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第1回水俣病問題に係る懇談会

会議録
 


  1. 日時 : 平成17年5月11日(水)13:00~15:00

  2. 場所 : 環境省第1会議室

午後1時2分開会

○柴垣企画課長 それでは、時間を少し過ぎておりますが、ただいまから水俣病問題に係る懇談会の第1回を開催させていただきます。
 委員の皆様には御多忙中にもかかわらず、お集まりいただきまして、誠にありがとうございます。
 それでは、まず議事に先立ちまして、小池環境大臣から御挨拶を申し上げます。
 

○小池大臣 環境大臣の小池でございます。本日は皆様、大変お忙しいところ、このような形でお集まりいただきましたことをまずもって御礼を申し上げたいと思います。その前に、この懇談会のメンバーを御承諾いただきましたことにも深く感謝を申し上げたいと存じます。
 水俣病について、そもそもの話からいたしますと、今は環境省になっているわけでございますが、環境庁ができたきっかけ、原点でございます。また来年はちょうど公式確認から50年の節目の年を迎えるわけでございまして、まさに我が国の公害問題、そして環境問題の原点である水俣病の歴史的な背景、社会的な背景をきっちりと検証をし、総括をしていく必要があるのではないかということから、この懇談会を設けさせていただいたわけでございます。何よりもこういった過ちを二度と繰り返さないためにはどうすべきなのか、そしてまた、その水俣病が抱えてきた失敗の本質は一体どういうものなのか、これをさまざまな切り口から検証して、さらに将来に活かしていくために、環境大臣の私的懇談会としてこの懇談会を開催させていただくことになったわけでございます。
 一言で50年と申しましても、関係者の方々にとりましては本当に長い長い時間の経過であり、大変な御苦労があったことでしょう。これ以上言葉を重ねても意味がどんどん深まるばかりでありますけれども、そういった中でこれからどうあるべきかも含めて検証していきたいと、このように思っております。行政にとりましても、大変重いこの50年でございます。そして、さらに、昨年の10月には最高裁の判決が出たわけでございます。こういった司法の判決も踏まえまして、これまでの行政の取組の在り方、そして責任についても総括をしてまいりたい、そのような場とさせていただきたいと思っているところでございます。
 また、委員には、これまで水俣病問題にかかわってこられた皆様方、それから客観的に日本の行政の在り方などについて分析・評論などを加えてこられた皆様方に参画いただいております。水俣病という大きな問題の社会的、歴史的な検証をしていただくには、ふさわしい皆様方に御参画いただいたものと感じているところでございます。
 「失敗の本質」という本がございます。そこでは戦後生まれの方々が太平洋戦争について検証をされているんですけれども、そこで浮き彫りにしている問題が、残念ながら戦後60年たってまた繰り返されているのではないか、そんな思いもございまして、私は何度か「失敗の本質」という言葉を使わせていただいているところでございます。
 いずれにいたしましても、本日から始めさせていただきますこの懇談会が来年の水俣病の公式確認50年に向けて意義深いものとなりますように、どうぞ活発な御議論を重ねていただければ、そしてまた、二度と繰り返さないためには何をすべきなのかをおまとめいただければ大変ありがたく思うところでございます。わずかな期間で何ができるのかといった御意見もあろうかと思いますけれども、50年という節目を前に、しっかりとこれまでのことを客観的かつ冷静に分析していただけるものと信じているところでございます。これからこの懇談会で皆様方の活発な御議論を期待いたしまして、最初の御挨拶とさせていただきます。
 どうぞ皆様方よろしくお願いいたします。
 

○柴垣企画課長 それでは、議事に入らせていただく前に資料の確認と、それから委員の先生方の御紹介をさせていただきます。
 資料でございますけれども、議事次第のところの下の方に資料1から3までございます。御確認いただければと思います。また、もし不足がございましたら、事務局の方にお申しつけいただければと思います。
 それからもう一つ、1点委員の席上に配らせていただくものとして、関西訴訟の原告団からの申入書というものを委員限りで配付させていただいてございます。これは関西訴訟の原告団のからの要請に基づきまして、情報提供という観点から配らせていただいているというものでございます。
 それでは、引き続きまして、委員の皆様方の御紹介をさせていただきます。アイウエオ順で、順不同で御紹介をさせていただきます。
 まず、元東大総長、元文部大臣で、現在は財団法人日本科学技術振興財団会長を務めておられます有馬朗人さんでございます。
 

○有馬委員 よろしくお願いします。
 

○柴垣企画課長 続きまして、本日は御欠席でございますけれども、京都精華大学人文学部教授、環境社会学者の嘉田由紀子さんでございます。
 それから、続きまして、水俣市で胎児性水俣病患者などの方々を対象とした作業所であります「ほっとはうす」を運営されておられます加藤タケ子さんでございます。
 

○加藤委員 よろしくお願いします。
 

○柴垣企画課長 続きまして、元東京都副知事で、現在は東京都歴史文化財団顧問を務めていらっしゃいます金平輝子先生でございます。
 

○金平委員 金平です。よろしく。
 

○柴垣企画課長 続きまして、元最高裁判所判事で、現在は東海大学専門職大学院実務法学研究科の科長を務めておられます亀山継夫さんでございます。
 

○亀山委員 よろしく。
 

○柴垣企画課長 続きまして、本日は御欠席でございますけれども、元日本経済新聞社の論説委員で、現在は東京工業大学原子炉工学研究所教授の鳥井弘之さんでございます。
 続きまして、この3月まで熊本大学文学部の教授を務められ、現在は久留米工業大学の教授を務められておられます地域社会学部が御専門の丸山定巳さんでございます。
 

○丸山委員 よろしくお願いします。
 

○柴垣企画課長 続きまして、ノンフィクション作家で、水俣病に関する著書もお持ちの柳田邦男さんでございます。
 続きまして、政治評論家の屋山太郎さんでございます。
 

○屋山委員 よろしくお願いします。
 

○柴垣企画課長 最後になりますが、前水俣市長で平成7年の政治解決時には中心となって活躍していただきました吉井正澄さんでございます。
 

○吉井委員 よろしく。
 

○柴垣企画課長 以上、10名の委員の皆様方に御参画をいただいておりますが、本日は先ほど申しましたように嘉田委員、鳥井委員のお二人が御欠席ということで8名での開催ということでございます。よろしくお願いいたします。
 あわせて、環境省の出席者の方を御紹介させていただきます。
 大臣の右隣、環境事務次官の炭谷でございます。
 大臣の左隣の環境保健部長の滝澤でございます。
 それから、その隣の環境保健部特殊疾病対策室長の青木でございます。
 最後に私、環境保健部企画課長の柴垣でございます。よろしくお願いいたします。
 それでは、まず本懇談会の座長の選出ということでお願いをいたしたいと思います。
 これまでの豊富な御経験などから有馬委員にお願いしたいと思いますが、いかがでございましょうか。
 (「異議なし」の声あり)
 

○柴垣企画課長 それでは、有馬委員、座長席の方にお移りいただいて、以後の議事進行をよろしくお願いいたします。
 

○有馬座長 座長を仰せつかりました有馬でございます。どうぞよろしくお願いいたします。
環境省からこの懇談会へ参加せよというお話をいただきましたときに、はたと困りました。水俣病というのはもちろん関心はあった、心配はしておりましたけれども、全く素人でありますので、私がなぜこの会に参加して議論をするのであろうかということを本当に考えまして、どうしようかと思ったんですが、今大臣おっしゃられたように、過去を検証しようというのは極めて重要なことだと思うんです。これであれば、単に水俣病あるいは地域社会の問題等々についての専門家だけにお任せするのではなく、ずぶの素人としても客観的な一つの市民としていろいろな問題を考えさせていただくこともよかろうと、それならばやることがあるであろうと考えた次第でありました。特に大臣もおっしゃったように、戦後社会の中で歴史を見ますと、やっぱり非常に大きな問題であった水俣病、この問題をどう我々が、そして国が対処してきたか。これはやはり一度きちっと見直してみるということが必要だろうと思います。
 ただ、私は過去を参考にすることは極めて重要だと思いますが、やはりせっかくのこの懇談会でありますので、過去を振り返って、そこから何か学ぶことを見つけ出すことは重要でありますけれども、やはりこれからの日本をどうするのか、これからの世界をどうするのか、この問題からやはりきちっと分析をしていきたいと思っております。すなわち、世界、そして特に日本において実にさまざまな危険なものがある、危険な問題がある。一例を挙げれば、これも先ほど大臣御指摘になりましたが、公害問題、そして二酸化炭素を一体どうするんだろうか。それからまた、今のこの都市の交通渋滞及び様々な交通の機関の安全性は大丈夫だろうか、エネルギーは大丈夫だろうか、水は本当に大丈夫なんだろうか、かなりの問題が環境省に関係してくるわけであります。
 かつての水俣病に対する国の政策における様々な問題点も、そしてまた地域社会の対応に対する様々な問題点も掘り下げながら、今後一体どうしたらばこういう危険を避けていくことができるのか、まず予知をどうしたらいいのか。そして予防するにはどういう対策を講じたらいいか。それもまた、あえて片仮名語を使いますと、ハードウエアから見ていく面とソフトウエアの面、すなわちさまざまな社会環境のソフトウエアの面から対処していくこと、2つあると思うんです。ハードウエアをちゃんと充実しなければいけない、また、ソフトウエアを充実していかなければいけない。そして、その中でも国、地方自治体がどういう役割を演じていくべきか、少し大げさなことを申しましたけれども、やはり前向きにこういう問題を根本的に考えて、そして将来に対するきちっとした方策をもしできれば、御進言申し上げたいと私は考えた次第です。そのくらいの覚悟を持ってやらせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 それでは、議事に入らせていただきたいと思います。
 まず初めに、本懇談会につきまして、原則として公開にしたいと思いますが、いかがなものでございましょうか。
 (「異議なし」の声あり)
 

○有馬座長 やはり私はこういう重要なことでありますので、きちっと世の中に公開をしていくべきだと思いますので、それに従わせていただきたいと思います。
 また、議事録につきましても、各委員の確認、了解をいただいた後、原則として環境省ホームページに掲載し、公開するという形にさせていただきたいと思いますが、よろしいでしょうか。
 (「異議なし」の声あり)
 

