沼の美景は豊かな水と理想的な水循環のシンボル ──土隆一さんに聞く
記事:清藤奈津子 写真等提供:土隆一研究所、静岡県静岡土木事務所、清藤奈津子
記事:清藤奈津子 写真等提供:土隆一研究所、静岡県静岡土木事務所、清藤奈津子
土隆一さんが静岡に来たのは昭和26年。東京大学理学部地質学科を卒業後、静岡大学の助手として赴任した。この地で地質学の研究を続け、現在は静岡大学名誉教授。特に、地震の際の揺れ方を研究対象とし、今は東海地震の被害を少なくするための執筆や講演で引っ張りだこだ。
土さんが水にかかわり始めたのは今から20年ほど前。富士山の湧水池である三島市の小浜池の水が減った原因を調べてほしいという依頼を受けたのが発端だ。結果は明快、工場や人が大量に使ったことだった。以来、富士山湧水研究の第一人者として、安倍川流域検討委員会、狩野川流域検討委員会でもそれぞれ会長を務めている。
「私が静岡に来た昭和26年ごろには、安倍川のきれいな水が麻機に向かう水路をどんどん流れていました。つまり、安倍川の水が麻機の沼を作り、それが巴川になって流れ出していた。でもそのことを知らない人が多いのです」と土さんは言う。
静岡の安倍川、清水の巴川。人はそのように捉える。安倍川は南アルプスを源とし静岡に至る日本屈指の急流河川で、下流では広大な河川敷を持つ。巴川は清水区(旧清水市)の中をなみなみと水をたたえてゆるやかに流れる二級河川。まるで運河のようだ。事実、江戸時代に家康が静岡の駿府城築城のために安倍川と巴川を水路で結び、清水港からの物資や石材を運ぶ水運に利用している。静岡の人にとって巴川は川というよりも駿府城の水路として意味を持つ。
小浜池
静岡県三島市にある富士山の湧水池のひとつ。付近の湧水とあわせて三島湧水群と呼ばれる。1954年、国の天然記念物に指定されたが年々水量が減少し池底が見えている。
清水区
2006年4月に静岡市と清水市が合併し、清水市は静岡市清水区となった。
安倍川
全長51km。源流部の大谷崩は赤石山脈の前山で日本3大崩れの一つ。このため膨大な砂礫が安倍川によって下流へ運ばれる。流域内人口約17万人。
巴川
静岡区の竜爪山の標高130m地点を源流とし、麻機を経て清水区を流れ清水港に入る。全長約18km。勾配が小さいため蛇行を重ね、かつては九十九曲がりとも言われた。巴とはうずを巻く形のことで、川の姿を現している。明治34年の大規模な河川改修で蛇行が緩和され、現在の流れになっている。
そもそも、今から6千年前、海水面は今より数メートル高かった。平坦な静岡平野の内陸にまで海が広く入りこんでいた(賤機湾)。その最も奥のあたりが今の麻機地区になる。海水面が下がった後も、窪地状のそこは沼として残った。
安倍川は、上流の崩れやすい山から運んできた土砂を静岡平野に堆積させ、そこが堆積土で盛り上がると別の方向に流れ出した。安倍川の静岡平野への入り口は浅間神社で標高28m。水がそこから標高6mの麻機に大量に流れ込んだのは自然なことである。竜爪山など北部の山々の水も麻機に集まり、麻機を出た巴川は静岡から清水に入ると、延々続く低地を九十九曲がりとよばれるほど蛇行して清水港に至った。度重なる巴川の洪水に、上流の静岡と下流の清水の住民たちが利害をめぐって対立したこともあった。しかし、江戸時代から水運に利用され流域の経済を支え、川遊びや魚とりもできる水辺でもあった。清水の次郎長がけんかの後、簀巻きにして投げ込まれた川であり、清水を舞台にした「ちびまる子ちゃん」にもたびたび登場する。清水の街中を流れるシンボルだった。
昭和35年ごろ、日本中の風景が激変した。安倍川から巴川への流入量が減ったのはこのころからである。旧静岡市の人口が増え安倍川の水を大量に使うようになったのが原因だと土さんはいう。泥が溜まって流れが細くなったまま放置されたり、使われなくなった農業用水路も増えていった。巴川は、沿岸の多くの工場と住宅からの廃水が流れ込み、静岡県で最も汚い川という不名誉な地位についた。麻機の沼も澱み、「ごみっちょ」とあだ名され悪臭を放ち、火の玉すら飛んだ。
