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里なび

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活動レポート

里なび研修会 in 埼玉県
【地域住民と都市若者による山里で暮らす「未来」づくり】

日時 平成24年1月21日(土) 13:00~15:30
場所 小川町中央公民館(埼玉県小川町)

■概要
有機農業の先進地として知られる埼玉県小川町。その最西端にある小瀬田は、里山の原風景の面影を残す一方、ゴルフ場開発跡地や手入れの行き届かない里山も拡がっている。この里山の再生に取り組み始めたのが、地域の農林業に携わってきた人々を中心としたネットワークだった。地元の農林業者、新規就農者、都市の若者など多様な主体の協働による里山の再生、そして里山資源を活用した新たなライフスタイルの構築について検討した。

■講演 テーマ:「里山資源を活用した暮らしの多様性」
講演者:澁澤寿一(NPO法人共存の森ネットワーク副理事長)

1)里山とは-物と霊が循環する小宇宙としての空間-
里山とは文字通り「里」と「山」で構成され中世の景観がよく残っている地域。家があってその背後に雑木山を抱える。家よりも高いところにはお墓があり、家の周りには常畠(じょうばた)、その下に畑と田んぼがある。これがワンセットとなっていくつか集まると小字と呼ばれる地域になる。里山は構成する一軒一軒がそれぞれの役割を持つ共同体でもある。
里山は様々な物質が循環する物理的な一つの小宇宙だがそれだけではない。人が死ぬと里を見下ろす高台のお墓に入り、春の田植えの頃に降りて、夏祭りの時には里の人々と一緒に過ごし、秋の稲刈りの後また山に帰る。物理的な循環と霊的な循環が織りなしている空間、それが里山なのだと言える。
 里山がどういう仕組みでどういうものを与えてくれたのか、その中で人々は何を考え暮らしてきたのか、そんなことを念頭において話をしてみたい。

2)震災から学んだこと-グローバル社会とは別の道の模索-
3.11震災では、翌日から食糧も含め「モノ」が買えないという事態に直面した。現代のグローバル社会の根底にあるのはお金という共通言語であり、「カネ」があれば何でも買えて暮らせるという原則である。しかし震災と原発によって、その基盤がもろいものだと実感したのではなかろうか。本当に21世紀はグローバル社会の「カネ」の経済でよいのか、震災後の社会を考える今、問われていることと言えるだろう。
 震災の被害にあった地域集落の一つ岩手県大槌町吉里吉里では、今、復興対策をどうするかが最大のテーマになっている。そこではもう一回東京に追い付くためにという発想ではなく、モノの経済以外の精神的な価値を入れたものを作っていきたいという機運が生まれようとしている。よりどころとなっているのは昭和8年に発生した昭和三陸津波の際、住民と行政の協働作業で作られた復興計画書だ。そこで重要だと思う要素は次の3点だ。ア)互助と絆を大切にする精神のもとで日常生活と産業経営を築いていく。イ)個人的利害を省いて団結をして、持続的な集落を作っていく。ウ)次の世代に向けて力を傾注する。
この計画書に垣間見られるのはただ里山の管理だけを物理的に進めるのではなく、何を楽しみとし暮らしていくのかという生き方そのものを考えていく姿勢である。

3)「自足」の価値観への転換を
私たちは1960年代から地下資源に頼った暮らしを行うようになった。そして欲望を膨らませて消費することが豊かになることだという信念を持つようになった。しかし実際の地球にはそのような物理的資源はない。今、仮に日本と同じ消費レベルに世界中の人々がなると仮定すると、実に2個以上の地球が必要になるとされる。これは明らかに間違っている。
新興国も先進国も含めて、暮らしや生き方を考えなおさないといけない時代に来ている。途上国の人たちに今の私たち日本を目指してくださいというのではなく、私たちこそ次のライフスタイルを模索しなければならないのではないか。だからこそ、今里山を学ぶ必要があるのだと思う。里山の暮らしには自給だけでなく欲望を抑制する「自足」システムもあったからだ。

