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事例紹介(専門家に聞く)

自然再生推進法に基づく自然再生協議会の事例紹介です。
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釧路湿原自然再生協議会[事業地紹介]
釧路湿原自然再生協議会[現場ルポ]

自然再生を普及する ──集水域単位の取り組みを進めるには

 釧路湿原の自然再生事業にはいろんな特徴がありますが、その一番の特徴は「集水域単位で考える」こと。そのためには、一般の人、特に地元の人の参画を得て物事を進めていくことが重要です。「再生普及行動計画」が策定されたのもそのためです。
 そこで、今回は再生普及行動計画の策定、実施に携わってこられたお三方に集まっていただきました。それぞれに様々な普及啓発活動を行っていますが、まずは釧路湿原と関わることになったきっかけから、お話をお伺いしました。

記事:環境省釧路自然環境事務所次長 吉中厚裕
写真等提供:環境省、吉中厚裕、無藤雅美

釧路湿原とのなれそめ

──佐竹さんは、生まれはどちらですか。

佐竹 私は釧路生まれですけど、子どもの頃は釧路湿原に行ったことがありませんでした。自然体験学習なんて全然。親が行かないから、子どもも行かない。
中学まで釧路にいましたが、遠足で湿原に行ったくらいで、湿原には本当に接したことがなかった。でもそれは私が特殊だった訳ではなく、多分みんなそうだったと思う。そういう会話を聞いたこともなかった。市街地の子どもたちは、タンチョウを見ることもそれほどなかったと思います。
15歳の頃から一時釧路を離れてましたが、戻ってきて釧路新聞の記者として働きはじめて、釧路湿原と関わるようになりました。その時はもう河川環境保全の検討会が始まっていて、たまたま担当の記者が休んだ時に、私が代わりに取材に行ったのが始まり。それから釧路湿原の再生協議会にも毎回出席するようになって、地域で開催された懇談会などにも出席しました。


 佐竹直子さん
 普及行動計画ワーキンググループ委員

当時、一般の人たちの中では相変わらず湿原に対する意識が高まっていなくて、私の社内でもそうでした。そのあたりにすごくギャップを感じていました。
そんなときに「釧路湿原自然再生大会」が開催されて、その取材に行きました。いろんな自然保護団体の人たちが大勢来ていて、それぞれ再生に関わる活動をしようということに。私も、まずは友達を対象に湿原を一緒に楽しむことをスタートとして応募したんです。背伸びをしないで、専門的なことは専門的なところに任せて、素人ならではのことをやろうと思ったんです。
私たちは、障害を持った方たちと接することが多かった。障害を持った人でも湿原を楽しめることがないかと思いついたのが「音」。音を聞くのだったら、自分が動かなくても鳥や虫が動くので、同じ場所にいるのを忘れて湿原の「グルグル感」が味わえるかなって思って。
それで自然再生大会の時に「釧路湿原“音”探検」という企画を初めてやったのがきっかけ。その後もずっと、「“音”探検」の企画は毎年1回続けているんです。

──佐竹さんが小学校の遠足で釧路湿原に行かれた頃というと、ちょうどラムサール条約の登録湿地になった頃ですね。その頃って地元の人たちの間ではどんな感じだったんでしょうか。

新庄 1960年代後半の頃、釧路市博物館では、主催事業として「湿原原博物館講座」を毎月2回開講していました。自然科学とか植物だけでなく、考古学の人とか歴史の人、郷土史の人とかいろんな人が交替で実施していました。
釧路新聞でも、「郷土博物誌」という連載を1968年から始めた。マスコミで釧路湿原を取り上げたのは、これが最初かもしれない。
1970年後半になって、テレビでも「湿原探検クラブ」という番組が夕方6時の前のわずか3分間だったけど、月曜日から金曜日まで毎日放送していました。作る方は大変でしたけどね。
1980年のラムサール条約登録の直前頃かな。NHK釧路放送局の記者が博物館学講座によく来ていた。面白がってくれて、湿地について特集番組を作ろうと。当時の館長がそれに乗って、じゃあ作るべしということで、3年間かけて45分番組を1本作った。それが最初の長編の番組かな。全国放送になりました。
その頃、地元の釣具屋さんで博物館によく来ていた人がいたんですが、その人たちと、湿原がどうの、ラムサールがどうのって色々話をしているうちに、湿原を守る映画を作りたいということになったんです、寄付を集めて。できあがるまで随分かかって、結局、完成は昭和58年でした。
そうして、やっと釧路湿原が表舞台に出て来たんだよね。「釧路湿原」の名付け親でもある北海道教育大釧路分校の田中瑞穂先生が熱心に動き回って、人のネットワークを作って、そして、ラムサール登録湿地になって…。いろんなことが次々と起こっていく感じでした。

