第2節 水俣病の発生と拡大

本節では、昭和31年に水俣病が公式に確認されてから、43年に政府統一見解が出されるまでの経緯及びその背景を記述します(表3-2-1)。

表3-2-1	水俣病関連年表


1 水俣病公式確認

昭和31年4月、水俣市の月浦地区に住む少女が、手足がしびれる、口がきけない、食事ができないなどの重い症状を訴え、チッソ水俣工場付属病院に入院しました。事態を重くみた同病院の細川病院長は、同年5月1日、月浦地区で脳症状を呈する原因不明の疾病が発生し、患者が入院したことを水俣保健所に報告しました。これが「水俣病公式確認」です。

2 初期対応

公式確認後、水俣市奇病対策委員会が設置され、熊本県は熊本大学に研究を依頼し、厚生省は厚生科学研究班を結成するなど、疾病の原因究明が始まりました。



初期の段階においては、原因として伝染病等が疑われましたが、昭和32年3月には、厚生科学研究班が「現在最も疑われているものは(中略)水俣湾港に於て漁獲された魚介類の摂食による中毒である。魚介類を汚染していると思われる中毒性物質が何であるかは、なお明らかではないが、これはおそらく或る種の化学物質ないし金属類であろうと推測される。」と報告するに至りました。
このように水俣湾の魚介類を食べることによって水俣病が発生する疑いが出てきたことから、熊本県の行政指導により水俣市漁業協同組合(以下「水俣市漁協」という。)は昭和32年8月から水俣湾内での漁獲の自主規制を始めました。また、熊本県は食品衛生法を適用し、魚の捕獲等を禁じるという方針を固め、昭和32年8月、厚生省に食品衛生法適用の可否を照会しました。これに対し厚生省は、「水俣湾内特定地域の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠が認められないので(中略)適用することは出来ないものと考える。」と回答しました。



このころには厚生科学研究班が、原因物質として、セレン・マンガン・タリウムに注目する等、まだ原因物質は特定されていませんでした。

3 とどめられた原因究明

チッソは、昭和33年9月、水俣湾の百間港に排出していたアセトアルデヒド製造工程の排水を、一旦「八幡プール」に溜めて上澄みを水俣川河口に放流するように変更しました。その結果、翌年3月以降、水俣川河口付近及びそれより北側の地域で新たな患者が発生し、同年10月に通商産業省(以下「通産省」という。)がチッソに対して排水路の廃止等を指示し、同年11月には「八幡プール」から水俣川河口への排水は停止されました。
昭和34年7月には、熊本大学医学部水俣病研究班が「水俣病の原因物質は水銀化合物特に有機水銀であろうと考えるに到った」ことを報告しますが、科学者の中には有機水銀説を支持しない者もいました。
昭和34年11月11日に開催された「水俣食中毒対策に関する各省連絡会議」において、熊本大学から工場排水による有機水銀中毒が考えられるとの報告がありましたが、他の同種化学工場の排水では同様の病気が発生していない、無機水銀が有機化する機序が分からないなどの意見が出されました。翌日の厚生省食品衛生調査会では、厚生大臣に対して水俣病の「主因をなすものはある種の有機水銀化合物である。」と答申されるにとどまり、発生源については触れられませんでした。
なお、水俣病の原因を究明するために昭和34年1月に食品衛生調査会の中に発足していた水俣食中毒特別部会は同年11月13日に解散しました。

4 問題の鎮静化

熊本大学が有機水銀説を発表してから、漁民はチッソに対して工場排水の浄化装置の完備や完全浄化設備完備までの操業中止等を要求しました。また、通産省も昭和34年10月、チッソに対して排水処理施設を完備するように指導しており、同年12月19日にチッソが凝集沈殿処理装置を完成させ、マスコミの報道等もあり、この装置による排水の浄化が期待されました。(しかし実際には、この装置は水銀の除去を目的とするものではなく、水に溶けたメチル水銀化合物の除去効果はありませんでした。)
昭和34年12月25日には、かねてから問題となっていた、チッソと熊本県漁業協同組合連合会(以下「熊本県漁連」という。)の漁業補償問題について、不知火海漁業紛争調停委員会(熊本県知事、水俣市長等を構成員とする。以下「調停委員会」という。)の調停により補償契約が締結されました。また、同年12月30日には、チッソと水俣病患者家庭互助会の患者補償問題について、調停委員会の調停により、「将来水俣病がチッソの工場排水に起因することが決定した場合においても新たな補償金の要求は一切行わないものとする。」などの内容を含む、いわゆる見舞金契約が締結されました。
このように凝集沈殿処理装置の設置や漁業補償、見舞金契約により現地の水俣病に係る紛争が鎮静化したことから、水俣地域で発生した水俣病問題は曖昧なまま社会的に終息させられてしまいました。新潟水俣病が発生するまでの間、熊本大学による原因物質の解明等の研究は続けられましたが、行政による対策の進展はほとんど見られなくなっていました。

