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第1節 

3 歴史的に見た我が国の廃棄物問題とリサイクルの取組(江戸期を中心に)

 人類の歴史とともに始まる廃棄物問題は、その時々の生活レベルや文化を反映しています。
 縄文、弥生時代の遺跡から貝塚が発見され、貝塚は古代人の言わば日常生活から排出されるごみの捨場所であったことはよく知られています(写真)。奈良、平安時代の資料によれば、この頃既に官制の中に掃部(かもん)・掃部司(かもんのつかさ)の名称が見られ、廃棄物処理に携わる官位の者が存在したことがうかがわれます。
 中世から近代へかけて、日本では、都市のし尿が農村の肥料として用いられ、農村からの作物が都市で消費されるというつながりの中で、生態系の維持が図られていました。これに対し農村と都市とがそれぞれ独立していた西欧の都市では、しばしば不潔な状態がつくり出されていたのです。日本の都市は、農村との役割分担の中で物質循環を進め、衛生的には比較的清潔を保ち、下肥(人糞)などは都市住民の一つの財源にさえなっていたようです。


古代人のごみ捨て場「貝塚」
(愛知県・伊川津貝塚の貝層断面)

(1)江戸期のごみ処理制度
 京都や江戸が発展し、人口の増加や都市化が進むと、身近な空間でごみを処分することが難しくなってきたことから、ごみ処理の問題が重要視されてきたようです。
 江戸の町々のごみ処理は、始めは、屋敷内に埋める、空き地に捨てる、川や堀に投棄するといった方法で行われていました。このほか、度々の禁令にもかかわらず、外で焼却することも行われていたようです。
 慶安の時代には各町が「会所地(かいしょち)」と呼ばれる空き地を持っており、ごみ投棄場などとして使用していましたが、付近の住民は悪臭やカ、ハエなどで悩まされ続けたようです。
 そこで、当時の奉行所は、「町触」(慶安2年(1649年))を出し、「会所地」にごみを投棄することを禁止しています。また明暦元年(1655年)には深川永代浦をごみ投棄場に指定しました。それまでの通達が単に川や堀、空き地などへごみ捨てを禁ずるにとどまったことに比べると、この通達はごみ処分地を指定したという点で画期的なものといえます。江戸時代にはごみ処理に関して多くの通達が出されていました(巻末資料第1表参照)。
 四代将軍徳川家綱の時代には、幕府の許可を受けた処理業者である「浮芥定浚組合(うきあくたじょうざらいくみあい)」の請負人仲間が鑑札をもらい、一定の場所に集められたごみを処理するようになりました(寛文2年(1662年))。これにより、正式に許可されたごみ捨船が永代島へごみ捨てをする制度が成立したようです。
 江戸の庶民が出すごみは、芥改役や芥請負業者が公認され、元禄期から本格的に埋め立てられることになります。深川永代浦の埋立て開始を皮切りに、永代島新田、砂村新田等、江戸期の主な埋立地だけでも10か所に及び、18世紀後半には38万坪余りが埋め立てられたとされています。これら江戸期の埋立処分場としては、海辺の低湿地が利用されていたようです(序-1-3図)。
 ただ、庶民から排出されるごみは、生ごみや灰がほとんどで、これらは1年もすれば自然に分解してしまうものでした。
 この時期に問題となったのは、火事によって発生した残土であり、これらについては、先ほどの埋立地に処分されていたと考えられています。
 江戸では、ごみ処理のための社会的な仕組みは比較的早くから整えられていたようです。成立期の江戸では、町の生活の中から生じたごみを、空き地や堀・川に捨てることで処理が一応完結しました。しかし、このような単純な生活のサイクルは、江戸の巨大都市化によって行き詰まりました。何よりも、巨大化した都市では、空き地や堀・川が、都市生活に欠くことのできない生活の場となっていたからです。空き地を確保し、堀や川を保全するために、ごみの投棄場所が江戸の町から遠く離れた所に設けられました。ごみを発生させた都市が、都市の外にごみを捨てるパターンがこの時に確立したといえます。
 こうした処分方法を基礎として江戸のごみ処理は、船による運搬の方法を取り入れています。さらに船に積む前にごみ溜や大芥溜による収集方法が確立しました。収集・運搬・処分という、ごみ処理の3つの過程が、江戸の町の中で組織化されたのです(序-1-4図)。
 このような政策は、その実施に当たって住民の生活に適合するように調整され、町奉行は法令を出す際に、その可否を町に問い合わせてから行うこともあったようです。江戸の住民は支配者からの法令を、住民の生活の規範に仕立て上げる才覚を持っていたと言われます。江戸のごみ処理システムが比較的早い時期に整備されたのも、こうした住民の知恵が土台となっていたといわれます。