──新庄さんが博物館に入られたのは1972年。まさにラムサール登録を博物館学芸員という立場で進めてこられたんですよね。

新庄 ぼくは十勝の生まれ。山が好きで、もともとの専門は高山植物。田中瑞穂先生の所で勉強していたんだけど、先生が「お前、高山植物が好きなら、山になんて行かなくても、ほらここにもあるじゃないか」と、湿原に連れて行かれたの。そうしたら、高山植物と言われているイソツツジだとかガンコウランがこんな低地にびっしりあるでしょ。びっくりしちゃって。


 新庄久志さん
 普及行動計画ワーキンググループ座長<

それで、博物館に入って、博物館は郷土のことを調べて皆さんに知らせようっていうのが仕事だから、湿原の調査を本格的に始めたんです。
現地調査には泊まり込みで行くでしょ。当時はお金がなかったから、農家の納屋かどこかに泊めてもらわないとできなかった。宮島岬に調査に行った時、真っ暗になっちゃって、やっとの思いで近くの農家の所まで行った。ちょうどそこにいた他の農家の人も交えていろんな話をしていたら、「俺んところにも遊びに来い」って。それではじめて道産馬に乗せもらったんです。「湿原で何やっているんだ」と聞くので、「調査をしている」と言うと、「そんな重たい物を持って歩くのはバカだ、道産馬を使えばよいんだ」と荷物を馬に載せて運んでくれた。これは面白いということで、乗って遊ぼうと。それが今の「どさんこ牧場」のきっかけ。
ぼくはもともと先生になりたかったんです。博物館で調査をするときも子どもたちを連れて行きました。1970年代からは観察会をずっとやってきた。バスがないから鶴居軌道に乗って、あれがなくなってからはトコトコ堤防を歩いています。
ある時、岩保木水門に行ったら水門で水を測るおじさんがいた。ずっと一人でいたもんだから、一度捕まったら話し始めて止まらない。子どもたちと観察会に行ったらいろんな話しをしてくれて。
自分が調査を続けられたのも地元の人に手伝ってもらってきたからだし、観察会も実はぼくが解説したわけじゃなくて、いろんな人がいるところに連れて行くといろんな話が聞けた。ぼくはいわば、コーディネート役だった。
そんな人のネットワークが、釧路湿原が国立公園になった1987年当時には既にできていた。湿原のことなら、谷地のことならまかせという人が、実はいっぱいいた。
カヌーも、随分昔にカナダから買ってきたんです。湿原でカヌーで遊ぼうと思って、でもどこで乗ったらよいかなと思ったら、教えてくれたのは地元の漁師さん。「そんなもんで遊びたいなら俺が教えてやる」と言ってね。
馬で遊んでいる人もいたし、昆虫採っている人もいた。山菜のことなら任せておけって人もいた。そういう人がたくさんいることを知っていたので、釧路湿原は大丈夫だ、やっていけると思った。専門家が入ってくる前にみんな実は知っていたんだろうね。ただ言わなかっただけなんだよ。
釧路湿原をラムサール条約湿地にしようとした時に、田中瑞穂先生がいろんな人を集めて調査しようとグループを作って、地域の専門家をわぁっと集めた。その調査団の親分が猟友会の会長さん、ハンターの親分だよ。それから釣具屋さん。写真やっている人もいた。虫屋さんがいて、植物屋さんや水の専門家もいた。ネットワーク、情報屋さんも。それから、町医者も入ってきた。南極越冬隊のドクターが、釧路のある会社の嘱託医をやっていた。その人は第一次南極観測隊として一冬を南極で過ごしたんだって。
また別の町医者で面白い人がいてね。当時とすればすごい舶来かぶれで、1970年代に既にオーデュボン協会の会員だったり、イギリスにある国際水禽・湿地調査局(IWRB=当時)のメンバーだったりして、世界中の情報がダイレクトに英語で入って来た。ラムサール条約のこともその人が仕入れてきたんです。

