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第7回水俣病問題に係る懇談会
会議録


日時:

平成18年1月17日(月)13:00〜15:10

場所:

環境省第1会議室

午後1時00分 開会

○柴垣企画課長 ただいまから第7回目に当ります水俣病問題に係る懇談会を開催させていただきたいと思います。
 本日は、ご多忙の中あらかじめ欠席のご連絡をいただいております屋山委員以外の9名の委員の皆様にお集まりいただき、ありがとうございます。
 それでは、議事に先立ちまして、小池環境大臣からごあいさつを申し上げます。

○小池環境大臣 年も改まりましたので、まずは新年明けましておめでとうございますと申し上げたいと思います。また、昨年より引き続きこの懇談会にご協力を賜りましてまことにありがとうございます。
 今年はまさに50年の節目の年でございます。水俣市長が会長を務められます水俣病公式確認50年事業実行委員会の方で水俣病犠牲者慰霊碑の建立をされる、それからいろんなシンポジウムであるとか水俣写真のパネル展の開催、水俣病50年誌・ミナマタメッセージ制作などさまざまな事業が計画されているところでございます。こういった取り組みを通じて公害の原点と言われる水俣病をもう一度見つめ直すということ、それからその教訓を生かした地域のもやいづくりへの新たなスタートの年としていきたいと、このように感じております。こういった地元の取組に私どもとしても最大限協力をさせていただいて被害者の方々が地域社会の中で安心して暮らしていけるようにするための取組を進めていこうと考えております。
 きょうは、第7回の懇談会になりますけれども、新潟の水俣病関連団体からヒアリングをさせていただきます。今日は新潟水俣病被害者の会・新潟水俣病共闘会議の高野さん、それから水俣病安田患者の会の旗野さんにご出席をいただいております。どうぞよろしくお願いいたします。
 それから、「ほっとはうす」の加藤委員の方から胎児性患者の生活と福祉についてのご研究のご報告をいただくと、このような形になっております。またまことに恐縮でございますが、途中で失礼することがございますけれども、ご了解いただきたいと思います。
 また、世界に目を転じますと、やはり環境問題は経済の発展とともに経済を最優先にしている結果、この水俣病と同じような、この内容物は違ってもいろんな問題が各地で引き起こされていると思います。その意味でこの懇談会でおまとめいただく流れもそういった世界へ向けての提言なども含めていただければ、さまざまな教訓を大きく意味のあるものにできるのではないのかなと、このように思っておりますので、引き続き本年もよろしくお願いをいたします。どうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

○柴垣企画課長 それでは、まず資料の確認をさせていただきたいと思います。お手元の議事次第に配布資料の一覧がございます。クリップをとっていただきまして照合いただければと思いますけれども、資料として資料1から資料6までございまして、資料の2、3が本日ヒアリングをさせていただきます高野さん、旗野さんからの提出資料でございます。資料4は加藤委員からのご報告の資料でございます。
 それから参考資料といたしまして、前回の議事録を委員のみに配らせていただいております。これは各委員にご確認をいただいて修正したものでございまして、きょう最終的な確認をしていただいた上で会議後にホームページに載せたいと思っています。
 それから柳田委員から配布のございました参考資料ということでプリントと報告書のようなものがございます。それからお手元に3冊の本がございます。これは新潟被害者の会の高野さんの方から各委員へ提供のあった本でございます。資料につきましては以上でございます。
 それでは、議事の進行を有馬座長の方にお願いいたします。

○有馬座長 それでは、議事進行に移らせていただきます。
 まず初めに、本日の懇談会につきましては非公開にする必要は全くありませんので、原則どおり公開にいたしたいと思いますが、いかがでしょうか。

(「異議なし」の声あり)

○有馬座長 ありがとうございます。それでは、本日の懇談会は公開で行い、議事録は出席された各委員の確認、了解をいただいた後に、環境省ホームページに掲載し、公開させていただきますのでよろしくお願いいたします。
 さて、本日の議題でございますが、先ほど大臣がおっしゃられましたように、まず新潟水俣病に関する活動をされておられます新潟水俣病被害者の会・新潟水俣病共闘会議の高野さんと、新潟水俣病安田患者の会の旗野さんからヒアリングをさせていただきます。その後に加藤委員から「胎児性水俣病患者等の生活実態と地域福祉の課題」についてご報告をいただきたいと思います。そして最後に、この前、ひとつご意見を賜るようにお願いいたしたことでありますが、この懇談会を一体これからどういうふうにまとめていくのか、どういう問題を提起していくかについて、各委員からご提出いただきましたメモをもとにいたしまして話し合いを行いたいと思います。
 では、議事に入ります前に、前回の懇談会において発言があった内容につきまして、ご欠席された方へのご紹介も含めて簡単に事務局から説明をしていただきます。

○柴垣企画課長 それでは資料の1でございます。前回は新潟水俣病の経緯と現状ということで関立教大学助教授からご報告をいただいておりますけれども、まず新潟水俣病の特色として重要な初期対応としての疫学調査を踏まえた二度にわたる一斉検診ということが行われ、これにおいては行政、県と地元の大学が連携をとったと。また集団の力ということが有効に働いて集団として検診を受け、認定にまでもっていくということが行われたということがございます。
 それから、新潟水俣病が水俣病を再び社会問題化したということで、それまで有効な対策がとられず第5回のこの懇談会でも議論いたしましたように34年の末で水俣病が一度鎮静化しておりますけれども、新潟水俣病が水俣病を再度社会問題化したということです。それからそういった社会問題化する前の段階で対処がどのようになされうるのかということでリスクについての情報の蓄積、分析、関係者間での共有ということの必要性が言われるべきではないかということでございます。
 それから、新潟水俣病の場合は熊本・鹿児島に比べて被害が軽いということが被害者の苦痛をもたらす一要因となっているのではないか。また声を出さないでいるような被害者に対する配慮ということで地域社会への支援ということ、また県のみならず市町村や地域を含めた「もやい直し」として水俣市などでやられているようなことを新潟でも今後いかにやっていくべきかというようなことがございました。そして水俣との比較として新潟の場合は、被害者と加害者が地域的に遠いということで対立がエネルギーになるというような要素が少ないと、そういう中で行政と市民レベル・草の根レベルの活動がタイアップしたり基金を作ったりというような取組の応援の重要性ということも付け加えております。
 裏面にいっていただきまして、前回は丸山委員から水俣地域の現状についてご発表いただいたわけですが、救済を受けていない、もしくは申請をしていない者が少数派になっていると、いわゆるマジョリティーの転換ということがあるのではないかというような発表がございまして、それに対して地元では政治解決のときに手を挙げなかったということに対する冷めた受け取り方みたいなこともある。また、政治解決をする場合には、残された課題の継承が必要ではないかという問題提起、それから行政の積極的な関与というようなこと。それから地域社会の問題として地域の中に救済を受けている人とそうでない人がいて、それぞれが納得できるようになっていないということが問題として残っている。また、偏見や差別の問題ということがあり、それらを除去していくために何かなすことがあるのではないかといったこと。
 さらには、水俣病問題のみならずアスベスト問題など昭和30年代の高度成長期に起因する問題と当時や現在におけるマスコミの役割も押さえていきたいというご発言がございました。
 以上でございます。

○有馬座長 どうもありがとうございました。それでは、ただいまの報告に対しまして何かご意見はございませんか、付け加えるべきことはございませんね。
 それでは、本日の議題に入ります。まずは、新潟水俣病関連団体からのヒアリングをいたします。
 新潟水俣病被害者の会・新潟水俣病共闘会議の高野さん、新潟水俣病安田患者の会の旗野さん、本日はお忙しいところをお出ましいただきまして、まことにありがとうございます。
 まず、それぞれ短くて申しわけないのですが、10分ずつ団体の設立やその経緯や今までの活動状況、日ごろ感じておられますことなどをお話いただき、その後20分程度、懇談会側からの質問にまとめてお答えいただければ幸いでございます。どうぞよろしく。
 では、まず高野さん、お願いをいたします。

