Interview インタビュー

これまでのキャリアを振り返って

 1970年生。生まれも育ちも兵庫県です。 1994年に大学を卒業し、経済職として環境庁に入庁しました。23期生です。 
当時は、1971年に誕生した環境庁が、公害や自然破壊に続いて、地球環境問題に直面し始めていました。入庁初日、歓迎会を開いてくれた局長室の窓から見える東京タワーに、「本当に東京に来ちゃった」と感慨深く思ったことが、つい昨日のように思い出されますが、それからもう30年半もの時間が経ったのですね。早い。この間を振り返ってみますと、、、

第一に、環境行政のジャンルとしては、次の3つに深く関わってきたと思っています。

①温暖化(1994年年入庁以来、長年にわたって断続的に従事。カーボンプライシング担当が長い)
公害対策は、経済と環境の間に境界(煙突・排水口)がある世界でした。環境行政はいわばその境界線の番人(基準を作って規制)。役割が限定的で明快でした。 しかし、温暖化対策には、境界線がありません。原因となる温室効果ガスは、化石燃料を燃やすと必ず出ます。排出削減のためには、ありとあらゆるところで活用され、経済・社会を支えてくれている化石燃料の使用を減らし、あるいは、別のエネルギーへと転換しなければならない。これは、いわば経済・社会そのものの作り替えであり、気が遠くなるほどの壮大な課題です。 1992年の気候変動枠組条約や1997年の京都議定書などを受けて、環境行政は制度づくりや国民運動など一生懸命いろいろと試みました。しかし、国内で理解を広げ、実効性のある政策を実現し、排出削減の成果を上げるという点では、長らく苦戦してきました。私も、1996年から2009年までほぼ連続して、この仕事に関わっていましたが、高く分厚い壁になかなか歯が立たない感覚を覚えています。 2015年のパリ協定を経て、2018年から2023年の5年間、約10年ぶりに担当課長としてこの分野に戻りました。関係省庁・自治体・産業界・金融機関など幅広い皆様の理解が広がりつつあり、相互の信頼関係も徐々に形成・深化されています。そしてそれにより、前進の歯車が回り始めているように感じています。
温暖化対策の中でも注目度の高い、環境税や排出量取引制度といったカーボンプライシング政策については、約30年前に始まった初期の勉強会から参画し、その後、制度案の形成や合意形成を何度も担当させてもらいました。その間、2004年から2007年にはワシントンの在米国日本大使館に出向し、当時アメリカでも議論百出だった排出量取引制度について、連邦政府や議会、シンクタンクの皆さんと議論をしては東京にレポートしていたという時期もありました。時間はかかりましたが、2023年のGX推進法成立により、政府全体で進めるGX政策の一環としてカーボンプライシングが本格的に導入されることになりました。
ここからの温暖化との長い戦い、幅広い官民の皆様と連携して、引き続き貢献していければと思っています。
国内の歯車は回り始めた一方で、かつては未来予測であった気候危機が、近年現実のものとなりつつあるように感じます。世界全体での排出削減が極めて重要で、それに向けた課題は尽きません。

②水俣病(2009年~2011年、以後、毎年数回現地を訪問)
公害対策や自然保護と並び、公害被害者の方々とのお付き合いは環境行政の原点です。
ただ、私自身は、入庁後15年間、あまり関わることはなく、温暖化対策ばかりやっておりました。ですので、着任時には「何をすればいいのかな」というのが率直な心境でした。  
しかし、他の公害病と異なり、公式発見から70年近くが経った今も未だに多くの課題を抱える水俣病は、学ぶほどに奥が深い世界でした。またちょうど、その長い歴史の中で、1973年、1995年に続く、3度目となる大きな解決・和解を実現する激動のタイミングでした。担当者として地域に入り、時には患者さんのご自宅にまで上げていただいて、救済を求める方々や支援の方々、関係自治体、原因企業を含む地域の経済界など様々な立場の方々と、じっくりお話しさせていただいた経験は、その後のすべての仕事のベースとなりました。
さらに、訴訟・和解・補償・救済、それらにまつわる制度づくりといった業務に加えて、公害で傷ついた地域の経済振興や医療福祉の充実、人と人との心の絆の修復など、当時の環境省の他の分野にはあまりなかったタイプの仕事に取り組めたことも貴重でした。それは、福島復興、そして地域脱炭素という環境省のその後の大きな柱につながったと考えています。
ところで、この時に陣頭指揮を執ったのが、環境庁1期生であるプロパー初代次官と3期生であるプロパー2代目次官のコンビでした。環境省は比較的新しい役所なので、この頃まで、創業世代が現役だったのですよね。東日本大震災直後の時期に指揮を執ったプロパー3代目次官を含め、もちろん役人なのですが、勤め人というよりは、中小企業の創業社長のようでした。彼らの溢れる責任感と情熱を直接浴びることができ、また、円熟の行政力を学ぶことができたのも幸運でした。