○有馬座長 もちろん皆様の御修正等々はきちっとやった上でのことでございます。
 それでは、異議がないようでございますので、本懇談会は公開で行い、議事録は各委員の確認、了解後、原則として環境省ホームページに掲載し、公開するという形をとらせていただきたいと思います。
 なお、本日の懇談会につきましても、非公開とする必要がないと思いますので、原則どおり公開にさせていただきたいと思います。御了承賜れれば幸いでございます。
 さて、本日の議題につきましては、お手元の議事次第のとおりになっておりますが、議事次第に沿って、事務局からの説明、その後の委員の皆様に御意見をいただくという形で進めさせていただきたいと思います。また、本懇談会ではお忙しい小池大臣にも御出席いただいておりますので、小池大臣にも御議論に参加していただきたい。どうぞ御遠慮なく必要なところで御発言賜りたいと思います。なお、環境省の関係の方々もぜひ積極的に御意見を賜りたいと思います。
 それでは、本日の議事に入ります。
 まず、本懇談会の進め方について事務局から案を説明していただき、皆様の御意見を賜りたいと思います。よろしく。
 

○柴垣企画課長 それでは、私の方から御説明させていただきます。
 資料1と2ということで御説明をいたします。
 まず、資料の1につきましては、懇談会の開催についてということで、趣旨、委員等がございます。この趣旨につきましては、先ほども小池大臣からの御挨拶の中で詳細に述べておりますので、繰り返しは避けたいと思います。
 資料の2のところの懇談会の進め方についてということで御覧いただきたいと思いますが、そこにも趣旨がございますけれども、補足的なことを申し上げますと、水俣病問題は現在まだ正に進行中の問題でございまして、そういう中で来年50年の節目と、また昨年、最高裁判決ということをいただいておりますので、そういう中で進行形ではありますけれども、一つの区切りとして社会的、歴史的な総括ということでの包括的な検証ということをお願いして、またそれが来年以降、今後の次のステップといいますか、検討なり、それから対策の実施なりに有効な助言ということが事務局としては得られればということも併せてございます。
 それで、まず2番のところでスケジュールにつきましてでございますが、そういうことで来年の50年に向けてということで、本年度といいますか、平成18年5月の水俣病公式確認50年に向けて1、2か月に1回のペースで行わせていただきます。7、8回ぐらいできればというふうに考えております。
 それから、懇談会の取りまとめといいますか、懇談の内容のアウトプットの取りまとめ、まとめ方につきましては、あらかじめ明確な決め方をしているわけではなく、議論の推移なども踏まえまして、また今後御相談をさせていただきたいというふうに考えております。
 それから、次回以降につきましては、これまで水俣病問題に関する知見をお持ちの委員の皆様方に御経験なり御見識なりを踏まえた御報告なり発表をお願いして、その発表に基づいて御議論いただくという形、さらには患者団体の方などのヒアリング、もしくはまた現地に行っての視察というようなことも交えて考えていきたいというふうに考えておりますが、いかがでしょうか。一応、進め方等の御説明は以上でございます。
 それから、もう一つ、資料の2のところで検討の方法と内容という部分がございます。それで、そこで今申しました内容とともに「検討に当たっての着目点(例)」ということがございまして、一つこの検討会での検討は、50年ということもあって水俣病問題の50年全般ということでございますけれども、時間の関係もあり、懇談会ということもあって、逐一の通史的な事実認定は行わないということでございますが、検討に当たっての各主体の行動ということで、行政が中心になるとは思いますが、それに限らず政治や企業、マスコミなども着眼していきたいと。それから、時期や出来事につきましても、議論の推移に応じて適宜絞り込みというようなこともあり得るかなと考えております。
 それから、視点というふうに書いてございますけれども、例示として先ほど大臣の方から申しました失敗の教訓といいますか、失敗の本質みたいなことの意思決定過程とかそういう組織論的な視点でありますとか、それから地域社会的な被害者と地域社会の問題ですとか、それから患者団体でのヒアリングなどに対して、それぞれの人生の中での水俣病、個人の生活史的な視点ということで例示として挙げてございますが、またこれは委員の皆様方からの御意見や御助言をいただいて懇談会の今後の検討などに反映させていきたいということで、これは単なる一つの例示ということで、またこういった視点についても御意見、御助言を頂ければということでございます。
 一応、説明は以上でございます。
 

○有馬座長 どうもありがとうございました。
 これまで水俣病問題の関係にかかわった方々が大勢いらっしゃいますが、嘉田委員、加藤委員、丸山委員、柳田委員、吉井委員という方々が大変この問題にかかわっておいでなられ、活躍をされてこられました。
 ただいま事務局から本懇談会の今後の進め方についての案の説明がございましたが、この案にとどまらず、さまざまな観点から皆様のお考えをお聞きいたしたいと思います。皆様のお考えで、例えばスケジュールだとかヒアリングの対象なども含めまして御意見、御提案がありましたら、御発言いただければ幸いでございます。
 なお、私の座長をやらせていただくときのプリンシプルがありまして、御出席の委員の方々は必ず1回は御発言いただくということにしておりますので、この点、時々はお名前を申し上げますので、よろしくお願いいたします。わがままなやり方で申しわけありませんが、いつもせっかくおいででありますので、必ず一つ―1回か何回か分かりませんけれども、御発言を積極的にいただきたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
 どなた方からでもどうぞ。
 加藤さん。
 

○加藤委員 それでは、まず現地視察ということが検討の方法と内容の中に入っておりますけれども、これについて私はぜひ早い時期にまず委員の方たちに現地へ行って、直接患者の皆さん、そして市民の声を聞いてほしいというふうに思っています。特にこの現地視察についてはせめて2泊3日ぐらいしていただかないと、なかなか水俣は見えてこないと思います。そこをぜひスケジュールの中に入れていただきたいなというふうに思っております。それもなるべく早い時期にやっていただきたいなというふうに思っております。
 

○有馬座長 ありがとうございました。
 それでは、順にやっていただきましょう。
 金平さん。
 

○金平委員 座長が初めに、この懇談会を受けてはたと困ったとの御発言がございました。座長でさえはたと困られたと仰っておられますが、私は、はたはたと困ってしまったような気がいたしました。水俣病については通常の一般の市民として知っていること、情報を得ている範囲、その範囲でしか考えてこなかったということを今回、お受けしてまず考えました。そこで私は、本当はこの懇談会が始まる前に、今加藤さんもおっしゃったように、熊本へまず行こうと思って、実は自分のスケジュールを調整したのですが、どうしてもできませんでした。先ほど加藤委員にお目にかかるなり伺いたいとお願いをいたしました。
 

○加藤委員 はい、お待ちしております。
 

○金平委員 ぜひ私は、座長にお願いとしては、私も現地に参りたいと思います。と申しますのは、いろいろな私どもに課せられたというんでしょうか、与えられております課題がたくさんございますけれども、すべてをすることはとてもできません。私はやはり、今、患者さんたちがどういうふうに思っていらっしゃるか、苦しんでいらっしゃるか、それをやはり皆さんの言葉で伺って、自分なりに考えてみる、そこから出発したいというふうに考えてこの会に参加しております。まだどういうふうにどこからというのは見えてまいりませんので、随時発言したいと思います。
 

○有馬座長 ありがとうございました。
 それでは、亀山先生。
 

○亀山委員 私もこの水俣病の問題というのはもちろん常識的には知っておりましたけれども、全く直接の関係はなかった。最高裁におりましたときに、若干事件として行ったことがある。それから、その前に検察庁におりましたときに、刑事事件として若干問題になったことがあると、それらに少しずつ関係したという程度であります。全く何も知らないも同然であります。
 今度、この懇談会の委員をと言われてお引き受けはしたんですが、私の感じでは、この懇談会で具体的にできることというのは実は余りないのではなかろうか─ないのではなかろうかというのは非常に恐縮ですが、先ほど大臣がおっしゃいましたが、失敗の検証ということを言われました。これはどうも日本人が一番苦手なことのようであります。もうその咎めが今、戦争の失敗というものの検証をまともにしてこなかったということの咎めが今出てきているわけですが、実は行政的にもいろいろな失敗を繰り返しております。ところが、我が国の行政は非常に有能だと私は思っておりますけれども、自分の失敗を検証するということが非常に不得意であります。これはもう自分の経験でよく分かっております。
 私は50年近くの間、ほとんど公務員として過ごしまして、その間の大部分を検察官として過ごしてまいりました。検察というのも非常によくできた立派な組織だと我ながら思っておりますけれども、それでもいろいろな失敗をしております。非常に重要な、重大な失敗というのが幾つかありますが、その失敗はなぜそういうことが起こったかということを本気になって検証しないと、実はその再発を防ぐということはできないわけであります。それを本気になって失敗の原因を探るということがなかなかできない。私はそういうことをやる部門の長に若干なっていたことがありましたので、歴史的に重大な検察の失敗と言われているような事件を取り上げて、なぜそうなったかを研究しようじゃないかということを何度か言ったんですが、どうしてもできなかった。結局、それをやりますと、今の行政の組織上のあれから言いますと、どうしても個人の責任を追及することになるわけです。個人の責任を追及するとなりますと、追及する相手は多くの場合、大先輩になります。ですから、なかなかそれはやりがたい。これはどこの省でも同じであると思います。しかし、それをやらない限り本当の意味での再発防止といいますか、将来に向かってのあれができないのではなかろうかと。
 しかし、それを実はやりますのは、我々のような部外者がふっと集まって、何回か議論をするということでは到底できないわけで、我々は何をしなければいけないかとかどういう方向性でやらなければいけないのかというような大ざっぱなことしか恐らく議論できないのではなかろうか。今言いました本当のことをやるのは、これに対応された行政それ自体、あるいは各主体の行動というところでずらずらっと並んでおりますが、その中で私はやはり行政とそれからマスコミだろうと思います。そういっては何ですが、50年というのは昭和33年ごろから少なくとも騒がれているわけですが、それにしてはそんなにマスコミが継続的にかつ力強くこういう問題をあれしてきたという記憶が余りありません。ですから、手がかりとなるのは恐らく行政とマスコミだろうと思います。ただ、マスコミの方は、今インターネット等がものすごく普及しておりますので、ちょっと状況が違うかもしれません。しかし、行政の方は組織原理は同じでございますから、行政自体がなぜこういうことになったのかということを本気になって検証するということをやらないと、おそらく何もできないのではなかろうかと、とりあえず今、そういうふうに思っております。
 

○有馬座長 ありがとうございました。早速重要な御指摘がありましたので、その辺もしっかり議論させていただいて、行政に対する注文をきちっとつけるように努力をしたいと思います。よろしくお願いいたします。
 丸山さん。
 

