環境省
VOLUME.63
2018年2月・3月号

エコジンインタビュー/自然を愛し、手作りを愛した祖母と母。そのDNAは、私にも受け継がれていると思います。/篠原ともえ

篠原ともえ

10代のとき、派手なファッションに身を包み、“シノラー”として大活躍した篠原ともえさん。

あのカラフルな洋服やアクセサリーはなんと、篠原さんによる古着のリメイクや手作りだったそう。

大人になった今は、デザイナーとしても評価が高い。

手作り好きなのは、自然と親しみ育ったことと深い関係が?

 美しい青空のような、清々しい色のワンピースを着て登場した、篠原ともえさん。耳元に揺れるイヤリングが、篠原さんが好きな“天体”を感じさせるデザイン。そう思って見つめていると、「このイヤリング、自分で作ったんです」とニッコリ。

 10歳のときに手作りの楽しさに目覚めたそうで、そこには祖母、母、そして篠原さんと、三代続く“手作りDNA”があるから、と語ります。
「私が育ったのは東京の青梅という場所。自然がたくさんあって、近くの川で泳いだり、木や草を使っていろんなものを作ったり・・・・・・。そんな子ども時代を送りました。なので、心の奥底に、“身の回りにあるもので、何かを作る”という考え方がいつの間にか育まれていたような気がします。あと、母が洋裁が好きで、私によくワンピースなどを作ってくれていたので、“手作りする”ということは、篠原家ではごく普通のことでした」

 初めて意識的に手作りをしたのは、10歳の母の日。母に、もう着なくなったデニムを切って、手縫いのポーチを作ってプレゼントした。
「新しい布を買って、それで作る・・・・・・という選択肢もあったんでしょうけれど、先ほど話した“身の回りにある材料で”という精神が働いたんでしょうね(笑)。そうしたら母が驚くほど喜んでくれ、“宝物を作ってくれてありがとう”と言いながら、それはそれは大切そうにそのポーチを手に取ってくれたんです。今でもその母の手つきを覚えているほどです」

年を重ねたら祖母のように、自然に囲まれて手作りをしながらのんびり暮らしているかもしれませんね。 20代の終わり頃、亡くなった母方のおばあさまの形見分けで、古い手作りの着物をもらったそう。お母さまからは、“古いものだから自分でほどいて、仕立て直したら”と提案をされたとか。
「私は和裁の知識はなかったのですが、とりあえず祖母が縫った運針を解いていったんです。とても美しい縫い目で、それにも感動したんですが、一番驚いたのは、衿芯(えりしん)の部分を解いたとき。その内側の部分に、本当にキレイな柄が入った生地を使っていて、なんて素敵なんだろう、と。その部分は、縫った本人である祖母と、解いた私しか見ることができないので、まるで祖母から、手作りの楽しさや喜び、オリジナルを作る気持ちを教えてもらえたような気がして。そして、祖母、母と繋がった手作りのDNAが私にも宿っているなら、芸能界の仕事ともう一つ、手作りを愛するデザイナーとしての夢も貫いてもいいよと、祖母から背中を押されたのでは・・・・・・とも思いました」

 その篠原さんのおばあさまは、これまた同じ東京の中でも、緑があふれる青ヶ島という島の出身。そこでほぼ自給自足のような生活を送っていたそうで、そのおばあさまの存在も、篠原さんが自然や環境を意識する大きなきっかけになっている。
「青ヶ島では椿の種から油を採る風習があるのですが、種を絞るときに使う籠(かご)も、竹を編んで、手作りするんですよ。小さいとき祖母の家に行くと種を絞るための網が並んでいて、“これも作ったんだよ”と教わりました。青ヶ島にある椿にまつわる花言葉で、私がすごく好きな甚句(じんく)があるんです。<椿は島の恋の花 末(すえ)は油で愛される>。花が咲いたときは、その美しさや明るさでみんなを魅了しますよね。その後、花は落ちてしまう。でも、種になり、そして油となって人々の暮らしに役立ち、さらに愛される。これは椿だけでなく、自然そのものが人生でもあり、すごくありがたいですよね。こんな気持ちを抱いて生きていた祖母は本当に素敵だし、私も自然に対して、このような敬意を持って生きていきたいと思っています」

profile

篠原ともえ

1979年生まれ、東京都出身。1995年、シングル『チャイム』でデビュー。“シノラー”として、数々のバラエティ番組で活躍。文化大学短期大学部で被服を学び、以降はデザイナーとしても活躍。2013 年から松任谷由実のコンサートの衣装デザイナーを務めている。また天体観測や神社仏閣巡りなど、趣味が多数。2016年より青梅市親善大使に。古着などのリメイクをはじめ、手作りの楽しさを親子で感じられる『ザ・ワンピース for KIDS』(文化出版)が2月下旬に発売されるなど、著書も多数。

写真/千倉志野

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