○高野氏 ご紹介いただきました新潟水俣病被害者の会と同共闘会議の事務局の高野であります。本日は発言の機会を与えていただいたことに、まず感謝を申し上げます。今ほど座長の方からお話がありましたように、会の名称等から懇談会委員へのメッセージということで環境省から求められました。私の方から初めに会の結成経緯、次にこれまで及び現在の活動、そして最後にメッセージを、お手元の資料2をご参照いただきながらお話をしていきたいと思います。
 初めに会の結成でありますが、新潟では事件公表後、なぜ水俣病が繰り返されたのか、熊本の経過から学びました。結果、解決を国に委ねることはできないとして新潟県民主団体水俣病対策会議をまず発足させました。一方、4大公害裁判のさきがけとなりました新潟水俣病裁判の原告団である被災者の会はその年の暮れに発足し、民水対に加わりました。水俣病共闘会議は一次訴訟の判決が出る前年の1970年1月に民水対を継承発展させる形で、当時の新潟県労働組合評議会、県評を軸に結成し、以降今日まで被害者の要求を第一義に活動を続けております。
 71年9月の一次訴訟判決は昭和電工の控訴権放棄によって確定したものの、補償交渉はなかなか進展しませんでした。1年半後に熊本の原告全面勝訴の一次訴訟判決が出されて、新潟も活路が開かれ、73年6月に補償協定を締結いたしました。これで新潟水俣病問題は終わるかに見えました。しかしながら補償協定締結の前後に第3、第4、第5水俣病が発覚、これら水俣病がシロ判定される中、新潟では認定を棄却される患者がふえ、74年には認定の認否率が逆転しました。77年には認定基準が改悪され、棄却者数は1,000名を超えました。このため、棄却された被害者が水俣病でなければ一体何病気かということで、1982年に国と昭和電工を相手に裁判を起しました。これが新潟水俣病第二次訴訟で、被害者の会はその原告団組織であります。会員数は第8陣原告までの234人でしたが、これまでに100名余りが亡くなり、生存者の多くも入退院を繰り返すなど、現在総会や一泊の懇親会等に出てくる被害者は30人弱になっています。新潟では被災者の会は行政認定患者、被害者の会は医療手帳対象者と覚えていただければと存じます。
 次に、これまで及び現在の活動についてです。被害者の会と共闘会議のスローガンは水俣病全被害者の早期完全救済と公害の根絶であります。私は96年の2月の高裁及び地裁での和解を「一応の決着」と言っております。一応の決着までの活動はお手元にお配りさせていただきました。「阿賀よ忘れるな」に詳述しておりますけれども、昭和電工や環境省、首相官邸前での抗議の座り込み、現地調査や決起集会、炎天下や寒風の中でのビラ配り、県内112市町村の首長が賛同しての議会決議等々、できることは何でもやろうと必死の運動を展開してきました。
 決着の内容は、闘ってきた熊本の被害者と同様で「生きているうちに解決を」目指しての「苦渋の選択」でした。一応の決着後の運動の柱は、安心して医療にかかれる体制の確保と水俣病の経験と教訓を伝える取組です。前者の安心して医療にかかれる体制の確保は、熊本の被害者団体と一緒に環境省に要請しており、最高裁判決後は水俣現地で全国連や患者連合が訴えたように認定基準の見直しや特別立法の制定です。付け加えて、今介護保険の発足や医療制度改革によって決着当時の医療給付が受けられない状況が出てきており、その当時の医療水準の確保が求められています。また新潟的には、新保健手帳の受付や認定申請制度の改めての啓発・周知が求められています。
 一応の決着後の公害の根絶は、水俣病の経験と教訓を伝える取組で、これには2つあります。1つは県が行う事業に参加・協力すること。もう1つは、被害者・共闘会議の独自の取組であります。前者については新潟水俣病資料館の建設と出版に努め、資料館については2ページの下にイ、ロ、ハとありますが、こういうことの展示を求めております。一方、被害者・共闘会議独自の取組としてこの間幾つかの出版を行い、99年、2000年には新潟水俣病から学ぶ市民講座を開いてきました。京都大学の植田和弘さんや法政大学の舩橋晴俊さん、原田先生らに講師を務めていただきました。また被害者の会は毎年総会で講演を開催しており、吉井水俣市長、丸山教授からもご講演をいただいたところであります。
 現地調査と水俣環境賞を毎年行っております。このうち水俣環境賞は被害者の会が500万円を拠出して、水俣問題や県内で公害環境問題で功績を上げている方々を表彰するものです。決着した翌97年から行い、これまでに4個人、13団体、99年からは県内の小中学校の生徒を対象に環境作文コンクールも行い、子どもたちを表彰しております。
 また、県に対しては前回、関さんも話されましたけれども、現在「もやい直し」委員会を設置するよう求めております。
 昨年の新潟水俣病公表40年の際、集中したマスコミ取材に対し被害者が拒否あるいは条件づけをしたことは、改めて被害者を取り巻いている環境の厳しさを私どもに突きつけました。また被害の規模に違いはあれ、熊本の現在の3,300人余りの認定申請者に対して新潟では12人というのも、水俣病の情報が県内では行き届いていないこととともにこうした背景があるということを指し示すと思っております。つまり、被害者が訴える、「なぜ被害を受けた者が肩身の狭い思いをして生きていかなければならないのか」、こういうことが一向に改善していない状況があります。懇談会で話されているように、被害者にとって偏見、差別等による精神的苦痛は身体的苦痛と同等程度かそれ以上に重くせつないものであります。新潟水俣病被害者に対する偏見、差別を取り除くために当事者、関係機関、有識者らで構成する地域再生融和対策委員会なるものを早急に発足させるよう求めており、環境省や熊本県からもサポートや提言をお願いしたいと考えているところです。
 最後に「懇談会委員へのメッセージ」です。昨1年振り返っただけでもアスベスト被害やJR西日本事故あるいは耐震強度偽装事件など水俣病類似の社会的事件が頻発しております。同時に、水俣病をいまだ解決し得ていない日本社会の仕組みがこうした事件を繰り返し引き起こしていると感じております。最高裁が国の責任を認めた以上、国は水俣病事件に真摯に向き合い、受けとめ、早急な対策が求められます。その意味で本懇談会の趣旨には賛意を表します。一方、最高裁判決が出されながら新たに訴訟が提起されたことは、環境省をはじめとする行政府や立法府が真っ当な機能を果たしていないことのあらわれでもあり、そのことに憤りを覚えます。懇談会の「提言」が環境省(庁)が設立当時の原点に立ち戻り、勇気をもって公害被害者、弱者の立場に立った環境行政に取り組む大きなきっかけになることを切望いたします。
 「患者の声を第一に」ということを次にお話させていただきます。提言は何をおいても被害者のためになるものであり、全被害者の早期救済と患者の慰謝対策に道を開くものになることを望みます。95年の政治解決を受けた医療事業対象者についても言及され、彼らの「水俣病でなければ、一体何病気か」、「なぜ、肩身の狭い思いをして生きていかなければならないのか」という長年の呻吟に応えていただきたいし、「子や孫たちに同じ苦しみを味あわせたくない」という願いに応える行政システムにも触れていただきたいと思います。
 そのためにも現地に入って被害者の声に耳を傾けていただきたい。水俣病対策の原点はいうまでもなく被害者の要求の中にあり、この種懇談会も本来は被害者注視の熊本と新潟で開催すべきであっただろうと思っております。懇談会に新潟の関係者が入っていないことからも、ぜひ新潟に来られることを望みます。
 次に、「熊本・新潟両水俣病から見る」ということであります。新潟の被害者には、「新潟はいつも熊本のつけたし、二番手、後回し。もう少し新潟の方を向いてほしい」という思いがあります。政府、自治体、学術研究、報道、はては東京の支援の対応にまでそのように思います。しかしいうまでもありませんけれども、熊本・新潟双方見ないと水俣病はとらえられません。2点ご紹介をしたいと思います。
 1つは、第二の新潟から見ることによって水俣病の教訓がより明確に重みをもって見えてくると思います。団体結成の経緯をややスペースをとって掲載しましたのは、熊本の被害拡大の構造がより鮮明に見えると思ったからであります。
 もう1つは、運動の高揚と下降です。1967年の新潟の一次提訴から73年の新潟・熊本双方の補償協定締結までは、双方の運動が有機的に連動して一定の成果を得ました。しかしそれ以後は加害者側(国・自治体・チッソ・昭和電工等)が双方をうまく使い分けてきた結果、解決できないでいるのではないかという視点であります。この懇談会の第4回会議で、昭和46年と52年の判断条件の違いや科学的知見の問題等が取り上げられました。先ほど経緯でふれました認定棄却者の増大の背景として第3、第4、第5水俣病のシロ判定を取り上げました。昭和46年から52年の動きについても、ぜひ検証していただきたいと思います。両水俣病を重ね合わせてみることによって、加害者側の水俣病幕引きの意図、行動が浮き彫りになり、そのことが逆に問題解決の対処の参考になると考えます。
 次に、「被害者の位置づけと公害対策は被害者即時無条件救済を原則に」ということであります。公害被害者を近現代社会の中でどう位置づけるのか、ぜひ懇談会として見解を出していただきたいと思います。高齢化している被害者が求めているのは、繰り返しますが、心の癒しです。被害者が差別、偏見、中傷に遭ったことを耳にするたびに私は「被害者は私たちに被害が及ぶ前に身を挺して防波堤になった人たち。他人に敬われることはあれ、蔑まれる存在では決してない」と叫びたくなります。住民は被害者をどう受けとめなければならないのか、民衆の共通理解となるような位置づけ、提言をぜひお願いいたします。そしてそれを政府のトップ、首相が熊本・新潟の県民に伝わるよう話されることを求めます。そしてこうした予断や偏見をなくすためにも、公害が起こったときにまずなすべきことは、行政の責任で悉皆調査を行い、被害者全員を無条件で救済することです。その上で因果関係が明らかになれば加害者に負担を求めればよいと考えます。水俣病はそうしなかったことにより、いまだ解決しきれないでいます。国の責任が明らかになった以上、遅きに失したとはいえ被害の実態調査を行い、被害者全員を速やかに救済すべきです。今回の対策も弥縫策であり、水俣病の解決に到底つながるものではありません。
 最後に、「労働についても言及を」であります。私は99年まで共闘会議の専従をしておりましたけれども、2000年からは県評運動を引き継いでいる労働団体、新潟県平和運動センターの専従に移っております。そうしたことから水俣病を労働者の立場からとらえる必要もあると思います。企業は社会的意義なしに存立し得ませんし、最低条件として地域住民の安全・安心を確保する義務があります。一方、労働者は生計を立てるために働きますが、会社の外に出ると地域住民であり消費者です。また労働はその人の人生の根幹をなします。よって、労働のあり方は、働くことや暮らすこと、生きることの三要素から考えなければならないと思います。水俣病は公害と職業病・労災が表裏一体のものであることも示しています。働くことの意味についても言及していただければと存じます。
 以上で終わります。ありがとうございました。