○丸山委員 最初に1つ質問なんですけれども、この懇談会を作られるときに、同時に法的研究会、最高裁の判決の意義を検討してもらう法的研究会も考えているというお話でしたけれども、その件がどうなっているかということです。
 私は、水俣病につきましては、よく言われますように、発生、拡大、それから救済の責任ということが言われて、確かに大きな柱としてはその3つがあるのかなと思うんですけれども、その中でも、現在正に進行中というのが補償・救済の問題ですよね。これが現在、現実的に対応すべき課題としてあるわけですけれども、その総括という意味でもなぜここまでそういった補償・救済というのが混乱してきたのかというあたり、これ一つ取り上げるだけでも1年ぐらいかかってしまうのではないかと考えております。だから、そうした点についてこの懇談会がどこまで検討していけるのかどうかということ、そこらあたりはひとつ検討していただきたい。
 いろいろ他にもこの水俣病事件については検討すべき課題がありますが、発生、拡大につきましては、以前社会科学研究会で1968年まででしたか、一応の総括はなされたわけですけれども、ただ、あの時点ではまだ裁判が進行中であって、本当にもう一つ知りたい例えば行政内部の資料とかそういうのは出てきてなかったのではなかろうかと思うんですけれども、今の時点で最高裁判決が終わりまして、そういう意味ではもう一度資料のレベルから洗い直して、そこらあたりを検討するという作業がやはり特に発生、拡大に関しては重要かなと思っております。
 それから、このメチル水銀が放出された結果としての不知火海沿岸の影響というのは、自然界から人に至るまでのどうなのかということについては、包括的、体系的にもまだ一度もなされていないという現実があるわけですが、これをどうするかというのは、またこれも大きな課題かなと思っております。
 それから、もう一つは数年前に水俣で国際水銀会議がありましたけれども、あのとき私も参加しましたけれども、私は社会学で医学者、自然学者ではないんですけれども、どうも水俣病を経験した日本として現在、世界的に関心が持たれている水銀問題、特に微量汚染の問題についてほとんど日本から発言できなかったという、これはやはりちょっといかがなものであろうかという意味で、今後の国際貢献という意味でもやはりまず足元の日本の水俣について、非常に激症型のそういった死に至るところから非常に軽症といいますか、微量汚染がどういうグレードで広がっているのかというあたりなんかももう一度究明する必要もあろうかなと思っております。
 それから、私が考えています課題だけについてもう少し述べさせていただきますと、もう一つは放出された水銀の除去です。一応ヘドロ処理して埋立地ができて、一応環境も再生ということになっていますけれども、何か聞くところによりますと、あそこの耐用年数は50年と。そうすると、ケーソンが打ち込まれてもう20年ぐらいになるのではなかろうかと思うんです。そうすると、埋立地の中に閉じ込められている水銀をどうするのかと、最近は結構地震も増えてきているんですけれども、そうしたやっぱりここらあたりの水銀の除去というものが行われない限り、ある意味ではいつも爆弾を抱えているみたいな状態で、それも埋立地のときから耐用年数50年ということになると、もうそろそろ次の手立てもやはり検討する時期に来ているのではなかろうかと思うんですけれども、それをどうするかという問題があると思います。
 それから、これまで地域につきましては、吉井前市長さんがいろいろ水俣、芦北地域についてはかなり政治解決のときに尽力されましたけれども、実は今度新たに認定申請の人たちが出てきているように、これは不知火海沿岸全域なんですね。出てきている、そういったもっと広がりを持った不知火海沿岸地域に対してどういうような対応をするのかというような課題というのが、これはかえってそういう周辺、鹿児島の方も含めて、どうも何か取り残されているなという感じがあるんです。これから特に地域の再生という場合に、これは加藤さんが胎児性のことについてはいろいろ取り組んでおられるんですけれども、全体として高齢化していく中での地域福祉といいますか、そういったものを視野に置いたようなそういう沿岸地域一帯の地域に対してどういったような対応というのを考えなければいけないかとか、いろいろこれは総括というより課題ということになりますけれども、そういうことを今のところ考えております。
 

○有馬座長 ありがとうございました。最初に御質問があったと思いますが、そこについてお答えください。
 

○柴垣企画課長 法的研究会はどうなったかという御質問につきましたは、いろいろな課題についてどのように対応していくのかという御質問もあり、そのような中の一つとして法的研究会もあるというふうに理解し、またご理解いただきたいのですけれども、最初にも言いましたように、水俣病問題はまだ現在進行中の問題でございまして、とりあえず来年の水俣病公式確認50年に向けて1年間で大所高所からといいますか、御議論をいただいて、さらにその御議論の推移に応じてこの懇談会自体もしくは次のステップでどういう場を設定し更に検討を深めていくのかということなども御相談しながら考えていきたいと思っております。法的な研究につきましても、そういう中で、まずこの大臣の私的懇談会という場で御議論いただいた上で、その推移も踏まえて法的にさらに詰めるべきことが必要であればそのような研究会等の場の設定も含め詰めていくし、また今、丸山委員の方からいろいろ課題を言っていただきましたけれども、そういう課題についても、本懇談会での御議論のほか、次のステップの研究、検討課題としても対応していきたいと思っております。まさに50年で終わるものではなくて、大きな検討の最初のステップといいますか、大きな大所高所からの御議論をいただく場という位置付けで本懇談会を考えていきたいと思っています。そういう意味で、次につなぐ御意見、御助言などをいろいろ頂いて、事務局の課題としていきたいというふうに考えているところでございます。
 

○有馬座長 丸山先生、よろしいですか。
 それでは、柳田先生、お願いいたします。
 

○柳田委員 柳田でございます。
 ちょっとエピソードですが、前に国立がんセンターの病院長をなさっていた市川平三郎さんという方がおられますけれども、しばらく前にイギリスの学会に行きましたときに、向こうの某大学の診断部長のところへ招かれたので立ち寄って、それで日本の得意とする、また市川先生なんかが開発されたがんの二重造影法についてレクチャーを受けたいということで招かれたんだそうですけれども、そこでなぜ私を招いたのかなと聞いたら、部長がいろいろと日本は努力しているので、あなたの話を聞けば何か我々の診断学にもインプルーブするところがあるかもしれないから聞きたいんだというふうに言ったんだそうです。それに対して市川先生が、それなら私は話はしたくないと、インプルーブするんだったら大したことはできないと。チェンジする気持ちがあるのかと。物事の考え方あるいは方法論を根本的に変える必要があるのかと、そういう発想がない限り私がここへ来て話すだけの意味はないと、こういうふうにおっしゃったんだそうです。相手の部長も、そこのところは話を聞いて変えるべきところは変えるとか何とか言ってお茶を濁したようですけれども、実はこの懇談会が始まるに当たって、私、いまだにこの懇談会が何をしようとしているのかについてまだ理解できていないんです。一体どこまで何をしようとしているのか。
 それはどういうことかといいますと、この水俣病50年に当たって何かをしようとする、特に行政がこれからこうした問題に対してどう対応するかというのを考えるときに、これは一省庁の問題ではなくて、むしろ内閣府、つまり総理の懇談会でなければできない問題の方が多いわけです。先ほど事務局から示された例えば視点の例として、組織論的視点とかいろいろ問題提起をされていますけれども、組織論というのはまさに日本の行政全体がかかわる問題でありまして、これからの行政の根本的な在り方にかかわるような改革提言ということは、小泉内閣の改革路線とはかなり違うものになってくるだろうと思うんです。そういうことを考えると、この懇談会がどこまで何ができるのかというのはまだ私には見えていないわけです。
 それから、視点で言えば、産業政策的な視点というのが極めて重要なわけですけれども、これは当時の通産省などが最も大きく絡んだところでありまして、しかし、またこの環境省というところの立場なり役割を拡大解釈すれば、従来の行政の縦割りの中で処理し切れなかった問題を横断的に対応していこうというようなことで1972年に世界的な環境政策の重要性が叫ばれて、ストックホルム会議があったことを契機にして、日本でも環境庁というのを作ろうということになったその経緯を考えれば、この環境省の果たすべき役割というのは若干横断的なことをやってもいいのではないか、あるいは各省庁の上位に立つメタ行政的なことをやっても、あるいは提言してもいいのではないかと。それが実現するかどうかは、これは政治判断、あるいは総理の判断になってくるわけですけれども、そこまで踏み込んでいいのではないかなということを考えているわけです。
 具体的に私としてどういうことを提言したいかとかというのは、おいおいまた会議の進行の中で発言したいと思うんですけれども、私が一番大きな問題として、今当惑しているのがその枠組みがどの程度のものなのか。一体ここで提言することがインプルーブではなくてチェンジになり得るのかというそのあたりなんです。そういう点でこれから発言していきたいと思っております。
 