4)里山の循環と人の役割-身体感覚と折り合える資源利用-
太陽のエネルギーを貯蔵した植物資源を基盤とする里地里山の多様なエネルギーを活用して回っていける系を作りなおしていくことが重要だ。かつて里山のエネルギーの基本は薪だった。秋田県のある集落ではある一定の広さの共有林を33箇所もっており、自然の成長量に応じて伐採し薪として利用している。地域の自然・気候条件によって森の数は違い、例えば青森のある集落は40か所必要であり、埼玉のある集落では17か所で賄うようにしている。1年目に伐採したところに行くとワラビ畑となって重要な食料源となっている。伐採後の年数が経つにつれてキノコ利用など段階ごと様々な活用がみられる。このように里山では人が自然と折り合えるところで森の数が設定され、手入れがされ、長年の経験則の中で利用される。身体感覚と折り合える自然利用がなされていると言えるだろう。
 里山の広葉樹の森は伐採しても枯れることはない。定期的に伐採することで萌芽して若返りそこにまた生き物が暮らすという仕組みがある。こうした森の循環の中で人間が重要な役割を演じ生きてきた空間が里山なのだ。
だが、こうしたかつての人と森の持ちつ持たれつの関係が失われてしまった。人間が森を伐採して利用しなくなったため、森の木々が老木になりすぎているからだ。今では伐っても萌芽しない老いた森が各地にみられるようになった。森はそのバランスを崩しナラ枯れが拡大しているのが現状なのである。

5)里山の家で垣間見ること-生存するための持ちつ持たれつの関係-
里山の家を見ていてわかることは、スギ材や茅などで家が構築され、家の周囲には薪などの燃料や山菜やキノコなどの保存食、そして牛や馬に食べさせる飼料や敷藁などがあり、生きるすべてを山をはじめとする自然から調達しているということだ。
天保天明の飢饉において山の奥深くにある山村では1人も餓死者が出ていないということに気がつかされる。山が食わせてくれたからなのだろう。永続性のある古い集落は山手の源流の方にあることが多い。今のガソリンに代わるもの、機械に代わるものは山から得てきたし現金収入も山から得てきた。山と人間が持ちつ持たれつの関係を作ってきていたのだ。
山形県小国町には「栗林1町、家1軒」の伝承があり、1haの栗林を守っていくことで1軒分の家族構成員の食糧をまかなえるという。この地域では、草木塔が各所にみられる。これは人間だけでなく獣や、そして草木の上にさえも神様が宿っており、すべての生き物がバランスを保ちつつ一つの宇宙にあるのだという考え方の証左である。だから、里山のことを学ぶということは、物理的にどうやって森を使ってきたかということだけでなく、その背景として人間の生き方とその精神性がどうだったのかということに思いを馳せることでもある。

6)みんなで確認しあうことで守られる資源とつながり
 集落の中を流れる堰(用水路)に意図的に蓋をしないということがある。見ることによって皆で確認しあい、きれいにしていくという意識の表れだ。水もワラビなどの山の資源と一緒で、身体の感覚としてどういう風にしていくのがよいのかを皆で確認しあい保全されていくべきものだということなのだろう。
 このように可視化し、お互いに確認しあうということは、里山の近所づきあいの風景でも見られることだ。従来こうしたことは煩わしいものだと考えられ、逃れるために文明社会を作ってきた。しかし、震災後気付いたのは、そこには各々分断され何も生産できない「個」があるだけだということだった。先述した大槌町吉里吉里は、人口3,000人くらいだが、皆が知り合いだということだ。このことこそ人が生きていくうえで大切なことなのではないかと考えさせられる。

7)次世代へつなぐ里の営みの思想
 秋田県のある集落の経験では、昔、水力発電機を購入するために住民が本当に悩みに悩んだ末に山を伐採してその木材を売り、ようやく電気を通したという。この時通した電気は本当に温かかったと古老は話す。これで、次の世代が安心して暮らせる、と。
 現代社会は何でも金を払えば得られるという神話のもとで、このような悩みに不感症になっているのではないだろうか。かつては、自分の世代はお金にならないけど次の世代のために行う「つとめ」と呼ばれる仕事があった。「つとめ」を果たすことで集落の中で初めて一人前と認められたのである。そこでは次世代につなぐとともに今生きている横の社会の人々と一緒に暮らしていくための最低限の知恵が根付いていた。
祭りも集落の人が一緒に暮らしていくためにどうしても必要な行事だった。それは集落の中で子どもが神の子から人間の子になり生きていくための通過儀礼でもあった。綱を引くのは何歳から、神輿を担ぐのは何歳から、棟梁は何歳からというのが決まっていて、人間社会のサイクルと祭りのサイクルが重なり合っていた。有名な伊勢神宮のご遷宮も20年に1回で長いスパンで人間のサイクルと対応している。そしてお宮で拝むのは願い事をするのではなく、今日も生きることができて感謝するという思いが込められている。これが里山の人々の感覚でもある。
人間と自然のサイクルが織りなす営みの証として、奈良県川上村のスギの巨木が挙げられるだろう。250年とも言われるスギの巨木の人工林から驚かされるのは、その巨大さゆえではない。8世代にもわたって同じ価値観で人間社会と自然の関係が続いてきたということに驚かされるのである。