──タイミングというか。人のつながりというか、面白いですね。

新庄 すごかったよ。そういうのがあったからこそラムサール条約締約国会議も釧路で開かれることになったし、湿原に関するいろんなことが次々と始まった。国立公園もそう、自然再生事業もそう。
ただ、湿原を「守ろう」というは、みんな言っていなかったと思う。でも、実は湿原、谷地(やち)のことはよく知っていて、谷地は面白いんだというのを、みんなごくごく普通に知っていた。

──ずっと釧路湿原と関わってきた新庄さんのような方もいれば、帰ってきて関わるようになった佐竹さんもいる。そして新たに入ってきた人。いろんな人がいるんですね。
無藤さんは全く新たに入ってきた人ですね。


 無藤雅美さん
 普及行動計画ワーキンググループ事務局

無藤 私は生まれたのは東京都内で、育ちは神奈川の葉山。社会に出てからは横浜で一人暮しをしていたので、釧路とは全く無縁でした。
最初、テレビ番組制作会社でADをしていて、いつかはドキュメンタリーを作れたらと思っていました。その後、秘書をしたり、旅行が好きなのでツアーコンダクターをやったりしたんですが、結婚したいなと思う人と出会って。その人がとても環境に関心のある人だったんです。
彼が海外協力隊でブルガリアにいた時、たまたま新庄さんと現地で逢ったんですよ。「新庄さんというすごく楽しい人とブルガリアで逢った。釧路で働いているらしい。ブルガリアの湿原で学んだ事を活かすにはどうすればいいだろうか」と2人で話していたら、運よく釧路で働き口が見つかって、2人して昨年5月に釧路にやってきました。
私は自然環境とは無縁だと思っていたし、全く関心がないところから始まって、今では釧路湿原の魅力にどっぷり浸かっています。生でタンチョウを見て感動したり、「やちまなこ」ってなんだろうっていうところから、釧路に来て一年経ちました。
地元の人たちが湿原とあまり接点がないことや、湿原にあまり関心がないことに驚いています。こんなに観察会やいろんな行事とか、新聞やテレビでも湿原に関連した記事や番組がたくさんあるのに、地元の人たちは関心がない。
釧路に来てからちょっと託児所の運営のお手伝いをしていたんですが、そこの保育士さんやお母さんは、湿原に行ったことがないから何もわからない。逆に、私にどういう所か聞いてくるくらい。身近にあるのに、実は身近じゃないというところにすごく驚きを覚えたんですね。
湿原は何もない所かもしれませんが、そこにある自然の風景や生き物って、私にとってはすごく新鮮でした。
今回たまたま縁があって、再生普及行動計画WGの事務局の仕事をすることになって、「再生事業」って何だろうって勉強し始めているところです。

ワンダグリンダ・プロジェクト

──今、全国で、自然再生推進法に基づく協議会があるのが18ヵ所。普及に関する行動計画を作っているところは釧路湿原以外にはありません。
釧路湿原で、再生普及行動計画を作ろうとしたのは、そもそもどういうきっかけだったんですか。

新庄 最初に話が出た時に、ラムサール条約のことを話したんですよ。ラムサール条約の考え方に、「湿原を守っていくためには、そこに住んでいる人たちや湿原を拠り所している人たちの協力なしには湿原は守れない」というのがありますよね。人間は、人類が生まれてずっと湿原と共に生きてきた。メソポタミアの時代の話です。水がなくては、人類は生きてこられなかった。しかも淡水と海の水の交わる所、そこが一番豊かな所だと知っていた。
釧路湿原を守る、再生するということを考える時だって、どれだけいろんな人たちに参加してもらうか、どれだけ地元の人たちや湿原に関わっている人たちが参加するか。あるいは、それに実は既に参加している、関係しているんだと気付いてもらうか。湿原に関わらないで生きている人はいない。ただ、そのことを意識していない人が多いんです。
そういう人たちをどれだけ引っ張り出して、みんなと経験や知識を共有して広げるかがキーワードだっていうのが、わいわいガヤガヤの話の中で出てきた。じゃあ、結局は「普及」だ、と。