○有馬座長 どうもありがとうございました。それでは、旗野さんよろしくお願いいたします。

○旗野氏 旗野でございます。私、本業は建築業でして、非常にこういうところは慣れておりませんので高野さんのようにお話できませんけれども、まずはお許し願いたいと思います。
 非常に個人的な語り口になるかと思いますが、資料にも書きましたけれども、71年の暮れにたまたま川本さんと出会ったのがきっかけで、この水俣病事件にかかわることになりました。その年は新潟の第一次訴訟の判決が出た年で、私の住んでいる町は河口から30キロ上流で合併後、安田町という町はなくなりましたけれども、そこで生まれ育って現在に至っております。川本さんに新潟の状況はどうなっているのかというようなことを問われましたけれども、私はまったく答えることができなくて、ちゃんと地元の患者さんの応援をしたらどうかというふうなことを言われたのがきっかけで町に戻るわけなんです。
 で、明けて72年、判決の翌年に初めて私の町からも行政認定患者が出たわけであります。それまではいわゆる農薬説とか係争中ということで認定患者が出ていない状況にありました。とりあえずは自分の町の患者さんということで行政認定された患者さんの話をうかがうところから始めました。同じ家族でも一斉検診に該当した人は早く申請し、認定になる人があったり、その後、本人申請制度で申請した人は棄却になったりで、非常に理不尽に棄却されるというふうなことが目の前に出てきたわけですね。川本輝夫さんは、行政不服の闘いの中で71年に逆転認定裁決を勝ち取られたということで、それを真似て何とか私の目の前にいる患者さんも認定になるような運動を、ボランティアで始めました。
 そのときはまだ会も何もなかったんですけれども、高野さんの方の被害者の会・共闘会議との関係から言いますと、実は第二訴訟のときに被害者の会が結成されまして、高野さんが提出した資料にも書いてございますけれども、被害者の会の副会長の権瓶晴雄さんという方は、安田患者の会の会長さんでもあります。ですから実際的には被害者の会の安田支部ということにもなるわけです。共闘会議・被害者の会が最前線の戦闘部隊であれば、安田患者の会は今本当に10人にも足りないぐらいの数で、動ける患者さんは少なくなっておりますけれども、銃後の守備隊というかそんな位置づけになるのかなと思います。
 そういう小さな患者の会でありますし、私が基本的には本業があるというか、最近はどっちが本業かわかりませんが、患者さんの使い走りを気がついたら30年余りやっていたというようなことで、非常に何というんでしょうかね、ちゃんとした会じゃないというと患者さんに怒られそうですが、事務局から今回も肩書は何にしましょうかというお電話を頂戴しました。非常にいっぱい肩書がありまして余り組織にこだわるのはよくないなというのが今までの経験からして考えているものですから、ものごとが目の前にあったときに会をつくって、それがある程度なし得たときにはもう解散すると。ですから、安田患者の会の事務局がベースにはなっておりますけれども、阿賀の会という会をつくって患者さんのビデオ制作や、阿賀のお地蔵さんをつくる会という会をつくって建立したりとか、あるいは「阿賀に生きる」という映画のときにはその制作、ファン倶楽部をつくって応援したりとかですね、そんな形でやらせてもらっています。で、常に患者さんとも一緒に動いておるわけです。
 その後、どんどん患者さんとの付き合いもふえまして、いくら申請しても認定にならないという現実的な問題が大きく立ちふさがり、とにかく、じゃあ、水俣病でないのであれば何の病気かというふうなことをたずねました。いわゆる高度の学識と豊かな経験をもとにして判断しているのだからというふうなことで、具体的に患者さんが納得できるというかわかりやすく承知できるような説明は、専門家の方からは一度もやっていただいたことはありませんでした。で、行政不服を約10年ぐらいやるんですけれども、ほとんど勝ち目がなくて、それで検査のミスとかそういったことで差戻しが1件、逆転認定裁決がたった1件、100件余りの中でですが。いわゆる向こうの土俵では勝てないというようなことで、二次訴訟という形に発展し、そのまま安田患者の会としても被害者の会に参加していくということになりました。
 個人的に私はそのときに勝ち目のない行政不服の中でも非常に個々の患者さんの魅力に、いわゆる水俣病患者さん以前にとってもそれぞれの生きざまというか哲学というのが気になりまして、そういうふうに思った頃にたまたま佐藤監督と出会って、「阿賀に生きる」という映画に結びつくわけなんです……たったの10分なので35年分の話はできませんけれども、やっぱり映画の存在はとても大きかったと思います。
 要するに行政不服でいうところの水俣病というのは非常に視野狭窄的なとらえ方で、もっとその患者さんのすべてを承知しないと、神経内科的にはどんな立派な先生でもまさに水俣病像というのは百人百様だと思います。魚の量も当然ながら、顔形が違うのと同じくらい微妙に全部違って当たり前なんじゃなかろうかと、それを無理やり審査する側の都合で当てはめて認めないというのはとんでもないことではなかろうかと思います。今年50年ということですけれども、50年かかってやっと最高裁の判決が出たわけですよね。ですからもうそろそろ、いわゆる水俣病であるということをちゃんと認めてやってもいいんじゃなかろうかと、往生際というかですね、ここまできたのだからとにかく阿賀野川のあるいは水俣の魚を食べた何らかの症状がある人たちは水俣病であると、それでその症状の大小とか何とかという内容についてはそれはまた別で考えればいい、とにかくまずは水俣病患者ということで認めるのがとても大事なことではないかなと思います。
 それとは別にですね、私は最近どうも理想的な水俣病患者というようなことで、水俣の患者さんはこうあるべきだということにとらわれ過ぎていたと思うんですね。ですから患者さん自身も辛い話とかいかにも運動そのもの、私自身もそうですけれども非常にそういうことを求め過ぎていたと。だから患者さんの中にはとても歌が好きな人がおられまして、我慢しているんですね、あるいはみんなで楽しく温泉に行くという湯治に行くのも裁判の途中は我慢していたんですよね。だからそれってどういうことなのかなというふうなことに気づきまして、もっとお互いに解放されて、本当に20年、30年一緒にやった患者さんがどんどん亡くなるんですよね、まさに患者さんは明日は我が身というふうなことで非常にせつない状況に追い込まれるわけなんですけれども、やっぱり歌の好きな人は精いっぱい唄うことによって水俣病のせつなさを克服できる人もいるわけなんですよね。だからそういうことで本当にどんどん100人余りいた患者さんが今10人足らずになってしまったのですが、最近は「冥土のみやげ企画」というふうなことで安田患者の会と中身は一緒なんですけれども、仕掛けるときはそういう名前を使って、とにかく水俣の患者だったんだけれども何か結構幸せだったぞというふうなことを患者さんが、もう亡くなるときにそんなふうな言葉を残してもらうような運動をこれからも仕掛けていきたいなと。
 「阿賀に生きる」という映画をごらんになった方は記憶にあるかもしれませんが、餅屋のおじいちゃんという方が、患者さんで、「きょうはいかった、仲間と一緒にうまい酒飲んでよかった」と、ぽつりとおっしゃるんですね。もう故人ですが、何かそういう非常にささいなことでも……何ていうんでしょうかね、本当に水俣病患者で大変だったんだけれども、でもいろんな人に出会えて、いろいろおもしろいことがあってよかったというふうなことをみんな患者さんが言えるようなことを目指して素人ながらこれからもやっていきたいなと思っております。とりあえず以上です。

○有馬座長 どうもありがとうございました。それでは、お二人のお話に対しまして各委員からご質疑、討論をお願いいたしたいと思います。どなたからでもどうぞ。
 では、指名いたしましょう、吉井さん。

○吉井委員 水俣市民はどっちかというと同じ水俣病でありながら新潟の水俣病については関心が薄いというような嫌いがございます。今日はそういう点についてお話をいただきましたので私も認識を新たにし、大変感謝をいたしております。
 1つだけご質問いたしますが、先ほどのご説明の中で今回の新たな対策について、水俣の方ではもう3,300人超えたということでございますけれども、新潟では数名だというふうにおっしゃっておられました。その理由は新対策が浸透していないということ、それから地域の再生融和が進んでいない、そこで差別を恐れているという点をお挙げになったわけでありますが、水俣の場合を見ますと、被害者の会とか患者団体の皆さん方がかなり積極的にPRをされておるという点と、それからかかりつけのお医者さんが、あなたは水俣病の疑いがありますよと、申請されてはどうですかというアドバイスをされている。この部分が非常に多いというふうに思います。
 そういう点について新潟の場合は、被害者の会あるいは共闘会議というところではどういう取組をされているのか、また地域の医療機関においてそういうお勧めというのかそういうアドバイスとかそういうのはほとんどないのか、それとも該当者がもうほとんどいないのか、その点についてもうちょっと教えていただければありがたいと思います。

○高野氏 今ほど吉井さんの方からお話がありました新潟の現状でありますけれども、先ほど言ったように1つは、一昨年になりましょうか10月15日の最高裁判決、それについても新潟の中でどれだけそのことが被害者地域を中心に県内に広まっているのだろうかといった場合に、メディアのいわば伝える量自体が極めて少ない。新潟においては96年2月の一応の決着段階で終わったといいますか、それ以降なかなか報道されないという現状があります。それとあわせてやはり水俣病と名乗ることについての社会的な差別に対する恐れ、そのことがもう1つの大きな要因で、この2つが大きくあるというふうに思っております。
 被害者の会・共闘会議、それから医療機関等の取組でありますけれども、遅ればせながら去年の暮れから私ども共闘会議の中の医療機関が地域に入って今回の総合対策、新保健手帳の受付の問題なりあるいは認定申請のことについて地域にチラシを配りながら、今入っているという状況であります。そういう意味では新潟で今12人認定申請あるいは新保健手帳の受付は40数人でありますけれども、ようやくこれから粘り強くどれだけ呼びかけていくのか、それによって少し対応が出てくるのかなというふうに思っております。
 いずれにしても患者さんがみずから名乗り出ることによっての苦痛といいますか、その辺をどう我々がやわらげていくのかと、そのことが今一番求めていることだろうというふうに思っています。規模についてはご案内のように例えば96年の解決時において熊本では1万人、総合対策医療対象者ですね、新潟では亡くなった人も含めて800人という状況ですので、被害の規模の違いは当然あるわけでありますけれども、それにしても手を挙げる患者さんたちの数が少ないということは否めないというふうに思っております。以上です。

○有馬座長 ありがとうございました。あとどなたか、もうお一方ぐらい……嘉田さん。

○嘉田委員 嘉田でございます。高野さんと旗野さんのお二人の発表は大変対比的でそれぞれに心に残るものがございまして、簡単でよろしいですけれども一言ずつ教えてほしいのですが、新潟の場合に共闘会議ができたということが、裁判あるいは今までの活動のフォーマルなところでの継続を確保してきたと思うんですけれども、大変難しかった政治過程だと思うんですが、そのポイントを少し振り返って今解釈いただけたらというのが高野さんに対する質問です。
 それから旗野さんには、旗野さんがこの活動を続けてこられたご自分の満足、動機というんでしょうか、自分を奮い立たせるというか楽しみかもしれませんけれども、その当たりのことを少し教えていただけましたら、後に続く者に対しての教訓になると思いますのでお願いいたします。