8)「生活の質の向上(QOR)」を再考する-「いのち」は「お金」で保障できない-
 今までの生活の質とは、所得の増大(生活は買うもの・石油文明)、街の拡大と発展(孤独)といったものだった。これからの生活の質は、生きる実感をどのように体感するか(生活は作るもの・田舎暮らし)、コミュニティの再生(群れに戻る自分・絆)、死生観(生と死は同じ。人としての尊厳)といったものがキーワードになるのではないだろうか。
 1960年代から始まるグローバル経済は、コミュニケーションの道具として「お金」を使い、お金の尺度で社会を見てきた。お金は確かに世界中で通用する公平で共通な価値観を持つ道具だったと言えるだろう。確かにお金の仕組みも必要だが、お金だけの価値観は、抑制が効かず際限のない欲望をも増大させてしまう。今や、株や為替差益、債権といった仮想的な貨幣が実体経済の何倍にも膨れ上がっている。仮想経済が崩壊することで実体経済も崩れるということさえ発生するようになった。はたして地球の有限性の中で、70億の人口の生存を貨幣が担保できるものだろうか。「いのち」を「お金」で保証できるのだろうか。

9)分散型社会へ-食・水・エネルギー・教育・福祉の自給、そして絆-
3・11震災以降、「分散型社会」ということが叫ばれている。水・食・エネルギー・教育・福祉(相互扶助)を自給し、自分たちで作り上げることを誇りに思える価値を作っていくことが大切だと思う。
本当の暮らしというのは、絆、相補、連携、知恵、技術、世代のつながり、幸福度、慈しみ、赦し、愛といった言葉で代表されるものによって支えられるのではないだろうか。肉体という有限な生き物が作る社会では、欲望を抑制して創り出す喜びが感じられることが大切で、そのことが自立への誇りにつながると考える。
民俗研究家の結城登美雄氏は、沖縄のオジイやオバアが大切だと語る言葉として次を挙げている。「あたい」(家の近くに自給菜園を持ち自分で作る)、「ゆんたん」(人とゆっくりおしゃべりをする)、「ゆいまーる」(結い)、「共同みせ」(集落全戸出資の店、村の皆のために利益配分をプールする仕組みでもある)、「ていげー」(大概、ぼちぼち)。これらの言葉から想起されるのは里山は単に物理的に利活用されるだけのものではなく、人と人を結び付けるものだということだ。今各地で模索されているバイオマスの取り組みも同じことが言える。里山の物質的なモノの管理や活用だけではなく、使うことで人と人が結びつき共に生きていくことこそ重要なのである。
 1960年代より前は、田植えを結い(共同作業)で行い、子守りを子どもたちが行うといった情景が見られた。こうしたつながりを切ってきたのが60年代以降の日本の歩みではないか。これをもう一度つなぎなおし構築しなおしていくことこそ先進国のモデルであり、それが里山なのではないかと考えている。

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■事例報告

(1)「多様な主体の連携による小瀬田の活用」
報告者:桑原衛(埼玉県小川町NPOふうど代表)

1)小川町との出会い
 1953年生まれの自分はちょうど物心がついたころに見慣れた風景が壊れていったという経験を持っている。もともと植物とか山登りが大好きだった。山登りの世界では自分の暮らしを自分で工夫するということを身につけていった。大学では水の流れや循環など、自然の摂理について学んだ。社会に出て勤めたのは、海外の技術協力という仕事。仕事を通じて思ったのは、日本の技術をそのままの形で海外に輸出しているということだ。それによって支援地域が助かることもあれば、壊れてしまうことがあることも目の当たりにしてきた。
このような経験をしてきた中で、自分たちの暮らしを自分たちで作るということを技術面からアプローチしてみたいということを考えるようになった。そしてバイオマスという分野に関心を抱き、どうしたらこれを日本で活用できるのかを模索していた時に、小川町の農業者と出会い、この地域に来た。