(2)江戸期の取組例
 私たちの日々の生活の参考になる事例を探して、最近研究が進んでいる江戸期のリサイクルの例を見てみましょう。もとよりこのような過去の例は、現代にそのまま当てはめることはできないでしょう。社会制度、人口や経済の規模、消費資源やエネルギーの量など過去と現在では大きく異なるからです。しかし、鎖国政策を採り続けた江戸期に生きた人々と、資源の有限性など地球的規模での限界に直面しつつある現代の私たちの置かれた状況に類似性を見いだし、先人の知恵に学ぶことも不可能ではありません。この時代の取組の中には、循環型社会の形成に向けて、現代の私たちが身の回りから始めることのできる取組のヒントが無数に見られます。例えば、序-1-1表に見られるように「もの」を随分大切に使っていたと見られる事例があります。また、序-1-2表のようにそれらを支える業についてもいろいろな事例をみることができます。
 江戸期に特徴的なこととして、ものがいろいろな使われ方をしていたことが挙げられます(序-1-1表)。あるものについて、別の使用方法を考えること、これも循環型社会に向けた第一歩といえるかもしれません。
 例えば、「灰」の活用について見てみましょう。一般家庭から集められた灰は、様々に活用されていました。例えば、酒造の麹(こうじ)作りの、種麹に木灰を利用しています。原料となる蒸米に木灰を振りかけ、麹菌だけを増殖させていました。また、紙の原料を煮沸する時に、灰汁(あく)を加えて純粋な繊維を取り出すという製紙にも利用していました。さらに、絹繊維から必要な部分だけを残すために灰汁を利用したり、切り取った麻を乾かし切りそろえ、灰汁で煮て、繊維を分離しやすくするのに利用するなど繊維関係でも利用していました。染色にも使われていたようです。例えば、植物の色素の抽出や、染められる繊維を灰汁に付けて色を鮮やかにするために利用されていました。陶器を作る際の釉薬(ゆうやく)として利用されたり、灰汁を使い、食器や衣服等を洗ったことも知られています。
 米の副産物である藁(わら)は、現在ではあまり用途がなくなり、廃棄物の一種のように扱われる場合もありますが、昔は衣食住の広い分野にわたり様々な形で無駄なく使われていました。収穫された藁の半分はたい肥や厩肥などの肥料として、2割は日用品に作り替えられました。残りの3割は燃料等に利用されていました。例えば、昔の農家では1人が1年間に、背中当てと蓑(みの)が各1着、藁草履(わらぞうり)が15足、草鞋(わらじ)が10足ぐらい必要でした。これらの藁及び藁製品は、自分の家でも使われていましたが、商品としても売られ、農家の収入源ともなっていました。さらに、使用後は、どこの家にでもあるかまど、あるいは銭湯等で燃料として利用されていました。また、燃え残った灰は上質な肥料(カリ肥料)となり、近隣の農家で使われていました。
 このように一つのものでも、実にいろいろな使われ方をしていたのです。
 この時代の特徴として、生活に使用するものの原料や材料は、再生する資源、すなわち樹木などを上手に活用していたことが第1に挙げられます。近代以前の社会では、農家は外部から塩(塩魚含む)、鉄を取り入れるだけで、例えば稲藁が「ごみ」ではなく「資源」という位置付けにあったようにほぼ完全にリサイクルがされていました。しかし、いくら再生可能な資源でも、限度があります。1年に成長・再生する以上の量を、1年で使ってしまえば、必ず枯渇する日がやってきます。
 江戸期はどうだったのでしょうか。ある試算では、江戸期に1年間に使用したエネルギー量は、我が国で1年間で成長する樹木から得られるエネルギー量の100分の1程度であった、とされています。
 序-1-2表は、循環的な利用を支えていた業です。実に様々な種類のリサイクル業があったことが分かります。まず、再使用を支えていた例を見てみましょう。現代では焼き物は、それがいったん割れると、ほとんどが捨てられてしまいますが、江戸期には、これを白玉粉で接いで再び使用できるようにする「焼き継ぎ」と呼ばれる専門の職人がいたようです(序-1-5図)。
 また、貴重なものや手間暇かけて作られたものに対しては、それを大切にしようという気持ちが働くようになるのは当然のことです。例えば、当時は明かりを灯すこと自体が贅沢なことでした。行燈に使う菜種油は、その一升が米三升分と同じ値段であり、庶民は節約に努めていたようです。ろうそくは、1か月もかけてじっくりと作られた貴重品で、現在ではほとんど省みられることもなくそのまま捨てられてしまうような溶け残りであっても、蝋涙(ろうるい)と呼ばれ、これを回収し、商う行商などがいたようです。
 戦後の日本においても、おおむね1950年代まで「洋服直し」や「鋳掛け屋」が巡回していました。「靴直し」については、現在もまだ残っていますB江戸期は、このような様々な業者が一軒一軒、歩いて巡回していたことも、リサイクルを支える上で重要な役割を果たしていたと考えられます。

 現代の我々はもはや江戸時代に戻ることはできませんし、それがこの節の考察の意図でもありません。しかし、循環型社会の形成を進める上で、ものを大切にする心や自然の大きな循環とうまく調和し、謙虚さすら感じられるような行動様式など、言わば現代人が失いつつある先人たちの知恵や経験に学ぶところも少なくないのではないでしょうか。