 湿原で、木の胸高直径を測る

ラムサール条約の1998年のサンホセ大会で、「セパ(CEPA:Communication, Education, and Public Awareness)」を作ろうと呼びかけられた。「湿原に関する環境教育や普及啓発を一生懸命やっていかないと駄目だよ、みんなで普及啓発をやっていこう、そのための行動計画(CEPA)を作ろう」というもの。釧路もラムサール登録湿地なんだから、それに応えようじゃないかとなったんです。
普及啓発といっても何でもいいんだ。何でもよいというか、釧路湿原といろんな関係を既に持って、育ててきている人たちを引っ張り出して、気付かないでやっている人たちには関係があるんだということを気付いてもらう。「実はあなたがやっているのは、湿原とこうつながっているんです」と。そういうネットワークを作ろうと。
この行動計画を作る中で、何でもよいから、少しでも関連しているようなものはどんどん聞いていこうとしたんです。コンサート、料理、何でもOK。最初はみんな、どんなものになるか心配だったけど、一年間やって見事に、ぼくは大成功になったと思う。

──行動計画を作って、それに関連することをやっている人、やりたい人はみんな手を挙げて下さいと呼びかけたのが「具体的取組み(ワンダグリンダ・プロジェクト)」ですよね。結局、昨年度は何件集まったんですか。

無藤 24団体による48の取り組みがスタート時の登録件数。その後追加があったのでもう少し増えました。

新庄 初めは10も集まらないんじゃないかなと思っていたよね。実施するからそのためのお金をくれと要求されるんじゃないかとね、色々心配していたよね。

佐竹  役所が呼びかけるんだから助成金くれとかね。

新庄 だからそういうことじゃないんだ。助成金云々じゃなくて、みんながやりたいことをどんどんやって、その情報を共有できればよいんだからって。

──無藤さんは今、昨年度の取りまとめをされていますが、活動報告書を見て、面白いなと思うものはありますか?


 釧路国際ウェットランドセンター「ツルの作品展」

無藤 いくつか、自分が知らないうちに参加していたものがあったんです。スノーシューでのアニマルトラッキングとか。
一番最近では、釧路国際ウェットランドセンター主催のツルの作品展のとき、新聞で一般公募があって、たまたま書道が趣味で、書を応募したんです。その頃はまさかこんな仕事に就くと思っていなかったのですが。こういうことも「自然再生」につながっていくのかなあという感じでした。

新庄 今言った展覧会ね、すごいよ、集まって。「ツルに関してみんな集まれ、どんなものでもよいから」って呼びかけたんです。最初は職員も出さなきゃ駄目かなって思ったんだけど、ふたを開けてみると400件集まった。釧路市内、釧路管内から、本州の人、海外の人も。
イギリスから手紙が来た。「ツルのことに興味がある。私たちも絵を描きたい。しかし、自分の所にはツルがいない。ツルを描くための材料を送ってほしい」と。それで写真集や何かを送ってあげたら、それを見て描いて送ってきたの。
また別のところからは、「ツルはいないが、ツルの仲間と思われるからコウノトリを描いた」と送ってきたりね。

無藤 近いものはありますよね。

新庄 近いものはある。近いものも多いに結構。初め来た時には、ツルじゃないから駄目なんじゃないのって言う人もいたんだけど、そんなことはない、何でもよいよと。
先程、地元の人が湿原のことにあまり関心がないとあったけれど、アカデミックなものには関心ないんですよ。植物観察会に行こうとは全然思わない。だけどヤチブキ採りには行くんだよ。アイヌネギ採りには行くんだよ。
木の観察会や冬芽の観察会なんて誰も行かないけど、きのこ採りには行くし、薪採りには行く。釣りだって、魚の生態とかイトウの保全のためになんて言っても共感は得られない。だけど、みんな釣りには行ってるんだ。