5 新潟水俣病の発生から政府統一見解へ

昭和40年5月31日、新潟大学の椿教授らは、新潟で有機水銀中毒と疑われる患者が発生したことを新潟県衛生部に報告しました。
新潟県は昭和40年6月、新潟県水銀中毒研究本部を設置するとともに、新潟大学等と協力して阿賀野川流域の住民に対して健康調査を実施しました。同年9月に原因究明のため厚生省に設置された新潟水銀中毒事件特別研究班は、農薬説を主張する昭和電工による反論はあったものの、42年4月、疫学的調査結果等を踏まえ、原因は昭和電工の排水である旨の報告を厚生省に提出しました。



昭和43年9月26日、厚生省及び科学技術庁は、政府統一見解を発表し、熊本で発生した水俣病については、チッソ水俣工場の「アセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物」が原因であり、新潟水俣病については昭和電工の「アセトアルデヒド製造工程中に副生されたメチル水銀化合物」が中毒発生の基盤であると発表しました。

写真	チッソ水俣工場 昭和35年撮影、水俣市立水俣病資料館提供


6 水俣病被害の拡大が問いかけるもの

水俣病の被害が拡大したのは、まさに高度経済成長の時期でした。チッソはプラスチック等の可塑剤(かそざい)の原料であるアセトアルデヒドを生産しており、その生産量は国内トップでした。また、チッソ水俣工場は雇用や税収などの面で地元経済に大きな影響を与えていました。
本節で述べたように、行政は昭和34年11月頃には水俣病の原因物質である有機水銀化合物がチッソから排出されていたことを、断定はできないにしても、その可能性が高いことを認識できる状態にあったにもかかわらず、被害の拡大を防止することができませんでした。その背景には、地元経済のみならず日本の高度経済成長への影響に対する懸念が働いていたと考えられます。水俣病を発生させた企業に長期間にわたって適切な対応をなすことができず、被害の拡大を防止できなかったという経験は、時代的社会的な制約を踏まえるにしてもなお、初期対応の重要性や、科学的不確実性のある問題に対して予防的な取組方法の考え方に基づく対策も含めどのように対応するべきかなど、現在に通じる課題を私たちに投げかけています。

コラム 最高裁判決で認められた国の責任について

平成16年10月15日、水俣病関西訴訟最高裁判決が言い渡され、水俣病の発生と拡大を防止しなかったことにつき、国と熊本県の責任が認められました。
判決は、昭和34年3月1日に、公共用水域の水質の保全に関する法律及び工場排水等の規制に関する法律(公共用水域の水質の保全に関する法律とあわせて「水質二法」という。)が施行されており、「経済企画庁長官は、公共用水域のうち、水質の汚濁が原因となって関係産業に相当の被害が生じ、若しくは公衆衛生上看過し難い影響が生じているもの又はそれらのおそれがあるものを『指定水域』として指定するとともに(略)、当該指定水域に係る『水質基準』を定めるものとされている(略)。また、主務大臣(略)は、工場排水の水質が当該指定水域に係る水質基準に適合しないと認めるときは、これを排出する者に対し、〈中略〉特定施設から排出される工場排水に関して規制を行う権限を有するものとされて」いるとした上で、国に対し、「同年(注:昭和34年を指す。)11月末の時点において、水俣湾及びその周辺海域を指定水域に指定すること、当該指定水域に排出される工場排水から水銀又はその化合物が検出されないという水質基準を定めること、アセトアルデヒド製造施設を特定施設に定めることという上記規制権限を行使するために必要な水質二法所定の手続を直ちに執ることが可能であり、また、そうすべき状況にあったものといわなければならない。そして、この手続に要する期間を考慮に入れても、同年12月末には、主務大臣として定められるべき通商産業大臣において、上記規制権限を行使して、〈中略〉必要な措置を執ることを命ずることが可能であり、しかも、水俣病による健康被害の深刻さにかんがみると、直ちにこの権限を行使すべき状況にあったと認めるのが相当である。また、この時点で上記規制権限が行使されていれば、それ以降の水俣病の被害の拡大を防ぐことができたこと、ところが、実際には、その行使がされなかったために、被害が拡大する結果となったことも明らかである。本件における以上の諸事情を総合すると、昭和35年1月以降、水質二法に基づく上記規制権限を行使しなかったことは、上記規制権限を定めた水質二法の趣旨、目的や、その権限の性質等に照らし、著しく合理性を欠くものであって、国家賠償法1条1項の適用上違法というべきである。」としています。
なお、水質二法によって水俣湾が指定水域に指定され、排水規制が行われたのは昭和44年であり、この時点ではすでにチッソ水俣工場のアセトアルデヒドの製造は中止されていました。
このように、水質二法に基づく規制措置は、規制が必要な水域を個々に指定するための調査に時間がかかるなど、結果として後追い行政にならざるをえないという性格を有していました。このこともあり、昭和45年のいわゆる公害国会において、水質二法に代え、全公共用水域に国が定めた一律の排水基準(地方公共団体による上乗せ可)を適用する水質汚濁防止法(昭和45年法律第138号)が制定されました。



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