○高野氏 すみません、もう一度ちょっと、共闘会議ができたことに……。

○嘉田委員 政治的についつい分裂しがちなところをまとめて共闘組織をつくったというその政治的な背景とか組織的な工夫のようなものを……。

○高野氏 はい、ありがとうございます。先ほども少しお話いたしましたけれども、私ども共闘会議は、少し抜けた団体もあるわけでありますけれども、被害者の会をとにかく第一義とするということがありまして、政党的にはそこにも書いておりますけれども旧で言いますと社会党と共産党の政党が入っていて、全国的にも新潟でもそれぞれイデオロギーあるいは党派性があって、ほとんどのところはそれで壊れていったわけでありますけれども、この水俣病についてだけはそれが壊れなかったと。
 それはなぜかというと、1つは私が今所属しています新潟県平和運動センター、これの前身は新潟県評でありますけれども、新潟県の場合は労働組合がそれなりの一定程度の力を持っているといいますか。新潟はご案内のように農民争議があって福島潟の裁判闘争なりあるいは原発の問題なり、これらのいわば中軸を成していたのがその新潟県の労働組合評議会だったということがあって、そこのところが中心になりながらそれぞれの、これは党派の問題ではないと、患者の要求を第一義に考えるということを繰り返し、繰り返し認識しながら進めてきたということだというふうに思います。それなりに私どもの先輩はいろいろご苦労されて、新潟では発生源の企業であります昭和電工の労働組合は今なお私どもの、いわば県評からずっと続いた平和運動センターにも入って、この問題について前面に出て運動するということはありませんけれども、しかしそこの一労組として加盟をしているということがあります。

○旗野氏 最初のうちは正直申しまして、私は水俣の運動のスタイルとか熊本の方にどうしてもやっぱり目がいって、目の前にいる患者さんが自分が承知している水俣病の患者さんとあまりにも違うのにちょっと驚いたんですね。要するに運動とか何とかもやっぱり熊本の方はずっと進んでいるように見えたし、石牟礼さんとかユージン・スミスの写真とか桑原さんの写真とか丸木さんの絵だとか、もうみんなそういうのは熊本にあって、新潟には何にもないと。確かに共闘会議という一本化した立派な運動体はあったのですが、何か非常にうらやましいというかそういう気持ちが最初はありました。
 で、だんだんその運動の限界を感じて自分の、何ていうんでしょうかね、違ってもいいんだというか目の前の患者さんをもっと素直にみて、例えば映画に出てくれて患者さんも一緒に喜んで出演してくれて、それでみんな亡くなるわけなんですよね。で、追悼集会を毎年やることになって、そうするとその映画のファン、運動とはまた別な人たちが集まってくれて、その追悼集会で出会った人が結婚して子どもをつくって、また訪ねて来てくれたりとか、何か非常にこうやりがいがあるというか。で、患者さんもすごく喜んでくれるんですよね。あっ、こういうやり方があっていいんだなということで、まずは患者さんが喜んでくれるような仕掛けを死ぬ前にいっぱい仕掛けてやるのを自分の仕事にしてもいいじゃなかろうか、というふうに思ったんですね。
 ですから、今年は何やろうというスローガンというか方針はほとんど持ったことはなくてですね、たまたま去年の暮れも中国からお客様があって、北京師範大学の陳さんという方ですけれども、「えーっ、中国から来たんだ」みたいなことで患者さんすごく喜ぶんですね。「実は中国でも今公害が大変でさあ」、「へぇー」とかいって「俺らでもためになるのであればいつでも中国へ行くよ」、「じゃあ、今度オリンピックのときに来てくださいよ」みたいなことで非常に患者さんが喜ぶんですよね、とってもそういうことというのは……何ていうんでしょうかね、理屈ではなくて患者さんももう運動は実は懲り懲りなんですわ。「えっ、また裁判」、「えっ、もう呼びかけるなんていやだよ」というようなことで、でもやり方を変えるとすごく積極的なんですよね。だから私もすごくやりがいがあるし、患者さんもすごく喜んでくれるというか、多分長く続けられた秘訣というのはそこら辺じゃないかなというふうに思います。

○有馬座長 ありがとうございました。まだご質問もおありでしょうし、私もうかがいたいことがたくさんありますけれども時間がございますので、ここで皆様の貴重なご意見をお聞きできたことに対して感謝を申し上げたいと思います。……では、どうぞ、どうぞ。手短にお願いいたします。

○柳田委員 先ほど旗野さんが水俣病というのは生活の全体を見ないとわからないと、いくら神経内科の専門家がカルテを見ただけでわかるかというお話、とても大事な問題なんですが、で、認定患者という制度ができた場合にそれはプラスとマイナスの両面があって、それは認定して援助をするとかいろいろそういう面がある一方、線引きをしてカルテの条件がそろわないとオミットしちゃうという負の側面があるわけですね。で、それを乗り越えるのは生活を見るしかないわけで、原田先生なんかは1900年代の初めにフランスのクーリエ炭鉱で起こった世界最大の大規模なCO中毒事故、あのときのステアリーというドクターが本当に2年間ぐらい患者の生活の中に入り込んで、その病像というのをとらえていったというのを鏡にして水俣病をとらえたわけですね。
 ですから、その認定が却下されるという場合に、新潟の患者さんたちがどの程度認定される側として生活をとらえられたのか、こうこうこういうような調査に一番に来てくれたとか来てくれなかったとか、認定に際してどの程度何が参考にされたのか、そういうものについて納得いく理解というのはできているんでしょうか。

○旗野氏 先ほども申し上げましたけれども、もう疫学的なことは認めているから、それは魚もいっぱい食べたでしょうというふうなことで、ほとんど実際には聞く耳をもってもらっていないと思うんですよね。で、患者さんは大学の検診に行くと、すごく緊張してやれることとかあるいは逆にやれないこととか、日常の障害というのが意外と出ないんですね、いっときのその大学の検診では。それを逆に詐病扱いをされたりして、見えるはずだとか、やれるはずだとか。で、もう二度と検査には行けなくなったりとかですね。
 私は行政不服の中でも本当に素朴な疑問として、何でこんな……いわゆるお医者さんだけなんだろうかと、もっと社会学者とかいろんな人たちが何でこの審査会には入っていないんだろうかというふうに思ったんですね。当然ほかの病気がある人だって水俣病になるはずなのに、ほかの病気があると水俣病でないような言われ方をしたりとか。例えば川本輝夫さんが、脳梗塞の人は水俣病にならないのかと言ったときに、原田先生は素直にそれを受け取られるんですよね、気がつくというか、ところが新潟の場合は専門家からみるとわかるんだと、その違いはというようなことで、何ていうんでしょうかね……いかにもそういう言い方をしてしまう。で、随分あとになって飯島伸子先生たちの環境社会学会かな、本当うれしかったですね、あっ、ようやっとこういう人たちが現場に来てくれたんだなと。もう今から15年前ぐらいになるんでしょうかね。だからそれが本当に審査会というか患者さんかどうかというふうに判断するときに役に立っているかどうかというのは非常に疑問に思います。役に立っていればあんなに棄却にはならないはずだと思っていました。

○有馬座長 よろしいでしょうか、では、どうもありがとうございました。大変参考になるご意見をお聞かせいただきましてありがとうございました。
 それでは次に、加藤委員からのご報告をうけたまわりたいと思いますので、よろしく。