2)地域社会の中で暮らしていくということ-ムラの絆の昔と今-
 地域社会はこうあるべきだと頭では考えられるが、どうしたらそれが可能なのかという方法が全く分からないということがある。小川町で暮らすようになって自分が地域でどういうことができるのか、自分と地域がどういう立ち位置にあるのか、その意味を考えるようになった。代々農業や林業をやってきて地域社会が空気のように感じられる人とは異なり、余所から移ってきた自分にとっては、地域と自分の間にギャップがありそれを埋めるのは大変な作業だった。
 しかし自分が小川町に来た20年前と今では、地域の状況は余ほど変わってしまったのではないかと思う。一番変化していることは地域社会自体が弱くなっているということだ。
ムラの約束事、お祭りなどが守られなくなりつつある。以前は祭りでも子どもたちがたくさん集まり、年上の子どもが年下の子どもの面倒をみるといった光景が見られたが、最近は1人も来ない。大人もわざわざ呼ぼうともしない。また、環境や気質さえも異なるいくつかのムラ(地区)が合併して形成されている小川町では、ちょっと前までは地区の対抗試合など本当に一生懸命やっていた。小さな町の中でいい大人が真剣に競争しあうなど、外から見ると微笑ましかった。こうやって自分たちが同じ所に住んでいるのだということを自覚しあっていたのだと思う。しかし今はそうした取り組みがつながっていない。若い人たちも付いてきていない。規模が大きなものも小さなものもいずれも祭りが小さくなっているし、熱心にやっていた活動もなくなっていこうとしている。
 こうしたことに対してどうしたらよいのかということを地域で農業なり林業なり生計を立てている人たちが真剣に考えなければならないのだと思うが、その方法を把握していないというのが現状だ。近所のある80代のお年寄りは、昔は良かったという。田んぼ仕事でも畑仕事でも仕事は大変だったが、田畑にはいつも人がいて語り合うことができた、それがよかったと話す。確かに集約化された今の農業では田畑に人がいないようになってしまっている。80代のお年寄りが人生を見通した時に昔の方がよかったというのは、大変残念なことだと思うし、自分たちはいったいどういう社会を作ってきたのだろうかと自問している。

3)農業の現状-人を村から離れさせる力-
確かに今、日本には田んぼに人がいない。人を雇うとつぶれてしまうからだ。農業は、たくさんの人にたくさんの仕事を与えられるというのが最大の役割だと思うのだが、今の日本ではそれができない。
 菜種の全国栽培面積と生産量のグラフをみると、明治以来現在に至るまでに2回の大きな落ち込みがあることが分かる。一つは太平洋戦争中、もう一つは昭和30年代からの高度経済成長期から現在に至るまでの期間だ。これをみると戦争が人を山村から引き離し、生産量を低下させたことが分かる。しかし戦争後にはまた人は戻ってきて生産量が上がっている。これは農村自体が残っていたからだと思う。だが昭和30年代から始まる生産量の低下はもっと本質的だ。高度経済成長下、都市に人が出ていくことによって生まれたこの変化は、農村自体の力を奪い崩壊させてしまっているからだ。仮に社会状況が変化し山村から人を引き離す力がなくなっても、また人が山村に戻ってきて回復できるのかどうかは疑問だ。東京に近い小川町などでは、農村社会の変容が深いレベルで行われており、社会状況が変わったからと言って人が簡単に入れるわけではない状況になっている。

4)ムラに人を取り戻す試み-小瀬田の田んぼと里山の活動から-
こうした状況にどう向かい合ったらよいのか、その試みの一つが小瀬田の取り組みでもある。生半可な知識ではなく、そこの地域に住んでいる人びとの知恵を借りながらやっていくという試みだ。小瀬田におけるゴルフ場開発問題に取り組む中でいろんな人がつながった。そしてバブル崩壊により開発予定がなくなった後も、つながった人々との活動が展開されている。今、小瀬田では援農という形で田んぼの仕事を外からも来てもらい交流も含めて取り組んでいるが、それだけではなくもっと深いつながりを結ぶことで活動を長続きさせたいと思っている。その一つとして木の利用を考えている。持続可能な資源は森だと思うが利活用していくためには、都会と関係を結んでいくことが考えられる。特に薪などはものすごい力がある。普通の人が使えるような技術的な工夫を施して人と人を結び付ける取り組みが可能だと思う。ロケットストーブの事例はその一環だ。

