第2節 水俣病の発生と拡大
昭和31年5月1日、水俣市月浦地区で脳症状を呈する原因不明の疾病が発生し、患者が入院したことが水俣保健所に報告されました。これが「水俣病公式確認」です。
公式確認後、熊本大学等により疾病の原因究明が始まりましたが、科学者や企業の間で意見が対立するなど、原因物質や原因企業はすぐに特定できませんでした。
また、昭和34年末には、チッソが凝集沈殿処理装置(マスコミ等の報道によりこの装置による排水の浄化が期待されましたが、実際には、この装置は水銀の除去を目的とするものではなく、水に溶けたメチル水銀化合物の除去効果はありませんでした。)を完成させたり、被害者側とチッソの間でいわゆる見舞金契約が締結されるなど、水俣地域で発生した水俣病問題は現地の紛争の鎮静化に伴い、曖昧なまま社会的に終息させられてしまいました。
昭和40年5月31日、新潟でも有機水銀中毒と疑われる患者が発生したことが新潟県衛生部に報告されました。昭和43年9月26日、厚生省及び科学技術庁は、熊本県と新潟県で起きた水俣病の原因物質及び原因企業について、政府統一見解を発表しました。
水俣病の被害が拡大したのは、まさに高度経済成長の時期でした。チッソはプラスチック等の可塑剤(かそざい)の原料であるアセトアルデヒドを生産しており、その生産量は国内トップでした。また、チッソ水俣工場は雇用や税収などの面で地元経済に大きな影響を与えていました。
行政は昭和34年11月頃には水俣病の原因物質である有機水銀化合物がチッソから排出されていたことを、断定はできないにしても、その可能性が高いことを認識できる状態にあったにもかかわらず、被害の拡大を防止することができませんでした。その背景には、地元経済のみならず日本の高度経済成長への影響に対する懸念が働いていたと考えられます。水俣病を発生させた企業に長期間にわたって適切な対応をなすことができず被害の拡大を防止できなかったという経験は、時代的社会的な制約を踏まえるにしてもなお、初期対応の重要性や、科学的不確実性のある問題に対して予防的な取組方法の考え方に基づく対策も含めどのように対応するべきかなど、現在に通じる課題を私たちに投げかけています。


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