 JICAの研修風景

今JICAの研修を担当しているんだけど、途上国で湿原を守っていくというのは大変なことで、湿原がないと生きていけないという人たちもたくさんいるんです。その人たちの生活の場を守りながら、湿地を守っていくにはどうするか。
その時に大事なのは知識じゃない。JICAの研修で彼らに勉強してもらおうとすると、大学の先生の講座とか専門家の話を聞くとか、実際の調査の仕方を教えてあげるとかやっている。最先端の機械を使って、人工衛星を使ってとか。
でも、途上国の人にとって、そんなものは全然興味がない。「そんなものいいよ、おまえたちが勝手にやれば」って。「俺たちは帰ってもそんなことはできない。大体電気がない。コンピュータもない。ややこしいことはできない」。
それで、ぼくたちがやっているのは、農家に行って、どうやって農家の人たちが湿原の水を汚さないでやっているか、汚れた水をどうやってきれいにして飲んでいるのかとか、どうやって魚を獲っているかとか。そういう所に連れて行くと大喜びで、それですごく勉強して帰っていく。
ぼくはその辺じゃないかと思うんだよ。「こういうことを勉強しましょう」とか、「こういうことを教えてあげるよ」ではないんだ。あなたがすでにやっていることに意味があるんだということに気付いてもらえばよいんじゃないか。

佐竹 今回の「具体的取組み」には登録していないのかも知れませんが、日専連さんが「釧路湿原カード」っていうカードを作ったんです。それが去年、一番うれしかった。
新聞記者としての取材だったんですけど、日専連さんって、釧路湿原に全然関心がなさそうなのに、湿原のために何かやろうとしてくれたのがとても印象深かったんです。
自然保護団体の方たちがやるのって、いわば当たり前じゃないですか。そうではなくて、日常の経済活動とか普通の活動が、湿原保護につながっていくのが夢なんです。
「ワンダグリンダ」っていうキャッチフレーズも、そういう人たちに使ってもらえるようにとイメージしたものなんです。

新庄 ぼくもそのカードのメンバーになっているんだけど、どんな人が一番メンバーになっていると思います?
これ、ぼくはワイフに言われたんだけど、奥さん方が目ざとい。ポイントが貯まるから、よく知っているんだよ。それも、ただポイントが貯まるんじゃなくて、ポイントの一部が湿原の保護になるんだって口コミで広まった途端、奥さん方がぶわぁっと乗り換えたんですって。

佐竹 私が取材に行った時、今までのカードを取り換えに来た人がいたんです。60代位のおばさんで、聞くと、「釧路湿原の保全のための寄付になるって聞いて、私は何もできないけどもカードを使うだけで湿原のためになるんだったらと思って」って。あれはすごく嬉しかったですね。

新庄 みんな、どっかで何かやりたいと思っている。でも何をやってよいかわからない。だから、きっかけさえ与えてあげられれば、関心を持ってもらえる。そういう意味では本当にすごかったね、ポイント貯まるって。

つながっていく生命

──自然公園の中に、人も暮らしている。生業も行われている。いろんな意味で、人と自然とがつながっているのを前提とした上で、みんなで何とかやっていきましょうという、いわばアジア型といえる日本の国立公園の制度。特にこれから途上国で自然保護を進めていく上では、こうした考えでやっていないと上手くいかないんだろうなって感じます。
釧路湿原の自然再生の取り組みは、こういう点からも、世界の自然保護管理のモデルになるんじゃないでしょうか。

