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自然再生推進法に基づく自然再生協議会の事例紹介です。
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「せっしょう」が好きなんだよ――男たちは嬉々として口をそろえた。
「せっしょう」とは魚捕りのこと。柴揚げ漁は静岡の伝統的なせっしょうの一つで、浅畑沼に古くから伝わってきたものだ。一時途絶えたこの漁が、25年前(昭和56年)、復活した。
遊水池が一役を担った。
記事:清藤奈津子
写真等提供:南沼上柴揚げ漁保存会
9月中旬のまだ暑いさなか、南沼上柴揚げ漁保存会会員たちがトラックを繰り出す。目指すのは栗やコナラの木。会員の何人かが自分の山を持っている。到着するとハシゴに登り、枝を切る。この時期にはまだ葉もよく茂っていて重い。汗だくだ。切り落とした枝をトラックに積む。
2トントラック2台がいっぱいになると、昔は浅畑沼と呼ばれた麻機遊水地第3工区に向かう。ここには今、大きな沼が広がり、水際にはヨシやマコモが生い茂っている。花ハスが水面を侵略するかのようにその勢力を広げている中、別のトラックで到着したボートを水に浮かべる。沼の中に今採ってきた柴を浸けるのだ。
柴を入れる前に、枯れ草などを刈り取り、沼の底の泥を取り除く。
柴入れ。柴を沼の中に入れる。 |
柴を入れ終わった。 |
9月に沼の底を50センチほど掘り下げて柴を浸ける。魚は冬になると柴に巣ごもりをする。柴の中はえさが得やすく、深みは冬の寒さをしのぐのに好都合である。大寒の頃、柴の回りを簾(すだれ)で囲み、柴を取り除いてからタモで魚をすくう。
全国各地に「柴漬け漁」と呼ばれる漁法がある。柴を水の中に入れ、そこに集まってくる魚を捕獲するものだ。柴とは雑木の枝をいい、柴をまとめたものを「そだ」「もや」「ぼさ」などと呼ぶ。おそらく古代から行われていたものだろう。四国の四万十川では、1日から数日柴を川に浸け、川エビやウナギを捕る。琵琶湖では2~3年浸け、柴に付着する有機物やそれを食べるプランクトンをえさにするために集まってきた魚を捕獲する。
「しまあげ」――浅畑沼ではこう呼んだ。浅畑の「しまあげ」は他地域の「柴漬け漁」とは一線を画している。柴の山を「しま(しば)」と呼び、その周りに親類・知人が集まって魚を食べ酒を酌み交わすことこそが「しまあげ」だったのだ。それは大人も子どもも心待ちにする、年に一度の行事だった。
かつての浅畑沼は、今のような一面の大きな水面を持っていなかった。とても小さな沼が無数に水路でつながりあい、一つ一つの沼は地元の家々に所有されていた。9月になると自分の沼に柴を浸ける。この柴の山のことを「しま」「しば」と言う。そして旧暦の小正月(2月上中旬)に、親しい人を招き、柴を上げて魚を捕り、沼のほとりで煮炊きをして一日遊んだ。
昭和に入り、「しまあげ」は近隣に名をはせる粋な遊興になった。寒中のひととき、焚き火で魚を焼き、竹筒に入れた酒を温め、澄んだ沼の水で寒鮒の味噌汁を作る。静岡の茶屋が「しま」を買い、客は芸者を伴って心地よく酔った。フナが多かったが、時にコイが入るとご祝儀が出た。いろいろな団体が「しま」を買い、慰労会に利用することも多かった。沼の周りの人たちはそのために柴を浸け収入を得た。しまあげが終わると季節は少しずつ春になっていった。
柴揚げ直前の柴。この日は水位が高い。 |
柴を揚げる。 |
「しまあげ」ができなくなったのは1967年(昭和42年)、ほ場整備が始まったときからである。大雨のたびに田んぼが水に浸かる浅畑沼一帯では、ほ場整備は地域発展の証だった。沼は土地改良組合によって埋め立てられた。しかし、沼の運命は再び変わる。七夕豪雨をきっかけに、田んぼになっていた元の浅畑沼は治水目的の麻機遊水地第3工区として、再び沼になったのである。
1980年(昭和56年)、石川純一郎常葉大学教授が、稲垣久雄さん(南沼上柴上げ漁保存会初代会長)を訪れた。浅畑沼周辺(元の千代田村)の歴史を記録する「千代田誌」編纂のために、かつて浅畑沼で行われていた漁について教えてほしいという依頼だった。「しまあげ」は「柴揚げ漁」と記録され、「漁を再現してほしい」という話に発展した。稲垣さん自身、子どものころ「しまあげ」で遊んだことはあるが、自分の手で行ったことはなかったため、経験者の故小野田実さんに相談した。「沼も変わった。再現はできない。ただ、形だけの真似事でいいならやってもいい」と話がまとまった。
稲垣さんは地区の仲間10人を集めた。柴を浸けた後は、みんなでメダケを切り出して割り、こも編みの道具を引っ張り出して簾を作った。魚を逃がさないためには簾を手際よく立てなければならない。空き地で簾立ての練習をした。魚をすくうタモはまだ残っていた。網は仲間の老人がかつて編んだものだった。