5)生き物の水路作りから思うこと-稼ぎにならない「仕事」こそ地域の財産に-
小瀬田の田んぼの活動では援農や木の利用だけでなく、落ち葉かきや生き物調べなど他にもさまざまな取り組みをしている。その一つに水路作りがある。これは土地改良事業で営農効率を上げる中でなくしてしまった昔の水路を再構築するものだ。かつて山と接続している水路や湿田は生き物にとって重要な場だった。今回田んぼと水路を行き来できるような幅広の水路を200メートル余りだが再構築した。このことでカエルをはじめタニシやドジョウなどの生き物がたくさん増えた。生き物が増えただけでなく田んぼの草が減るという営農上の効果も見られた。
それだけではない。田んぼ仕事では、カエルの産卵期や冬眠前の時期などは鳴き声が聞こえるのが、実によいものなのだが、それが年を経るにつれてだんだん聞こえなくなるのはさびしかった。それが復活し、また町の広報でドジョウがとれる場所として紹介され、地域の人とつながりができるきっかけともなった。
この水路作り自体は全く稼ぎにならない「仕事」ではある。でもこの稼ぎにならない「仕事」が地域にある意味で「貯金」をしているということなのではないかと思う。このように小さな何かを地域に積み立てていくことが里地里山のいい景色と風情を作っていくのではないかと思う。

(2)「里山を宝の山にする」
報告者:熊田淳(福島県林業研究センター林産資源部長)

1)生業が里山を宝の山に
里山の資源として山菜やキノコが代表的なものとしてあげられるが、作り方はそれほど難しくなくてもいかにお金にしていくかが難しい課題となっている。「地域の宝」を如何に商品としてブラッシュアップするかが里山を宝の山にする鍵と考える。
キノコ、山菜類、広葉樹資源と景観といった里山資源を総合的に活用することで、価値を都市へつないで対価を得るということが大切だ。このことは地域内だけではできないので外部とつなぐことが重要だ。つまり資源を生業として総合的に活用する里山の文化を世界に発信することが里山を維持することにつながると考えている。

2)里山におけるきのこ栽培
キノコ栽培は空調栽培法と自然栽培法がある。里山利用として適していると考えられる自然栽培法は、少額の初期投資で副業的にできるという利点がある一方で、規格や数量が安定しないという点で流通や販売に苦労するという側面がある。
 本県が開発したコナラに適合するナメコの品種は、萌芽更新の限界に達しつつある薪にもできない大径木化したコナラの伐採をし、スギなど地域でよくみられる林床をナメコ栽培で活用できる。キノコの自然栽培は、冷涼な気候、少ない日照、豊富な森林といった農業に不利な土地が栽培適地であり、技術、労力、投資額が少ないため、中山間地域の耕作現状にかなっている。
 以上を踏まえて、年金+α、主要作物+α、広葉樹整備促進といった要素を取り入れるとともに、趣味の栽培から着手して実益へつながる産地化に発展させるため、主婦や退職者を中心に地域毎に組織化を図り、組織間が連携して販売するシステムづくりを試み、首都圏の高級スーパーや香港において販路の糸口を見いだした。

3)地域の知恵と技術を活かした里山の山菜栽培-在来資源に熟知する地元の人々-
 地域の宝物を見いだし、地域資源として活用している菅野昌基氏の事例を報告する。氏は林床を活用して粗放化、さらに野生化させて育てようという農業的な集約化とは逆の考え方のもとで、ウド、ウルイ、オオナルコユリ、ギョウジャニンニク、タラノメ、ヤマメ、マムシ養殖など実に多種多様な里山資源を里山の自然を活かして育てることに成功している。山の自然の力を活かしながら、様々なことを遊び心で試して経験していくことで、希少な山菜も山一面に自生するようになった。長年の里山の手入れによって今では特に手をかけなくても採取でき販売するだけという状態になっている。菅野さんの事例は、生業に根ざした里山づくりに取り組んでいる皆様に、多くの示唆を与えるものと思っている。