新庄 アメリカ、ヨーロッパ型っていうのは小麦文明とか牧畜文明って言われます。人が生きていくために、森を切り開いて麦畑を作り、川を埋めて牧畜ができるような場所をつくっていった。水は別途確保して。そうして成り立つ文化です。
アジアの米文化では、そこに水や森があってこそ、米が作れる。自然と共に、一緒でないと生きていけないという生産活動です。
われわれがやろうとしているのは、そっちなんじゃないかと思う。湿原と共に生きないと、われわれは生きていけないんだ。途上国の人も湿原と共に生きている。水がなくなったり、魚がいなくなったり、木がなくなったりすると、本当に生きていけない。
この前行った所はジャングルがあって、そこに川が流れているんだけど、「困った、町に行けなくなった」って言う。「なぜ」って聞くと、「川が干上がっちゃったんだ」って。そこの人たちは町に行くのに川から舟で行っていたんだ、いつも。ジャングルは道もないし、危ないんです。ところが、その川が干上がっちゃった。干上がったからといって、川底を歩けるわけじゃない、ズブズブ埋まっちゃっうから。
それは、上流で水を使い過ぎて、下流で水を抜いちゃったから、真ん中で住んでいるジャングルの人たちと直接関係のない所でそういうことがあって起こったんです。もう、死活問題です。
釧路でも、湿原とそんな関係があることに気付いてもらえれば、必然的に色々なことが起こってくると思う。われわれがやるべきことは、つながりに気付いてもらうことだよね。

──再生普及行動計画・具体的取組み「ワンダグリンダ・プロジェクト」を募集するのは今年が2年目になります。今年はこんなところに力を入れてみようとか、考えていることはありますか?

新庄 去年やったことをもう一回見直してみたらよい。こんなことがこんなふうだったよって。そうしたら、みんな自信持てると思うんです。
「何でもOK」、「何でも関係あるんだ」、って。そしてもっともっといろんな人に声を掛けてやってもらえばよいんじゃないか。
去年よかったことは、いろんなメディアでやってることを報道したでしょ。インターネットやニューズレターに掲載されたし、メーリングリストでも流れていた。佐竹さんのようなジャーナリストが新聞で取り上げてくれた。
やっていることを埋もれさせないで、みんなが分かち合えるように、広く知らせることです。「こんなことやっています」、「こんな楽しかった」というのをどんどん広めて、知らせることを丁寧にしてあげたらよいと思う。

──佐竹さんは、「ワンダグリンダ・プロジェクト」の名付け親ですけど、「ワンダグリンダ・プロジェクト」というタイトルを付けて募集を始めるのは今年からですよね。

佐竹 『ワンダグリンダ』っていう言葉を考えたのは、まず「再生普及行動計画」っていう言葉がわかりにくかったんです。それと、いろんな意味でみんながワクワクするような、やってみたいって気持ちが起きるような言葉がほしかった。そして、日本で世界に先駆けた取り組みをするんだって思えるような、言葉自体も新しい響きのものになればと考えたんです。
これからも、一見関係ないように見えるけど、それに関わっているっていうことをみんなが誇りに思える取り組みになっていくとよいなって思います。
さっき新庄さんがおっしゃったように、気が付かないけれどつながっていることをやっている方が実はたくさんいらっしゃる。でもそれに気づいていないから、「私には関係ない」ってなっちゃう。ゴミを分別することも湿原の水がきれいになるという点でつながりますよね。
釧路の市街地にいても湿原につながっていることがわかるような仕組みがないと、湿原の再生とか保護は、本当の意味では普及していかないと思うんですよ。湿原との物理的な距離も離れているし、車がない人もいる。学校だって、バスでもなければそうそう授業で湿原になんて行けない。
街の中にいてゴミの分別をしても、カードを使っても、それが湿原につながるんだって、みんなが感じられることが、湿原自体に足を踏み入れることとは別に、大事なことですよね。


 雪の釧路湿原

新庄 さっき、「音」って言われたけど、ぼくは風がすごく気になっているんです。各地で、“日高おろし”、“○○おろし”って、とにかくどこから風が吹いてくるって言うよね。釧路の場合、湿原からの風を感じるかどうかなんだ。
観察会でも、テニスでも何でもいいの。テニスをやって汗をかいた時に、「あ、湿原からの風が涼しいね」とか、「海からきた風が涼しいね」って感じるきっかけを、ぼくたちメンバーが引っ張り出してあげられたらいい。湿原と私たちの生活とすべてがどっかこっかつながっているんだってね。
結局、何かと言うと、全ての人の生活の全てがみんな絡み合っているんだよということをみんなに気付いてもらうために、「湿原」をキーワードに使っているんだよね。本当に必要なのは、湿原を守ることではなくて、湿原を含めた大きなつながりに気付いて、そして自分たちの生活のことを気にしたり、見直したりすることなんです。それが自然になっていけば、必然的に湿原のことを身近に感じるようになり、乱暴に扱ったりしなくなると思います。
自然とのつきあい方は、どこでも同じ。海でも同じだよ。国立公園だって同じなんだよ、結局は。