1982年(昭和57年)、「しまあげ」が復活した。口コミや市の広報で30~40人のお客さんが集まった。参加費はとらず、酒代も味噌も持ち出しだった。奥さんたちが「肉飯」や「色御飯」を炊いた。ボートで沼に繰り出し、簾を立てて柴を揚げ、タモですくうと、大きな魚が暴れ、柄がしなった。50cmもあるフナが何匹も入った。テレビや新聞は漁の復活を大きく報道した。大学教授に頼まれしぶしぶ引き受けた「形だけ」の柴揚げは、男たちの体に染み付いた「せっしょう」の楽しみを呼び覚ました。以来、毎年柴揚げを行い続け、5年ほどしてから、麻機遊水地第3工区で行うようになった。「南沼上柴揚げ漁保存会」を結成し、仲間は18人に増えた。来客数は天気のよかった2004年(平成16年)には400人に及んだ
会員たちは50~60代。誰もが子どもの頃、沼や川で魚捕りをして遊んできた。当時、麻機は家もポツリポツリとしかないような田舎だった。大雨で川が逆流したときには、「あんどう」という独特の漁もした。低湿地という悪環境を生かして恵みを見出すのが、太古から続いてきた人の営みだった。自然とのかかわりが、沼の周りの人たちに戻ってきた。麻機遊水地で再生したのはミズアオイだけではなかった。
柴揚げ漁イベント会場。甘酒とおでんをふるまう。 |
竹筒に入れた酒をたき火で温める。 |
大きなコイが捕れ、子どもたちも手に取って大喜び。 |
親しい仲間で会食。 |
南沼上は浅畑沼(現在の麻機遊水地第3工区)の北東にある地区の名称。1982年(昭和57年)の柴揚げ漁復元時は「柴揚げ漁を守る会」の名称で南沼上の住民だけで行っていたが、現在は他地区からの会員もいる。初代会長の稲垣久雄さんは現在会を退き、現会長は平岡重雄さん。「しまあげ」を浅畑沼時代に自分の手で行った人はいない。会員は53~69歳、18名。
【年間の活動】
今、柴揚げで魚は捕れても食べられない。沼の魚は少なく、保護に努めなければならない。イベントで捕った魚は放流する。その場で食べるのはあらかじめ別のところで捕って準備しておいた魚だ。
さらに気がかりなのは、魚の種類が減ったことだ。昔はナマズ、タナゴ、ウナギも捕れた。それがやがてフナとコイが入るだけになり、今はヘラブナばかりになった。数もぐっと減っている。「ヘラブナはあまり柴に入らないみたいだ。マブナ・ジブナとは習性が違うんじゃないか。それに昔のフナと比べ、ヘラブナはうまくない」とある会員は言う。
原因はほかにもある。外来魚に食べられること。さらに2年前からカワウが急に増え魚が激減してしまったこと。「水の量も減った。大谷川放水路ができる前は川がよく逆流したので、水が多かった」ともいう。「フナを繁殖させ育てる場所がほしい」というのが会員たちの今の願いである。
南沼上柴揚げ漁保存会は、巴川流域麻機遊水地自然再生協議会の団体会員になっている。協議会ではまだ自然再生を目指す直接的な活動は始まっていないが、柴揚げ漁のように、個別に活動している人たちがいる。協議会の目指すところは、昭和30年代の自然。それには、水と生態系の再生が欠かせない。協議会には、水の動きを研究する土隆一会長を初め、生態系に知見を持つメンバーがそろっている。協議会がリードして、沼の魚が食べられる環境を目指していければよいだろう。
柴揚げは沼から恵みを得るだけではない。沼にたまった泥をかき出す作業は、かつてしまあげが盛んに行われていたころには、沼の底が上がり貯水量が減るのを防いでいたはずだ。一方、数百人のお客さんは、「なぜ沼の魚が食べられないのか」という疑問から、麻機の自然を取り巻く問題をわずかでも考えるきっかけができる。沼の生態系を保全し再生するために魚を保護することは現在は必要だが、遠い昔の沼は年に一度のしまあげで危機的に魚がいなくなるような脆弱なものではなかったはずだ。獲る量に規制は必要だろうが、沼の魚が再び食べられ、かつてのようにコイやウナギが獲れる日が来れば、麻機遊水地の自然再生の象徴になる。魚を獲る本能的な喜びが、自然再生へのエネルギーに結びつく。
「これだけもてはやされ、期待されると、伝統を保存しなきゃいけないという気持ちもある。だけどやっぱり、みんな“せっしょう”が好きなんだよ」
柴揚げが今日まで25年間続き、ますます盛んになっている理由を、沼の人たちはこのように言うのだった。
水中に柴(雑木の枝)や笹を沈めて魚の棲み家や隠れ家をつくり、集まってきた魚を捕る伝統的漁法。日本各地で行われており、四万十川の川カニ漁や琵琶湖で行われているものが有名。漁として出荷される例が多く、麻機のように遊興として行われた地域は珍しい。
麻機では「しまあげ」「しばあげ」と言われ、江戸時代以降の記録がある。クリ、コナラ、カシを用いる。