○加藤委員 まず、懇談会の貴重な時間の中で胎児性水俣病患者さんの生活実態というテーマで報告の機会を与えていただいたことに感謝いたします。
 水俣病の被害の全容が明らかになっていない中で胎児性の患者さんのおかれている状況も、これは非常に複雑で深刻な中におられます。ですから全体を見て報告をするなどということは、とても私にはできません。そこで私が日常的にかかわらせていただいている患者さんたちからうかがえる状況を、これまでの記録も含めて今回報告という形でその一端を、全体の中の一端をお伝えするということでご了解をいただきたいと思います。しかしながらこの胎児性の患者さんがおかれている状況の中で、少なくとも胎児性の患者さんがさまざまな活動をされている拠点の中から見えてきた普遍的な事柄について地域福祉の課題として提示したいというふうに思っています。こういう場にあまり慣れていません。パワーポイントを持ってはきたんですが、話とうまく組み合わすことができるかどうか自信がありません。とてもお聞き苦しく見苦しいかと思いますけれども、ご勘弁願いたいと思います。
 (パワーポイント)
 まず、初めに水俣病が公式発見、まさに今51年目に入ったわけですけれども、現在解決できない問題をたくさん残していることについては、この懇談会の論議の中でも委員の皆さんと昨年からずっと共有してきたことだと思います。その中でも胎児性の発見と確認というのは公式発見から6年も経過を要したわけです。私の知りうる限りのほとんどの患者さんたちが公式に胎児性が確認されるまでは何の病気がわからないということでお母さんの背中に背負われて医院を訪ねて回っていたという状況だったというふうに思います。
 1962年11月に熊本医学会で報告され、そして11月29日の認定審査会で胎児性の水俣病が初めて認定されたということになります。このことはまさにこれまでの人類史を覆すほどの重大な出来事であったと思います。それは母親の体内に宿った生命は必ず胎盤がバリヤの役目を担いあらゆる毒物から生命を守り、危機に際しては母体よりも胎児が保護されると信じられてきたこの何万年もの人類の法則がくずれ去ったということだというふうに思います。
 そういう意味で日ごろ、私がかかわらせていただいている水俣病胎児性患者さんの存在そのものというのは、まさに人類史に連綿と続く生命の危機を警告する使命を持っていらっしゃるのだというふうに思います。つまり、日々この方たちから学ばせていただく中からこの報告も作成させていただきました。しかしながらこの使命だけで、この方たちが生きているかというと、そうではなく、ご自分たちのさまざま自己実現を追求し、さまざまな喜びや悲しみをもちながら可能な限り地域の中で暮らされてきたわけです。しかし全身に及ぶ重篤なこの障害、さらにこの水俣病事件が50年もの間、政治と行政の後手の政策の中でずっと翻弄され続けてきて、その中の差別と偏見にさらされ二次被害の影響すら受けざるを得なかったということについては、非常に残酷であったというふうに私は思います。そしてこの被害の全容はいまだ何も解明されていないというふうに思います。
 私たちが今から8年くらい前、水俣の街の中で彼ら胎児性患者さんらと一緒に働き、いろんな人と出会う交流の場をつくろうということで動き始めたときに、はっと気がつくと40代に入った彼らが通常では考えられない身体機能の急速な低下が始まっていました。このときに少なくとも胎児性患者さんとして認定されている彼等の仲間である六十数名はいらっしゃるはずと、記憶していました。じゃあ、このほかの方たちが今どうしていらっしゃるのかというふうに思いをはせたときに、わかる事実は何もありませんでした。一体生きているのか今既にこの世にいらっしゃらないのか、もし亡くなったとすればいつ、どういう原因で亡くなったのか、こういうものがわかる資料は何もなかったです。そういうことが少しでもわかっていけば通常の加齢現象としては考えられない、この急速な身体機能の低下についても何か打つ手がわかるはずだというふうに素人ながら思いました。
 そこで私たちがやり始めたことは、少なくとも被害の実態解明に近づきながら胎児性の水俣病患者さんたちが望むことは施設ではなく地域で暮らしていく、このことに必要な質の高い生活支援と介護と医療を導き出すための、現状の福祉政策ではカバーできていないこの現状の中で、水俣被害エリアにおける先進的な地域福祉のモデルを引き出すことを第1の課題として、聞き取り調査に入りました。
 特にこの間、少なくとも7年間の活動の中から、日々、家族そして胎児性の患者さんたちに接する中で聞き取ってきた記録、そこから見いだしたさまざまな諸点を考察して、見えてきた生活と被害の実態は、私がかかわる患者さんだけの被害にはとどまらないということです。この被害が客観性と必ず普遍性があるはずだということで、そのことを確実にするためにさらにフィールドを広げ、患者さんへの聞き取りも含めての調査に着手したのが2年前でした。奇しくも一昨年の最高裁の判決以降、胎児性の患者さんのおかれた状況が、随分大きく社会的にも取り上げていただけるようになってきた中で、私たちが今取り組んでいることを社会的に明らかにしながら、手遅れにならない対策を早めに提言したいというふうに思っていた矢先に、こうした懇談会での報告の機会というふうになりました。
 今回の方法につきましては、先ほど申しましたように日常の聞き取り記録、これに改めてアンケート調査票をつくりまして、ご協力いただいた19名の方たちの調査結果をもとに成果として明らかになった現状を以下のところで報告したいというふうに思います。主に現在までの調査は在宅の患者さんを中心として、日常生活の自立度、生活上の不安や問題点、介護の状況と将来の生活への希望を主な項目として調査をいたしました。
 現段階で明らかになった被害実態・要望・課題というのは、実際には報告と言いましても中間報告の段階です。
 まず、身体的な側面から見ると、私たちが8年前気がついたこの身体機能の低下は確実に、やはり年々スピードを増して起こっている実態が明らかになりました。また、今日こういう形で公開の場ということで著しく個人のプライバシーや尊厳を傷つけるようなことは発言を控えたいと思います。ですから実態と言いましてもここで話せることはほんのわずかなことということも、今申し添えておきます。同時に精神面、心身面においてもさまざまな低下を日々接していて、これは家族も含めてそばにいる者として非常に感じているものがあります。
 こうした中から実際に外出等生活の自立を望みながら、その自立をしていくためのさまざまな機能の低下は、自立生活の低下にもつながり、さらには将来の生活への不安にも大きな影響を与えていると思います。周りを見ていると、車椅子の仲間がふえていく中では、いつか自分も歩けなくなるのではないだろうかという不安は身近にいる患者さんたちの中から非常に強く感じているところです。さらに一緒にいる在宅の方たち、暮らしていらっしゃる両親や家族、そして今は兄弟も含めてほとんどが水俣病の被害を受けています。本人の障害、肢体不自由は明らかです。これに言語障害、その他さまざまな障害を2つ以上持ち合わせるいわゆる重複障害であります。今回19人の患者さんのほぼ全員が重複障害という結果でした。
 さらに、こうした中で重複障害を、今実際には日本の障害を持つ人たちの中でも重複障害の方たちがおかれている現状というのは単一障害の方よりも一層厳しい生活問題をかかえているのが現状です。その中で水俣病の胎児性の患者さんは、さらにその典型的なケースであるというふうに思います。この典型的なケースでありながら、しかも原因がわかっている障害を持つ方たちでありながら、そのことについての対策がなされてこなかったということが非常に悔やまれます。さらに彼らの場合には、水俣病の後遺症としての障害だけではなく、幼少期より治療、リハビリ、さらには就学のためということから家族から長期間にわたって離れ、入院生活をされてきたことで精神的な苦痛をたくさん受けていらっしゃいます。さらにこれに水俣病に対する地域社会の無理解にことごとく傷つけられた経緯もあり、水俣病に対する対策の遅れが地域社会に与えた影響をもろに受けた人たちといっても過言ではないというふうに思います。
 しかしながら、この方たちが実はこういう状況の中でもさまざま豊かな社会性の中で求めてきた支援がたくさんあったと思います。こうした彼らが求めてきた働く場、行き場、そうした必要な対策が立てられていたら健康や生活上の困難や不安をかかえていても地域の人たちと活動や交流をしながらみずからの可能性を最大限に発揮して、安心して暮らしていることができるのではなかろうかというふうに思います。こうした成果として明らかになった現状から、胎児性の患者さんの、特に在宅を中心とした患者さんの生活と暮らしの側面から5つの典型ケースにまとめてみました。
 それでは年齢のところを説明させていただきます。まず、調査対象の年齢が40代から50代の方が一番多く、まさに水俣病が公式確認から50年たった、この方たちも50年間水俣病を生きてこられたということだと思います。そして51から55のこの部分の方たちは、まさに体内とそれから幼少期に食べた魚の影響を受けた胎児、小児をあわせ持つ方たちというふうにも言えるかと思います。そしてこの方たちのご家族の方たち、ご両親の年齢の中でお父様が死亡されているケースが非常に多いです。とりわけ非常に早期に父親を亡くされている方が今回調査をした患者さんの中では顕著でした。お母様が顕在されていてもお母様の年齢がもう非常に、70をほとんどは超えているという状況の中での家族生活ということです。
 そういう中で、この方たちのおかれている状況の中で生活と労働を中心に5つの典型に分けてみました。
 まず、第一の典型、いわゆる一般企業に雇われて働いている人とその家族というのを第一の典型というふうにみました。今回の調査では一般就労している人は一人であり、これまで一般就労の経験がある人たちは6人おりました。いずれの場合も小規模零細での不安定な雇用の状況にあります。この中には原因企業で働いていらっしゃる方たちもありまして、ある時期、こうした企業の方から積極的に働かないかというふうに言われた方もいます。この辺は水俣病の運動というか裁判にどうかかわったかによって誘われたり、誘われなかったりというようなこともあったようです。そういう形で一般企業に一般就労ができた方がお一人、その中でも私が日ごろかかわっております胎児性の患者さんたちは、自分たちの雇用の場を中学を卒業するときに自分も働くという意識を持って雇用の場を求めて、自分たちでビラまきを行ったり、さまざま社会に対してアクションを起していらっしゃいました。
 それでもそうした雇用の場が得られなかった患者さんのある方たちは、二十代から三十代にかけて自分たちも力をあわせて何かやればできるんだということで、有名演歌歌手を水俣に呼びまして、水俣でのコンサートを大成功させました。こういう経験をお持ちの方もいます。その後、水俣にさまざまな形で思いを寄せてかかわる水俣の地域外からいらっしゃる同世代の若者たちが過ごす生活学校という場、あるいは民間のさまざまな団体とかかわりながら、みずから社会に積極的にかかわっていった方たちがいらっしゃいます。いわば働く場をみずから切り拓く活動や患者運動にも積極的に参加していらっしゃいました。
 さらに、非常に重篤な障害を持つある胎児性の患者さんは、みずからの写真展を開き、その写真展をもとにすばらしい写真集を残している胎児性の患者さんもいらっしゃいます。こうした彼らの豊かな社会性が水俣病に寄り添う市民や民間団体によって支えられ、育まれてきたというふうに思います。この人たちは、この豊かな社会性をさらに自分の中でずっと温めてきて、やがては福祉的な就労の場ではありますが、授産施設で働いていらっしゃる多くの方たちがあります。ということは、このことから私たちが教訓として学ばなければいけないのは社会活動が保障され、働く場が確保されることによって社会参加と自己実現が可能になり、こうした活動の場が保障されることによってそれぞれのライフステージというのが充実していくということだと思います。むしろこういう活動の場を本人の希望に応じて、さらに創造的な仕事の場の確保を原因企業や行政の責任において、あるいは社会福祉施策としてこれまで行ってこなかったということが大きな問題点としてクローズアップされてくるというふうに思います。
 さらに第二の典型ということで、この第二の典型というのは一般就労の場にはかかわれなかったけれども、現在授産施設等で働いていらっしゃる方たち、前述でも少し話させていただいた方々です。この第二の典型の人たちの就学状況を見てみると、この方たちが比較的重い障害を持っていながらも訪問学級ではなくて、病院の中に開かれた学校あるいは地域の特殊学級といういわゆる養護学校ではなくて、同世代の人たちとともに過ごす就学経験を持ったということは、さらに社会体験とつながって人格形成期に与えた豊かな社会性を育んだ基礎になり得たのではないかなというふうに思います。
 しかしながら第一、第二、そしてそのあとの第三の典型も含めてですけれども、現状の緊急課題としては親亡きあとは現実になってきています。昨年から私たちの周りでも数人の方の親が亡くなりまして、そのあとの生活が大きく変化させられています。地域の中で生きていこうということで母親が亡くなっても、お一人で今ヘルパー派遣を受けて暮らしていらっしゃいますけれども、さまざまな不安は尽きないというふうに思います。さらに兄弟・姉妹と同居をされている場合も、またこれまで幼少期に家族から切り離されてしまったという中ではなかなか家族との関係を取り戻すことが難しく、非常に気遣いが多い暮らしの中で過去に心身の不調を引き起こしたというケースもあります。こういう意味で水俣病の家族も含めて差別の中で暮らしてきたことで受けた痛手を丁寧にカバーできるような体制が必要であり、これについては既存の福祉サービスだけではとても対応できない側面ではないかなというふうに思います。
 続いて第三、第四、第五の典型ケースについて少しお話ししますと、第三、第四、第五というのは今のところ行き場のない人たち、その行き場のない人たちの中でも中学までは特殊学級に通い、社会関係を持っていたんですけれども、ある時期、いわゆるひきこもりの状態になってしまって、ある方は30年間、どこも行き場もない、外に出ることができない、決して身体機能の低下ということではなくて、外に出ることができない。この外に出ることができないというところに水俣病をめぐる地域の偏見と差別、こういうものにことごとく打ちのめされてきたということは想像できるような気がしてなりません。
 こういう方、そしてさらに重篤な障害を負っていて施設ではなくて家族の手厚い看護の中で過ごされている方たちもいらっしゃいます。この方たちは、地域にそうした福祉施設がなくてではなくて、そうした福祉施設を選ばずあえて家族の中で暮らすという暮らしを選んでいらっしゃるわけですけれども、ただこれはもう家族だけの介護にはもはや限界があるというふうに思っています。そして地域のさまざまな福祉的な専門機関とつながっていけないところに水俣病特有の深い偏見・差別、先ほどから繰り返しますけれどもこうした信頼関係がなかなか結べない結果、適切な福祉サービスを利用し得ないということでもあるというふうに思います。この重篤な胎児性の患者さんをかかえている家族も先ほどの第二の典型ケースの中での緊急課題である親亡きあとというのは、これは共通した課題として挙げられるというふうに思います。
 こうして第五まで見ていったときに、いずれにしろ今少なくともこれまでの既存の福祉システムではない新たな水俣病のさまざまな地域での偏見・差別があったことを前提にして、人と人が本当に信頼を結べるような新たな福祉システムをつくる必要があるというふうに思います。そこで私たちが今そうした一つのモデルになるような構想図をつくってみました。この表がその表になります。
 これは水俣病の患者さんがというよりも地域の中でさまざまな社会サービスを必要としている人たちが利用できる一つのシステムというふうに思っています。いつでも通えて泊まれて、何かがあったらいつでも相談にのってくれる人がいて、自宅にも顔なじみのヘルパーが来てくれる、そしてさらにいわば福祉のコンビニというふうに言っているんですけれども、自宅にいらっしゃる重い障害をお持ちの方にも活動の場、通うということで活動の場があり、そして働きたいと思う方たちは働く場として一つの場が実現でき、そして家族介護から家族を解放するために泊まるということでレスパイトケアがあり、あと先ほど言った自宅におもむいてくれるヘルパーさんがいらっしゃる居宅介護事業があり、そしてやがては家族から自立できていらっしゃる方たちのためのグループホームがある。こういう一つの小規模多機能の施設が地域の中に開かれてくることがひとつ提案できるというふうに思います。
 最後になりましたけれども、結局これまで認定患者、私たち112名を分析したときに現在まで生存していらっしゃる方が79名で生存率が70.5%です。このことが一般の方たちと比べてどうなのかというところはまだ私たちもきちっと調べきれていません。しかしこの方たちがおかれている状況の中での死亡年齢、原因等さまざまなことを今後明らかにしていくこと、さらに実態を明らかにしていくことで胎児性の水俣病の患者さんたちの福祉・医療対策と安心して暮らしていく上での大事なポイントが見いだせるというふうに思います。それとさらに、水俣病をまるごと生きてこられた彼らの貴重な記録ということも、これからの仕事としてあるというふうに思います。
 さらに、この聞き取り調査をするに当たって確かに19名という数、少ないか多いかというふうになりますけれども、ただ私たちは予想以上にまだまだ地域の中に残っている偏見や差別というものが、こうした調査をしていくときにも一つの大きな壁になりました。水俣病患者であることを知られることに多くの人がまだまだ躊躇や戸惑いや困難があり、親が子に、おじいちゃんが孫に水俣病患者あることを告げられない、そうした現実もありました。そうした中でなされる民間機関による調査の限界は当然あり、関係機関との連携のもとに法的の協力を得て、全体の実態を把握するための調査をさらに進めていく必要があるというふうに思います。
 水俣病被害地域に対するこれまでの地域振興はある程度進められてきたかもしれませんけれども、胎児性患者さんたちへの国や関連地域自治体の福祉対策は乏しかったというふうに思います。それは水俣病患者の方たちの福祉ニーズに積極的に対応してこなかった結果でもあり、50年たった今、胎児性水俣病患者さんたちを取り巻く状況の厳しさがそのことを如実に物語っているというふうに思います。そこで国において水俣病胎児性患者さんたちの実態に即したこの地域のあらゆる人々を、福祉的な社会的なサービスを必要としているあらゆる人たちに対応できるような特別な福祉支援対策ということを、今後充実していくことが急務であるというふうに思います。
 さらに、最後に水俣病の胎児性のこの今回の問題というのは、私は氷山の一角だというふうに思っています。そしてその氷山のそこには多くの同世代に生まれた水俣病の被害を受けた方たちが潜在していたんだというふうに思います。生まれたときに彼らが人類に警告したとき、同世代に生まれた人たちに被害があることを同時に警告していたというふうに思います。この警告を早期に受けとめられていたら、今の水俣地域における3,000人に及ぶこの申請されている患者さんたちの被害というのはもう少し早期に解決できていたのではなかろうかと思います。というのは、前回の丸山委員の報告にあるように今回申請されている患者さんたちの年齢がそのまま胎児性の患者さんの世代に重なっているというふうに思います。この点からも今この50年を機会に彼らが訴えていることに耳を傾けてほしいと思います。
 そして本当に最後になりますけれども、今本来だったらこうしたお話を患者さん本人、そして家族の方が可能な限り、こうした場で訴えることが一番大切なことだというふうに思いますけれども、私が今回委員としてこの現状を訴えるということをさせていただきました。今社会的にさまざまな活動をされている胎児性の患者さんたちが気になるもう一つのことがございます。それはまさに彼らが身をもって警告したこの胎児性の問題、この水俣病の悲劇を繰り返すなということを警告してきたはずであるにもかかわらず、水俣の水源地に産業廃棄物の処分場ができようとしています。このことについては、彼らは二度と同じような被害を繰り返してほしくないということで、からだを張ってこの産廃を何としてでも阻止したいという気持ちがあることをあわせて伝えたいというふうに思います。
 許された時間をオーバーしてしまいましてどうもすみませんでした。