○有馬座長 ありがとうございました。重要な御指摘をいただきました。
 屋山先生。
 

○屋山委員 屋山でございます。
 私も小池さんにこの懇談会に出てくれと言われて、僕にどういうことができるんですかとこう言ったら、知恵を出せばいいんだとハッパをかけられたんです。事前にレクチャーを受けて考えたことがあります。ちょうど私が駆け出しのころにこの水俣病というのを聞きました。そのときに東京で聞いて、私ずっと東京勤務だったわけですけれども、そういう公害というのをやると企業が潰れてしまうと。日本は企業で栄えて食わなくてはいけないので、あんまり騒ぐのはよくないのではないかと、そういう意識がありました。私、学校を出たばかりだったんですけれども、それで本当に死んでしまう人が出たらどうなんだと。だから、初めて私は企業と人の命というものを天秤にかけるというか、初めてそこで考えたんです。その後ずっと、例えばゴルフ場の開発なんかで木を切るとオオタカがいなくなる。何でいなくなるんだといったら、ヘビやカエルがいなくなるんだと。そうしたら、自民党の議員がヘビやカエルのために稼ぎをやめるのかと、そういう議論もまだありましたね。これはつい20年ぐらい前の話で、それにも非常に抵抗があったんですが、その後外国に行きまして、スイスに行ったんですけれども、公害というのに、もの凄くヒステリックなんです。私はそれで初めて日本人というのはなあなあで問題を押さえ込んでしまおうという体質というのが日本にあるんだなと。私自身もそれに汚染されて何とか大騒ぎにならないようにおさめる方法がないかと、そういうふうに考えていたんですけれども、そういう考え方はいけないのだと自覚しました。徹底的に原因と被害者と洗い出して勝負をつける。それをやらない限りまた起こると。
 私は日本でやたらにこの公害が起きて、それからこの間も団地でダイオキシンか何かが出たと。それから、どこかの毒ガスを埋めたらしいところで、そこの米を食べたら髪の中から砒素が出たとか、そういう問題をひっくるめて、今度のこの懇談会で、救済とそれから原因の除去というのを大胆に打ち出して、それが他のあらゆる公害問題の解決の指針となるというようなところまでやるべきだ。それには柳田さんがおっしゃったように、環境省だけでは収まらないということはあるかもしれませんけれども、しかし、縦割りの枠を超えないと根本的な解決はできませんよと。これからもこういう問題が起こるという可能性はいつも残っているわけで、公害を起こしたら大変だなという企業が、今でもそういうマインドになっていますけれども、これは私の若い頃とは様変わりだと思うんですが、公害を起こしたら大変だと企業に自覚させる。特にアメリカなんかに行く企業は非常に神経質になっている。そういう風土を日本に起こすと。
 それから、技術ですね、そういう公害防止の技術をもし日本がすごく先進的になれば、これは売れると思うんです。こういうことで議論しながら儲けることなんか考えるなという議論もあるかもしれませんけれども、私はそれを売るということは、それで困っている人が助かるわけですから、厳しい意見を出すというのは悪いことではない。
 一つ申し上げますが、三木さんが総理大臣のときに排ガス規制というのがありまして、そのときに自動車会社が触媒方式で、どんなにやってもこれ以上できないというラインがありました。そこを三木さんはどーんと超えて、とてつもないハードルを上げてしまったんです。私は政治記者で三木番やっていたんですけれども、この男はバカじゃないかと思ったんです。要するに技術的にできないと自動車会社が揃って言っているそのハードルを上げたらできなくなるわけですから。だけど、結果的にはそのハードルを上げたおかげで、日本の自動車メーカーが触媒方式ではこれは絶対にクリアできないといって初めてエンジンの構造に取りかかったというのです。それで世界一のエンジンができるようになったわけです。ですから、そういうことを考えると、私は困った、困ったとそんなに頭を抱える必要もない、大胆な方式を打ち出せと、そういうふうに今思っております。
 

○有馬座長 どうもありがとうございました。
 非常に重要な御指摘でありまして、縦割りをどうするか、やはりこれはここで考えていいと思うんです。遠慮することはないので、やはりちゃんと水俣病を中心に議論しながら、よりよくするにはどうしたらいいか、これはやはり縦割りはだめだということをちゃんと言ったらいいと思うんです。そういたしましょう。
 それから、やはりいろいろな問題を解決しなければだめだということがぞろぞろ出てくると思います。それをやはり遠慮しないできちっと言って、やれるものからやっていったらどうかと思いますので、よろしくお願いいたします。
 私もついこの間、去年及び今年、ユネスコに行きまして、マータイさんの調子に乗ったからこうなったんだけれども、もったいない運動を提唱してきたのです。そのときに特にアフリカの諸国等々から日本の成功ということをよく言われるんです。私はそのときに日本の成功を学ぶことはもちろん学んでほしいと。しかし、失敗点もよく見てくれと。公害問題等々失敗が非常にあったんだと、これをよく見てくれということを言ってまいりました。だから、この際、水俣病を中心にいかなる問題点が過去にあったか、工業化の際にどういう問題が起こってきたのか、これなどもちゃんと整理して、さっき売るという話をしておられたけれども、外国に打ち出して、こういう失敗をしなさんなよと、日本だけに対してでなくて世界に対して言っていいと思うんです。そういう点で、ぜひとも皆様方の御意見を積極的に賜りたいと思います。
 それでは、最後に吉井先生。
 

○吉井委員 現状を知らないと論議ができないという言葉がございますが、加藤委員が提案された地元での開催、地元視察というのはぜひ実現していただきたい。そのためには患者の声を聞く、実態を知るだけではなくして、この水俣病問題ですごく疲弊をした地域社会、壊れてしまった地域社会、こういうものにも視点で向けていただきたい。そして、限られた時間ですので、アウトラインだけでもつかんでいただきたい、そのようにお願いをいたします。
 それから、5月1日に水俣病犠牲者慰霊式が挙行されましたが、大臣御出席、参列をいただいてありがとうございます。そして、患者と接触を図られ、また、ほっとはうす等に足を運んでいただいて大変感謝をいたしております。また、環境保健部の部長さん以下皆さんが再三再四足を運んでいただいて、患者との対話を心がけていただいた。批判をいただき、罵声を受けながらめげずにやっていただいておられる、このことを私すごく評価をいたしました。やはり対話を通じてその被害者の声を謙虚に聞くということ、それから意を尽くして説明をするということ、この繰り返しが理解を生み、そして最後には決着に結び付いていくと思います。今後もぜひひとつ続けていただきたいと、まずお願いをいたします。
 この懇談会に参加するに当たって、地元の患者団体等から医学者あるいは弁護士、そういう専門家が参加しない懇談会は無意味だという批判をかなり受けまして、出づらい思いをしてきたわけであります。この認定問題あるいは病像の問題など、混沌といたしておりますが、これらはやはり専門の学者あるいは弁護士、関係者が論議を闘わせる場というのが必要だろうと、このように思います。私、ここへ参加したのは専門家、そういう人たちの意見は50年間すごく論議をされてきております。ただ、第三者というのか関係のない人、関係の薄い人、そういう人の発言というのは水俣病に関してはすごく少なかったと思います。
 ここで各界の有識者、この人たちに御参加を頂いております。この第三者として見た水俣病の認識あるいは見解等を公式の場で述べていただくということはすごいことでありますし、これは広い意味で水俣病の解決あるいは水俣の将来の展開、これに大きな示唆を頂けるものと、そういう興味を持って参加をさせていただいております。
 それから、関西訴訟あるいは最高裁の判決が求めているのは第一義的には直接の被害者の救済責任、これを果たすということだろうと思います。しかし、それと同じ比重で重大なことは、大臣御発言がありましたように、行政あるいは政治がこのような大きな誤りを二度と起こさない、そのためにどうするかということを真剣に論議していくというこのことがすごく求められていて、これは患者救済の影に隠れて何か忘れられているように、我々はそういう感じを持っております。だから、将来日本が世界のモデルとなる、そういうためにはどうしてもその部分をしっかりと論議し、そして改革すべきは改革していく、そのことがすごく大切だと思います。 そういう点について地元でこの水俣病問題にかかわる、あるいは行政に携わってきた者として、 いろいろな提言あるいは意見を今後述べさせていただきたいと思います。
 

○有馬座長 ありがとうございました。
 大臣。
 

○小池大臣 1回目ということで、皆様方から課題やこれからなすべきことについて御指摘をいただきました。それを伺っていて、皆様方に御参加いただいて、まず本当によかったなと思っているところでございます。当事者と言ってもおかしくない皆様方もいらっしゃいますし、また一方で、客観的に見ていただく方々もいらっしゃる。この懇談会、幾つか課題も頂戴いたしましたので、真摯に対応してまいりたいと思っております。
 それから、私、先ほどの御挨拶のところで若干言い漏れたといいますか、今お話を伺っていて改めて思ったんですけれども、先立って5月1日に慰霊式に行かせていただきました。私、これで2回目になるんですけれども、環境庁長官なり環境大臣として2年続けて行った人は初めてか、数えるほどしかいないと思います。何が言いたいかというと、環境庁長官なり環境大臣の任期が1年に満たないんです。ですから、毎年ニューフェースが慰霊式に参加をして、そして毎回患者団体の皆さんと初めてお会いして、それでそれぽっきりになってしまう。もちろん、ずっと水俣病にかかわってこられた方が大臣になられることもありますし、それを契機にこの水俣対策をしっかり取り組んでおられる先生方もいらっしゃいますけれども、環境大臣としての肩書で2年続けて行く人がほとんどいなかった、これも一つ検証の論点になるのではないかと思っております。
 それから、来年が50年の節目でありますけれども、水俣病は現在進行形であります。50年だからと、この懇談会における一つの区切りということでの想定もありますけれども、水俣病はまさに現在進行形であります。私どもこれからも心して取り組んでいきたいと思っておりますし、いろいろな御意見を伺う中での対策も考えていきたいと思っております。
 それから、今日の資料の中で、後ほど御説明をさせていただきますけれども、資料3に水俣病問題関係略年表、地図、「水俣病」問題の広がりと付いております。一番最後のページは、私があえて付けさせていただきました主要略年表でございます。これはすなわち水俣病を通して日本が透けて見える、そういった広がりを50年だけで区切ってしまうよりも、日本自身が富国強兵からどのような産業政策でやってきたのか、そういったより広いスパンでもって見ていくと、より本当のことが見えてくるのではないかと考えたところでございます。水俣病のみももちろん掘り下げてやらなければなりませんけれども、その際には日本全体としての視点を欠かすことができないのではないかなと思っております。こういうかなり古い時代、それも戦前の昭和初期の頃からのチッソの活動を知ることも、大きな意味があるのではないかというふうに考えたところでございます。
 それから、幾つか御指摘がありました。私も環境大臣になって、最初にいろいろな方がお祝いに駆けつけてくださったんです。その中で、某省の人から「これからは敵だね」と言われたんです。それで「えっ」と思ったんです。いわゆるセクショナリズムは日本のこれからの発展を大いに阻害する障害であると私は考えております。それを検証するのは大先輩に対して批判的な結果が出てくることもあろうかとは思いますけれども、職員にはそのあたりも覚悟してやろうと申したところでございます。また、長い環境庁時代、職員の中に死を選んだ人もいることもお知りいただきたいと思っております。
 それから、日本の失敗の最たるものである水俣病を、有馬座長おっしゃるように、開発途上国がまた同じことを繰り返そうとしているケースがままあるわけでございます。その意味でこのアウトプットにつきましては、単に日本国内に向けてのまとめではなくて、海外に向けてもしっかりと伝えることが、50年の役割ではないかと考えております。
 以上、ちょっと長くなりましたけれども、委員の先生方のお話を伺っておりまして、改めて思った観点を幾つか述べさせていただきました。また、参考にしていただいて活発な御議論を賜ればと思っております。
 ありがとうございました。
 

○有馬座長 大臣、ありがとうございました。これで予定の時間を30分超過いたしまして─ちょっとお待ちください。私はこれでいいと思うんです。非常に活発な御意見が出ることが目的でありますので、予定の時間どおりいかなかったことはお許しください。
 それでは吉井さん、お願いいたします。
 