③福島復興(2016年~2年余り専従。2018年の異動後も6年半にわたってこの仕事を併任中で、温暖化や秘書課業務の傍ら折々現地を訪問)
2011年3月、水俣病担当としての終盤に、東日本大震災と原発事故が発生しました。それにより、福島県をはじめとする日本の環境中に放射性物質が放出されてしまいました。
環境省は、それまで所管外だった放射性物質の除去を担当することとなり(事故はない前提で、どこの役所の所管でもなかった)、その結果、除染事業や中間貯蔵施設整備という未体験の大きな公共事業をやることになりました。そして何より、時の政府の最重要課題の一つを担うという稀有な経験をすることになりました。
私は、2011年後半から役所の法令・人事を総括する立場でこれら新規業務の制度づくりや体制づくりに参画し、2012年から2014年までは大臣秘書官として、環境大臣と福島の皆様との数々のやりとりの場に立ち会いました。そして、2016年からは中間貯蔵施設整備担当の課長級として、渋谷区とほぼ同じ広さの広大な用地を取得させていただき、そこに各種の施設を整備し、そして福島県内各地に山積みになっていた除染により発生した土を輸送するという、巨大事業に取り組みました。当時の事業費は毎年数千億円に上りました。
大熊町・双葉町では、中間貯蔵施設をつくるための土地として、先祖伝来のお屋敷や丹精した田畑・果樹園、そして寺社仏閣やお墓まで、ふるさとを譲っていただかなければなりませんでした。本当にありがたいことに、地元の皆様が苦渋の決断をして協力してくださいました。そのおかげで、「100年かかってもできないのではないか」と厳しい目で見られていた土の輸送は、最大時には毎日3000台のダンプカーを動員し、帰還困難区域を除いて、それから5年余りで完了しました。帰還困難区域の除染と中間貯蔵施設への輸送は、現在も着実に進めています。
また、飯舘村・長泥行政区では、これも苦渋の決断で土の再生利用事業に協力してくださっています。全国を視野にこの取組を広げていくことが今後の大きな課題です。 
水俣での経験もあって、とにかく現地を訪問し、地元の皆様の声を聞かせていただきました。また、チームの中に、福島復興に貢献しようと全国各地から集まった様々なご経歴の300人近いメンバーを抱えていましたので、内部のコミュニケーションにも注力しました。
福島での仕事から、すべては信頼関係の構築からだ、ということが確信になりました。(そして、それが上述の温暖化対策にもつながります。)
また、この事業を通じて、規制官庁の色がまだ濃かった環境省は、ニーズがあって求められれば、政策手法にとらわれず何でもやります、という役所へと脱皮したように感じています。

第二に、節目節目で、環境省という一つの組織の運営を段階的に経験させてもらっています。

①人事と組織づくり
1999年(6年目)に採用を担当し、2011年(18年目)には課長補佐以下の総合職事務系約100名の人事配置を決める仕事を担当しました。
そして30年目となる2023年からは、秘書課長として、環境省全体約2500名の人事をとりまとめると同時に、変動する世の中や行政ニーズに合わせて、局や課室、地方事務所などの体制をどう組むのが最適か、それぞれの定員をどうするか、といった組織づくりを担当しています。
人事の仕事は、職員一人一人と話をするところから始まると思っています。その上で、どの職員にも着実に大きく成長してもらいたい。それによって行政の成果を最大化していきたい。そのために人事当局は何ができるのか、日々考えて取り組んでいます。

②政策や事業の舵取り
6年目と18年目には、官房総務課の係長、課長補佐も兼ねており、環境政策全体をとりまとめる業務も担当していました。2012年(19年目)には大臣秘書官として、組織のトップや幹部が行政の舵取りをする様子を間近で体感しました。
2014年には内閣官房に出向し、環境省の外局として発足したばかりの原子力規制庁の組織改革を進める仕事をしましたが、官邸や内閣官房の仕組みを勉強する機会にもなりました。環境省・原子力規制庁・内閣府原子力防災担当部署は、3人兄弟のファミリー官庁となっています。
2022年(30年目)には総合政策課長として、改めて環境政策全体をとりまとめる責任者と、国立環境研究所や独立行政法人環境再生保全機構、中間貯蔵・環境安全事業株式会社などファミリー団体との結節点を務めました。
政策や事業の方向性を定めることと、組織づくり人づくりの仕事とは、まさに車の両輪です。日々、各ジャンルの政策・事業の最新動向を把握し、議論しながら、よりよい体制づくりや人員配置を追求しています。