4)里山の生業課題とは-流通と商品化の試み-
里山の生業の課題として、定時・定量・定性の流通システムへの対応や商品化までのブラッシュアップということが挙げられると思う。解決策として次の3つのステップで取り組みを行ってきた。
ア) 域内で地域資源の価値と利用法を共有
山菜やキノコをテーマとした交流会を地域で開き、ワラビの加工・試食会、ウルイの勉強会、販売体験などを実施した。これを契機に生産に取り組む地域が増え、全県的な連携組織が立ちあがった。地域間が連携し販売期間の延長と平準化を図り定時・定性・定量に対応するシステムを構築するため、県農林事務所と福島県キノコ振興センターが一体となって取り組んだ。
イ)地域資源の価値を地域外で客観的に評価
次に東京のスーパー等で試験的に販売し、消費者の評価を生産者等が店頭で把握する取組を行った。全県的な組織の代表として川俣町、飯館村、須賀川市の3団体が連携して首都圏のアッパークラスのスーパー、デパート、レストラン等での販売に取り組んだ。販売に当たっては、キノコに関連した地域の特色や里山保全への寄与などの話題を盛り込んだ。スーパーの方でも自然栽培キノコが本当に流通に乗るのかということに対し当初半信半疑だったが、この取り組みを通じて信頼を得ることができ販路の糸口を見いだすとともに、消費者の反応を直に感じることにより生産者の意欲が著しく向上した。
ウ)激戦地における商品のブラッシュアップ
地域の農産物を連携して販売するアイテムとして「きのこフィッシュコラーゲンスープ」を開発し、世界の商戦激戦地の一つである香港への売り込みを企画した。味をニュートラルにして、スープでもジェル状にしても食べられるようにしたものだが、プロモーション活動では好評を得ることができた。スープと連携してキノコ販売も好調で、スープが地域の農産品を販売するプロモーションとして効果的であることを確信した。これは世界の市場でも地域の里山資源の商品価値が認められたものであり、日本の里山が世界の宝物になる可能性があることを示すものと受け止めている。

5)価値ある里山資源を活かしていくために
残念ながらこれらの取り組みは、原発事故後0に戻ってしまった。しかし、香港での取り組みを通じて、世界でも日本の里山の価値を認められ、味も認められたという実感は持っている。
今後、日本各地の里山を活かしていくためにつなぎ役となるコーディネーターが重要だと考えている。この点は地域に欠けている要素であり、地域外のセンス、若いセンスが必要とされている。そのうえで地域を主体としながらコーディネートしていくことが大切なのではないかと考えている。

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■ディスカッション
テーマ:「山里で暮らす「未来」づくりを始めよう」
パネラー:澁澤寿一、桑原衛、熊田淳
コーディネーター:竹田純一(里地ネットワーク事務局長)

地域社会の営みやその背景となっている考え方を踏まえながら、どうやって里山の価値を高め、暮らしを支える生業を構築していくかという観点からディスカッションが行われた。
澁澤氏からは里山の利用と生業づくりの基本的な観点として次の話があった。里山の利用はかつて盛んに行われ地域内での流通も行われていた。それは暮らしの有限性というものを意識していたものだった。しかし今、マーケットの設定は無限だとされておりこの点でも矛盾がある。確かに流通という点で里山資源は農業製品や工業製品よりも不利だと言えるかもしれない。だが、人と人をつなぎ価値づけをしていくという点では利点もあるのではないか。地域内で流通させる仕組みを考えることで値段を地域で決め、流通の仕方も決めることができるのではないか。里山資源の利用した生業を考える中で、こうしたいわば自治的な仕組みを生み出していくことがいま大切なのではないかとの提案があった。
熊田氏からは、里山資源を商品化し販売するとともにその適正規模を考えることの重要性について触れられた。その年の里山の成長分と恵みを販売するという姿勢が重要で、経済的価値だけではなく地域の本当の宝物は売るのではなく共有していくことが大事だとの指摘があった。
桑原氏からは従来よりも行政や農業者等の窓口も増え、若者が農業に比較的入りやすい現状に触れた上で次の指摘があった。燃料の問題も含め今後里山の価値が上がっていくのではないか。薪をはじめとしたバイオマスの将来像を考えた時に今がみんなでオープンにできる最後のチャンスだ。したがって、森の利用に際し、管理している人も使う人も相互に支援されるような仕組みが求められており、若い人たちにイニシアティブをとってもらいながら構築していきたい。

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■まとめ
 多様な主体が協働して里地里山の資源から生業を創出し暮らしを構築するためには、単に里地里山の自然環境や物質面での保全管理や循環だけでなく、かかわる人々の価値観や人と人とのつながり・絆など、精神的・社会的側面をも視野に入れた検討が大切である。
 今回の研修会では、里地里山における暮らしの伝統的なルールや流儀、生業を創出する際に踏まえるべき里山資源のメリットとデメリット、それらの課題を解決するための新たな価値づくりや流通を含めた外との関係づくりなど、民俗学的観点から市場経済に至るまで多方面からこれからの里地里山の暮らしづくりについて議論を行い、検討することができた。

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