○吉井委員 大臣、水俣病犠牲者慰霊式に2回御出席をいただいたということで、すごく珍しいと思います。環境庁長官、環境大臣は私が市長に就任し、政治解決ができるまでの間、1年5カ月かかりました。その間に環境大臣、環境庁長官は5人交代をされています。顔も覚えなかった。そのような状態の中では、なかなか立派な政策はできないのではないかと。大変重要な省でありますので、閣議をリードされて、閣僚を指導していかれるような大きな力を発揮していただきたい、これはお願いであります。
 

○有馬座長 いいポイントをありがとうございます。私も小泉総理大臣に閣僚を変えるなと、要するにずっと全部同じ大臣でおやりなさいという進言をしました。やはり重要なポジションにいる人が半年とか1年でどんどん変わっていくと何にもできませんよね。ですから、日本の行政改革で一番重要なのは、大臣の任期を3年か4年ぐらいに必ず続けることというふうにした方が私はいいと思っております。少し今の吉井さんの御発言に乗りましたけれども、そこで、続きまして 先に進ませていただきますが……。
 はい、どうぞ、加藤さん。
 

○加藤委員 こうした場に一番慣れていない私が、先ほど五十音順でここに座っているものですから一番先に発言しまして、十分発言ができませんでしたので、改めて少し補足をさせてください。
 私自身はやはり水俣で日ごろ胎児性の患者さんたち、障害者の人たちと一緒に働く場で雑用係をしております。そういう立場から言うと、あくまでも被害者の立場に立って、現場の声を届けるということが私の重要な役目だというふうに思っています。そういう人たちに背中を押される形で、今までいろいろと私にいろいろな意味で人生そのものまで教えてくださった患者さんたち、その方たちの思いが私の今日ここで発言する原点だというふうに思っています。
 その中で、徐々にいろいろな話もしていきたいと思うんですけれども、まず一つ、非常に緊急な課題はあるというふうに思っています。検証するということは1年では私もできないというふうに思っています。しかしながら、同時進行で緊急的な課題ということはあります。それは、やはり今40代の後半から50代に差しかかっていらっしゃる、特に胎児性の患者さんたちの今後、特にほっとはうすに来られている患者さんはまだ軽い方です。もっと重い状態に置かれている方たちが、家族のみが介護にかかわるという状況の中で、地域の中で半孤立の状態にあると思います。こういう方たちに対して、地域福祉としてどうしていくのかということは非常にこの場で緊急に私は検討していただきたい課題の1つだというふうに思っています。
 それともう一つ、私たちは水俣病というふうに位置付けるときに、どうしても熊本の水俣の水俣病というふうに思いがちです。きょうの資料の中にも新潟阿賀野川、新潟水俣病もきちっと入っております。現地視察のところで、私は一つ言い漏らしたところで大事なことは、やはり50年を検証していき、これからの50年を考えるということであれば、同じように水俣病の被害地である新潟水俣病も視察の中に入れていただきたい。同時に、今回関西訴訟を一つの、あの最高裁判決、歴史的な判決をきっかけにこの懇談会というのも開かれた大きいきっかけだったと思います。そういう意味では、関西の原告の患者さんたちの声も私は現地に行って、委員としては聞くべきだというふうに思っています。決して東京に呼び寄せるのではなく、やはりそれぞれ被害を受けた方が暮らしていらっしゃるその場に出かけて行って、声を聞いて今後に生かしていくべきだというふうに思っています。
 とりあえずお願いいたします。
 

○有馬座長 ありがとうございました。
 まだまだ御意見があろうと思いますが、もう一度皆様に御意見を伺う機会がございますので、少し進めさせていただきます。
 本懇談会の検討内容につきましては、本日、この後行われます水俣病問題にかかわる経緯についての説明も踏まえまして、再度御議論いただきたいと思います。また、次回は吉井委員にこれまでの御経験を基に発表をお願いいたしたいと思いますが、いかがでしょうか。御意見ございませんか。よろしいでしょうか。
 それでは、次回、吉井委員にお話を伺いいたしたいと思います。よろしくお願いいたします。
 引き続きまして、水俣病問題の概要等について事務局から御説明ください。