──釧路は霧が有名ですが、霧を嫌がる人がいっぱいいます。洗濯物も乾かないから、それはよくわかるんです。ただ、その霧が湿原と一体どういった関係にあるのか、霧ができるメカニズムと地球温暖化って何か関係があるのかとか、海流がどう流れているのかとか、少しでも関心を持って、このやっかいものの霧っていうのが、実はこういうものなんだって少しでもわかると、また釧路の生活が少しは楽しめるようになるのかなという気もします。

新庄 今、途上国との仕事をしている理由は、異なる文化の人たちと交流することで、その人たちの目を通して、自分たちのことをもう一回見直すことができるからなんです。
例えば、内蒙古の人が釧路湿原に来た時のこと。ジメジメした天候だったんだけど、みんな喜んでね。「肌がスベスベになります」って、ニコニコしているんだ。向こうは乾燥しちゃって大変みたい。
「釧路はこんなに水が豊かにあってすばらしい」って言われて、それを聞いた地元の人たちが「へぇ、そんなものかね」とか言って。そこから話が広がって「実は黄砂というものが起こっていてね」、「最近は釧路だとか札幌の道路の車の上にまで積もるようになって」、「あれがその乾燥しているといっている一帯の場所から来ているんだ」、「へぇ、それは聞いたことがあるな」って。それで、自分たちの湿原、谷地の話が一気に世界に広がったような気になってさ。
この取り組みに参加した人たちもアンテナを張っていれば、国内のことだけでなく海外のことも全部気が付くようになる。女の人でも男の人でも、流行にすごく敏感で何でもアンテナ張ってるでしょ。「ワンダグリンダ・プロジェクト」がそういったアンテナを張るためのネットワークになってくれば。それをしないと駄目。

佐竹 どれだけ会議室を飛び出していけるかってことだと思うんですよね。

新庄 そうです。協議会の会議室でないところで、再生の話をしたり取り上げたりするチャンスがどれだけ増えるか。それが命。
農家の人は一生懸命苦労して、谷地だった所を草地にしようと頑張って、苦労してきた。その知恵はまさに、湿原をどうやって戻すかっていう知恵そのものなんだ。それを借りてくればよい。時間はかかるだろうから、慌てないことです。
「もう結論出しなさい」って言わないで、外に、現地に、飛び出して、小さな懇談会をたくさんやる。今問題になっていることがあったら、それについてどう思うっていうのを、会議室ではなくて、こっちから出かけて行って、そうしたらそのうちどうすればよいのか見えてくるから。それには半年、一年はかかる。
再生普及で重要なことの中にコーディネーターになろうってのがあるでしょ。つなぎ方を教えるんじゃない。「この人はこんなふうに考えています」、「こんなふうに感じました」っていうのをみんなに伝えるんです。
「この人、こう感じたんだって、どう思う?」「どうだろう?」って、みんなでわいわい。あぁ、そうだったんだね、はいお疲れさん。それでよいんだ、おそらく。
そしたらみんなが自分の感じていないことを誰かが感じていて、自分の感じていることを共有してくれて、同意してくれて。私だけが感じていたんじゃなくて、あの人も感じていたんだって。
最後に何か質問が出るかもしれない。出なかったらそれはそれで終わりで、また次にやればよい。もし出てきたら、それについて調べてみよう。結果を知るためにどうしたらよいだろうってみんなで考える。どこかに出掛けてもよいし、誰かを呼んで来てもよいし、自分たちで調べてみてもよいし。
そういうやり方を、ファシリテーターやコーディネーターが仲立ちしてやる。

──つなぐことって、具体的にどういうことをイメージすればよいでしょうか?