さて、たいへん長くなりました(笑)
最後にもう一言付け加えるとすれば、率直に言って、自分の「キャリア」というものを組み立てる発想は持ったことはありませんでした。
振り返ってみれば、上で長々と述べたような経歴になりますが、これは、その時々、与えられた課題に取り組んできた結果にすぎません。
むしろ、水俣や福島のような、予想外に向き合うこととなった仕事が、自分の人生を定めてくれたように思います。

(参考)
私は、環境省の大きなテーマのうち、温暖化(エネルギー)が長く、資源循環(マテリアル)や自然(国土)は直接担当することはありませんでしたが、これらの分野も大きな進展を遂げつつあります。
よりよい衛生環境の確保を目的にスタートした廃棄物処理は、産業との連携も深め、資源を循環利用することが希少資源の確保やグローバルな市場の獲得に直結し、温暖化対策にも貢献する、こういう発想になってきています。
国立公園など貴重なエリアを守るイメージが強かった自然分野も、ビジネスや金融とも連携し、国土全体を視野に入れて、自然資本の保全と利用の双方をバランスよく考える方向となっています。
サステナブルな未来を創るため、相互に関連する温暖化、資源循環、自然の各分野の行政を統合的に進めていこうとしています。

西村課長にとっての環境省とは、環境行政とは

 私は今53歳ですが、もういつ退職してもいいと思っています(笑)
というくらい、尼崎から出てきたただのニイチャンとしては、やりたかった仕事を存分にやらせてもらい、そうできるように育ててもらい、一個人としては悔いのない職業人生でした。
大学の3回生の時に、「スポーツや芸術の特技もなく、ぶらぶらしていられるほど実家は金持ちではない。なにか就職先を考えなければいけないが、やりたいことがはっきりしない。」かなり悩み、考えました。
行き着いたところは、なにかしら世の中のお役に立ちながら、食い扶持を稼いで、なんとか生きていけるといいなと。
その頃は、バブルの直後くらいで、日本経済はまだ十分に強かったですし、更なる日本の経済発展は、民間に就職する多くの友人達がやってくれるだろうと思いました。そういうようなことで、国家公務員を目指すことにしました。
また、地球環境問題が言われ始めた頃でもあり、自分は、経済学でいう外部不経済の内部化(その典型が、環境問題に対する環境規制や環境税)の方をやってみたいなと、当時の「豊かな」時代背景の中で思ったのでした。
また、幼少期から、日本の生命線としてエネルギー問題になぜか惹かれていました。オイルショックなどもあって心配だったのでしょうね。海外の化石燃料依存(今でいうエネルギー安全保障)という積年の課題と、急に持ち上がってきた温暖化問題とはいずれ同一軸で考えられるのではないかとぼんやり思っていました。

そういう感じで就職しましたので、環境庁に採用してもらって、実際に、温暖化対策(エネルギーと表裏一体)の分野で、カーボンプライシングという新たな政策立案やそれへの合意形成の最前線で、前進に向けた努力を長く積み上げることができたのはありがたいことだと思っています。
そしてそれ以上に、未熟で視野の狭かった若い私が、就職前には、そして働き始めた後でも、想像もしなかった水俣や福島での仕事の人間的な豊かさ。さらには、一人ではできない大きな仕事を数多くの仲間と成し遂げるためのチームプレー。これらを経験させてもらったことに、環境省の先輩、同世代、後輩はもとより、幅広い官民の皆様に深い感謝の気持ちを持っています。

今後についていえば、環境行政へのニーズは増えることはあっても、減ることはないと考えています。
というのも、世界の人口は80億人を超えてまだ増える。そして地球環境の容量には限界がある。したがって、膨張する人間活動と環境との間の調整は、そしてそれに関して立場を異にする国や人の間での調整は、今後も不可避です。
といって、その仕事は日本国の環境省の専売特許ではありません。
環境省が、発足後50年余りかけてだんだんと培ってきた能力や信頼を活かして、国内外の様々なプレーヤーと連携して、よい役割を果たし貢献し続けることができればと思っています。