○柴垣企画課長 それでは、資料3に基づきまして、水俣病問題の概要につきまして初回でもありますので、事務局の方から僣越でありますが、30分ほどお時間をいただきまして、御説明をさせていただきたいと思います。
 今、大臣の方からも触れていただきましたように、資料の全体をちょっと最初に見ていただきますと、最初の3ページがこれから御説明を主にいたします水俣病問題関係略年表ということでございます。それから、その次に不知火海水俣地域、鹿児島県側も含んでおりますが、不知火海地域、それから阿賀野川地域の地図、それからその次の見開きが、これはむしろ行政側の救済対策の概要、それから全体の問題の広がりということで対象者の数などの概念図でございます。
 それから、もう一枚めくって、最後の見開きが関西訴訟の判決の概要、それから先ほど大臣からも言及がございました背景といいますか、全体の主要略年表ということでございます。それで、最初のページにありますように、チッソが明治41年に日本窒素肥料株式会社として発足したと。最後のページの方を見ていただきますと、それが富国強兵なり日清・日露の日本版の産業革命の正にそのときにチッソが誕生して、それで昭和恐慌といいますか、世界恐慌の波の中で朝鮮半島に進出して、また終戦を迎えて朝鮮半島から撤退、撤収すると。特にチッソの資産の80%以上がそこでソ連なり北朝鮮なりに接収されてしまったということだったと聞いております。
 それで、引き揚げの技術者を水俣工場で受け入れて、もともと「技術のチッソ」と言われていたそうですけれども、それが水俣工場の発展にもつながり、また戦後の水俣市の発展にもつながったというようなことが前史としてあるということでございます。
 また、資料の最初に戻っていただきまして、1ページ目は水俣病の発生とそれから原因解明、そして最高裁判決で行政の不作為責任を問われました昭和34年12月の水俣病問題の終息化といいますか、問題の蓋を閉めるようなところの流れを追っております。最初の水俣病が資料に出てきますのが昭和27年の県の水産課の現地調査ということで、これは水俣漁協の方から漁獲が減っておって、その原因が工場の排水ですとかそれが溜まったヘドロですとか、そういうものではないかというような要望を受けて、県の水産課が現地に行って排水の成分の分析とか成分の明確化が必要ではないかというようなレポートを残しているということでございます。
 それで、ちょっと申し遅れましたけれども、委員の皆様方のお手元にファイルがございまして、水俣病の資料集ということでファイルの中にも同じ年表がついておりまして、そこの項目毎に資料番号を付けておりまして、またインデックスでその番号に対応してございます。それで、この場若しくはまたお持ち帰りいただいて、それぞれ年表で付けております事実についての、現在手に入る形での資料の抜粋なり、それからその判決であれば判決文なり要約なりというものを付けてございますので、適宜御参照いただければというふうに思います。
 それで、水俣病については昭和28年ころからいわゆる「ネコ踊り病」ということで、まず猫が多数死亡するというようなことが新聞記事などでも出ております。そして、昭和31年5月にいわゆる公式確認と言われているチッソ附属病院から水俣保健所への報告がございます。それを受けて保健所、医師会、水俣市、市立病院、チッソ附属病院からなる奇病対策委員会というものが設置され、またその中で当初伝染病ではないかというようなことで、患者差別みたいなこと、特に患者が、地図で見ますと市の中心から南の方の水俣湾、袋湾の周辺から発生したということもあって、地域差別みたいなことも含めて起こったというふうに聞いておりますけれども、8月には県の方で原因不明の脳炎様疾患というふうな報告が厚生省になされると。
 そこで、厚生省も動きまして、翌年の昭和32年3月には厚生科学研究班が報告書を作成して、その段階ではそういった伝染病ではなくて、ある種の化学物質ないし重金属が原因であるということが、まだ推定ではありますけれども言われております。重金属としてはマンガンとかセレンとかタリウムとかが当初は疑われていたということでございます。
 そういう中で、昭和32年8月には熊本県が、水俣病が魚介類の摂食によるのではないかということで、食品衛生法の適用をしようということになったのですが、別に法律上の義務ではないにもかかわらず、厚生省の方に一応照会をするということをしております。その一月後の9月に厚生省から魚介類の摂食の自粛は指導すべきだけれども、食品衛生法の適用については水俣湾のすべての魚介が汚染といいますか、毒を持っているわけではないということで適用できないというような回答になっておるということでございます。
 それから、翌年の9月には水俣湾における漁業補償というような問題も起こってきたこともありまして、チッソが排水口を水俣湾への排水口、百間排水路というものから八幡プールを経て水俣川河口付近に変更するということがございます。これはまた地図で見ていただければと思いますが、水俣湾に流されていたものが水俣川河口から不知火海一円に、河口ということもあってその流れに乗って広がるという結果になっております。その結果が半年後の昭和34年3月に現れて、水俣川河口付近又はそれよりも北側から患者の発生が相次ぐという事態になっております。
 その後、原因解明の流れとして、その年の7月には熊本大学研究班が有機水銀説というものを初めて出すと。幾つかの重金属を当たった結果として、やはり有機水銀が一番臨床的にも病理的にも、また動物実験的にも近いのではないかということでございます。それに対してチッソや日本化学工業協会などが早速反論をするということが起こっております。それから、これは後から分かった事実として、同じ年にチッソ附属病院で猫に工場排水を直接投与する実験が始まり、後で裁判の証言などで有名になった猫400号が10月に発症しております。チッソはこれを公表せずに実験の続行も中止してしまうということで、この段階でチッソ自身もみずからの工場排水に問題があるということが分かっていたのではないかということでございます。
 それからまた、その10月にはそういったチッソの報告を受けてかどうかははっきりわかりませんが、通産省がチッソに対して水俣川河口への排水経路を即時やめて百間排水路に戻すようにと。それから、排水の浄化装置を早く年内にも完成しろという指示を出しております。この前後には厚生省などからも通産省にチッソへの排水対策の要請なども行われているようです。
 そういうことが行われておりながら、その一方、11月に開催された厚生省食品衛生調査会においては、原因は熊大の研究班の報告も踏まえて、ある種の有機水銀だという答申を出しておりますけれども、有機水銀の発生排出源については言及せずということで終わっております。また、地域社会という点では、次のところで、水俣市長、市議会、商工会議所などが県知事に対してチッソの工場の操業停止につながるような工場排水の排出停止は反対であるという旨の陳情をしております。こういう事実からも地域社会の中でもやはり原因はチッソの排水ではないかということが暗に一般化していたということ。また、通産省の行政指導などでもそれがはっきりしているということでありますけれども、公式的には発生排出源には言及できずということでございます。
 それで、そういう中で昭和34年12月ということが、最高裁判決でもその12月末ということが行政の不作為ということで国家賠償法の責任があると言われた時期でございますけれども、その時期に、一つはチッソ工場に通産省の指示に基づいてサイクレーターという排水浄化装置が設置された。ただ、これは水銀を除去する効果はなかったと。当時からもそれは明らかだったということが最高裁判決でも言われております。
 それから、そういうことではありますけれども、工場の対策はこれでやったんだということを内外にアピールするような当時の新聞記事にもなっております。それから、もう一方で漁業補償ということが県・市などが参画している調停委員会による調停によって決着するということが相前後して起こっております。さらに12月30日、まさに年末ぎりぎりに向けて、水俣病の患者が11月から座り込みなどをしておりましたけれども、それに対してやはり調停委員会の調停ということで見舞金契約ということが締結されるということでございます。この見舞金契約は御存知のように、後の判決で公序良俗違反ということで、後にチッソが排出源だと分かっても一切新たな請求をしないというような条項もあって、そういう問題のある契約ですけれども、そういう工場排水対策、それから漁業補償の決着、さらには患者団体との見舞金契約というこの3つで、この昭和34年12月末で水俣病問題はほぼこれで終わったんだといったことがマスコミも含めて一般的に言われたし、また行政もそういうことだと認識しているということがあるということが資料などから伺えるのではないかということでございます。
 それから、次の2枚目に行っていただきまして、昭和35年1月、これは原因解明が厚生省の食品衛生調査会を中心に行われていたのが経企庁の方に移って、1つは水質二法と言われている法律が経済企画庁が所管であったということもあって、水質二法をどうするかということで、水域の調査はやってみようということもありまして、この水俣病総合調査研究連絡協議会というところで水質二法に基づく水域調査を始めるということも含めて、水俣病問題の協議機関がここに移ったということでございます。通産省、厚生省、水産庁、それから学識者なども参加しておりますけれども、これも昭和36年3月までに4回やって、以降もう開催されないということでございます。また、いわゆる水俣病患者家庭互助会に加入していた患者に加え、その後の患者の認定も、昭和35年、36年に9人に行われて以降発生していないと。唯一そこにあります胎児性の確認は解剖の検査によって、昭和36年8月にまず1人分かり、さらに昭和37年に16例認定されるということでありますし、また全体が水俣病問題は終わったとされている中で、熊本大学などがある意味で細々と研究を続け、昭和37年8月には論文ということではありますけれども、チッソの水俣工場の中の水銀スラッジから塩化メチル水銀が抽出と。それから、昭和38年2月には熊大研究班が原因はメチル水銀であるという発表をすると。ただ、ちょっとここには書いてございませんが、その水銀スラッジからの塩化メチル水銀と、それから水俣湾産の貝の中からの有機水銀の成分が違うということが問題になって、完全にこのチッソが排出源だということが確定できないというようなこともございまして、この段階はこういったことでとどまっておりました。
 水俣病問題が再度動き出すのが昭和40年の新潟水俣病、第二水俣病が起こってから、その力によって熊本の水俣病も再度動き出すというような、非常に矛盾に満ちたというか曲折を経た経緯を辿るわけです。裁判も昭和42年6月にまず新潟の水俣病から起こると。これはいわゆる四大公害裁判の最初でございます。熊本の方はそれから2年後にやっと裁判が起こされるということでございます。そういった社会的力もあって昭和43年9月に政府統一見解ということで、原因がチッソ水俣工場の排水中の有機水銀であるということがやっとここで確定すると。これと同時に、当然新潟水俣病の方も同じように原因が昭和電工による排水であるという確定をしておりますけれども、そのときも新潟水俣病の方は科学技術庁によるという縦割りがあるわけですけれども、そういうことがあります。
 それから、またこれも非常に皮肉といいますか、昭和44年になってやっと、先ほどの水域の調査を35年からやってうやむやになっていた水質二法がやっと動いて、この段階で水俣湾を指定水域に指定したり、排水規制が始まる。ただ、事実上、アセトアルデヒドの製造は前年に止まっておるというような事態がございます。
 それから、そういった政府統一見解を受けて、患者団体は昭和34年12月の見舞金契約にさらに追加の補償を厚生省に要求すると。それを受けて、水俣病補償処理委員会というのを発足しようとして、それへの一任をするかどうかということを巡って、患者家庭互助会というものが分裂すると。その少数派が訴訟を起こすということにつながっていくということでございます。こういう中で、また訴訟を起こす患者への差別が起こり、そういう中でようやく新潟に2年遅れで訴訟が起こされるという事態になっています。
 そのような一方で、訴訟が進行している中、先ほどの水俣病補償処理委員会の斡旋が昭和45年5月に妥結して、そちらの方の患者とチッソの和解契約というのが結ばれるということで、一方で訴訟を抱えながら、一方で和解契約が出てくると。また、その前年の12月末に旧救済法、公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法というのが施行されまして、ここでまたいわゆる今につながる認定問題ということが出てくるわけですけれども、それについては環境庁発足直後の昭和46年8月に旧救済法の認定についての不服審査請求が出され、これに対して環境庁は取消裁決を出すと、いわゆる川本輝夫さんを中心とした方々の不服審査請求に対する裁決ということで川本裁決というふうに言われておりますけれども、そういう中で、一方で旧救済法の認定についての事務次官通知、いわゆる46年通知も出されると。その取消裁決を受けた方々、その方も含めその旧救済法で新たに認定された方々は既にあった和解契約には乗れないわけですから、チッソとしていわゆる新認定というような言葉も使われて、チッソに対して補償を求める直接交渉ということでいわゆる自主交渉が10月に始まり、チッソとしてはそういった自主交渉ではなくて、公的機関による調停ということで今の公害等調整委員会の前身であります中央公害審査委員会というところに調停を申請すると。ですから、ここでまた自主交渉と調停という2つに患者の運動やその団体が割れて、最初の和解契約と訴訟といういわゆる旧認定者、もともとの認定患者の方々と、そういう意味で大きく4つに患者団体が分裂すると。このような補償をめぐる混乱、混迷ということがあったわけです。
 昭和47年を経て、1年たった昭和48年3月にようやく熊本地裁で44年提訴の第一次訴訟の判決が出ると。その判決で原告が勝って、その後東京交渉ということで、もともとの訴訟を起こした人たちと、それからチッソに対する自主交渉を行った人たちがチッソとの直接交渉を東京交渉団ということで行いまして、その結果は7月に補償協定の締結ということで結実するわけです。
 最初の補償処理委員会の和解契約の人たちも、それから公調委の調停を申請した人たちも、皆この補償協定の方に乗るということでございまして、昭和45年の和解契約はこの段階では無効といいますか、なくなってしまって、全部補償協定の方に集約されるということで、いわゆる補償問題はこの補償協定ということで決着したということになります。
 ただ、その協定の中に、以後、行政が認定した方についても希望すれば協定に乗れるという項目がありまして、そういったことも受けて、昭和48年当時、認定申請が非常に急増するという事態が起こっております。それがそのページの一番下にあります昭和49年12月提訴の認定不作為違法確認訴訟ということで、認定の申請の急増とともに滞留して認定処分がなされないことが不作為違法であるという確認訴訟が起こって、それが昭和51年12月に不作為違法であるということが認められ原告勝訴の判決が出されるという事態が起こってまいります。
 ここから、補償問題からさらに認定問題ということで、棄却をされた方々の問題に移るわけですけれども、3ページ目の冒頭にいわゆる52年判断条件というものでございます。これはそういった認定の急増を受けまして、2年前の昭和50年5月に認定検討会というのを作りまして、熊本県、鹿児島県、新潟県3つに審査会がそれぞれあるわけですけれども、その審査会の委員が水俣病に対する共通的な医学的見解を1つの判断条件という目安にまとめようということで、2年間の検討を経てまとまったものでございます。ただ、これが当時の申請の急増、それからそういう中での棄却者の増加とともに、棄却のための認定基準の強化ではないかというふうに言われたことも事実でございます。
 それからその後、昭和53年6月にはそういう認定者の急増とともにチッソの経営の悪化ということで、いわゆる汚染者負担の原則PPPを守るためにもチッソをとにかく金融支援で倒産させないようにするということで、緊急避難的に県債方式ということで県が県債を発行して資金運用部から借金をしまして、それをチッソに融資して支援するという方式で行おうということでございます。これは3年ごとに延長してきておりまして、そのページの下から3つ目の平成12年2月にいわゆる県債方式の見通しということで、県債という形でなくて、より直接無利子の国の補助金で県の県債償還を支援して、間接的にチッソに支援するというような方式に改まっております。
 それから、大きな流れとしてはそういう中で棄却の問題というのが裁判を招き、それが昭和55年5月の初の国家賠償訴訟ということで、それが昭和63年までに11件の国賠訴訟、そのうちの1件が昨年10月の最高裁判決まで争われたわけでありますけれども、そういった棄却された方々の賠償を直接チッソに対する賠償訴訟、さらには国・県の行政の責任も含めた国家賠償訴訟へという流れになっていったのでございます。
 昭和60年8月の2次訴訟、これは最初の棄却された方々も含めた裁判ということで、昭和48年1月に提訴されておりまして、これはチッソだけが被告だったものですから、高裁段階で決着をしているというものでございます。
 その後そういった国賠訴訟が一審判決は幾つか出て、それらもさらに控訴へと。それら一審判決も行政責任を認めたものと認めてないものというのが分かれるという中で、平成2年から東京地裁を始め各裁判所から和解勧告ということが出されると。それから、平成4年4月には法による認定制度、それから裁判ということ以外に、やはり行政として主体的に何をなすべきかという検討の結果として、総合対策事業を実施するということで、医学的な認定ということはできない方々に対して、行政が一定の症状があれば医療費などを支給するという対策をここから始めてきているということでございます。
 それから、先ほど来話が出ています水俣病慰霊式というのが平成4年5月から始まりまして、平成8年から環境大臣も出席するようになっていると。平成8年当時はまだ環境庁長官でございますけれども。
 次に、そういう裁判があり、和解があり、さらに行政施策が出てくるという中で、平成6年12月に当時の自民・社会・さきがけの与党三党が水俣病問題の解決について政治的に解決しようということで検討を開始し、翌年の7年9月に与党三党の最終解決案というものが示され、それを関係団体が受け入れるという形、さらに行政の方もそれを尊重し、実施するという閣議了解、さらに総理大臣の遺憾の意を示した閣議決定の談話を発表するということで、いわゆる平成7年の政治解決が行われたということでございます。その後、訴訟の取り下げや行政側の施策を再開するというようなことが行われてきております。
 また、もう一つその政治解決の後に水俣病の経験の普及啓発セミナーというのも開催されて、「水俣病問題普及セミナー」となっていますが、「水俣病経験の普及啓発セミナー」という正式名称でありますけれども、現在まで毎年やってきておるということ。それから、平成9年3月、ちょっとこれはつけ足しかもしれませんが、認定申請棄却処分の関係で直接認定制度や基準の是非が問われました棄却処分取消請求訴訟ということの控訴審の判決が出まして、一審では行政の認定基準は狭いという判決だったんですが、この控訴審では、これも資料についてございますが、昭和46年の次官通知、それから先ほどの昭和52年の判断条件は考え方としては一貫しており、救済法や補償法の認定基準としては妥当であるという高裁の判決が出ておりまして、各論的に棄却された方の処分は取り消されたんですが、総論的には基準は妥当であるが、その運用といいますか、その個別の判断を誤ったというような形で、判決で確定しているということでございます。
 そういうことで、さらに最後の項目として国賠訴訟として政治解決を受け入れて取り下げなかった最後の一つ訴訟である関西訴訟について平成16年10月に判決が出されたということ、そして来年の水俣病公式確認50年ということで現在に至っている状況であります。
 それから、ちょっと今の話と関連しまして、地図のところをさらにもう一枚めくって、水俣病対策の概要というのをちょっと見ていただければと思うんですけれども、ここで枠が3つありますけれども、最初の枠は水俣病の定義みたいなものですけれども、あとの2つの枠がいわゆる法による認定制度、52年判断条件を踏まえた審査会の医学的な判断に基づいて認定か棄却かを処分するという部分とは別に、補償につきましては認定された者はすべて補償協定の方を選択されていて、補償給付自体は原因企業が直接協定に基づいて給付するという構造になっております。
 その中で、いわゆる認定申請の棄却問題、それからそれによる裁判の問題、和解の問題という中で、平成7年の政治解決により行政認定と訴訟を巡る混乱の収拾を図るためということで、そこの[1]、[2]、[3]というような原因企業が一時金、それから国・県が遺憾の意を表明して、一定の症候のある者に医療費、療養手当等を支給するということになっています。次の全体の円図がございますけれども、これは新潟も含めた全体の大まかな数でございますが、発生地域全体の人口が概ね20万人ということで、認定の部分が約3,000人、これはもう亡くなられた方も含めてでございますけれども、それから政治解決のときに対象になった方がいわゆる保健手帳の部分も含めて1万2,000人、関西訴訟以外の10訴訟を取り下げた2,000人の原告を含むということでございます。それから、最後まで残った関西訴訟が原告総数で58人と。さらに今、現在進行形の問題として、最高裁判決後に公健法の認定申請を行っている方が昨日現在で1,900人を超えているという状況でございます。
 ちょっとはしょり気味になりましたが、こちらからの御説明は以上とさせていただきます。
 