○有馬座長 ありがとうございました。加藤先生、大変ご丁寧にお話いただきましてありがとうございました。
 本来ここで15分質疑、ご討論をいただきたいのですが、次官でも柴垣さん、どなたでもいい、ちょっと質問があるのですが、これから質問を15分いただいたあとで、さらに懇談会で皆さんにお願いをしたこれからどうすればいいかという話をまとめる、その議論をさせていただく予定にしていたのですが、それをやると3時までの予定時間を大幅に超えてしまうので、今後の予定を先にちょっと聞かせていただきたい。要するにやはり今加藤さんのお話にぜひ、私も質問したいことがあるのでこれを15分ぐらいやりたいと思う。そのあと予定していた懇談会のまとめをどうしていったらいいかという議論は、次回に回すことができるかどうか。次回に回すと予定を大幅にまた遅らせることになって困るというふうなことがあろうかと思いますので、その辺の予定は一体どうなるのか。すなわち報告をいつまでにやらなければいけないか、その辺についての読みをちょっと聞かせてください。

○柴垣企画課長 最後に次回の予定ということでお話することを考えていますけれども、あと2回ほど懇談会を予定していまして、1回は3月2日に予定していまして、その次は4月のまた日程を調整させていただきたいと思ってございます。そういう意味で非常にタイトなスケジュールで申しわけないのですけれども、当初5月の50年ということに向けてご議論をいただくということで予定させていただきましたので、できれば今日、少し先生方お忙しい中、本当に申しわけありませんが、若干の時間の延長があるにしても今後の議論を少しやっていただいて……。

○有馬座長 私はこの次の予定が入っちゃっていますからね、それでどうしたらいいかということを、ご質問をしたい。皆さんもまたいろいろ予定がお入りだろうと思うので、短い時間でももう一回ふやしていただいたらどうでしょうか。

○柴垣企画課長 それではその間、次回に予定していた3月2日までの間で、例えば日程を今調整させていただいている中で2月7日が比較的先生方のご都合が大丈夫かなというのがありますので、2月7日に中間的に今日の残した分のご議論をいただくというような形で。

○有馬座長 いかがでしょうか、よろしいでしょうか。非常に重要なことを今日議論したかったんですけれども、私がどうももう一つの会が入っていますので、ご無礼しなければなりませんのでもう一回やらせていただいていいですか、いいですか、大丈夫。特に遠く九州からお見えになる方は大変なのですが。
 それでは、まずはそういう予定にさせていただいて、要するに5月の50周年というか50年のときにはもう答えを出しておきたいということですね。ですからそれまでに急いでやらなければいけませんので。

○柴垣企画課長 はい、2月7日にですね、比較的こちらが日程調整させていただいた中ではご出席できる先生方が多いので、そこに入れさせていただきまして、あと3回やらせていただければと思います。

○有馬座長 では、そうさせていただくことにいたします。
 それでは、残りの時間をまずは先ほど大変ご丁寧にご報告いただきました加藤さんに対するご質問、場合によっては今日せっかくおいでいただきましたお二方に対しての質問をさらに追加していただいても結構だと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 まず、私が一番心配したことは、先ほどの父親、母親の年齢及び死亡、それと現在の病人の方々の年齢、こういうものをずっと比べていくと当然お父さん、お母さんが不幸にしてだんだん亡くなっていかれるだろうと、それから兄弟が面倒をみるということもあるだろうけれども、やはり地域社会として完全に、いわば親族によらないような体制をつくっておいてあげないと困りますね、その辺はどうなんですか。

○加藤委員 まさにそうだと思います。今50代に入ったんですけれども、この方たちが今望んでいらっしゃるのは家族からの自立ですね、まさに親族による介護ではなくて、今既に家族から自立して過ごせる体制がほしいというふうにつくづくおっしゃっています。そのためにも先ほど最後に図式で示したんですけれども、あのような通い、泊まり、そして家族から離れた自立生活に対してサポートが出せるような居宅介護の支援があり、多機能に組み合わさったそうしたシステムをつくらないといけないと思います。ただ、これが既存の福祉制度の中だけでは多分賄えないというふうに思います。そういう意味では、こうした水俣病の被害エリアの中から出てくる福祉ニーズをきちっと把握した上で、この機能図を動かしていかないといけないというふうに思っています。