そういうことで、私も退職の日が来るまで、山積みの課題に一つ一つ向き合い、できる限りの恩返しをしていきたいと思っています。

これからの環境省にはどのような職員が求められるか。

 多様な職員がいる場であって欲しい、というのが第一です。
ただ、どの職員にも共通してあるといいなと思うことをあえて挙げてみると次のような感じでしょうか。でもこれらは、どこの会社でも役所でも同じかもしれませんね(笑)

①仕事に対する前向きな姿勢
もっとも重要な資質がこれだと思います。
もちろん、ライフを犠牲にしてワークをして欲しいということではありません。ライフにもワークにも前向きな姿勢であるといいよね、ということです。
これは個々人の成長の源泉であり、役所がよい成果を出すことにも直結します。
私自身も、世の中の役に立てるといいな、というおおざっぱだけど前向きな姿勢を買ってもらい、のびのびと活動させてくれる文化に育ててもらったなと思っています。

②変化に対する柔軟性
50数年生きてきて、また、30年余り役人として働いてきて思うのは、「世の中は変わる。本当に。」ということです。
世の中が変わると、ものの見方も、やるべきことも当然変わります。例えば、私は、バブルの頃に、経済よりも地球環境問題が気になって公務員になったわけですが、今世紀に入ってからは、顕在化しつつある気候変動と同様に、日本経済の先行きもたいへん気になっています。かつては環境と経済とは対立構造で語られる時代が長かったですが、この10年、経済と環境の好循環が浸透してきました。
環境省の仕事の中身も、相当に入れ替わりました。
ビジネスの世界では、時代に合わせて事業の入れ替えに成功した企業がその価値を評価されて存続しています。環境省の創業世代とそれに続くリーダーには、世の中のニーズを汲み取って仕事を入れ替えるという大胆な舵取りをする柔軟性があり、また職員達にも新たな仕事に向き合う柔軟性があったということだろうと思っています。今の職員は、環境法や環境技術だけではなく、金融やビジネス、地方創生など学ぶべきことがかつての何倍にも増えています。みな大変だろうと思いますが、頑張ってくれています。
根本的なミッション(人の命と環境を守る)は不変ですが、世の中の変化に合わせて新たなチャレンジを躊躇なく行い、常に国民の皆様に貢献し続けていく。このために自己研鑽をやり続けていくことが重要です。

③人を大事にする気持ち ⇒ コミュニケーション力
最後に、もっとも環境省らしいのがこれだと思っています。
環境行政の出発点は、公害病の患者さんや破壊の危機に瀕した自然を守ることでした。弱い立場・辛い立場の方々や、声なき声を大切にすることは、環境省の不変の原点です。
現在は、経済と環境の好循環を掲げて、活動の幅を広げていますが、どの分野でどなたと向き合うにしても、相手のことを大事にする気持ちを持つことは、課題解決の最短コースだろうと考えています。
役所の内外を問わず、まず相手の声に耳を傾け、それを尊重しながら、自らの思いもしっかりと伝えられるコミュニケーションの力は、物事を前に進める大きな力になると思います。

環境省を目指す人へのメッセージ

 以下は、2011年に、公務員志望者向けに私が書いた文章です。
「国家公務員には、我が国が抱える様々な問題に取り組む大切な仕事が与えられており、環境省もその一翼を担っています。人数が少ない役所ですので、その分、ひとりの職員に期待される役割が大きいことも特徴です。我こそは一騎当千という気概のある方にはぜひ仲間になっていただきたいと思います。それにふさわしいフィールドが待っています。」

今読み返しても違和感はあまりなく、直すところも特にないのですが、この間、おかげさまで環境省の人数はずいぶん増えました。しかしそれ以上に課題も増えており、引き続き、我こそは一騎当千という気概のある方をお待ちしております。
また、国家公務員を志望する方が減っているという話もよく聞くようになりました。確かに、私が役所に入った頃に比べて、政府の役割とされてきたことを民間の活動や海外のルールが代替しているケースもあるように感じます。しかし、そういう時代であるからこそ、オールジャパンで世界に伍していくため、官民連携の一方を担う官の役割は引き続き重要だとも考えています。
環境省が、政府の一翼として、環境やサステナビリティ分野に強く、一社会人としても良き人材の育つ場であり続け、それにより国民の皆様に貢献し続けられるよう、引き続き精進していきます。

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