その川が30歳になっても40になっても流れ続けている。それが嫁さんの郷里の源流に出会って、自分の中の川が氾濫して抑えきれなくなった」。そんな表現で自分の心の内を語っています。

人間らしさを取り戻したい

今、過疎の村・小菅村は、流域の上下流の連携や、全国の同様な源流地域とを結ぶネットワークの拠点になろうとしています。

平成16年に島根県高津川の源流、匹見峡で第4回全国源流シンポジウムが開催され、中国地方の子どもたちや保護者、青少年リーダーが130人集まって源流体験教室が実施されたことも、全国的なネットに広がるステップになったと言います。

「子どもたちが高さ1メートル、2メートルの岩から飛び込んでいく。それを繰り返していくうちに、最後には5メートルの高さから、姉妹が手を取り合って飛び込んでいく。そしてものすごくいい顔をする。自ら川とふれあうことによって、川の怖さも知り、川のおもしろさも知る。子どもたち自身が自ら体験して、成長する姿を目撃できたのです」

源流の再生で何を目指すのでしょうか。「自然、歴史、文化、暮らしなどの失われたもともとの姿を今、見直して、再生し、新しい形で新しい価値づけをして次の世代に受け継いでいきたい」と話す中村さん。

多摩川源流では、(1)森林の再生 (2)源流文化の再生 (3)源流景観の再生 (4)上下流域との連携 (5)環境学習、源流体験などの教育活動の推進──の5つの課題を挙げました。

では、もっとも目指していることは何でしょうか。

「日本に一番欠けているのは人間らしさですよ。一番取り戻したいのは、日本人がもともと自然とつきあいながら、培ってきた自然観です。自然とともに生きるのだ、自然を大事にすることで人間も大事にする。人間の身の丈をわきまえた生き方をする。自分の命を守ろうとするならば、皆で手を結んでいかないと困難を乗り越えていけないんです」と答える中村さん。

続けて、「これまで日本人は協働しながら力を合わせながら、生きてきたのです。狩猟時代、人間は自然とのつき合いで、魚の稚魚を突くことはしない。動物の雌を捕りすぎることもしない。自分がいのちをもらって生きいていることを知っていた。でも今、そのことを忘れてしまっているのではないでしょうか」と一気に話しました。

中村さんの自然再生に向けた情熱を突き動かしているは、自然とともにある人の暮らし、人への思いやりなのでしょう。

風に泳ぐ鯉のぼりの群れ
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