コラム 3 江戸のごみ処理システム

○江戸のごみ処理システムの基本原則
 江戸のごみ処理は、以下の方法を基本原則として行われたとされます。
 ・公設のごみ捨場を市街地の外に指定して、ここにごみを集中的に捨てさせる。
 ・ごみの収集・運搬・処理は請負人にゆだねる。
 ・その費用は町で負担する。



コラム 4 江戸期のごみ処理費用(芥取賃(あくたとりちん))

 循環型社会形成推進基本法で基本原則に挙げられていることの一つに、適正な役割分担があります。廃棄物・リサイクルの問題は、誰かがやればいい、というものではなく、経済社会の主体それぞれが役割を分担して、これに当たることが必要なのです。差し当たって、費用負担の在り方は主要な課題になります。江戸期には、ごみの処理費用をどのように負担していたのか、みてみましょう。
 江戸の町々から出るごみは、隅田川河口の指定されたごみ捨場に船で捨てられていましたが、町々はその仕事を請負人にまかせました。このことについて、幕府は町の意見を聞き、「右の舟賃は、町々へ、少しずつ懸り候」(「正宝事録」)として、ごみ取船の費用は町で負担するとしました。
 このころ、町と町の境に作った木戸の番人に支払われる「木戸番銭」や火消人足に対する手当てに当たる「鳶人足捨銭(とびにんそくすてせん)」、そして、ごみ処理費用に当たる「塵捨賃(ちりすてちん)」などの町の諸費用(町入用)は、地主(屋敷持)が、その屋敷の道路に面した間口に応じて負担していました。さらに、その負担割合は角屋敷であるか、屋敷と屋敷にはさまれた中屋敷であるか、表通りであるかによっても違っていました。寛文4年(1664)には、ごみ処理費用の割合の引上げを告示する「町中塵捨賃(まちなかちりすてちん)の覚(おぼえ)」が示されましたが、これによれば、町が負担するごみ処理費用は、屋敷が道路に面した表間口(小間)の長さにより決められていたようです。
 江戸後期になると、町から請負人に支払われるごみ処理委託費(芥取賃)は定額となり、その費用はその他の町の諸費用と合算されて、地主に小間割で賦課されるようになりました。
 では、町の諸費用(町入用)の中におけるごみ処理委託費はどれくらいの割合を占めていたのでしょうか。江戸期の町の諸費用は、早くから成立した基本的費目から成る定式入用と、後年に追加されていった臨時入用に大別できます。ごみ処理委託費は、水道代(水銀(みずぎん))などとともに基本的費目(定式入用(じょうしきにゅうよう))として計上されています。
 寛政期の記録からは、基本的費目に占めるごみ処理費用の割合はおおむね3〜7%であったことが分かります。これより80年後の明治3年(1870)では、おおむね基本的費目の3%からそれ以下となっています。
 このように町の費用に占めるごみ処理委託費の割合は、そもそも廃棄物の量が少ないことやリサイクルが進んでいたと考えられることなどから、決して高いものとはいえません。その比率も年々低下していることを読み取ることができます。しかしこのことは、町のなすべき仕事の中でごみ処理の重要性が軽いものであったことを示すことにはなりません。町の仕事が少なかった江戸初期に比べ、寛政の頃には町の仕事もはるかに多くなっており、明治の頃はなおさらです。そうした中での比率の低下が町の支出中に占めるごみ処理委託費の比率の低さとなったのだと考えられます。
 町の仕事の中におけるごみ処理の軽重は、それを基本的費目として計上するかどうかということで判断できます。基本的費目(定式入用)と追加的費目(臨時入用)の区分が、町の諸費用(町入用)の整備されていく過程で形成されていったという歴史的な意味合いにかんがみれば、ごみ処理委託費(芥取費)が基本的費目に含まれていることは興味深いことです。ごみ処理委託費は、町の費用として不可欠なものと認識されていたと考えられます。

コラム 5 包装材の移り変わり

 江戸期に使われていた主な包装材は「竹の皮」でした。竹の皮とは、筍の時に表面に付いている葉鞘(ようしょう)とよばれる大きな鱗のような皮で、竹が育つ際に堅くなってはがれ落ちたものです。太い孟宗竹であれば、長さが40cm、幅が20cm以上にもなり、丈夫かつしなやかで、水も通さないので、様々な用途に使われていました。
 昭和7年頃の書籍で「たけのかわ」を見ると、既に、「近頃は、紙製品その他に駆逐されて(包装用)の需要は少ない」(「大百科事典」(平凡社))と記述されているように、包装材は徐々に紙袋やプラスチック製の袋へと変化していったのです。
 竹の皮も紙袋、プラスチック製の袋もいずれも、使い捨ての包装材です。後者に比べ竹の皮が優れているのは、製造エネルギーがいらないことと、使用後の処理が簡単であることです。竹の皮は、竹が成長する過程で自然にできるもので、人間はそれを拾って有効に利用していただけだからです。人が使う使わないにかかわらず、質的にも量的にも自然に還っていくものなので、自然環境に対する影響も限られていたと考えられます。
 その後、包装材は、びん、缶、ペットボトル、発泡スチロール製のトレイやラップフィルムへと、軽くて丈夫なものに転換されていく一方で、大量で、分解されにくい容器・包装廃棄物が増えていったのです。

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