○有馬座長 もう一つ、先ほどちょっとこれは加藤さんもふれておられたけれども、胎児性の患者だけでなくて、一般の患者の方たちもだんだん親族の援助だけではやっていけなくなりますね、もちろん。だから胎児性ももちろん一般の患者に対してももっと社会的な援助体制を強めなければならないわけですね。

○加藤委員 はい、一般の患者さんというよりも、要するに認定されている胎児性の患者さんは、まさに氷山の一角であり……。

○有馬座長 それはもちろん、氷山の一角ですね。

○加藤委員 はい、この世代がかかえている健康不安と実際に健康障害ですよね、この方たちを患者であるとかないとかと分けるのではなくて、さまざまな援助を必要としている人たちをカバーできるような体制にしていかないといけないというふうに思うんですね。

○有馬座長 それは水俣病だけではなくてもっと一般にしていかなければならない。そういうことですか。

○加藤委員 そうですね、一定程度の健康障害があってサービスが必要であるということであれば受けられるようなサービス体系をつくるということも一つポイントかなというふうに思います。

○有馬座長 はい、吉井委員さん。そして丸山さん、まず吉井委員。

○吉井委員 5つの典型に分類されて考察をされて、そしてそれぞれ典型にあったような対策をすべきだと、それと同時に今座長の方からご質問がありました一般も含めて、水俣病の経験も踏まえた社会福祉の先進モデルをつくらなければならないという提唱をされておるわけですね。もう既に50年経過をしておるわけですけれども、なぜ今問題になるのか。それからこれを今おっしゃったような福祉システムをつくるためには何が障害なのか、そこのところをちょっとお話いただけませんでしょうか。

○加藤委員 まず、なぜこんなに手つかずにきてしまったのかということでいえば、やはり水俣病をめぐる認定の問題ということにどうしても目を奪われてきてしまって、本来はこの胎児性の患者さんの問題というのは認定補償されてそれでお終いではなくて、そこから先、人生を生きていく節目節目で必要なことがあって、それに対してきめ細かくさまざまな行政も含めて対応していかなければいけなかったと思います。けれども、どうしてもこれが水俣病の問題と一括りにされてしまって、全体に社会的には水俣病をめぐる認定問題に目を奪われてきたということも一因あるかというふうに思います。

○吉井委員 この胎児性水俣病患者のいわゆる支援の担い手は民間団体であり、水俣病に寄り添ってきた市民であると、こうおっしゃっておられる。確かにそうだと思います。しかしその前段階で行政も明水園とか胎児性患者の特殊学級とか適切な対策はやってきたわけですね。しかしその後、支援がぷっつり切れているというふうに思います。それはなぜなのかというと、今では水俣病支援団体の専売特許みたいになってしまっているということがある。それは福祉に関心がある市民は、かつて水俣病支援団体とは敵対関係にあったために、その中に入って行き難いというところがある。
 もう一つは、福祉に関係する一般市民や施設と、水俣病支援団体の施設、あるいは「ほっとはうす」みたいな施設との連携、交流が完全に欠けていると思います。福祉の分野では「もやい直し」は進んでいないと受け止めています。これは一番大切なことで、50年事業の中で「ほっとはうす」を中心に、また実験体として「もやい直し」、施設の連携、交流を進めていく必要があると思います。
 それから行政も積極的に手出しをしない。それは、中心になっている水俣病支援団体は、行政から見れば反体制だという潜在意識あり、反体制を育てることになるという躊躇があるからです。
 50年記念事業の中で、「ほっとはうす」を中心に、そういうものを打破していくべきでしょう。

○加藤委員 水俣病の患者さんは先ほど旗野さんのお話にもあったと思いますけれども、患者で生きるというよりも人として生きるわけで、人として生きるときにそこに暮らしがあり、生活があって、そこの部分のどうしてもご自分で出来得ないところに対して社会的なサービスを必要としていて、これはまさに社会福祉が必要だったのではというふうに思います。しかしながら水俣病が社会福祉としてとらえられることができなかった。逆に胎児性の患者さんの場合であれば認定補償されている、その補償金があるじゃないかと、それは個人への補償とその人が生きていくために社会的な支援が整うこととは別だったと思いますけれども、ここがまったくごっちゃになってとらえられてしまって、水俣病患者さんは補償金があるからいいという、ましてやその明水園という施設が、これは設立のいろんな複雑な経緯があったと思いますけれども、重度心身障害児者施設ということで重身施設でありながら特定疾病の水俣病の患者さんのみを収容するというところからは、市民の間に大きなやはり誤解があったというふうに思います。
 だからこうした設立についても市民に水俣病を伝えるというところから周知できていたら、水俣病の胎児性の患者さんも福祉の対象なんだということがもっと早期に認識されていたというふうに思います。今でも私たちは「ほっとはうす」という言葉を出しますけれども、「ほっとはうす」は決して患者さんのたまり場でもありませんし、患者さんのみを受け入れる施設ではありません。サポートを必要としている障害をお持ちの方たちと共にやっていきますということを設立から言い続けていますけれども、社会的には水俣病患者さんの場所という、だからあそこには手厚いという、決して手厚くありません。しかしながらそういう誤解を終始受けています。それでも今この50年を機に水俣の中で障害の種別を超えて、その中に水俣病の教訓をきちっと据えた新たな地域福祉をつくっていくことが、一番望まれていると思います。そういう意味では「ほっとはうす」の患者さんたちがそのさきがけになっていくのだというふうに思います。

○丸山委員 私もこの地域では一般的な福祉プラス水俣病被害に固有の何かがなければ、ちょっと一般的な福祉の充実ということでは対応できないと思っているんです。ですからその意味では加藤さんの今の提案は大いに私も賛成なんです。現在の「ほっとはうす」に来ている縁のある人たちというのは、これはもう認定患者だからということで一般のいわゆる障害者福祉関係の介護支援とかいうのはもうまったく何もないわけですか。

○加藤委員 いえいえ、「ほっとはうす」自体は全国どこにでもあります、福祉制度の中にある小規模通所授産施設ですからどこの町にでもあるものと一緒で、行政の援助も受けております。それから今通所されている方たちの中の80%の方は水俣病の患者さんですけれども、あとの20%の方は一般障害の方で、しかも大変お若い方たちが「ほっとはうす」のようなところで働きたいということで、積極的に参加をしてくれています。

○丸山委員 授産施設的な機能だとそういう面が出てきますけれども、いわゆる介護とかそういう面だと障害者福祉の面での一般的な制度がありますよね、そういうのはどうなんですか。

○加藤委員 それも皆さんそれぞれ使えるサービスは受けるようにしていますけれども、ただ、使えるサービスがあってもなかなか使うに当たってはいろんな信頼関係の問題とかありまして、使えていない部分もありますけれども、そこは積極的に取り組んでおります。ただ、既存のものだけではまさに「ほっとはうす」の場合には重複という非常に障害でいえば重い方たちのいる場所で、そこで今のような少なくともハードの側面だけ見ても、とても既存の福祉制度では対応できない側面があります。何らかの形でそうした重複の障害、水俣病の患者さんのほとんどがやっぱり重複の障害を持っているということを前提にして、そうした重複の障害に対応できるようなシステムを、これはつくらなくてはいけないというふうに思います。だからその重複の障害を持ちながら外に出る、社会的に外に出かけるということについて非常に高い社会性を持っている。これは非常に大事なことだというふうに思います。

○嘉田委員 一言。

○有馬座長 どうぞ。

○嘉田委員 加藤さんが言われた患者として生きるのではなくて人として生きるという、それはまさに今日ちょうど旗野さんが来ておられるので、旗野さんたちの活動の中にヒントがあると思うんですね。それでやはりどちらかというと福祉とかある制度でものを見てしまうんですけれども、そうではなくてもう少し本当に何を楽しみにしていくんだろうというところで見ていくと。私は水俣ハイヤ節をやっているときの杉本栄子さんのあの元気な姿と胎児性の方も車椅子でハイヤ節に入ったじゃないですか、あれが旗野さんのやっていらっしゃる渡辺参治さんが「冥土のみやげツアー」で参治節をやるんですけれども、あのあたりの大変ふくよかな緩やかな連帯の楽しみのようなものに一つのヒントがないかなと思うので、ちょっとその辺もこれからいろいろ企画をなさったらどうかなと。

○加藤委員 はい、そう思います。だからある意味で水俣病から、今福祉というふうに言っていますけれども、このあと文化を生み出していけるようなそういう拠点をつくっていきたいというふうに思います。
 日ごろ、水俣病を伝えるということで学校に行ったり、「ほっとはうす」に来ていただいたりホールでやったりしております。そのときももちろん過酷で辛かった人生を伝えつつも、それでもやはり前向きに生きてきた、少なくとも希望を持って生きたいというこのことを伝えるということは、非常に当の患者さんにとっては気持ちのよいこととして日々の糧になっているというふうに思います。そういう意味では渡辺参治さんにも昨年来ていただいたんですけれども、こういう豊かな交流をこれからも繰り返していくことは多分これは制度をつくってもだめであって、むしろそういう人としての地域を超えた交流がとても大切なことだというふうに思います。

○有馬座長 鳥井さんどうぞ。

○鳥井委員 すみません、旗野さんにちょっとご質問申し上げたいんですが、今もお話が出たようにおやりになっている仕事のかなりは文化的な救済というような表現ができるかなという感じがするんですね。制度的な救済というのは非常に表に出てきやすいし、ある種の対立関係になりますが、その制度的救済と文化的救済が代替もできる部分があるかもしれないし、お互いに補完をし合うという側面もあるだろうと思うんですけれども、その辺どういうふうにお考えなのか、多分すぐに答えをといっても難しいかと思うんですが、実はそれが解決のある種の極めて重要な道だと思うので、ヒントでも……。