○有馬座長 どうもありがとうございました。
 ちょっと長い御説明でありましたが、よく事情がお分かりいただけたと思います。
 ただいまの事務局からの御説明も参考に委員の皆様方、自由に御発言、御議論いただきたいと思います。初め50分ここでと思っておりましたが、先ほどかなりもう御議論いただきまして、時間が短くなりましたが、20分ほど使いまして御議論いただきたいと思います。どなたからでも結構でございます。どうぞ。
 加藤さん。
 

○加藤委員 今のこの全体的な歴史年表なんですけれども、行政の流れを主軸に置いた年表であるかと思うんですけれども、やはりこの中に被害者の立場に立った年表の流れであってほしいというふうに思いました。実際に水俣病のさまざまな場面でかかわった者としては、ちょっとここは抜けているのではないかなという点が幾つかありまして、指摘させていただいても結構ですか。
 まず、私が今気付いている点では、胎児性水俣病患者の公式の確認なんですけれども、この年表には昭和36年8月というふうになっています。特にここに資料がありませんので、この8月の裏付けというのもよく分からないんですけれども、私の記憶ですと、これは昭和36年11月29日に胎児性2例の解剖所見をもって、熊本医学会が11月29日に発表されて公式に確認というふうに思っていました。これは多分、数年前に西日本の進藤さんという記者がここにいまして、この方がかなり克明に調べられて、実はどうして11月29日ということを私がきちっと記憶しているかというと、実はこの日が、私たち1998年11月29日にほっとはうすを設立しました。本当に何というかしら、運命的にこの11月29日が一致したということを非常に克明に記憶しておりまして、ちょっとここの部分については、こういう形で歴史として、年表として残すのであれば、きちっと確認したいなというふうに思います。
 それと、昭和48年3月の水俣病東京訴訟団、これ東京交渉団ですね。
 それと、次のページの昭和63年3月に水俣病チッソ交渉団、チッソとの補償交渉開始となっているんですけれども、この記述は非常にあいまいで、もしこういうところでチッソ交渉団の出来事をきちっと歴史の中にとどめていく必要もあると思うし、あるのであれば、むしろ1988年7月に総理府の公害等調整委員会の方に交渉団が調停の申請をしたという事実で残していくべきではないかなというふうに思っています。この辺の前後は大分はしょってあるのと、それからあと大事なところとしては、川本さんの公訴棄却の事実というのも一つこうした年表には入れていただきたかったなというふうに思います。
 以上です。
 

○有馬座長 重要な御指摘ありがとうございました。
 これは今日初めて委員に見せたわけですね。そうすると、吉井さん始め加藤さん、いろいろ現場で御経験の方は、これに対していろいろこうした方がよかろうという御意見もあろうと思いますので、もしお許しいただければ、今日これを皆さんにお配りした段階にしておいて、次の会までにもう一度委員の皆さんから修正案というようなものを提示していただいて、それをまたこちらのというか、環境省の方でそれを御覧になって、適切なコメントであれば、これを修正されるというふうにしていただければいいのではないでしょうか。
 どうぞ。
 

○柴垣企画課長 すみません、確かにちょっと3枚に収めようと思ってはしょっている部分がありまして、お手元の資料のところにより詳細な年表もつけてございますが、ただ、今、座長の方からも御指摘がありましたように、きょう初めてお見せするものでもありますし、これをもとにまた訂正の御意見なり、さらにはここをもっと調べてくれというような宿題なり、いただいたものをまた次回にお示しするようなこともいたしたいと思いますので、いろいろ御指摘を頂ければと思います。
 

○有馬座長 丸山さんもいろいろ御意見がおありだろうと思います。これは公平に御覧くださって、こういうふうなことを入れた方がよかろう、こういうふうに修正した方がよかろうということは次までに事務局の方にお知らせいただければ幸いです。
 ほかに何か御意見ございませんか。
 どうぞ、吉井さん。
 

○吉井委員 資料についてでありますけれども、今これたくさん資料を頂いておりますが、もう一つ国水研が関与をされて、そして委員会を持たれて水俣病に関する社会科学的研究会というのがございまして、その報告書がございます。当時この報告書が出たときはすごく批判が続出いたしましたけれども、その内容は、今これに出ていないいろいろな問題を網羅して、専門家の皆さんが検証されております。これはすごく今回の委員会の論議の参考になると思いますので、あったらひとつ出していただけませんでしょうか。
 

○有馬座長 どうぞ。
 

○柴垣企画課長 実は、年表自体もその社会学的検討をある意味でベースに作らせていただきまして、申し訳ありません、有馬座長を始め今まであまり水俣病問題にかかわってこられなかった委員の方々にはあらかじめお渡ししていたんですけれども、ちょっと部数が、今買い増しておりますので、すべての委員に早急にお届けするようにいたします。
 

○吉井委員 国に言いたい点も書いてありますので、非常に参考になろうかと。
 

○有馬座長 私も試験勉強をやってきたんですけれども、まだまだ読まないと分からないところがたくさんあるし、質問もしたいと思っていますので、いつかまたお聞きしたいと思います。
 他にありませんか。
 どうぞ。
 

○屋山委員 今、患者さんは例えば見舞金でケリがついたのか、それとも毎月寄附金みたいなものをもらう形になっているのかということと、それから、今水俣湾はどうなっているんですか。魚を獲っているんですか。
 

○柴垣企画課長 すみません、ちょっと説明が不十分で。
 横の3つ四角が並んでおります、ちょっとページが打ってないんですけれども、地図の次のページでございます。そこに、ちょっと二重構造的になってございますが、いわゆる初期の患者さん、それからその後もいわゆる公害健康被害補償法によって認定された患者さんということで、円図の方で大体今まで新潟も入れて3,000人弱の方々がいわゆる認定患者ということで、この真ん中の四角の中でございまして、この方々については補償協定ということで、昭和48年7月に結ばれた協定がその後も認定された方で希望される方にはすべて適用するということで、そこにあります一時金1,600万円から1,800万円、それから医療費、年金などのさまざまな給付が直接チッソ、それから新潟は昭和電工からなされております。それに認定されていない方で11の裁判を起こされていたり、いろいろな紛争があって、その認定と訴訟をめぐる混乱の収拾のためにということで、平成7年の政治解決で医療手帳といいますか、主なところで約1万1,000人、それからさらに保健手帳が1,000人ということで、全体で1万2,000人でございますけれども、その方がその下の方の四角の中の原因企業から一時金として260万円、それから国・県の行政施策として医療費や療養手当ということで、いわゆる救済問題はそういった二重構造、さらには裁判で確定した方が、二次訴訟の方、それから今回の関西訴訟の最高裁判決の方ということで数十人おられるという構造でございます。
 それから、水俣湾の今の状況ですけれども、先ほど丸山委員の方からお話がありましたように、ヘドロを浚渫して、それで封じ込めの埋立てをして、今埋立地になっておりますが、そこの護岸の問題はこれからどうするかと、耐用年数50年ということがあるわけですけれども……。
 

○屋山委員 そこの地域で魚は獲っているんですか。
 

○柴垣企画課長 それで、浚渫したヘドロを埋立て、その埋立地に封じ込めて、その後も魚の濃度、それから水質、底質の濃度を監視して、それで当初は仕切網ということで、湾の中の魚は獲らないようにということで、湾の出口のところに網を設けておりましたが、それを平成9年、1997年に撤去いたしまして、一応県の方でその段階で安全宣言という形で、今は魚は獲られているという状況でございます。
 