佐竹 食べ物屋さんで湿原をテーマにする人多いんですよ。「湿原そば」だったり、「湿原ラーメン」。新聞の紙面を見ていても、「湿原」って名前のついた食べ物多いですよ。

無藤 「釧路湿原」って居酒屋さんもありますね。「釧路湿原」というお酒のラベルあります。

新庄 それを紹介したい。なんでそういうのをやる気になったのか聞いてくるだけでもよいんです。

無藤 「湿原そば」、この間初めて食べました。確かに湿原とは直接は関係ないですけど、湿原の名前が付いていて、湿原を見ながら食べられるというので十分ですね。


 「しつげんそば」の看板

佐竹 そんなのが「ワンダグリンダ・プロジェクト」に入るとよいですね。

新庄 サッカー好きな連中に、湿原のそばでサッカーやろうっていうのでもよい。グラウンドもあるから、そういうイベントを開催するのもよいかもしれない。今、「歩く」ことやマラソンが随分盛んだから、大げさな大会とかじゃなくて、みんなでただ散歩するのもよい。
何かやりませんかっていうのじゃなくて、何かやっているのを見つけるんじゃないのかと思う。みんな何かしらやっている。何もやっていない人なんていないから、それを見つけて一味加えてあげる。
新たなことをやろうとすると、「湿原って関係ないしね、知らないしね」ってことになっちゃうから、そうではないんだよってこと。湿原のそばでやっていたり、釧路川の流域でやっていることは何でもよいっていうので一向に構わないと思う。
応募すること、登録することが、参加することなんです。「ワンダグリンダ・プロジェクト」に登録するという一歩を踏み出したこと自体が再生事業に参加したことになるってことでよいと思う。「ワンダグリンダ・プロジェクト」の看板を掲げるからには説明を聞かなきゃ駄目だしね。それで耳傾けてくれるでしょ。それでOK。
そうだ、バッチを作ろう、早く。シールでもよいからさ、欲張りは言わないから。

無藤 そういうことを考えている時間が楽しいですね。もっといっぱいいろんな人の意見を聞いて、いろんなふうに広がっていくのが分かるともっと楽しくなると思います。
今、ブログを書いているんですけど、釧路に移住したい人ってすごく多いんですよ。いつか行きたいとか、実際具体的に何年か後に移住しようと思っている人がアクセスしてくれています。
そのブログでは、湿原で遊んだりした、その日の出来事を書いたりしているだけなんですが、それだけでも関心持ってくれている人がすごい数いるんです。

新庄 それが大事。まさに、そういうことを「ワンダグリンダ・プロジェクト」というんですよ。

無藤 そうですね。釧路にいないけれども釧路にいるような感覚で楽しんでもらえたらよいなって思ってやり始めたんですが。
私は、多分、一生釧路に住む訳ではないと思っていますが、10年、20年経った時に戻ってきて、その時にここがどういうふうになっているのかなって、すごい興味があるんです。
一度釧路に住むとまた戻ってきたくなる感じってあると思うんですよ。愛着の湧く土地だなって。


 座談会の雰囲気

新庄 ぼくの先生もよく言っていたんだけど、ある場所で植物の名前とかを知ってその植物と友達になったら、どこか旅に行った時にまたその友達に会えるって。たとえば、オオバコの友達になったら、どこかとんでもない所に行った時、オオバコに出会えたら嬉しいもんだぜって言うのね。
だから、釧路にいて湿原が好きになって、湿原と付き合ったら、将来旅した時にどこかでまた違う湿原に出会うんだよ。また懐かしくなるんだよ、湿原が友達だから。顔や肌の色の違う友達にも会うんだよ。こういうヨシばっかりの湿原もあるけど、全然違った毛むくじゃらの湿原もあるかもしれない。そんなふうにどんどん広がっていくんだよ。
ぼくたちがやっていることは、「湿原」がキーワードだけども、人と人とのつながりを大事にしていかないと、上手く自然とも生きていけない。ぼくたち自身もみんなで楽しく過ごしていかないといけないよねってことに、今一度、気付こうじゃないかっていうこと。湿原をキーワードにネットワークがどんどん広がっていけばいいよね。ここにいても、いなくても。

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