その後公害が問題になり沼と川の環境は大きく改善されている。(注)
「どの川にどこからどれぐらいの量の水が入っているか。遊水地に堤防を作るとどうなるのか。堤防を作れば湿地として再生できるのか。そのための水の量はどうか。そういうことに助言するのが私の役目です」土さんは言う。安倍川と巴川の関係についても協議会で講義している。
麻機遊水地自然再生協議会には、NPO法人麻機湿原を保全する会などが加わり、動植物や生態系に詳しい学識者が多い。そのため静岡県静岡土木事務所は、協議会長はそれ以外の分野から選ぶ方がよいと考え、土さんに会長就任を依頼した。きれいな水があって初めて再生・再来する動植物がある。沼の生態系の再生を語るなら、まず水のあり方を考えざるを得ない。土さんはその要となる部分を担っている。
麻機遊水地自然再生協議会は、さまざまな意見を持った人の集まりで、会長である土さんは取りまとめに苦慮することも多い。しかし、「地域住民がほとんど参加しているのがいいところです。一部の人しかかかわっていなければ自然は再生できない」という。意見が合わないときもあるがむしろその方が問題点が抽出されるのでいい。また、住んでいる人が一番よく知っているので、その人たちの意見を尊重したい、と語る。
協議会設立から約1年で、昭和30年代前半の自然を取り戻すことに合意ができた。現在は公園的整備の計画を含め、新しい麻機の青写真を描いている。「現在の生活を昔に戻すことはできない。完全な昔の状況を復元するのではなく、今生きている人たちに合った自然再生を行うべき」と土さんは考える。協議会はその方向に動いていくと土さんは自信を持つ。「静岡市に合併したのは川と水のためには良かった。静岡の人が巴川を考え、清水の人が安倍川を考え、水の流れを理解するいい機会です」と土さんは言う。麻機周辺だけではなく、新しく静岡市になった清水区や安倍川下流の静岡地域からも委員を募り、流域一帯が参加する麻機遊水地自然再生協議会にしたいと土さんは構想している。静岡市の54万人が安倍川の水を使っている。その結果として、麻機の沼にきれいな水が入らなくなり、巴川の水も減って汚れた。「静岡の住民は、麻機と巴川にそのような影響を与えていることをもっと考えなければいけない。清水の住民は、巴川は清水だけでは守れないことを知らなければならない。そのことを協議会の中で話してきました」と土さんは言う。
水をなみなみとたたえた麻機の沼に鏡のようにヨシやマコモが影を映す光景が、今も土さんの目に鮮やかに焼きついている。昭和30年前後、車もまだ少なく、水も空気もきれいだった。ヨシやマコモは刈り取って利用され、田は耕されてハスが咲き、人々は沼の辺りで立ち働いていた。沼は四季折々の空の色を映し出した。風景の美は沼の利用による美でもあった。
麻機を安倍川、巴川から切り離して考えることはできない。水の流れの再生の一環として麻機も再生する。「美しい沼の光景は豊かな水と理想的な水の循環のシンボルだ。沼は水を浄化していた。今、昔の麻機を知る人が次第に少なくなってきた。取り返しがつかなくなる前に再生したい」と土さんは願っている。
天文5年(1740) | 巴川洪水 |
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宝暦5年(1755) | 浅畑沼満水、巴川堤防決壊 |
嘉永2年(1849) | 長尾川洪水 |
明治元年(1868) | 巴川洪水 |
大正35年(1902) | 巴川大洪水 |
大正40年(1907) | 巴川洪水 |
大正43年(1910) | 巴川大洪水 |
昭和3年(1914) | 巴川大洪水 |
昭和33年(1958) | 長尾川洪水 |
昭和34年(1959) | 長尾川洪水(2月、8月) |
昭和47年(1972) | 長尾川洪水 |
昭和49年(1974) | 七夕豪雨 巴川・長尾川洪水 |
『七夕豪雨二十年誌』巴川流域総合治水対策協議会(H6)より抜粋
※長尾川は巴川の支流