○有馬座長 どうぞ。
 

○小池大臣 ちなみに今、水俣市は環境都市宣言という形で熱心に取り組んでおられて、先立っても表彰されたばかりです。訪問してみると、水俣病などよく知らない小さな子供たちを始め、何てすばらしいところだろうと思う人もたくさんおられるのではないかなと思います。その水俣の名前がよかれあしかれ轟いていることと、その両方を背負っているのが、今の水俣市なのだと思います。環境都市として非常に頑張っていることは確かです。
 

○有馬座長 はい、どうぞ、吉井さん。
 

○吉井委員 今、大臣の御発言のように、水俣市民がこの大きな公害の中から教訓を得て、それを基にして公害をどう克服するか涙ぐましい努力をしてまいりました。その涙ぐましい努力の後、その成果、これも今回現地でしっかりと確かめていただきたいと思います。
 

○有馬座長 はい、どうぞ。
 

○金平委員 さっき丸山委員が御発言になったことで、質問させていただきます。今、水俣病と申しますと、補償とかそういうふうな問題が社会的にクローズアップされて、これはもちろん大事なことですが、一方で、50年の歴史の中で水俣問題にいろいろな学会や研究者も関与こられたと思うんです。それぞれの学会や学問は、水銀というか原因物質というふうなものがどういうふうに人体に影響するのかと、何かこういうふうなものが少しは我が国では蓄積がもうされているのかと思っていたのですが、丸山委員が先ほど水俣で国際会議があったと。ところが、日本から何も提言できなかったというお言葉があったので、ちょっと私はおやっと思ったんです。まず丸山委員がおっしゃった「提言できなかった」という意味をちょっと教えていただきたいたいと思います。それが私が申します日本にも関係学会等がここまでは研究・検証しているとなると、それこそ提言できるものが私はあったのかと思ったんですけれど。それさえがまだないんでしょうか。
 

○丸山委員 私は自然科学者、医学者ではないのでちょっと心もとないですけれども、医学者、自然科学者の人にとってもある意味での不幸という面もあったかと思うんですけれども、非常に初期の段階では激症型の患者の人たちが一斉に目について出てきたということで、専らそちらの方に関心が移って、素人考えでもやはり病状というのはいろいろなグレードがあるわけでしょう。いわゆる劇症型ほどではないようなそういった症状の世界というのが十分解明されていなかったということが今日まで残っている混乱を招いているのではなかろうかと思います。
 世界的にはこの水俣ほどメチル水銀に曝露されたところはないわけですから、世界の関心というのはまさに今まだこの海洋中に微量に存在する水銀値、それにどう対処するかということで、アメリカはアメリカなりに妊婦は魚はどうのこうのという基準を出したりとか、そういうようなレベルで、今微量汚染というのが問題になっていると。その点についてはどうも日本の場合はあまりにも重症な曝露だったわけですから、そっちの方にはある程度実績があるけれども、微量汚染の方がちょっと研究が怠られてきたと。そこが結局今の、これは判断条件なんかの問題とも絡むわけですけれども、いわゆる補償・救済なんかの問題まで絡んできているといいますか、そういうどこまでを―ですからある意味では科学的には正に有機水銀が人体に入ったら、微量でもどういう影響があるのかと、それは徹底して研究すべきなんですけれども、それが怠られていると。
 最近、環境ホルモンの問題なども関心を持たれていますけれども、ある意味では胎児性の問題、発生というのはまさにそのはしりでもあるわけなんですけれども、微量でもそういった胎児のときに影響を受けるというような問題でしょう。そういったようなところが必ずしも十分研究されていないという現実があって、そういう意味で世界に発信できなかったということです。
 

○金平委員 当然、向こう側としては何かこちらの方に求めていらっしゃるものが……。
 

○丸山委員 ええ、やはり水俣病の発生地だと、メチル水銀の曝露を非常に受けたところだから、いろいろな研究が蓄積されているのではないだろうかということだったけれども、世界の水銀研究者の関心、微量の水銀汚染がどうかということについては、ほとんど提示できる知見がなかったということです。そういうことです。とにかく今、やはり世界的にはそういうレベルで関心を持たれているわけですからね。
 

○有馬座長 ちょっと丸山先生に質問があるんですけれども、新潟でも水俣病が起こりますね、10年ぐらい遅れて。あのときには当然、水俣で勉強しているわけだから、もっと早い時期に怪しいなというようなことが見つからなかったですかね。
 

○丸山委員 そこが裁判で、そうですね、新潟の方たちも苦労されたところです。
 

○有馬座長 何でそんなことをあえて言うかというと、これから世界に打ち出すときに、こういう兆候(シンプトム)があったら心配しろと。特に微量のうちからちゃんと対策を講じろというようなことが言えれば非常に予防的な意味があるでしょう。だから、激症的なものが発生しちゃってからやるというとなかなか大変だけれども、もうちょっと初期の段階で予言できなかったものですか。
 

○丸山委員 新潟地裁の裁判で、結局これは第二の水俣病だから、これはもうその時点で行政にも責任があるのではないかという原告の主張だったんですけれども、結局それを認められなかった。確かに昭和34年の段階で、通産省はかなりアセトアルデヒドを製造している国内の工場を調査したりしているデータもあるんです。調査して、当然そのおそれがあるというようなことは分かったんだろうとは思うんですけれども、結局対策が怠られたために第二の水俣病が昭和40年に確認されたという経緯です。
 

○吉井委員 その兆候はあったんです。人間が水俣病に発症する前に水俣湾の魚が白い腹をして浮かぶ、そして海岸の猫が全滅をする。狂い死にをする。それから、トンビやカラスがほとんど飛べなくなって墜落をする。自然の大異常が発生した。そのとき、我々はそれを見過ごしてしまった。対策ができなかった、国もできなかった。我々もそのことを心配しなかった。このことはすごい教訓だと思います。
 

○有馬座長 ありがとうございました。やはりそういう予知を我々これからやはりしていかなければいけないと思うんです。
 それでは、一言、柳田先生御発言いただいて、今日は終わらせていただきます。
 

○柳田委員 微量汚染とその影響の問題というのは大変重要な問題だと思うんですが、今、丸山先生から説明がありましたように、劇症型が中心になったということが認定問題にも直接響いて、認定基準というのはもう明らかに有機水銀の因果率というものがはっきりした範囲内で決めていくということで、これは科学的にいえばその認定の厳密さという点で評価するのかもしれないけれども、しかし、水俣の影響を受けた水俣病の患者さんというのは非常に多様で、厳密な認定基準に合わない、どの部分が条件に合わないからと落とされる。だけれども、微量汚染なり、微量とまでは言わなくても中程度の汚染なんかの場合、認定基準に合うような症状がきちんと出ないような被害というのが出てくるわけです。そういう問題も実は微量汚染に含んでいるわけです。
 私がこの問題について考えるのは、戦後十数年後、広島で3年ほどいろいろと取材していたときに、昭和30年代半ばでしたけれども、国際的に放射線の微量汚染の問題というのが大変国連の放射線委員会で問題になりまして、そのときに当時の塚本憲甫先生なんかが放医研の所長をなさっていましたけれども、国際会議で広島における二次放射能、つまり残留放射能の影響を受けた患者さんの中からのいろいろな疾病の発生率、特に白血病を中心とした発生率というようなものを提示していって、その後大変注目を集めて、それで国際的に微量汚染の問題、それは核実験に伴うホールアウトによる汚染がどの程度人類に影響を与えるのかということにも影響するわけですけれども、そういう形でかなり遅れて、戦後十数年から20年ぐらいたって国際的に段々認識されるようになったという経過があるんです。
 ですから、この有機水銀に人々がどれくらい汚染されたのかというのを、今かなり高いレベルで認定してしまっているわけですけれども、疾病というのは通常持っている慢性疾患なり、あるいはその人の体質の中、それが加速される形でいろいろと放射線の影響とか、あるいは金属物質の影響とかというのが出るわけでして、突拍子もない、見たこともない症状が現れるというのは、もちろんそれが奇形の発生なんかであるにしても、一般的な病気としての認定の場合には、通常ある病気なども含まれるわけです。それがどれくらい加速されるというか、あるいは劇症化するかというような形で影響が出るわけですから、大変個人差が大きいわけです。そういった問題を考えると、微量汚染の問題というのは、もっともっと研究しなければいけないし、調査もしなければいけないと思うんです。ちょっと私もそういうところを感じております。
 

○有馬座長 ありがとうございました。この辺、重要な今後の議論のポイントだと思いますので、今後この議論を深めさせていただきたいと思います。
 多少時間が遅れましたけれども、一応3時になりましたので、きょうの議論はここで打ち止めさせていただきますが、事務局の方から今後どうするのか、その他等について御報告ください。
 

○柴垣企画課長 それでは、次回以降の日程について御説明をさせていただきます。
 次回の第2回の懇談会は、委員の皆様には既にお知らせをさせていただいておりますように、6月14日火曜日、時間は同じく1時から3時ということで、本日と同じこの環境省第1会議室において行わせていただきたいというふうに思います。
 それから、第3回以降につきましては、現地への視察みたいなことも含めまして、日程の調整をさせていただきたいと思いまして、お手元にお配りしております日程表に御都合を記入の上、事務局にお渡しいただくか、またはファクスなどでお知らせいただければと思います。非常にお忙しい先生方が多いので、次回も全員御出席というわけにはいかないわけですけれども、なるべく出席可能な方の多い日で、できれば全員出席できる日で調整をさせていただきたいと思います。また改めて日程については御連絡させていただきたいと思います。
 それから、今日はかなり資料が多くなっておりますので、もし必要があれば後で送るということもできますので、お申し付けいただければというふうに思います。
 以上でございます。
 

○有馬座長 どうもありがとうございました。
 それでは、本日の議事がすべて終了いたしましたので、以上をもちまして水俣病問題に係る懇談会の第1回を終了させていただきたいと思います。
 今日、さまざまな御意見を賜り、御提案も頂いておりますので、これにつきまして、次回からさらに掘り下げて議論を頂きたいと思います。
 本日は大変お忙しい中お集まりいただきまして、誠にありがとうございました。また、活発な御意見、ありがとうございました。
 では、また次にお目にかかることにいたします。
 

 
 

午後3時3分閉会