○旗野氏 例えば、渡辺参治さんという患者さんは90歳なんですよね。で、正直私も裁判やっているとき非常に困る存在だったんです。要するに患者さんらしくないんですわ、やっぱり患者さんは常に手足がしびれていてせつなくて、それを涙ながらに訴えてもらわないと裁判支援の集会にはカンパが集まらないとか、だからついつい自分たちの都合のいい患者像を押しつけていたんですね。
 ところが参治さんにとってはさっきの杉本栄子さんのように、動けないんだけれども踊ると元気になるとか、参治さんにとっては唄うと元気になるんです。だから純粋に、「えーっ、90歳ってこんなに歌唄えるの」みたいなことで、だれも知らないところで一生懸命やっぱり練習されるんですよね、まさにリハビリしておられるんですわ。で、夜中にはしびれておられるのだけれども、やっぱりそれを克服する姿にみんな感動して、ファンがもう全国各地にできるんですね。だから純粋にというか、あとで逆に「水俣病患者だったんだってさと」いうふうなことで、既成の運動というか自分自身もかかわっていましたけれども、かなり強引にこうあるべきみたいなことで、救済してやらねばならないと、すごくそういうことを反省したんですよね。
 だから多分「ほっとはうす」の人たちも、そう言ってはあれだけれども、ある種私は水俣にずっとあこがれていたのですが、参治さんみたいな患者さんはいないですよね。私も「新潟からにせ患者代表の渡辺参治さんと一緒に来ました」なんてことを平気で言うんですけれども、本来ならそれは差別用語ですが、すごくそれを逆にみんなが……何でしょうかね、喜んでくれるというか「それはそうだよね」というふうなことで、何かそういうエネルギーというか、何か既成の運動とか制度にはそういうのがすごく欠けていたような気がするんですよね。だからとても失礼なことを平気で使っちゃっているんですけれども、それは何ていうのかな、私自身もすごく解放されたというか、まあ、こういうやり方もあってもいいんだな。ただやっぱり、共闘会議のいわゆるまともな運動というんでしょうかね、それがあったからこそ我々もできるのであって、それをうまくお互いにやれたら一番いいんじゃないかなと。余りうまく言えないんだけれども、とにかく楽しいんですわ。患者さんもすごく喜んでくれるし、それでみんな亡くなっていくんですよね。それが現実なものですから、本当に映画に出てくれた人も次の年に亡くなっちゃうんですよね。だから時間はかかるんでしょうけれども、制度とか何とかってそれも大事かもしれませんが、とりあえずはその目の前の事柄を、「本当によかったね」みたいなことの仕掛けも並行してやるのが一番いいんじゃないかなと思います。

○有馬座長 ありがとうございました。まだご発言のない金平さん、亀山さん、何かございますか。

○金平委員 ほかのことはいろいろ出ましたから、私は加藤さんが今日いろんな話をまとめてくださったのをとても感謝します。何回か「ほっとはうす」にうかがったものですから「ほっとはうす」の方たちの顔を浮かべながらお話を聞けたことで、非常に何か厚みのあるお話になりましてありがとうございました。いろいろありますけれども、もう時間がないでしょうけれども一つ、胎児性の患者さんたちが私たちの社会に多くの警告を発したと。身をもって警告したのにそれを私たちは何も取り上げなかったというふうなことを、まずおっしゃった。私もその言葉を、加藤さんの言葉を大変重く受けとめました。
 確かにあの人たちは言葉にならなかったかもしれないけれども、身をもって社会に発信してくれたと思います。そういう意味では私は加藤さんのお話を聞きながら何もできなかったということを、もっとそれ以上にそこを突っ込まなかったことにもう恥じ入るばかりという感じを、言葉でいえばそういう表現でございます。やっぱり私たちが今ごろになって気づくわけですけれども、これから先みんな、私たちも彼たちも年をとっていくわけですし、私はやっぱりこの警告を何かにやはりまとめておかないと、ますます消えていくというものもあるなと思いました。したがって、これから我々の提言の中に入るかどうかわかりませんけれども、できるだけこの水俣にかかわってきていろいろと調査なさったりした問題、埋もれているようなもの、それをきちっと残していく。そういう努力も一つの、私たちが次の世代への提言に水俣の患者さんを、私が恥じ入るだけに終わらせないためには次に残すために、ぜひデータをきちっと残す。何かそういう方法と機会を見つけたいなというふうに思いました。
 あと、親亡き子の問題というのは障害者の問題などをやっていて大変大きいんですけれども、私はやはり……これも加藤さんの言葉の中に全部出ていましたけれども、やっぱり水俣病という病というところに私たちは余りにこだわり過ぎてしまって、その病気を持った人というのをきちっととらえなかったということにまったく共感いたします。これを私はどうするのか、やっぱり地域、強いて言えば福祉という言葉を今日お使いになったけれども、それを地域のみんなが気づかないと、これは患者さんの問題だけではなくて患者さんを含んだ社会の問題というふうにしていかないと解決しないのかなというふうに思いました。とりあえずそれだけにします。

○加藤委員 ありがとうございます。まさに私たちもあれよあれよという間に患者さんの家族の方たち、貴重なお母さんたちのお話を聞かないままに気がついたらお母さんたちが倒れていらっしゃるという、ここ数年それを感じています。「ほっとはうす」の活動にかかわりながら少なくとも私の周りにいるこの患者さんたちの貴重な証言を残していく、このことはきっと私たちだけでできることではありません。そういう意味ではぜひ皆さんの協力をいただきながら、それはもうとても大切なこれからの仕事だというふうに思っております。
 そして親亡きあとではなくて、今実際に、この患者さんの方たちが社会的に本当の意味で家族から離れて自立をしたいというふうに、今日も叫び続けているんですね。このことにやはり今対応できていないということをこの場で、やはりしっかりと認識してほしいというふうに思います。今自力で私たちは次のステップをやりかけているところです。まずは家族から離れても安心して泊まれる場所をつくる、本当にささやかな所ですけれども、居室を今設けようとしているところです。ですから親が亡くなった後ではなくて、少なくとも私は50でもまだ青春だというふうに思っています。これからがまだあります。そしてまた入所施設にいらっしゃる方はもう30年を過ぎてしまいました。この方たちの中にも外での、地域での暮らしをというふうに望むエネルギーがまだ残っています。エネルギーが残っているうちにまさにこの地域に必要なシステムをつくっていきたいというふうに思います。

○有馬座長 ありがとうございました。亀山先生、何かございますか。

○亀山委員 余り時間がありませんので簡単に誤解をおそれずに申し上げます。一つは、感想でございますが、この会に入らせていただいて以来、非常に余り切実な問題として考えていなかった何万──余のいろんな問題について非常に気づかされ、また今日は特にその渦中においでの方のお話をうかがいまして、感を新たにしたわけでございますが、その中で私一番実は申し上げますと、いまさら何だといってお叱りをこうむるのかもしれませんが、差別の問題というのが水俣でも新潟でも生じていて、それが非常に大きな問題になっている。それは前からそういう話をうかがっているんですが、何でその差別が出てくるんだろうかということが私どものような今まで無関心派の者についてはまったくわからない。
 つまり、どう考えても理不尽な差別ではなかろうかという感じがしてならないのですが、しかし理不尽であるにもかかわらずそれは水俣のみならず新潟でも同じように起こっている。ということは単なる地域的な問題ではない。そのいわれのない、しかしおそらく何か不合理であっても理由のある差別というものの正体というものが一体何なんだろうかということをもうちょっとつかめないのだろうか。そうでないと前から言われておりますこの水俣や新潟の具体的な地域における「もやい直し」ですか、そういうものは具体的には何とかできるかもしれませんけれども、この一般的な、今度何か同じような問題が起こったときに同じような問題が生ずるのではないか。私はちょっと怖くなってきたのですが、ひょっとして私はそういう差別は理不尽だと今思っているんですが、何か同じような問題が身近に起こると、その差別を抱く方にいっちゃうんじゃなかろうかと、理由がないのでわからない、怖い感じがいたします。そこら当たりのところがもう少し何かわかるようにならないのかなという感じが今日の感想でございます。
 もう一つ、これはお願いといいますか、いろいろあります中に現在起こっている、現在のその水俣病の被害者の救済問題というのは、おそらくこの懇談会でも避けて通れない問題なんだろうと思うんですが、この避けて通れない問題をやるには、実は今度の最高裁判決をどうするんだということがこれまた避けて通れないわけで、そのこと自体を私はこの懇談会でやった方がいいとは決して思いませんけれども、少なくとも環境省がこの最高裁判決にどう対面するのか、あるいはどう対決するつもりなのか。どうも何も今まで聞かないところをみると対決するつもりじゃなかろうかという気がしてちょっとおっかなびっくりなんですが、そこら当たりの姿勢を示していただきませんと、ここでの懇談会の議論もなかなかきちんとしたものにはならんのではなかろうかと、これからあと2回あるいはもう一回ふやして3回、何かやるにいたしましても、やっぱりその点は避けて通れないのではなかろうかということでございます。

○有馬座長 亀山先生、大変重要なポイントをありがとうございました。私も同感でありまして、その辺を本当は今日少し議論させていただきたかったんですけれども、時間がまいりましたので次回にまわさせていただきたいと思います。
 かつての結核であるとかいうふうに流行性のものの場合には差別はわかるんだけれども、こういうふうに流行するものでもない、そういうものがどうして差別になるかいろいろな原因があろうかと思うのですが、これもまたこの次に掘り下げさせていただきたいと思います。
 では、事務局にもう一度確認、これからどういうふうに行っていくか、ちょっとご確認願います。

○柴垣企画課長 それでは、今日本来やる予定でございました前回の有馬座長の宿題に対する先生方のご提言のまとめたものにつきまして議論をいただくということを、2月7日に次回を設定させていただきましてそこで行っていただければと思います。それで2月7日ですけれどもちょっと先生方のご日程で、やはりなるべく多くの委員の方にご出席いただきたいというふうに考えますので申しわけありませんが、午前中の10時から12時ということで、熊本から来られる方には非常に申しわけないんですけれども、2月7日、火曜日の10時から12時ということで次回を設けさせていただければというふうに思います。それでその次は3月2日、これは1時から3時までということで行わせていただければというふうに思います。また場所は追ってご連絡をさせていただきます。以上でございます。

○有馬座長 では、どうもありがとうございました。それでは、次回にもう少し掘り下げた議論をさせていただきたいと思います。これをもちまして水俣病問題に係る懇談会の第7回を終了させていただきたいと思います。
 本日はお忙しいところを、しかも遠路はるばるおいでいただいた方もおありでありまして、まことにありがとうございました。特に新潟の方、お二人、本当にありがとうございました。では、これで解散させていただきます。

午後3時10分 閉会